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#20【路地裏の子猫】

 一週間ほど前になるだろうか。薄汚い路地裏に一匹の野良猫が棲みついたのは。
 まだ子猫である。光線の加減でわずかにオレンジ色を帯びる毛並みはつやを失ってぱさぱさしていたが、同じ色の瞳はやんちゃそうな愛くるしい光をたたえていた。
 親猫の気配は周囲にはなかった。天涯孤独というわけだろう。
 あるいは手に余って捨てられたのかもしれない。
 見かけだけは強面で用心棒タイプのハッサンと目が合う。怯えてシッポを膨らますかと思いきや、挑戦する目つきでじっと睨んでくる。こちらが気の弱さを露呈して降参するまで、むこうから反らすことはぜったいにしない。
 エサを要求するつもりなのだろうかと最初は重い気分になった。手をこまねいているうちに、どうやらそれは思い違いであることにハッサンは気づいた。
 矢のような子猫の視線からは媚びのひとかけらも読み取ることができなかった。
 やがてハッサンは理解した。施しを求めているのではない。そこから近づくなと、牽制しているのである。
 子猫のうずくまっている暗がりとハッサンだけが利用する勝手口は、ほんの数メートルしか離れていなかった。ちょうどそこだけが雨を避けることができるようになっているのだ。そのかわり足元はドブネズミの通り道である。
 中におはいりと口にしかけたのをハッサンは幾度もすんでのところでとめた。
 思いつきで親切ぶってみたところで友好関係は築けないことを、この孤高なる子猫はハッサンに突きつけるだろう。無理強いすればするほど頑なに拒絶するにちがいない。そんな気がしてならなかった。
 頼むからそれ以上関わらないでほしい。見ないふりをしてくれたら迷惑はかけないから。
 子猫は人の言葉を使わない。そのかわりよく輝く瞳で訴える。
 身よりのない野良猫は、ハッサンが知っている誰よりも気高かった。
 ハッサンはやがて、この不思議な子猫に惹かれていった。
 日中は人の眼の届かないその場所に身を隠し、陽が落ちるといなくなる。朝にはハッサンが捨てたフリをしてわざと置いた客室用の毛布にくるまって背中を丸めているから、明け方に戻ってきているのだろう。
 人々の寝静まる時間に、どこでなにをしているのかは知らない。だが子猫は生きる知恵をその時間帯に駆使しているにちがいない。
 どこでそのやりかたを身につけたのであろうか。思うとハッサンは胸が締めつけられた。
 世の中はけして裕福ではない。弱い者から否応なしに淘汰されていく。戦争の残した傷痕は、生きる者にとっても死に往く者にとっても身震いするほど残酷である。
 ハッサンが今日を生きのびたのは、水を欲しがる子どもに己の水筒から分け与えなかったおかげだ。だれもがみなギリギリの境界で生を繋ぎとめている。ハッサンとて例外ではない。
 目をそむけた者が勝ちなのだ。しかたがないのだ。
 申し訳ないとハッサンは思う。だが、心は痛んでも、けして手を差し伸べてはならない。それがルールだ。
 ひとりを助けたら、あと九十九人も同じように助けなくてはならないからだ。ハッサンはそれができると豪語するほど傲慢ではない。
 だがせめて、下働きのハッサンだけが知っている残飯置き場に棲みついた子猫のことは、だれにも口外すまいと思った。あちらこちらの路地を追い出され、ここにたどりついたのであろうから。
 子猫はひとりぼっちで、がりがりに痩せている。この先いつまで生きていけるのかわからない。
 ハッサンの歳は三十五だ。実年齢よりも老けて見えるのは、人より苦労を重ねてきたからだ。しかし子どもの時分もひとりで切り抜けてきたわけではない。戦争が勃発し情勢不安定になったのは、ここ十年あまりのことである。
 生まれた時代が少しちがうだけで、これほどの差別が生じるのだ。運が悪いだけでは割り切れない。
 少なくともハッサンの時代には、親のいない子とてしかるべき施設で保護され、親代わりとなる教師をつけられて、人並みに生活することを許された。だがいまや人間の子もモノと同等である。飢えて力尽きた子どもを掃除する仕事はあっても、死ぬ前になんとかして救おうとする動きはもはや皆無に近い。
 現状は少しずつではあるがまともになってきている。だが、いま飢えている野良猫たちはそれを期待して待つことはできない。
 明日もまた生きるために、今日生きることを諦めない。
 そんな野良猫たちが街には何十何百とあふれている。
 エサを手に入れようと、夜の街を彷徨っている。
 おそらくはあの子猫も―――
 ハッサンの働いている宿屋には近隣諸国から裕福な旅の客が集まり、たくさんの贅沢料理を注文しては食べ残した。だから余り物の確保は比較的容易であったし、残飯といえどばかにはできなかった。
 だがハッサンはそれを子猫に与えることを躊躇った。
 エサ場の関係を築こうとしたら、あの子猫はいなくなる。なぜだかそういう気がしてならなかった。
 残飯置き場の生ゴミにも手をつけた形跡はない。プライドがそうさせるのか、あるいはまた別の理由があるのか。子猫は宿屋の食糧をあてにする素振りはなかったし、外からねぐらに食べ物を持ち込むようなこともしなかった。
 毛布を使ってくれたことだけで満足したハッサンは、それ以上の世話をやめることにした。ただし朝に夕に勝手口から子猫の安否を確認することだけは怠らなかった。
 腹をすかせてはいないか。つらそうな顔をしてはいないか。心ない人々に石をぶつけられてはいないか。
 睨まれても、無言で威嚇されても、それだけは続けた。
 ある日子猫は、明るくなっても姿をあらわさなかった。ハッサンは何度も勝手口から様子をうかがってみたが、昼になってもねぐらはもぬけの殻であった。
 その日に限って宿屋は大繁盛で多忙を極め、ハッサンは不安をいっぱいに抱えたまま働きに働いた。子猫のことを考えていてカナカンの高級酒を瓶ごとうっかり床にぶちまけ、雇用主に怒鳴られた。
 ようやく簡単な食事にありついたころはすでにとっぷりと日が暮れていた。
 厨房の片づけもそこそこに、大急ぎで勝手口に走り、路地裏にあの子猫を探した。
 子猫の姿はやはりなかった。山と積まれた残飯にふと目を移して、ハッサンはぎょっとした。
 汚れに汚れた包帯が丸めてつっこんである。黒ずんだ汚れはあきらかに人の血であった。
 子猫のだ。ハッサンは直感した。たしか子猫は右か左、どちらかの手に包帯を巻いていたはずだ。
 けさは無造作に放りなげてあった毛布が、きちんとたたまれて勝手口のわきにあった。
 子猫はもうここへは戻ってこない。
 そう、確信した。
 毛布を持ちあげると、なにかが音を立ててすき間からころがった。
 小さな丸い金属はころころとハッサンの足元を回り、靴に衝突して地面に横たわった。
 宿泊代のつもりだろうか。それは白銀色に輝く五百ポッチ硬貨だった。
「ばかめ、払いすぎだ。ったく、釣りを受け取ンのも忘れてらあ……」
 ハッサンは硬貨を見つめたままつぶやいた。
 なにもしてやれなかった自分が不甲斐なくて、だれにも知られることなく唇を噛んだ。
 時代が悪いのか、それともそうさせた大人の責任なのか。
 答えを見いだせないまま、ただ立ちすくんだ。
 暗い路地裏に、子猫はもう、いない。


初出 2006-05-29 再掲 2006-06-10