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#6【隣の夫婦】

 ベッドに座って壁を背もたれ代わりにし、図書室から借りてきた本を読んでいたらいつのまにかうつらうつらしていたようだ。
 船の揺れというものは眠りに誘うのがどうしてこんなに巧いのだろう。身についてしまった悲しい習慣のせいで熟睡するまでには至らないにしても。
 現在はクールーク軍とオベル軍双方が互いの出方を窺っている状況で、群島の海は一時的に穏やかである。だが戦時下ということを忘れてよいのはカモメやイルカくらいなものだ。
 戦闘があろうがあるまいがオベル軍には覇気があった。紋章砲手の訓練や弓部隊の戦術指南に問答無用で引っ張りだされる毎日。なによりも集団のなかで暮らすことそれ自体が予想外に気を遣うものだったので、一日の予定を終え拘束から逃れるころにはいつもクタクタになっていた。
 ここのところ居眠りの頻度が高まっているのは、肉体的にも精神的にも疲労困憊している証拠だ。
 いま眠ったらまた夕飯を食いっぱぐれる、とぼんやり足掻いた甲斐もなく、テッドはいびきをかきはじめた。手からぽろりと本がこぼれる。
 ぐらりと身体が傾いで、とうとうベッドにくっついてしまった。完全ノックダウン。
 侵入者の気配にさえ気づかないというのは、まったく彼らしくなかった。
 しかも肩を叩かれても、おいしそうな匂いのするハンバーグ定食をサイドテーブルに置かれても、テッドさんと名前を呼ばれても、
 ぐう
 という緊張感のなさは重い宿命を背負った逃亡者としていかがなものか。
 ここに来てついにテッドは熟睡願望に屈してしまったのだった。
 それはさておき。
「起きませんね、あなた」
 トロンとした寄せ豆腐のようなしゃべり方をする女性の声。
「よっぽど疲れておるのだろう。食事を置いておけば気づいて食べるのではないか」
 対するはかなりの早口でせっかち丸出しな男の声。
 女はたしなめるように言った。
「あら、いけませんよ。せっかくのあたたかいおかずが冷めてしまいます。それにフンギさんからもしっかりとお願いされてきたんですからね。この子いつも面倒だからって夕ご飯を抜くんですって。食堂に置いておくとダリオさんが食べてしまうそうですし……」
「ふむ。育ち盛りに食事をきちんととらないとはけしからん。わがままは許しがたいですぞ。そういうことであるならば」
 ふん、と鼻息を鳴らした、次の瞬間。
「起きるのですぞ!」
「わっ!」
 すぐ耳許で轟いた大砲にテッドの心臓が口からはみだしかけた。
 派手に跳ねあがったものだから、背後の壁に後頭部を打ちつけるまでのあいだは一瞬であった。
 激しい衝撃と再度の意識消滅。
「あなた、だめじゃないですか」
 ちっともだめじゃないように、おっとりのんびり。
「ややや、これはしたり」
 自分が招いたくせにきっぱり他人事。
 ゲイリーとエマの中年夫婦は、目を回してしまった隣室の少年を困ったように見下ろした。
 お隣さんとは形ばかりで、顔をあわす機会も滅多になかったテッドを、こんなにまじまじ観察したのは二人ははじめてだった。引きこもりだの変人だの関わらないほうがいいだのという噂がまったく似つかわしくない、ふつうの男の子に見えた。
「幾つなんでしょうかねえ」とエマ。
「わしらに子供がおったらこのくらいであろうか」とゲイリー。
「あらいやだ。いまさらですわ」
「なんの、まだまだファイトですぞ」
 愛の再確認はとても結構なのだが、目の前で気絶しているお子さま(見かけ年齢)はどうする気かそこの夫婦。
「おっと、そうであった」
 ゲイリーが覗きこむ。テッドはぽっかり口をあけて天井を向いてだらしなくのびていた。
「もう大声はいけませんよ」
「うむむ」
 ユウ医師を呼んでくるとか。息をしてるか確かめるとか。血が出てないか髪の毛をすくってみるとか。
 いろいろと方法はあろうにこの夫婦は。
「食べさせてみましょうか、ハンバーグ」
 はい? なんとおっしゃいましたか今。
「それが手っ取り早そうですな」
 だから止めなさいよ、旦那も。
 かくしてトレイを膝に置いたエマは箸の先で器用にハンバーグを切り分けると、ひと口大のかけらをテッドの口に押しこんだ。
「はい、あーん」
 最初からあーんしているのだが、一応言ってみる。
 じっとその口を見る二人。十秒待っても咀嚼しない。いや、動いた。
 哀れなる無意識の反応か、それとも実際問題として腹ぺこだったのか、テッドはもぐもぐと噛んでじょうずに呑みこんだ。
「食べましたよ、あなた」
「次はご飯をいれてみろ」
「あら面白い。食べますわ」
「喉に詰まらせないようにスープをあいだにはさめ」
「あらあらあら、まあまあまあ」
 このようにして、テッドの夕食はとどこおりなく済んだのである。
 次の朝、なぜかズキズキする後頭部をさすりながらテッドは第五甲板にある訓練所へ向かった。昨夜はうっかり寝いってしまったうえに厭な夢を見て、気分は最悪であった。
「おはよう、テッ……」
 ノエルのスクワットがぴたりととまった。蒼い眼に凝視されてテッドはたじろいだ。
「なんだよ……おれの顔に、なにかついてるか」
 ノエルはぷっと吹きだして、人差し指で口元を指した。
「ケチャップ」


掲載したあとに、ゲイリーとエマさんご夫妻には子供があるということが判明。まあ、いいか。

2005-12-14