Press "Enter" to skip to content

遠足の秋

 待ち人来たらず。
 腹が減った。
 眠い。
 ダム決壊への単調な三拍子が一刻ごとにカタストロフィなクライマックスに歩み寄っていく(これをラヴェルのボレロ的手法という。ひとつ利口になったね)。
 我慢するという行為は、それ自体はなんとも思わない。しかしマクドール家の長男坊に対してだけは別であった。むこうから強引に誘っておきながら遅刻するとは言語道断。
 いまさら例のへらへらとした態度で現れたら速攻でサバの昆布〆めにしてくれる。
 噴水が上がったり下がったりする平和なリズムを百回あまり数えただろうか。テッドは渋面で空を見あげた。
 青い。
 雲ひとつない。
 こんな気持ちのいい日には、屋根に寝っ転がって一日じゅう、昼寝をしていたい。
 おれはどう猛な猪ではなく、温厚な猫派なのだ。お山で猪突猛進よりも、うとうとひなたぼっこを好むのだ。老人はいたわりましょうと学校で教わらなかったのだろうか、将軍家の御曹司のくせに。
 そもそも、多少なりとも危険であるフィールドにイベントと称して体力消耗にでかけるというその感覚が理解不能。
 平凡な人生に刺激を求めるのは勝手だが、なぜ連れあいがおれなのだ。
 むこうはお楽しみに誘っているつもりなのだろうが、こっちは巻き添えの気分である。
 とりあえず、しかたがない。目先のことだけでかっとなるのはあまりよろしくない。
 グレッグミンスターであまり目立たずに数ヶ月ないし数年を暮らす上で、将軍家はかなり利用価値があると値踏みした。同じ年頃に見える坊ちゃんの友だちになるという条件で、無償で住まいを借り、食事や生活費も世話してもらえるのだ。これぞ願ってもみなかった幸運というやつだ。
 しかも将軍家の下男がつくる特製シチューはこの世のものとも思えぬほどうまい。
 百年ほど前だったか、それとももっと昔だったか。わけあって一時期身を寄せていた水軍の料理長にも感嘆したが、あれに匹敵する腕前だ。
 うまいメシをつくれる人間に真の悪者はいない。
 この幸運を簡単に手放すこともなかろう。
 しかたないか。そう繰り返して腕組みをしたところに、噴水のむこうから対価が手を振りながら駆けてきた。
「は、はあ、はあ。めずらしく早いじゃない、テッド。感心、感心」
 ブツ。
 大動脈が十本くらい束になって断管する音がした。
「テメェが一時間も遅刻しやがるからだボケ!」
 ルーファスは漆黒の瞳をぱちぱち瞬いた。
「遅刻……一時間?」
「十時に噴水っていったろうが」
「うん。十時に噴水。だからぴったり十時」
 グレッグミンスター宮殿の鐘がなる。ひとつ、ふたつ、中略、十。
「ほら、十時」
「あ、あれ?」
 ルーファスは一瞬だけ奇妙な顔をしたが、すぐにぽんと手をあわせた。
「そうか! テッドはよそから来たからひょっとして知らないな。きのうで夏時間はおわっちゃったよ。ゆうべ時計の針を一時間遅らせなさいって、自治会の役員さんが巡回してたはずだけど」
 そういえば昨夜たしかに来訪者があった。面倒くさいから居留守をつかったが。
「ってことは」
「テッドの時計が一時間進んでるってこと」
 どっかんこ。
 頭頂部から間欠泉が噴きあがった。
「ンなの、オレの知ったこっちゃねー!」
「ご愁傷さまでした、テッド。ははははは」
 邪気もなくげらげらと笑われたら、とたんにどっと疲労が押し寄せてきた。それではなにか、パン屑ついばむハトを眺めて眠い目こすりつつやりすごしたおれの一時間は、無駄な努力だったと。
 くそ、やっぱり寝てればよかった!
 これだから時計の針に支配される生活はいやなのだ。夏時間などだれが決めた。皇帝か。謁見して文句のひとつも垂れなくては気が済まない。
 今後の課題と銘打って心のメモ帳に書き留める。こ、う、て、い、に、こ、う、ぎ。
「テッド、ちゃんと持ち物チェックしてきた? 忘れ物はない」
 チェックしたとも。お坊ちゃんがこまめに書いてくれた持ち物リストというやつを。弁当、水筒、行動食、タオル、雨具、筆記用具、日記帳、護身用のナイフ、キノコをいれる袋、ゴミ袋、帽子、救急医薬品。きちんと内容までチェックして、行動食と水筒とナイフ以外は必要なしと判断し不携帯であるが、それが何か。
 それとキノコは鬼門だ。大昔、それで死の淵を彷徨ったことがある。汝、ゆめゆめキノコを食用と思うなかれ。
 ルーファスは疑いのまなざしで、テッドにたすきがけされたオンボロのカバンを凝視した。容量に対して中身がともなっていないのはすぐにわかる。
「ぼく、しらないよ。突発事態になってもひとりでなんとかしてね」
 お坊ちゃんの脅し文句など恐ろしくもなんともない。こちとら何倍も危険な荒れ野のど真ん中で暮らした経験の持ち主だ。グレッグミンスター周辺の原っぱしか知らないお坊ちゃんこそ気をつけるがいい。
 テッドはすました顔でやりすごした。
「では、いざ出発」
「ちょっと待った」
 いきなり出鼻を挫くテッド。
「なに」
「その前に、腹が減った」
 ルーファスは信じられないというふうに口をOの字にした。
「朝ご飯食べてないの」
「弁当ってあったら弁当食うんだろうなと思うだろう普通」
「テッドのアホ! 弁当っていったらおひるごはんでしょうがふ・つ・う!」
「なんでそういう理屈になんだよ! わけわかんねーよ。がまんして飯抜きで来たのによチクショー。だまされた」
「わけわかんないのはこっちだよ。どうなってんのさテッドの思考」
 広場を行き交う善良なるグレッグミンスター市民は、我関せずといった顔で、喧嘩する少年ふたりの横を素通りしていった。
 ぎゅうと切なげに鳴るテッドのお腹をしぶしぶ認めて、ルーファスはため息をついた。
「わかったよ。十分だけ待ってやるから、食べなよ、弁当」
 テッドはふんと鼻息を荒げて、噴水のかどにどっかと腰をおろした。
 かばんを肩から下ろして、食料を取り出す。
 ルーファス風に言うなれば『行動食』というやつをだ。
「テッド、なにそれ」
「ン? きゅうり。見たことねえか、きゅうり」
「丸ごと」
「たりめーだ。切ったらばらばらになっちまうじゃないか」
 ルーファスはさらに怪訝な顔になった。
「それは?」
「塩」
「ビンごと」
「ビンに入れないでどうやって持って歩くんだよ」
「そうだけど……塩、どうするの」
「なんだよいちいち。味つけに決まってんだろ。振って食うんだよ」
 テッドは次に折りたたみナイフをぱちんと開けて、カバンの底に押しこめてあった堅焼きパンをさっくり削いだ。
「パン……」
「もぐもぐもぐ」
「トーストもせず?」
「がきっ、ごきっ」
「そして、かじって、おしまい?」
「ごくん」
「テッド」とルーファスは、なにかを確信したかのようにすっくと立ちあがった。
「いいたかないけど、いっていい?」
「ああ? なんだ」
「それ、弁当っていわない」
 別次元の生命体を諭すような目つきで、己の主張をつきつける。
「あん?」
「弁当っていうのは、もっとこう……グレミオのつくってくれる、タコのウィンナーとか、からあげとか、サンドイッチとか、星形にんじんのサラダとか、うさぎの形に切ったりんごとか……」
 ぱんぱんに膨らんだ風船が萎むように、語尾がしゅうと消えいった。
「テッド……ぼ、ぼく……」
 どうした、御曹司。
 動揺したのはテッドのほうだった。
 なぜそんな悲しげな目つきでおれを見る!
「オレ……なんか悪いこと、したか?」
 だがルーファスは完全にテンパってしまったようで、取りつく島がなかった。
 がしっとテッドに抱きつく。
 油断も隙もありゃしない。
 これがナイフを携帯した敵だったら、と思うと背筋が寒くなった。
「なっ、なんだよ急に、おいルー」
「テッド、ごめん」
「はあっ?」
「テッド、ぼくたち、まだまだわかりあえてない。ぼくが当然と思ってきたことは、テッドにはあたりまえじゃなかったんだ。ぼくは、温室育ちっていわれるのが悔しくて、なんでもできるようにがんばってきたつもりだったけど、テッドみたいな子もたくさんいるんだってことは頭でわかってるつもりで、でもちっともわかってなかった。もっと、もっともっともっと知らなきゃいけないんだ」
「な、なにを」
「広い世界を!」
「あ、ああ、そうっスか……」
「テッドのことも!」
 むぎゅう。
 棍の稽古でいいあんばいに鍛えられている両の腕は、人より少し力が強かった。
 テッドの器官が変な音をたてた。
「ルー、み、ミが、で、る」
 ルーファスは「あっ、ごめん!」と飛び退いたが、天然まるだしの笑顔には新たなる決意がなみなみと満ちているのだった。
 すなわち。
「よしテッド、ぼくたち、さらにわかりあうために、行こう。たっくさん楽しもう。なんたって遠足だもんね!」
 エンソク?
 えんそく―――
 ”ソノ言語ハ辞書ニ見アタリマセン”
「エンソクって、なんだ? ルーファス」
 相互理解にいきなりの亀裂。
 時を超えて結びあう親友への道のりは相当に砂利だらけのようであるが、この噴水広場より先は多くを語るまい。


光さんからのリクエスト。『平和ボケしてるテッドが見たい~』とのことで、書いてみました(早ッ!)。ボケているのがテッドなのか坊なのか、微妙です。しかし、どうも私の坊は戦前戦中戦後で性格のギャップが極端だなあ。これでカリスマリーダーなのだからよくわからない。

2006-09-21