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#26【幸あれ】

 空は朝から、すとんと抜けるように青かった。
 地平線に浮かぶ雲も、雨を呼ぶものではない。至極のんびりと、西から東へ流れてゆく。
 地上では、たくさんの笑顔がはじけていた。
 ふだんから早起きで勤勉な村人たちだが、今日はいつにも増して特別の日。前祝いと称した夜通しの宴会で酒の抜けきらない男どもを叱りとばしもせず、女性たちはてきぱきと祝いの準備に汗を流す。どの顔も楽しげで、そして、うれしそうだ。
 狭い村のこと。慶事は全員でよろこびあう。どんな幼い子どもたちでも、この日ばかりはひとりのこらず手伝いに駆り出される。
 旅の者とて免除はされない。居合わせたが運のつき。村人とよそ者のあいだに垣根はない。
 テッドは小さな子どもたちをぞろぞろと引き連れて、丘に花をとりに来ていた。大きなかごをかかえて走り回る子どもたちが、万が一にも崖から転げ落ちないようにと、お目付役を任せられたのである。
 自分にできることは所詮この程度。文句などあろうはずがない。慣れぬ手伝いをして皿を割るよりはましだ。
 それに。
 この村に滞在するのも今日が最後だから、丘からその全貌をきちんと記憶にとどめておきたかった。
 ヒバリが高く飛翔しながら、よくとおる声でさえずった。
 テッドは誘われるように空を見あげ、まぶしさに目を細めた。
 蝶がひらひらとまとわりつく。テッドの髪の毛を草かなにかと勘違いしているのだろう。
 頬を撫でる風がかすかに森のにおいを運んできた。
 争いごとのない、平和な世界。
 人々の暮らしはけして豊かではないけれど、彼らの心に暗い影は入りこむ余地すらもない。
 血なまぐさい歴史はこの土地にも遺されていた。だがそれはすでに過去のもの。人は教訓を頑なに守り継ぐ。痛みを知った人々は、同じ轍を二度は踏まないのである。
「テッドおにいちゃーん、はやく、はやく!」
「おい、あんま遠くにすっとんでくなよ」
 テッドは苦笑いしながら、子兎のようにはねまわる子どもたちをひとりずつ見回した。
 村の子はとても人懐っこい。物知りのテッドを無条件で慕ってくれる。ガキどもと同レベルかと思うと複雑なため息も漏れるけれど、きらきらした目で見られると邪険にする気もおこらなくなるのだ。
 それにしても、たかが草むらに放流しただけでどうしてあんなに泥まみれになるのだろう。不思議でしかたがない。
 花をあつめて帰ったら、一張羅に袖をとおす前に風呂につっこまなくては。いや、ひとりずつせっけんを持たせ、広場の噴水に突き落とすか。仕事は手軽に確実に。
 ふと、気が沈む。
 最後の仕事、か。
 テッドは寂しげにふっと笑った。
 結婚式がはじまる前に、こっそり村を離れようと決めていた。
 祝福されるマリアとフレディの姿を見てしまったら、迷いが生じるに決まっている。
 こんな途方もないやさしさには、さいしょから出会わなければよかったのだ。
 冷えきった心のままで通り過ぎていたら、これほど胸を締めつけられることもなかったろうに。
 寂しい。
 どうしようもなく。慣れたはずの感情なのに、今回はちょっとばかり効きすぎた。
 つかの間の夢は、しあわせであればあるほど、醒めたときの喪失感に打ちのめされる。そんなことは幾たびもの経験でわかりきっていたのに。
 昨夜もベッドのなかで、少しだけ泣いた。
 だが、夢はいつか醒めなくてはいけない。そのタイミングを過ったら、もっと後悔するにちがいない。
 テッドはぶるっと身をふるわせた。反射的に右手をぎゅっと握りしめる。
 させないぞ、と小さく威嚇する。
 そこにひそむ呪われた紋章は、息を殺しているだけで眠ってはいない。
 いまもこの時も、生贄となるべく候補をじっと視界にとらえているはずだ。
 しばらく”喰っていない”彼は腹を空かせている。
 咆哮するのももはや時間の問題。気を抜いたら最後、しあわせな人々からその笑顔をもぎとってしまうだろう。
「させないからな、ぜったいに」
 今度は口にだしてつぶやく。
 フレディは怪我を負いずぶぬれになっていたテッドを森で見つけて、村に連れてきてくれた恩人だ。マリアはどこの馬の骨とも知らぬテッドに無償で寝床と食事を与えてくれた。
 ふたりは恋人同士で、どちらもお人好しだった。
 陽気な狩人フレディと、村一番の器量よしマリア。
 今日、ふたりは晴れて夫婦となる。
 だから、これ以上脅かしてはいけないのだ。ふたりが知らないだけで、テッドは”死神”をその身に宿しているのだから。
 ソウルイーターに、けして介入はさせない。その気配をわずかでも察したら、己の魂をかわりに与えてでも食い止めなくてはならない。
 だがおそらくは、ソウルイーターの思いどおりにはならないだろう。
 マリアの瞳にはフレディしか映っていないから。
 フレディも同じだ。
 どんなにマリアがテッドにやさしく接しても、彼女にとってテッドは単なる弟分のような存在にすぎない。
 マリアの魂は、フレディのそばに寄り添っている。
 テッドの入りこむすきなど、はじめからありはしないのだ。
 いやな夢を見て飛び起き、そのまま眠れなくなってしまった夜。テラスからぼんやり月を見ていると、気配に気づいたマリアがあたたかいお茶と膝掛けを持ってきてくれた。
 ”テッドは、好きな人はいるの”
 いつもは束ねている長い髪を夜風に揺らして、マリアが訊く。
 ……好きな?
 そんなことは、考えたこともない。
 そんなことを考えるのは、許されない。
 どうしてもというのなら。
 マリア。
 言いかけて、きゅっと口をむすんだ。
 やさしいマリア。
 ありがとうマリア。どうかしあわせになってほしい。
 祝いの日に姿を消す自分をけして案じないよう、小さな花束を置いていく。
 いつかマリアが窓辺に飾ってくれた、純白の花を。
 残すものは記憶と足跡だけでいいと思っていたけれど、今日だけはほんとうに特別だ。
 やがて枯れる花なら、神も許してくれるだろう。
 教会の鐘が鳴りはじめたら、もう振り返らない。
 旅を終える日のことなど、考えない。それがさだめられた道だから、往くだけである。
 だけどしっかり歩いていくよ、マリア。


初出 2006-09-12 再掲 2006-09-28