テオ・マクドールの書斎は午後の陽ざしをいっぱいに受けいれていた。
大きな窓から西の空を見あげてテッドはその神々しいまでの美しさに言葉を失った。
雨上がりの澄んだ大気は天に抜けた部分が多くなった空をより鮮やかな蒼に染めなおす。いずれは流れていくであろう黒ずんだ綿菓子も金色のまばゆい隈取りをほどこされて、まるで物語の主人公のようにきらびやかだ。雨を降らす厄介な塊のくせになぜか名残惜しく、この完璧な絵画が崩れ去るまでずっとながめていたい衝動にかられる。
太陽は隠れていてもすぐに居場所が知れた。雨雲の中心から発せられる放射状の光は全天をくまなく覆っていたから。
きれいだ。
ガラス玉のような眼をとおして幾度となく見てきたはずの空。意識的な感情を認識する行為はとっくのむかしに無駄なものとして捨てたような気がしていた。
まだ残存していたらしい人間らしい心にテッドはひとり照れ笑いする。
書斎のあるじがめずらしい光景でも見たかのように声をかけた。
「なにか外におもしろいものでもあったかね」
ふだんは地方に出征していることが多いため滅多に在室しないテオだが、今日はほぼひと月ぶりにグレッグミンスターに戻っている。とはいえ自宅で過ごせる時間はほんの二日だけで、ひさびさの家庭料理を四回食べたらまた任地へとんぼ返りである。
忙しすぎるとグレミオなどは小言をいうが、たしかにそうかもしれない。だが赤月帝国五将軍のひとりとして、その責任は周囲が認識するよりはるかに重いはずなのだ。十分に働き盛りのうちは動き回らなければならない宿命。それをテオ自身も別段、苦とは思っていない。
実年齢も経験も自分より格段に下のテオ・マクドールだが、彼は尊敬するに値した。テッドにとっては百戦錬磨を誇った老名将とていわば若造のうちである。誰かを尊敬するなどということは普段ならまずあり得ない。テオはそれを覆した数少ないひとりだ。
何故か、惹かれた。
友として認めるならこういう人間にするべきだな、と思った。
突出した才能があるでもない。名を馳せてはいるがそれだけでは単なる付加価値にすぎない。決定打はなんだったのか。いまとなっては思い出すこともできないが。
近づいたきっかけは赤月の首都であるグレッグミンスターに数ヶ月住むための口実だった。テッドのように容姿が子どもそのもので身元を保証する者もいないとあれば、とてもではないが首都で平穏な生活を送るというわけにはいくはずもない。泥臭い貧民街で身の危険に舌打ちしながら戦々恐々として暮らすか、厄介な保護施設に拘束されるのが関の山というところ。
雑多な人間が集う街であまり目立つ存在になりたくはなかった。そういう意味でテオ・マクドールは利用し甲斐のある男だったのだ。
住処を借りるときも、テオの口利きひとつだった。マクドール邸に出入りするのも周囲の警戒を緩和させるための意図あってのことだ。
ありがたいことにテオはテッドの過去について必要以上に追求しては来ない。
リスクと恩恵を秤にかけたのは認めよう。それもまた生きる術というものだ。
後ろめたさはとっとと忘却するに限る。そもそも『後ろめたい』などとはいまさらという部類の感情ではないのか。こちらにだって止むに止まれぬ事情があるのだから、申しわけなさを抱える義務はない。
背徳のどこがいけない。それが今日まで非力な自分を生かしてきた。それでも道義を論じたがる輩には右手のこの呪われた紋章を押しつけてやってもよい。
テオ・マクドールはじつに変わった男だった。
誰かに似ているかな、というのが第一印象だった。考えてもわからない。それもそのはず、これまでの人生で出会って別れてきた人物を数えるだけでも膨大な作業である。それこそ無駄な思考そのものだ。だから思いだすのははやばやとあきらめた。
だがあるとき、光が瞬いたように、その答えがふいにもたらされた。
ああ、そうだ。
あの人に重なるんだ。
真の紋章を左手に灼きつけられた少年の傍らにいつもいた、南の島の王さま。
容姿だの性格だの礼儀だのはこちらが百倍はまともに思える。なぜ似ていると感じたのか、その理由を考えるとおかしすぎて笑みがこみあげてくる。
そういえばあのとき以来、真の紋章には会っていない。
それもそのはず。このだだっぴろい世界に真の紋章はたった二十七個しか存在しないのだ。
数億の星のなかからひとつを探せといわれてもおそらくは無理であろう。
真の紋章どうしがひとつところで意志の疎通をしただけでも奇蹟なのだから。
奇蹟は二度は起こるまい。また、起こってはいけない。自分の旅の目的は、けしてほかの真の紋章に邂逅することではない。
テオ・マクドールは特別な紋章を宿してはいないけれど、人として安らぎを与えてくれる。王さまの船に揺られるあの心地よさとよく似た。
切ない過去にゆらゆらと重なる、女々しさのようにも思う。こういう迂闊な安堵がいずれ自分の足を引っ張るのかもしれない。だが、それでも。
ほんのわずかだけで構わないのだ。自分の人生と交差する糸を錯覚していたい。
ありがとう、テオ様。
テッドは西陽に背を向けてにこりと笑った。
緑がかった青を基調としたゆったりとした衣服は、トラン地方に伝わる民族衣装だ。
雨雲を瀟洒に飾って感嘆のため息をつかせた陽が、こんどは少年テッドをも絵画のなかに取りこもうとこころみる。
太陽はけして嘘を暴きはしない。
光が色素を根こそぎ奪って、柔らかい猫っ毛をキラキラと金色に輝かせる。
かわいらしい唇が動き、紡ぎだされたことばはテッドにしてみれば素直そのものであった。
「きれいだ、と思っていました。空が。グレッグミンスターが」
テオもまた表情をやわらげた。
「そうか」
この人の子どもが外見年齢的に自分と同じくらいの少年であることが、惜しいと思った。
まさか、友として用意された少年の父親こそを友と呼びたいとは言えまい。
だがそれはしかたのない誤算だ。友になってくれなどと、はなから願うつもりはない。また、その資格もない。
錯覚できるだけで満足。それが自分には精いっぱいなのだから。
ルーファス・マクドールから父を奪ったら、自分はまた後悔の念にもみくちゃにされるだけだ。
ルーファス、温室培養の感はぬぐい去れないものの、父親に似たところのある少年。テオが彼の友人になってくれと願うのだから、形だけでも応えてやるのが筋というものだ。
どう足掻いてもしょせん自分にできることは偽善だけなのである。
偽善とてよかれと思いながら誠心誠意おこなえば、互いに遺恨も残らない。
希薄な関わり。そんなものにはもう慣れた。悲しくなんて、ない。寂しさを感じるひますらない。つらいと嘆く時間があったら、次の地図をひらく。
そうでなければ―――。
あした生きようなんて思うはずもない。
テッドは大人びた顔で微笑む。
「さっきのお話ですけれど、やっぱりお断りします」
その返答は予測されたものだったのだろう。テオに困惑の表情はなかった。
「わかった。きみの気持ちは尊重しよう。グレミオにはわたしからよく言っておく。あの子は納得しないだろうけどね。きみの部屋は無くならないだろうが、どうか迷惑に思わないでくれたまえ。グレミオはよくも悪くも……責任感の強い子でね。悪気はないのだよ」
「わかっています。グレミオさんは、いい人です」
「無理強いしてすまなかった」
謝罪するのはこちらのほうだった。せっかく無条件で将軍家に迎えてくれるとの申し出なのに、最後の線引きとばかりに拒絶したのは自分だから。子どものくせに頑なすぎるとグレミオは憤慨するであろう。その心理はわからないでもない。
こちらだって断腸の選択だ。いわば、危険すぎない距離というものが、これ。右手の相棒に隙を見せたら破滅が襲い来る。相棒はけして容赦しない。ちょっとした気のゆるみは、周囲の人間も自分自身も一瞬で不幸にすることをテッドは経験から知っている。
テオはぼそりと言った。
「いつだったか、南の街で色の綺麗な鳥を売っていてね。ルーファスにお土産に買って帰ったことがある」
前触れもなくはじまった脈絡のない昔語りにテッドは反応のしようがない。
「一羽ではかわいそうだから友だちがいるだろうと、二羽、買ったのだよ。ルーファスはそれに名前をつけてかわいがった。あの子にはきょうだいも母親もいないから、それはもう大切にしてね」
「……へえ」
「それが仇となってしまった。鳥は二羽ともすぐに死んだ」
テッドは息を呑んだ。
「あとで知ったんだが、それはカナリアという鳥でね。ひどく神経質で、人に構われるのが命をも奪われるほどのストレスになるんだそうだ。色の綺麗なのは雄だからで、カナリアの雄どうしはけして馴れあわない。同じ籠で飼ってはいけなかったのだ。住処を別にして、過保護にせずに育てればいつまでもよい声で啼いたものを、知らぬこととはいえふたつの命を軽んじたわたしは、あの子にかける言葉もなかった」
テッドは口をつぐんだ。冷たくなった二羽の死骸を手のひらに乗せ、むせび泣くルーファスの姿が目に浮かんだ。
そうか、知らないということは罪なのだ。
ならば後悔はそれに与えられる罰なのか。
「テオさま、おれは……」
「わかっている。なにも言うな。きみはこんな堅苦しい将軍家に縛りつけられるより、さっきのようないい顔で笑っていたほうがきみらしい」
ごめんなさい、と告げるかわりにテッドは頭を垂れた。
金色のカナリアを思わせる髪の毛がサラリと揺れる。鳥はさほど遠くない未来にこの窓から羽ばたいていくだろう。そして二度と籠には帰らないのだ。
誰かの手のひらに抱かれて目を瞑る勇気は、このときテッドにはかけらほどもなかった。
初出 2006-03-20 再掲 2006-04-10