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#19【月夜のテーマ】

 月の光には不思議な魔法がかけられている。
 月の光はとても淡く、書物を繰るにはいささか頼りない。役目としては陽の光にはるか遠く及ばない。
 それでも月は、夜を往く旅人の足元を勇気づける。
 たしかにそれは渇いた喉を潤してはくれない。だが昼のあいだ灼熱にさらされつづけた大地がほっと癒しの息を吐くのを、旅人は知っている。
 世界を覆い尽くす圧倒的な静寂。
 それが、夜。生きとし生けるものすべて公平に、闇が支配する時間。
 大地の子らのかすかな息づかいを月はやさしく見守っている。
 暗がりに怯える躯をおずおずと抱きしめる。
 そして、ささやく。とても小さい、聞きとれぬほどのかすかな声で。
 ”おやすみ”
 ひんやりとしたムーン・ライトは、生命の寝床。
 やがて旅人もつかの間の眠りにつく。
 それは想いが自由な翼を得てはばたくとき。
 人の想いとは本来、無邪気で奔放なものだ。
 月の魔力がもっとも強まる夜、満月の下でひとつの物語が大きな一歩を踏みだそうとしていた。
 海面はたおやかに凪ぎ、船はたくさんの想いを乗せて休息していた。
 今宵さざめくのは波よりも人々の心のほう。
 夜が明けるとそこには、最後の戦いが待っている。
 遠くて、難しい道のりであった。ここに来るまでのあいだ、敵味方ともに多くの命が波間にはかなく消えていった。
 魂のみの存在となった”想い”はいまどのあたりをさまよっているのだろう。
 人は皆、生と死の循環をめぐる。
 産声をあげたそのときに、人が天より贈られるものは、涙。
 赤ん坊は泣くことによって最初の呼吸を開始する。それが生のはじまりだ。
 だがやがて人は涙をいけないものと思いはじめる。そして、棄てる者のなんと多いこと。
 いらなくなった涙から生まれるものは、ただ美しいばかりの感情ではない。
 憤怒、悦楽、哀愁、歓喜。
 愛すること、憎むこと。
 よりいっそう難しい選択を、なぜ人は好むのだろう。
 感情はひしめきあい、摩擦する。戦いの火種はそこに発する。
 世界のどこかで起こっている戦争は、明日もまた続く。
 大陸の歴史は戦いの歴史であった。
 やがて人はすべて大地に還る。それが生の終わり。すなわち、死。
 死は正しくは終わりではない。それこそが、新たな生のはじまりなのだ。
 無限にめぐる生と死。
 普遍の真理。だれもその運命からは逃れられない。
 ただひとり、生と死をつかさどる紋章を与えられた少年をのぞいては。
 月の光を浴びるのに満足すると、彼、テッドは甲板を離れた。
 どこからかきこえてくる楽器の音色は、まだ終わることなくつづいていた。とつとつとつま弾かれるそのひかえめなメロディは、はじめて耳にするのになぜか懐かしさを覚え、音楽などに関心のない自分でもつい耳を傾けてしまうほど、心地よかった。
 いつもならみな寝静まっている時間なのに、今夜はさすがに人の姿が途絶えない。月の魔力にかかり、眠ることを惜しんでいるのかもしれない。
 テッドは階段を下りようとして手すりに手をそえ、ふと気になって背後を振り向いた。
 ひとりの人物を目で捜す。
 いない。
 ほっとしたような、残念なような、妙な気持ちだった。
 自分の行動がなんだかおかしくて、テッドはこっそりと口元に笑みをうかべた。
 案ぜずとも、もうまもなくあいつとは縁が切れる。
 そこから先は、いつもやってきたように旅を続けるだけ。同行する者のないひとり旅だ。
 あいつもやがて自分のことを忘れ、そしてしあわせに生きるだろう。
 もっとも、あした戦いに勝利すればの話だが。
 少し眠っておこう。そう思って自室へ向かった。
 ドアノブにかけた手が止まる。
「ちょっと、いいかな」
 声をかけられたのだ。相手は軍のリーダー、ノエルだった。
 べつに拒否する理由もない。テッドはぶっきらぼうに、蒼い瞳の少年を室内に招いた。
「どうぞ」
 ひとつしかないイスをすすめたが、ノエルは笑って遠慮した。
「いいよ。そんなに時間はとらせないから」
 イスはとりあえずあけたままで、テッドはベッドに腰を下ろした。
「きみとはいちどゆっくり、一対一で話をしたかったんだけど……」
 ノエルは座るかわりにテーブルに左手をそえて、軽く体重を支えた。
「なんだかもう下手をしたら機会がなさそうだから。こんな慌てた感じで、ごめんね」
「……いや、こっちこそ」
 リーダーが多忙なのはわかっていた。ノエルはお飾りの軍主ではない。
 むしろ手持ち無沙汰だったのはテッドのほうで、込み入った事情がなければもっと柔軟にサポートできたはずだった。それを思うと、むこうから謝られる筋合いはまったくない。
 一対一はともかく、ノエルと話をするチャンスをひたすらに逃し続けているのはテッドにとっても惜しむべきことだった。だから相手も同じように思っていたと聞き少なからず驚いた。
 ノエルには、テッドの宿す真の紋章のことを直接的に説明したわけではない。あんな形で出会ったからこそ勘づいてもらえただけで、ソウルイーターのことはおろか身の上話すらも、ひとことも言っていない。
 なのになぜだろう、ノエルにはすべて見透かされているという確信があった。右手の力をほんの少し解放するとき、ノエルの蒼い視線が自分を向いているのを何度も感じた。
 自らも真の紋章の宿主であるノエルだから、言葉がなくともわかったのかもしれない。
 罰の紋章とソウルイーターが、宿主らに悟られぬよう交感してたとすれば、なおさらだ。
「いよいよだね、テッド」
 ノエルはそう切り出した。意味をきちんと理解するのに、少しだけ時間が要った。
 そういえば日中、作戦室で、エルイール要塞突入部隊の本隊に加わるよう命じられたばかりだった。
 メンバーを決めたのはノエルである。
「いつもきみの戦力ばかりあてにして、ごめん。いままでたいへんだったろ」
「いや……それが契約だったから」
 契約。そう、テッドは労使の関係でいることをはじめに望んだ。それなりの大義名分がなければ、危険を冒してまで軍にいる理由が自分自身、わからなくなるからだ。
「ありがとう。それが、いいたかった」
 ノエルはそう言って、スッと右手をのばした。狭い部屋では、握手を求めるのに歩み寄る必要はない。
 テッドは、その手をとることをためらった。
 右手は背中の側に回したまま、動かない。
「……悪い」
 十秒も固まったあと、テッドはようやくそれだけを吐きだした。
 ノエルはすなおに手を引っこめたが、怒っている様子はなかった。
「いいんだ。あした、よろしくね。テッド」
「……ああ」
「それから、きみにはよけいなお世話かもしれないけど……」
 はじめてノエルの口調に迷いが生じた。三度まばたきして、決意したように話しはじめる。
「さっきアルドが、きたんだ。ぼくのところに」
 その名前は、テッドの表情を曇らせた。
「きみのことを頼まれた」
「……勝手なやつ。なんなんだ、いったい」
「アルドは真剣なんだよ」
 テッドはかっと血がのぼって、声を荒げた。
「だからそれがよけいだっていってるのに。バカじゃねえの。自分で勝手に寿命縮めて、それで満足ってか。こっちの気も知らないで」
 ノエルはなぜか、してやったりという表情になった。
「へえ。こっちの、気も、知らないで、かあ。テッドのほんとうの気持ち。それ、聞いてみたいな」
「えっ?」
「でも、今日はもう遅いから、あしたにしよう。エルイールから帰ってきたら、聞かせてくれるよね、テッド?」
 ぽかんとするテッドにまた笑みを向けて、「用事はそれだけ。じゃ、おやすみ」と言った。
 テッドはうろたえた。よくわからないが、はめられたような気がする。
「のっ……ノエル」
「ん、なに?」
「あの、あのさ……」
 まだ自分の言いたいことはなにひとつ伝えていない。こういう場合なにか、かける言葉があるはずだ。
 情けないほど思考がまわらない。
 とっさにひらめいた言葉を、なかば叫びぎみにひねりだした。
「あの……おまえ、スゴイよ」
「ええ?」
「そんなものを背負ってるのに、いつだって前向きで……ずっと、おまえってスゴイって、思ってたんだ」
 なにを口走るやら。テッドは自分のとんでもないセリフに顔を赤らめた。
 しかしいったんほとばしったものはとめられない。
「おまえはあきらめてない。おまえならきっとできる。なんていったらいいかわかんないけど……おまえを見てたら、おれもなんだかできそうな気がしてきた」
「テッド……」
「おれ……おれ、いつかおまえのような生きかたがしたい」
 なんという醜態。満月の仕掛けた罠に、まんまとしてやられた。
 月の光には不思議な魔法がかけられている。
 嘘のつけなくなる魔法だ。
「内緒にしといてくれよ。一生のお願いだから」
 くすくすと笑ったのは、ノエルだろうか、お月さまだろうか。
 廊下からわずかにさしこむ月光のなかで、右手と左手がはじめて触れあった。


初出 2006-05-11 再掲 2006-05-29