Nec possum tecum vivere, nec sine te.
ぼくはおまえとともに生きていけない、おまえなしに生きていけない。
左脳運動野から発せられたかすかな命令が錐体路で交叉し、右手の筋肉群を静かに伝わっていく。だがその到達先は虚無に彩られた末端。いまだ未練がましくじくじくと生き続けている感傷だけが、からっぽの右手を握らせる。
そこにはすでに、あの存在も悪意もなかった。人としての一生をゆうに越える長い時間、いつも傍にあった相方はここにはもう、いない。
ほっとすると同時に落胆もしている自分に驚く。愚かな寂寥感がふとおかしくなり、皮肉めいた笑みをこぼす。赤茶色の柔らかそうな髪、人好きのする顔立ち。その少年にはおよそ相応しくない、末期的相貌を目撃した者は幸いにもいなかった。
憔悴し、疲弊を色濃くして、それなのに死を望むことすらかなわない、それは絶望。
血の気を失って青白くなった指先が、こわばりながら開いていく。見慣れたものよりわずかだけ変化しているような違和感があった。おそらくはこういうことだろう─────成長、あるいは、老い。
時の支配は悪戯に解除されるものだし、関与をやめるのもまた気まぐれで、自分には手出しのしようがない。有り体に言わせてもらえば、もはや成長も老いも、どうでもよくなっていた。
あれほど欲しつづけたものが、得てみれば虚。
からっぽの右手とまったく同じだった。
握る。開く。同じ動作を繰り返す。何度ためしても変わらない。
何度ためしても、自分の運命は変わらない。
時はこの身を永く忌み厭い、死は反対に篤く慈しむ。天も地もけして祝福することのない、闇に愛されたテッドという名の肢体。
祖父の予言したそのままに。
だが、約束は果たされなかった。
祖父や、慈しんでくれた村の人々のもとへはもう、帰れない。
不透明で均質で、真でないものが自分をけして逃がすまい。
無様に生かされながら狂ってゆけと、虚無が嘲笑う。
あらゆる支配の及ばぬ無限回廊。
いや、ちがう。自分はすでに気づいている。
諦めとため息の充満するこの長い一本道は、混沌と混沌の狭間なのだ。
平行するふたつのカオスのどちらにも属することのできぬ、迷いこんだら最後けして抜けだすことを許されない、咎人の流刑地。
囚人服を与えられ。
拘束の鎖でからめとられ。
告げられる終身の罰、死罪より重い、それは絶望。
おじいちゃん─────ごめんなさい。
ぼくは、あなたの願った道をこんなにも簡単に、違えた。
ぼくは。
ソウルイーターとともに、生きていけなかった。
Vive, infans.
生きるのです、幼な児よ。
こんな役立たずにはいっそのこと引導をわたしてしまえばよいものを、諦めのよくない迷走神経がなおも支配を宣言する。震え。発汗。不快感をともなう動悸。
右手に死神が巣くっていたときには心を殺すことさえ厭わなかったのに、訣別した瞬間から恐怖が洪水のようにおしよせてきた。産着を剥ぎ取られた赤子のようなものだ。
枷のはずされた右手は、斬り棄てたいほど重い。眠りを必要としない夜は、吐き気がするほど朧気だ。
自分は何者だ。幽霊。違う、まだ死んじゃいない。廃棄物。そうだとしたらなぜ生かす。復讐者。あいにくだがそのような感情はとっくに棄てた。ならば何だ。
血液循環とニューロンが司る物理的原子。
それ以上になんの意味もない。
殺しそこなった心がじわりと確実に病んでいく。やがてこのからだ自体がひとつの病巣となる。意識のいちばん奥底で、かすかにかすかに悲鳴をあげている”テッド”。
右手を痙攣させているのは、葬られようとしている子供の最後の抗い。いまにも消え入りそうなその声は、信じられないことを叫んでいた。
返して。返して。ソウルイーターを、ぼくへ。
ごめんなさい。もう逃げないから。二度と手放さないから。だからお願い。
ぎゅっと握って、それを封じこめる。いまさらなにを。冷笑が唇の端に浮かぶ。後悔して赦されるなら、裁きは意味を持たなくなる。すべてが遅い。遅すぎた。
それでも”彼”が言っていることには一理ある。ひとたびソウルイーターと縁を結んだ者は、それから離れて生きてはいけない。血縁と同じ。忌み嫌っても他人にはなれない。
それが祖父の語っていた、運命という縁ならば、いまここにこうしている自分の存在こそが過ちなのだ。
夜を彷徨っていたあのころが、厭わしくもなつかしい。取り戻すことのできない、ほんとうは正しかったその歩み。
わかっていた。ぼくはおまえなしに生きていけなかったんだ。
ソウルイーター─────
Vive memor mortis.
生きるのです。死を忘るることなく。
Dum exspiro, spero.
希望はある、最期の息を吐くそのときまで。
Dexterae :『右手』を意味するラテン語。
2005-12-26