一生のお願いにもほどがある。
グレミオの大切な食器を落として粉々にしてしまったのを野良猫のせいだと口裏をあわせろににはじまって、退屈だから宮廷に連れていってくれとか季節はずれのイチゴがどこそこの市場で売っていたから金貸してくれとか、はたまたトイレで紙を切らして悲鳴混じりに、とってこいだとか。
そして終いにはこれか。
一生を賭けてもらっても簡単に首を縦に振れる話ではない。
許してくれ、と友はいう。
許さない。
許せるはずなんてない。
要らない命だなんていうな。
友の命ならなおさらだ。
ルーファスが了承するはずのないことを、友はちゃんと知っていた。
願いは叶わなくともよかったのだ。いつもの口癖でいってみただけのこと。
友はだれにも頼らず自分で決断した。許されるはずもない恐ろしい結末を。三百年、その旅路の果てで友がそう決めたのだ。
迷いなどは微塵もない。けして束縛されぬ瞳には自由すらを得て。
友は強く命令した。
三百年連れ添った呪いの紋章に、かつてのあるじとしての最後の命令を。
いまはルーファスの右手にあるソウルイーターに呼びかけた。
自分の魂を、盗みとれと。
三百年のあいだ、友の魂はずっと自由だったのだ。
蒼い海、蒼い空、緑の大地に触れる権利が彼にはあった。
自分の自由になる命だったからこそ、彼はいままで生きてきた。
足元がどれほど険しくても、歩を進めたのは自由な翼があったからこそ。何度も諦めかけ、手放そうとしたほどの呪われた命でも、たったひとつの大切なものだったことに疑いはない。
だからもう要らないのだ。他者に操られ、自由にならない命ならばそんなものは。
どんなにルーファスがいやだといっても、友の決意はかわらなかっただろう。
ごめん、と友の唇がつぶやいた。
許してくれなくてもいい。ただ謝らせてくれと。
右手のソウルイーターがルーファスの意志とは無関係に呼吸をはじめる。
宿して日の浅いあるじより、かつての拠所のほうが信頼できるのだろう。
やめろと絶叫しながら右手を背中に隠すも徒労に終わる。
新たな”力”が己に宿るのがわかった。
友の身体がぐらりと傾いで、ルーファスの腕に頽れた。
力を完全に失う前の気管が空気をよわよわしく咽頭から肺に送りこんだ。
戻されるさいごの空気で声帯を振動させるために。
友はひとつの思いをどうしてもルーファスに渡したっかたのだ。
苦悶の表情がふっと遠ざかる。
おれのぶんも生きろよ
なんてひたすらで、なんて痛ましく、なんて友らしい今際の願いなのだろう。
その言葉はルーファスにとって、久遠にからみつく残酷な枷になる。
それでも友は願うのだ。ルーファス、生きろ、と。
おれの命をおまえにやるから。
ほほえみすらうかべながら、願うのだ。
誰かのかわりに生かされる。
罪悪感と激しい後悔に身悶えながら、長い夜をわたっていけという。
幾千億もの夜を。明けぬ夜を。友のいない常世の暗闇を。
たったひとりで歩けという。
それは想像を絶する恐怖にちがいない。だが、友が、歩いてきた道なのだ。
三百年も前のこと。無防備なひとりの子どもが同じ闇に堕とされた。彼はその意味を理解する間すらも与えられなかったのだ。
幼い躯はふるえおののき、傷ついた心で、あまりにも長すぎる旅にでた。
どんな思いで凍てつく地を踏みしめたのか。いったいどれほど嗚咽をこらえて屍を越えてきたのか。
たったひとりで歩けといわれて。
名前も知らないおにいちゃんに――ルーファスに、歩け、がんばれ、越えて行けといわれて。
必死で。必死で。必死で。
生きてきたのだ。
テッドは。
神よ、おしえてください。
これはルーファスに与えられた罰なのか、それとも少年たちへの祝福か。
そこから先の道は見えない。恐怖や悲しみや絶望がとろとろと熔けまざった真の闇に満たされて。
ソウルイーターを介して記憶が静かに継承される。友の記憶、真の紋章の記憶、世界をつかさどる大いなる意志の記憶。
記憶とは命の別名だ。
テッドの命は奔流のようだった。
赤ん坊のテッド、疑うことを知らない無邪気なころのテッド、厳しいけれど大好きだったおじいちゃん、故郷を失ったテッド、深い悲しみ、拒絶、心を病み、笑うことを忘れ、眼と耳をふさぎ、口を結び、濃い霧を無表情で凝視するテッド、たくさんの手、たくさんの人々、たくさんの関わり、海の蒼さに驚愕するテッド、泣くことを思い出したテッド、大小の挫折を繰り返すテッド、ほんの少しだけ笑顔のこぼれるテッド、声をあげて笑うテッド、ふいに関わってくる将軍家のお坊ちゃん、あれはテッドの瞳に映るルーファス・マクドール。
ひとつたりともこぼし落とさぬよう。
ルーファスは手を伸ばす。
だがひとつだけ、どうしても受け取れなかったものがあった。
それは笑顔。
それだけは友のものだったから、友に持っていってもらいたかった。
ぽたりぽたりと涙がルーファスの頬を伝う。
友は呼吸を永遠に、やめた。
すべての役目を終えて、天に召されたのだ。
眠りにおちた顔は安心したように、淡いほほえみをたたえていた。
そのすべてがいまから、ルーファスの枷だ。
右手を縛める重い鎖だ。
だがルーファスは、束縛を断ち切ろうとはしないだろう。友の遺したものを守る。これから何十年、何百年、あるいは何千年。世界がすべて混沌に沈んでも。
ルーファスの命は、友が生きてきた証なのだ。
棄てるものか。どんなにおそろしい未来が待っていようとも、ぜったいに手を離さない。ルーファスに与えられたたったひとつの光を、道の途中に落としたりはしない。
静かなるシークの谷にたくさんの光が乱舞した。
ルーファスはゆっくりと目を瞑り、また開けた。
道がはじめはぼんやりと、やがて鮮明にうかびあがる。
行こう。
ここからの歩みは、テッドとともに。
Dis immortalibus, qui me non accipere modo haec a maioribus voluerunt, sed etiam posteris prodere.「不死なる神々のために。神々は、私がこれを先祖から受け継ぐのみならず、後の世に送り渡すようにとも望まれた」
“De Senectute” Marcus Tullius Cicero(BC106-BC43)
2006-02-25