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彼の未来と彼の過去

坊ちゃんと4主人公のお話です。
坊ちゃんの名前はルーファス・マクドールです。
4主人公の名前はあなたにおまかせします。
4主人公が亡くなっている未来もありますが、このお話の中では生存しています。
時代は少なくとも幻想水滸伝2よりは後になります。
上記ふたりしか登場しませんが真の主人公はテッドです(いつもこのオチだ)。

”ぼくはこの命に感謝します。あなたのもとへ導かれた奇蹟に感謝します。真の紋章をその身に宿しながらはるか先を往くあなたが彼の道しるべであったように、ぼくの道にもあたたかい灯りをください。許されるならばもう一度だけ彼に逢いたいのです。だからどうぞ光をください”

彼の未来と彼の過去

「歴史研究家はごくたまにロマンチストな文学者ということもあってね」
 苦笑しながら厚手の革表紙に包まれた古びた本を懐かしそうにもてあそぶ。
「すみませんでした。こんな本に踊らされたばっかりにあなたという方をすっかり誤解していました」
「へえ、『こんな本』ねえ。さっき会ったばかりなのにもうぼくという人物をわかってくれたようで、身に余る光栄です」
 トゲの感じられない口調で意地悪なことをさらりと言ってのける。外見に騙されたらこっちの負けと防御はしていたものの、ルーファスはさっそくうろたえた。
「アハハ、ごめんね。ちょっとからかってみようかなーなんて気になったもんだから」
 あまりこちらからよけいなことは言うまい。出方をうかがうのも話術のうちである。
 ありがたいことに話はむこうから続けてくれた。
「歴史を編纂するということは大仕事だと思うよ。想像という手腕は大切なんじゃないかな。きみもいつか後世の歴史家にそんなふうに書いてもらったら、きっとぼくの気持ちがわかるよ。でもきみのご感想は有り難く胸にしまっておくね」
 呆れた。不本意という言葉が微塵もない。
 歴史書としては奇天烈でお粗末で陶酔傾向にあると思う。いや、思うんじゃなくておもいきりそのとおりだ。こんな歴史書が、もとい、三文小説が世に出回っていることを主人公のあなたならむしろ訴えるのが妥当じゃないのか。それともなんですか、ひょっとしてあなたは憤るということをご存じないとでも?
 訴えるにしても被告がもう生きているわけがないか。
 ああそれからよけいなことだけれど。こんなのを手がかりにあなたを捜し出そうとしたがために、いらぬ苦労と遠回りを強いられた自分の立場も願わくば少し慮っていただければ。
 主人公殿はにっこりと笑うことで、悶々とするルーファスの仏頂面を丸め込むつもりのようだった。その表情は柔和で落ち着いている。おまけに端正である。
 キャーキャーする女の子も多いんだろうな。
 もっともその正体に気づかなければの話だが。
 見た目は二人とも十七、八。宿のあるじも投宿した二人組がトラン共和国の英雄と群島諸国の英雄だとは努々考えもしないだろう。
 だが二人の実年齢には埋めることのできない差異がある。ルーファスが退いているのはそういう事情もあってのことだ。
 言いたいことを言い出せない若者をからかって遊ぶこの人もこの人だ。長いこと生きているのだからもう少し賢いかと思った。怒りの矛先はじょじょに手元の本から逸れて当人へと向けられていく。
 冷ややかな視線に射られてついに相手も折れた。
「やっぱりお気に召さなかったんですね、『群島諸国絢爛統一史』。これね、あちこちの図書館で無条件処分の憂き目にあいましてね。理由はきみがもっともわかっていると思いますけど。ああ、要らなかったらそれ売っちゃえばレア物だからマニアが高く買うよ」
 それから少しだけ声色を柔らかくして。「あのね、弁解するわけじゃないけど。これは群島諸国を描いたどんな歴史書より正直で、ぼくの好きな本なんですよ。筆者のミッキーという人。あの人はねえ、ぼくのかけがえのない仲間だったんだ」
「えっ」
「仲間。つまりは同じ軍で共に戦ったの」
 ルーファスは意外そうに目を丸くした。ではこれは捏造ではなくて、実録?
「そんなバカな」
 後先考えず思ったことが口をつく。
「これほど適正なジャーナリストはいないだろう?」
 ルーファスは眉間にしわを寄せて本をぱらぱらとめくった。こき下ろしたわりには几帳面にしおりで数カ所マーキングしてある。
「ではこの『おおなんということであろうか船が煌びやかなメバチマグロの大漁水揚げで傾き』」
「実話ですね」
「じゃあ562ページの『船底がキノコの菌糸に浸食され船員総出バケツリレーで浸水を食い止めるも嗚呼夕餉の慰労マッシュルームパーティでトリップした海賊の輩が奇声とともに砂袋を海に投げ込みはじめ船体四十五度左舷へ傾き』」
「実話ですね」
「でもこれは冗談でしょう。716ページ『オベル王リノ・エン・クルデスと軍師エレノア・シルバーバーグの』……このエレノアって人、ほんとにオデッサさんの血縁なんでしょうね……『謀略でカナカンの酒百樽が軍資金で闇取引され秘密裏に倉庫へ運び込まれなんたることおおお喫水線が蒼き水底に』」
「残念ながら実話ですね」
「それでよく沈没しませんでしたね、あなたの軍」
 冗談の塊のようだったどこぞの湖城軍のほうがまだ百倍はマトモな気がして目眩がした。
 それにしても。ルーファスの心は沈む。二百年近く過去に流れていった歴史の舞台を記憶として持っている。それはどんな気分だろう。
 せめて愛想笑いを返そうとしたがこわばってうまくいかなかった。
 ややもすれば年下にすら見える童顔の少年に、ルーファスの親友が重なる。なかば暴力的に止められた時を長く生き、それでも極上の笑顔を失わない少年は、思い出のなかの親友そっくりだった。
 素直になることができない。
 ルーファスは怯えていた。この人に逢おうと決意したのは自分なのに、いざ対面できたら逃げ出したい衝動を抑えるので精一杯だった。
 もし、あなたが過去の親友を『記憶として持っている』のだとしたら。
 この邂逅は間違っていたかもしれない。喉から血がほとばしるほどに、知りたいと請い願い叫び続けた親友の名があなたの口から紡ぎ出されるのが怖い。
 指先が冷たい。激しく動揺してしまったことに、ルーファス自身が驚いていた。
 相手はルーファスの後悔を悟ったのか、話を急かそうとはしなかった。軽く落とした照明を背にして椅子に深く腰掛け、ルーファスの言葉を待っている。
 ルーファスは意を決してようやく目をあげた。いまは自分とこの相手だけ。一対一。切り出さない限りは永遠に先へは進めそうにない。
 ルーファスの生まれるはるか昔に南の群島諸国で大きな戦乱があった。大国クールークが群島を領土にしようとしたのである。群島のリーダー格だった島国の王様とひとりの少年が中心となって立ち上がり、理不尽な侵略に敢然と対抗した。
 伝説の少年が宿していたという『27の真の紋章』、罰。
 その紋章と持ち主がいまルーファスの目の前にあって。
 ルーファスの宿す『27の真の紋章』、生と死を見つめている。
 薄い色を乗せたつややかで真っ直ぐなその髪。喪を思わせる黒服。瞳の蒼さは吸い込まれそうに静かすぎて、ルーファスのすべてを見通しているようでもあり。
 抗おうにも勝ち目のあるはずもない。辿った歴史の重みが違いすぎる。
「……訊きたいことがあります」
 ルーファスはぎゅっと手を握りしめ、やっとそれだけ懇願した。
「その前に」相手がゆるりと制する。
「きみはどうしてそんなバカみたいに厚い本を読もうとしたの」
 気勢をそがれて糸がわずかに弛む。
「……は?」
 思わず訊き返してしまったが、相手はニコニコしながら答えを待っている。
「……あー、どうしてって、退屈だったし。これくらいなら暇つぶしになるかなって」
 言ってからしまったと思った。
「あはは。暇だよねたしかに、お互いこれだけ時間があると」
 よっぽどの暇人でなければ3ページも我慢できないよ、とケラケラ笑う相手につられルーファスの緊張も少しづつ解けていった。
 満足したように相手は質問を続けた。
「じゃあ、なぜそれを読んでぼくを捜そうと思ったのか訊こうかな。それに『あの子』がぼくの軍にいたこともよく気づいたよね。彼のことには一切触れないようにミッキーに頼んだ記憶があるし、それにそのラスト。そこだけ本当は事実と違うんだ」
「ウソ……なんだ」
「そうだよ。あの子のことはもちろんだけど、ついでにぼくのこともね。リスクは小さいほどいいからね」
 おそらくは真の紋章を持っている事実が公表されれば必ずやそれを狙う者が現れるということだろう。ルーファス自身がいままさに狙われる者であるように。
「たしかに、あいつのことは何ひとつ書いていなかった。それにあなたは軍の方々を護って代償に命を失ったことになっていました。罰の紋章は役目を終えてあなたとともに海に散った。そうでしたよね。けれどもぼく、腑に落ちなくて……どうしてかわからないけど。この人は生きている、この人に逢わなくちゃ、って思っちゃった。そうしたらもう居ても立ってもいられなくて。あなたならあいつをよく知っているような予感がして。それって、へんですか」
「ううん、ちっとも変じゃないよ。さすがトランの英雄。いい勘してる」
 トランの英雄、という呼ばれ慣れた呼称になんの感慨もわかない。ルーファスの思考はべつのところを彷徨っていた。
「あいつ、サカナが苦手なんですよ」
 脈絡のない呟きを聞きつけて相手の眼が興味深そうに丸みを帯びる。
「栄養あるのにどうしてサカナ食べないの?って訊いたら、むかし船上で暮らしていたことがあって飽きるほど食べさせられていたから、って答えたんです。だからこの本とあいつが結びついたのかも知れない。あいつはこのときのことを言ってたのかなって、なんとなく」
「方便だね。うちに来る前からサカナは嫌いだったみたいだし。まあ無理もないかな。投網キチガイがいてね。イワシ消費委員会なんてのがあったのは事実だし。彼はひょろっひょろだったからカルシウム摂れーって面白がって押しつける王様もいてね。獲ったら食べる。成仏させる。残したら罰として甲板掃除。それがうちのモットー」
 そしてルーファスを見て「やっと笑った」と付け加えた。
 この人はなんて楽しそうに思い出を語るんだろう。ぼくは思い出を幾度も封印しようとした。
 ぼくは逃げたかったんだ。怖かった。もしも傷ついたら、それ以上に誰かを傷つけてしまったら────ぼくはぼく自身の運命を、きっとあいつが望まない方へ導いてしまっていただろうから。そうしないためには、すべてをしまい込むのが手っ取り早くていい方法だった。
 ぼくはただ生かされているだけの、意味のない人間でいたかった。
 見えない。聞こえない。なにもしゃべらない。思考しない。
 あいつが夢の中でぼくを苦しめるのをやめるまで、自分を壊してしまおうとした。
 圧倒的な無力感に苛まされる日々が無限に繰り返されていく。やがて楽しいという感情がどこかへこぼれ落ちた。そのかわり悲しみを覚えることもなくなったような気がした。感情の麻痺。
「笑っていたほうがいいな、ルーファスくん」
「……はい」
 ルーファスは少し恥じらいながら肯いた。
 海とはこんな感じだろうか。ふわりと受け止める瞳の色。
「あなたに逢えて、少しらくになりました」
 ルーファスの言葉は、次の瞬間大海原に抱かれる。
「ぼくもきみに逢いたかった」

「ルーファスくんがぼくを捜していたように、ぼくもきみを捜していました」
 何と応えてよいかわからず、ルーファスは次の言葉を待った。
 かすかに高揚した気持ちに、それは許さないとばかり闇が忍び込んでくる。
 胸中に複雑な思いが交錯しはじめる。
 この人の逢いたかった人は。
(ぼくではない)
「ウソだ」
「……はい?」
「ウソつき。あなたが捜していたのは……」
 言いよどむ。
「……ウソをつかれるの、いやなんだ」
 ルーファスは唇を噛んだ。親友がくれたつらい嘘の数々がどれほど後のぼくを苦しめたかあなたは知らないのだ。
 相手からの否定はなかった。
 ルーファスの名はトラン共和国周辺ではかなり有名になってしまっている。右手の紋章のことも正確にではないにしろ、噂している者も少なからずいるはず。だか目前の人にとって生と死を司る紋章は、ぼくではない。
 はるか前。
 ひとつところにふたつ真の紋章が存在した期間がある。宿主たちは互いのなかに何を見ていたのであろうか。ルーファスには想像もつかない。強大すぎる力が反目しあい、双方のあいだに不都合が生じることはなかったのか。
 少なくとも片方は戦局を勝利に導いたのだから、紋章に振り回されていただけではあるまい。だが残る片方は。
 あいつが理由もなく戦争に荷担するなんて考えられない。そう、あいつは右手の紋章を護るために逃亡していた。おそらくは必死だったはずだから。戦乱の場はどう考えても目立ちすぎただろうに。
(自分以外に真の紋章があったから)
 憶測にすぎないが。
 真の紋章はもとはひと組の剣と盾を彩っていたという伝説がある。そのため分かたれたいまでも互いを求めて地を彷徨っているのかもしれない。
 もし、紋章自身に意志があるのだとしたら。
 いや、あるのだ。その証拠に真の紋章を宿すこの人に、ぼくの紋章は邪悪に蠢くことをしない。感じるのだ。この人には牙を剥かないだろう。
 旧知の仲として。
 ならばいま何を企み、何をぼくたちにさせようとしているのか。
 ふと、真の紋章を半分ずつ宿した少年たちを思い出した。親友同士だった二人は国を分かつ戦いの頂点で刃を交え、片方は命を失い、片方は友を喪った。そのとき紋章はひとつになったという。
 分たれた紋章は剣と盾。ひとつになった紋章の名は『始まり』。
(歴史が動くとき民衆は歓喜する。けれど民衆は英雄の哀しみを知らない。それを知るのは生と死を分かち合った者だけ)
 ルーファスの胸がまた疼きはじめる。
 歴史はいつでもそうだ。何故分たれるのだ。何故ひとつになろうとするのだ。分たれたものがひとつになるとき、そこに必ず生と死があるのは何故だ。
 あいつは命を失い、ぼくは親友を喪った。
 そのことを、あなたなら知っているのでしょう。罰の紋章を宿す人。
 ぼくの知らないあいつがあなたのなかにあるのでしょう。だったらもっと哀しんでみせてほしい。あいつがいなくなって落胆したと言ってほしい。ぼくを苛んでほしい。それともあなたにとってあいつは、その程度の人間だったのか。
 暖炉の薪がパチンと爆ぜて火の粉が舞った。幼子でさえ怯えないようなかすかな音にすらもルーファスは身を固くする。
 いったいいつまでこんなふうに身悶えながら、過去を後悔し続けるつもりなのだろう。
 自分はどこまで世界を否定すれば気がすむのだろう。こんなにも臆病な自分に、あいつの遺志を継いで果てしない時を生きる覚悟があるのか。
「ルーファスくん、ぼくはいまのきみになんと言ったらいいかわからない」
 長い沈黙を破ったあとの言葉に淀みはなかった。
「けれど、これだけは伝えておこうと思う。つらくなったら、彼に選ばれたことを思い出してほしい。いいか、彼はあなたを選んだんだ。それはぼくにも、ほかの誰にも真似できない、きみだけが成し得たことであるはずだ。それだけは、どうぞ彼を信じてほしい」
 ぽろり、とルーファスの瞳から涙がこぼれた。
 あいつが逝ったときにも泣かなかった。ぼくの精神はすでにおかしくなっちゃっていて、涙はどこかに奪われたとばかり思っていたはずなのに。
『彼はあなたを選んだんだ』
 ああ、ぼくはそれを誰かに認めてもらいたかったんだ。
 ぼくがあいつの命をむしり盗ったのではないと、そう言ってほしかった。
 誰かに。
 あなたに。
 頑なだったルーファスの心が嗚咽とともにしたたり落ちていった。

 夜はさらにその蒼い奥底へふたつの紋章を包み込む。
 堰を切ったように泣いたあとのルーファスの饒舌ぶりに苦笑しつつ、年の功で罰の紋章主は感情のはけ口役に甘んじていた。
 自分もあと百年も生きたらあなたのようになれるのだろうか、とルーファスが切り出すと相手は吹き出した。
「ごめんごめん。だっていまのきみがあまりにも彼とそっくりだったから」
 きょとんとする若き継承者に。
「ぼくがね、最後に彼とふたりだけで話をしたとき、あの子がそんなことを言ってきたんだよ。いつも関心のないフリをして本心をひけらかす人じゃなかったから、それはたぶんはじめて漏らした本音だったんじゃないかな。
 呪いの紋章を持ちながら自分の道をまっすぐに歩いているぼくが、すごいって、あの子が興奮してそんなことを言うんだよ。アハハ、マジでそんなふうに見ていたのかなあ。あのときは状況が尋常じゃなかったから、あの子だっていま言っておかなくちゃって思ったんだろうけど。
 あ、ぼくは気づいていたけどね。いつものあの子の態度の方が演技だったってこと。たぶんあれがほんとうの彼なんだろうね。
 そしてね、いつか自分もそういう生き方ができるようになりたいって。ああ、これナイショにするって約束だったっけ。バラしちゃったし、まあ、いいか」
 意外だった。
 呪いの紋章を持ちながら自分の道をまっすぐに歩いている────それはまぎれもなく、ルーファスの知っている親友の姿だったから。
 そのあとに続けられた悪戯混じりのセリフにルーファスは心臓を掴まれる。
「『一生のお願い』なんだからもう期限切れだよね?」
 あの野郎!
「ぼく以外に『一生のお願い』まき散らしてたんだ」
「もしかしてきみもあのお願いに騙されたクチ?」
「騙されまくりました。最後の最期まで」
 ルーファスはいちばんおしまいのお願いを反復して口をつぐんだ。
「じゃあ、きみの勝ちだ」
 万物を癒す笑顔。
 蒼い瞳の先賢は語る。
「彼があの日からどんな道を歩いてきたのか。ぼくはいつかもういちど彼に逢って、その報告を聞くことができると信じていた。だからぼくの旅はある意味、彼と再会するための旅だったような気がする。そして、トランの南で生と死を司る紋章の噂を耳にしたんだ。胸が躍ったよ。一軍を率いて赤月帝国を解放したのがその紋章主だと聞いて、ぼくは彼にようやく逢えると思った。けれど……」
 一呼吸のあいだ言葉が途切れた。
「英雄の名はルーファス・マクドール。ぼくの知っている人ではなかった」
「ごめんなさい」
 絞り出された贖罪の声はひどく苦しげで。
 ルーファスは息をひとつ吐き、ぼんやりと(謝ったらこの人をもっと傷つける)と思った。
 しかしつらい言葉は呼吸を伴って繰り返された。「ごめんなさい……ごめんなさい………」
 あなたの落胆はどれほどのものだったでしょう。紋章が第三者に宿されていることを人づてに知るなんて。それは前の宿主の辿った運命を厭でも予測させたであろうから。
 そのような別れ方はぼくだっていやだ。ある時とつぜんこの世にいないことに気づくなんて。そう、腕の中で逝かれるより。
「きみが罪悪感を感じることはない」ふたたびうつむいてしまったルーファスに手をそえると抑揚の少ない口調で言う。「ぼくはきみの存在を知ったとき、たしかにショックだった。まさかあの子に先に逝かれるとは思わなかったから。でも、いまは少し嬉しさが勝っている。彼がぼくより先にみつけることができたこと」
「みつける?」
「うん。それを探す旅が、ぼくたちの生きる意味だったと思う。彼にとってのそれはきみだった」
「……」
 それはなに? 紋章を託すことのできる人間?
 それとも憧れつづけたであろう永遠に安らぐことのできる場所?
 ルーファスの心に尖ったものが障った。
「それってどういう? ぼくと出逢ったから生きる意味がなくなったの? それならもう生きなくてもいいってこと?」
「当たってはいないけれど、はずれてもいないな」
「……あいつが生きるのに疲れてたことは知ってるよ。それでもぼくは、あいつを死なせたくなかったのに。そんなのぼくのワガママなんだろうけど。でもあいつは生きたかったって言ったよ。ううん、言ったかどうかわからないけどぼくにははっきりと聞こえたんだよ。
 ねえ、英雄はワガママ言っちゃいけないの? あいつが生きられるなら、紋章でもなんでもくれてやればよかったよ。リーダーなんて煽てられて、国を取り戻すために頑張ってみせてさ。そんなのあいつに比べたらなにもかもどうでもよかったのに。父さんをこの手で殺めても、グレミオを身代わりにしても、ぼくは旗にしがみついてきた愚か者だよ。
 どうでもいいものにしがみついて。そんな馬鹿がぼくなんだ。いちばん大切なものは解放軍の旗なんかじゃないっていつだってわかってたんだ。ぼくはあいつさえ生きていてくれるのなら魂だって売っただろうよ。ぼくはそういう人間だよ。そんなぼくがなんであいつの……」
「ルーファスくん」
「テッドに逢いたい」
「ルーファス……」
「テッドに逢いたい。テッドに逢いたいよ。嬉しいなんて言うなよ。ソウルイーター、テッドを返してよ! テッドを返せ!」
 右手を何度もサイドテーブルに打ち付ける。こんなふうに叫びたいのをルーファスはずっと我慢してきた。それがいま限界の一線を越えた。
 罰の紋章の人はその行動をさせるがままにまかせ、呼吸が落ち着くのをそっと待っている。
 叫ぶことで答えが欲しかった。あいつは探していたものをみつけたのかもしれないけれど、じゃあぼくはどうすればいいんだよと。
 いまでも悔やむ。
 あいつを喪ったこと。
 世界が凍てつくほどの、怖ろしいまでの喪失感。あのときからぼくは笑うことをやめた。
 どうやって笑えと言うのか。英雄らしく民衆へほほえみかけるのも、心配してくれる友人や仲間たちに大丈夫と笑んでみせるのも、あの日からはぜんぶ演技だ。
 あいつはぼくの腕の中で、最期に笑ったように見えた。
 ぼくも笑顔で送った。あいつを安心させたかったから。
 笑むことがこんなにも悲しいなら、ぼくは二度と笑うまい。
「ルーファスくん」
 沈黙を静かに破って、そっと名を呼ぶ罰の紋章の人。その左手の紋章もまた誰かから受け継ぎ、そして別れがあったのだろう。痛みを伴うほどやさしいそのほほえみはいったいどれほどの後悔のあとあなたに許されたのだろうか。
 ルーファスは先の問いを繰り返す。ぼくもいつかあなたのような生き方ができるのだろうかと。
「きみを選んだ彼をぼくも友として誇りに思う。それからきみはもっと自分を好きになって」
 彼を許してあげて、と付け足された。
『これから自分のすることを許してほしい』
 それがあいつの、最期の『一生のお願い』だった。
 ルーファスは血の滲むこぶしをほどき、ここへ来た理由を語り始めた。いまあなたに話せなかったらぼくはおそらく永遠に、このままの状態で苦しみながら生きるだろう。時間を止めたまま前にも進まずあとにも戻らず、生きる意味すら持たず。
「……ぼくは聞きたかったんです。どんな些細なことでもいい、あいつのことを。あいつがどんなところで暮らしていたのか……」
 あいつはどんなやつだったか。あいつの顔はどんなだったか。笑っていたのか、怒っていたのか。あいつの喋った言葉、あいつの歩いた場所、あいつの好きだった人、あいつの……ぼくの知らないあいつの三百年間。
「だから、あいつを知っている誰かに会いたかった。あいつがたしかに生きていたことをもういちど感じたいんです。そうしないとぼく、もうおかしくなってしまいそうだったから」
 ほんとにどんなことでもいい。ぼくは、あいつの来た道を知りたい。それを知らないとぼくは、きっとあいつみたいにはもう、笑えないのだ────

 ”ぼくは封印されたその一歩を解き放つためにあなたに逢いに来ました。いえ、導かれました。
 ああ、またその笑顔です。あなたの笑顔には誰もが愛しさを覚えるのでしょう。
 ぼくはあなたそっくりに微笑む人を知っています。
 あなたの左手には27の真の紋章のひとつ、罰が。ぼくの右手には生と死が。
 ぼくたちの周囲に時は確実に流れています。その証拠に昨日までの自分と今日の自分は少しだけちがう。
 明日のことなど誰にもわかるはずがない。少なくとも今日と同じ明日は、ない。
 それならばぼくも導かれたのでしょう、とあなたは言いましたね。
「ルーファスくん、ぼくもずっとずっと知りたかったのです。彼がどんな道を歩いて、そしてきみに巡り逢ったのかを。彼がきみを選んだ理由も、きみにとって彼がどういう人であったかも、そして彼の決着の仕方も」
 そうです。知るために導かれたのです。ぼくたちは彼に。
 手袋に覆われたこの右手にいまもあいつの魂があります。ぼくはいつでもあいつと共にいたんです。
「教えてください。きみの知っている彼のことを」
「はい。そしてあなたの知っているあいつのことを話してください」
 ぼくは自分が笑んだことにも気づきませんでした”

 それは回想の旅路の始まり。

「ルーファスくんは海を見たことがありますか」
 ルーファスは首を振った。
「ぼくの故郷は海です。けれど、こういう話は知っていますか。ルーファスくんのふるさとも海なんですよ。人はみな海から生まれました。海の波は天の月から与えられたものですが、そのリズムは人の鼓動へとつながっています。海の成分は人をかたちづくるものなんだそうです。
 ルーファスくん、ぼくとそこへ旅をしませんか」
「……海へ」
「海へ」
 いつかあいつが懐かしそうに話していた海。信じられるかルーファス? 地平線があるように海には水平線てやつがあって、さらにその向こうもまだまだ海なんだぜ。海はでっかくて、しょっぱくて、やさしいんだなあ。
 そんな海に生きているからかなあ、海のヤツらはみんなでっかくって、やさしくって────────
(ぼくも行きたい。海へ)
 道は決まった。
「ルーファスくん。旅の途中でぼくたちが互いに知っている彼を語り合いましょう。海はここからひどく遠い。けれどぼくたちには時間がある。急ぐ旅路ではありません」
 ふたつの手が時を超えて結ばれた。
「彼の未来と彼の過去をぼくたちの手で繋げましょう。そうすることで、ぼくたちはテッドを弔うことができるかもしれません」


2005-04-30