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#16【冷たい手】

 焚き火のそばに寄りなさいと手首をつかまれ、半ばむりやり立ちあがらされた。お節介な手をふりほどくこともできたが、そうしなかった。抗えば抗うほどに幼い外見が保護意識を煽り、抱っこでもされていらぬ愛情を押しつけられるのは目に見えていたからだ。
 相手の力はそれほど強かったし、子どものくせに遠慮は許さないぞという気迫があった。
 対する自分はしょせん、十歳そこそこの非力な躯である。体重もないし腕力にも欠ける。力ではとうてい勝ち目はない。口先だけは自信があるが、いまはその気力すらもない。
 誰かが哀れに思って譲ってくれたぼろの布地を毛布がわりに巻きつけて、テッドは火を囲む人々の輪に渋々ながらも加わった。
 冷えきった指先は感覚をなくして自分のものではないようだ。他人の手のあたたかさも圧痛に感じるほど、血液の循環が滞っている。
 テッドを包みこむごつごつとした大きな手と、安酒場の亭主のような粗雑だが情の深いやさしげな声は、少なくとも知った人物のものではなかった。成人した男性であることは想像がつくが、容貌はわからない。
 熾火の状態となった炎は照明の役目をほとんど果たしてくれなかった。テッドはこの好人物が何者であるかを把握することはついになかったが、そのかわり彼にもまた己の右手を見られずにすんだのである。
 夜間、火を焚く行為には危険がともなう。生き残りがいることを征服者に公言しているようなものだ。だが勝利を確信した征服者たちはわざわざ闇を縫ってまで攻撃性のない民間人を討ちには来るまい。
 それより暗闇を好む肉食性のモンスターに狙われることのほうが恐ろしい。火を絶やさないのはそのためだ。
 人々はみな会話もせず、虚ろに焚き火を見つめていた。
 生き残ったという喜びよりも、失った家や家族のこと、希望のまったくないこれからのことを憂うほうが優っているのだ。
 テッドもぼんやりとうなだれた。
 世話になった村をまた失ってしまった。そこで愛想を振りまいたのはほんの数日だけなのに。
 自分のせいだろうか。
 唇を噛み、幾度も自問自答する。
 そんなばかな話があるか。いつ、誰と、馴れあったというんだ。
 気に病むことなどない、単なる偶然だ。声には出さず、そう言い聞かせる。
 侵略し、侵略され。人が人を欲望のために殺す。そんな血なまぐさい話はどこの大陸でもお目にかかる。けして珍しいことではない。
 テッドは鼻をひくつかせて、幼い顔を歪めた。死臭がまとわりついて気分が悪い。どこへ行っても、どんなに必死で他人を拒絶しても、争いと破滅はなぜか、いつでもテッドの近くにやってくる。
 幼い躯を生かすためには人を利用しなくてはやっていけない。食べるものの確保は最優先の課題で、冬期はそれに加え体温の保持が要った。だから敢えて人のなかに入っていった。
 だが、けして心までそこに寄せるわけではない。巷で流行りの交易と同じ。安く買って、高く売るが基本。ほとんど値打ちのない孤児同然の自分を高く売る手段ならけっこう心得ている。
 けっこううまくやっているじゃないか、と自画自賛する。その隙を、幾度”あいつ”につかれたことだろう。
 子どもだって落とし穴にいちどはまったら警戒するものだ。なのに己の学習能力のなさときたら、どうだ。
 相棒、ソウルイーターは寡黙なようでいて、じつに粘着質に宿主を見張っている。
 これほど狡猾な友はいない。己こそ小さな右手に守られているくせに、その守り主を脅迫することには長けている。
 小さな手は祖父から託された呪われし紋章を守るのに精いっぱいで、寄り添ってくれようとする慈悲深き人々を払いのける力もない。
 いつもならしっかりと革手袋に覆われている手は、めずらしく外気にさらされている。
 禍々しい痣は夜の闇が隠してくれている。
 死神の烙印はだれにも悟られることはない。こんなときだけ、闇は心優しい。
 だがテッドの心をざわつかせるのは、硬く握った右手の秘密をしっかりと包みこむ見知らぬ他人の手。
 氷のようだね、可哀想に、と声がする。
 凍っていてくれたままのほうがいいんだ。
 可哀想だと思うなら、放っておいて欲しい。
 それとも”ぼく”の正体をバラして、もっと恐怖に陥れてやろうか?
 喉元までせり出したその言葉を、叩きつけることはできなかった。
 幾つになっても自分はとてつもなく弱い人間で、人にたよってばかりなのだ。
 善良であるなしなど関係ない。ただ人のぬくもりさえあれば安らげた。
 生命がそよりともうごめかない夜を独りぼっちで往く恐怖を、テッドは知ってしまったから。
 もちろん、試みなかったとは言わない。
 死を。
 疑似体験なら何度かした。だが、どうしてもそこから踏みこめない。テッドにすべてを託した祖父の、テッドを慈しんだ村人たちの声がやめろと引きとめる。
 それは束縛。それは鎖。それは――愛。
 テッドよ生きてくれと、滅してなお願う者たちの、なにより一途な、そして戦慄すべき愛の形なのだ。
 だからテッドは歩みをやめない。
 生者に属さず、死者に属さず、だがその双方からもっとも近い存在である時の旅人として。
 人である以上、心を病むときもある。
 いや、現実の世界を生きるいまが病の連続だ。後悔という病魔に冒された末期の躯を引きずって、無慈悲にやってくる意味をもたない明日に絶望しながらいったい幾千万の夜を眠ったのだろう。
 波のように、静かに繰り返される日々。
 昨日はきょう。今日はあした。明日は無機質な未来へと永遠に連なる。
 進むことも戻ることもない。躯ばかりではなく、心までもが大人になることを放棄して、なお。
 止まってしまったのは時間だろうか。それとも自分。
 恐怖にかじかんだ幼いテッドを連れてあてのない旅に出た。もうずいぶん昔の話。生まれ育った村のことも、その場所も、慈しんでくれた人々の顔も、日に日に記憶の隅に追いやられていく。
 旅の終わりはどこにもない。
 すべてを忘れ去ってしまっても、旅は続けられるのだろう。
 右手と、自分と、幼いテッド。
 本来はひとつであるべきものが分離して、各々がばらばらに彷徨っている。
 痛むほどに冷たいのは、火の傍に寄るまいと頑なになるからではないのだ。
 ぬくもりに近づいても指先はちっとも熱を取り戻さない。
 冷たい。痛い。いっそのこと斬り棄ててしまいたい。
 ぱちぱちと爆ぜる熾にじっと視線をとめながら、テッドはじっと耐える。
 人の気配が恐ろしくてたまらない。
 他人の吐息ひとつにも怯えて肩をふるわせる。
 もしも人々が気づいたら、どう思うだろう。
 いかにも居心地悪げにうずくまっている、身寄りのないひとりの少年のせいで、自分たちが不幸になったのだと。真実を知らないからこそ、火の傍に招こうとするのだ。さもなければ、忌むべき疫病神をこんなところまで連れてきたりしない。
 自分はいつか彼らを情け容赦なく喰らいつくすかもしれない悪魔だ。
 謝ろうと思えばそうすることもできた。
 去ろうと思えばそうすることもできた。
 そんな簡単な手続きすらも諦めてしまった自分は、ほんとうに人なのか。
 目をかたく閉じて懇願する。
 その手を離してください。
 ぬくもりなど与えてくれなくていい。
 せっかく凍っているものを無理に融かそうとしないで。
 ほんとうに、夜はなんと長いのだろう。
 いらない明日を待つ夜だからなおさらそう感じる。
 チリチリとしみこむ熾火の熱も、少年の奥底にはあまりにも遠すぎて届かない。
 明日は何人。その先で何人。
 人の魂を奪うたびに、テッドの右手は確実に力を蓄える。
 黙していてもひとりでに増えていく罪。その絶望的な重さが、テッドを躯の右側から凍りつかせていく。
 冷たい。
 冷たい。冷たい―――
 抗うには遅すぎる。後戻りできない路だけがぱっくりと口をあけて待っている。
 凍てついた手をぶら下げて、また一歩、踏みだす。
 そこに許しという永遠の奈落があることを、テッドはいつも願っている。


初出 2006-04-10 再掲 2006-04-20