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#37【ライフ】

 300年、人の目を気にして旅ばかりしていたわけではない。
 たとえば人里離れた大森林のまっただなかで、のんびりと定住のまねごとを愉しんだ時期もあった。そこはほんとうにだれにも知られることのない、逆を返せば人の住むところではない、半端でなく寂しい場所だった。
 それでも十年は居着いただろうと記憶している。
 不便な場所にあることくらい、おれにとってはむしろ好都合というもの。あばら屋でも雨風をしのぐ程度には頑丈だったし、畑や井戸、あろうことか薪で焚く風呂さえも備わっていた。
 風変わりな家主は、なにをトチ狂ったか、この世を去る前に、それらをすべておれに譲ると言い遺した。
 いわば、遺言というたぐいのものだ。
 最高の条件が揃いすぎていて、おれは正直、面食らった。家と土地と畑。それからおそらくは、だれにも干渉されない自由な時間。なんの代償もなしに安易に受け取ってほんとうによいものなのかどうか。
 訊きかえそうものにも当事者はすでに亡くなっているのだから、確認のしようがない。どこの馬の骨とも知れぬ子どもに遺産をくれてやるだなんて、今際のきわの発想としてもすこしばかりお粗末すぎるのではなかろうか。
 だけどおれは人情も同情もあますところなく我が血肉に変える主義だ。もらったものは有効利用するが勝ち。
 家主の亡骸を畑の横に葬ってていねいに手をあわせてから、さっきまで本人の眠っていたベッドに寝ころんだ。
 罠でないとなれば、だまされたと思ってためしに半年ばかり住んでみるのもいい。
 暮らしは予想以上に快適だった。
 なによりうれしいことに、招かれざる客人の気配がない。来るのは決まって野ウサギやキジや狸。すなわち『お食事』として認定されたやつらだった。
 これを幸運と言わずしてなんと言おう。
 いままで自分は不幸だとばかり思っていたが、人生長ければこういうこともあるものだ。
 あの日が運命の分かれ道。おれはただ、腹をへらして行き倒れていただけだったのに。
 雀の涙ほどの全財産はゴロツキどもに下一桁まで巻きあげられて、懐には一ポッチも残っていなかった。冷たいみぞれがしょぼしょぼ降っていて、同情をあつめるお膳立てはととのっていた。
 なのに無情にも、どいつもこいつも関わりあいになりたくないと足早に通りすぎる。
 お巡りでさえも気づかないふりをした。
 おれは本気で、世をはかなむ寸前だった。
 手をさしのべてくれたのは、どこからどう見てもまともではないじいさんただひとり。
 浮浪者にちがいない。原色の、毛糸の帽子が妙に目立っている。着ているものはつぎはぎだらけで、髭が口元をおおうほどに伸びていた。
こっちも浮浪児だから贅沢は言わないが、正直、めしを食わせてくれる甲斐性があるようには見えなかった。
 実際、たらふく食っていいとすすめられたものは袋にごっそり詰まったパンの耳だった。
 パン屋が鳩の餌にするために無償で広場に提供しているあれだ。さすがのおれでさえも、公衆の面前で鳩と競いあうのは気がひけて、手を出さなかった例のパン。
 鳩様に譲渡されたとはいえ、もとはれっきとした売り物のパン。バターがこってりきいた、上等のやつだ。鳩ぽっぽなんぞに食わせたらバチが当たる。俺様がかわって胃袋におさめてしんぜようぞ。
 とりあえず猛烈に腹がへって死にそうだったので、一心不乱にほおばった。じいさんは終始無愛想だったが、満足したおれを立ちあがらせて、どこかへ連れていこうとした。
 下心はあると見たほうがいい。けれども恩義はいちおう返しておくべきだろう。
 生きる糧は頂戴するだけ頂戴してサヨウナラがおれの主義だ。その過程で、先方に悪意がなければ礼は尽くす。過去にも、一宿一飯の借りを返すために悪事の手伝いをしたことは何度かある。おれは正義の味方ではないから、法に触れることもいけないこととはとくに思わない。
 町のはずれまで来るとじいさんは、炭坑跡にはいっていった。ずいぶん昔に掘削を終えて、すでに廃坑となっている穴ぐらだ。
 入り口は板きれを打ちつけて閉鎖してあったのだろうが、小柄な人間なら出入り可能なくらいに荒れている。なるほど、ここがじいさんのねぐらだなとおれは早合点した。
 じいさんはずんずんと奥へ進んでいく。予想よりもかなり大規模な炭坑だ。モンスターが巣を荒らされたと怒って襲ってきやしないかとおれは緊張した。
 さすがに様子が変だと訝しんだおれは、じいさんを呼び止めた。
 じいさんはニカッと笑って、なぜだかするりと帽子を脱いだ。
 おれは、あっと息をのんだ。
 毛糸の帽子からあらわれたふたつの耳は、人のものではなかった。
「エルフ……?」
「左様」
 穴掘りの得意なケイヴドワーフならばともかく、エルフが地下に住むなど聞いたことがない。それに、エルフ自体、見たのは何十年ぶりだろう。
 エルフはあまり積極的に人間と共存したがらない。そしてほとんどの場合、種で行動する。
 はぐれエルフを人里で目撃することは稀であった。じいさんは、よっぽどの変わり者かなにかだ。
「いかにも、儂はエルフじゃ。じゃが、このとおりはぐれ者でな。いつもは森の奥で気ままに暮らしちょる。たまたま町にさんぽにでかけたら、おまえさんを見かけたというわけでな」
「どうして、おれなんか」
「おまえさんもはぐれ者じゃろうて」
 ぽかんとしているおれの前で、じいさんはなにやら不思議な術を使った。
 おれは今度こそ、口から心臓がはみ出るくらい驚いた。
 坑道だったところが瞬時に、どこかの空間とつながった感じだった。なんと言いあらわせばよいのだろう。空間転移。じいさんがやってのけたのは、まさしく、それだ。
「幻覚じゃよ。ふぉっふぉっふぉ」
 エルフの能力におれは舌を巻いた。魔法か目くらましか、いずれにせよこれほどの大技を苦もなく使うだなんて、よっぽどの手練れにちがいない。
 つながった空間は、陽の光と緑の匂いに満ちていた。鳥の声がかまびすしい。
「ここは」
「儂の森じゃよ」
 じいさんはさらりと言ってのけた。
 鬱蒼とした高い木々に囲まれて、驚異的におんぼろなほったて小屋が一軒。煉瓦の煙突からはけむりが立ちのぼっている。
「ヒトを招いたのはひさしぶりじゃ」
「……いいんですか」
「ちょうど、くれてやる者をさがしておったところじゃ。これもまた縁、おまえさん、適当に処分してくれんかのう」
「はあ?」
 じいさんはまるで他人事のように、いけしゃあしゃあと言った。
「儂の命運もまもなく尽きるでな。エルフはの、おのれの寿命を知っておるのじゃよ」
 戯れ言か、それともからかっているのか。
 けれどもじいさんの言ったことは嘘偽りではなかった。それをおれはほんの三日のちに知るはめになった。
 断言する。おれが『喰った』のではない。それ以前から運命は決まっていたのだ。
 エルフのじいさんは眠るように逝った。苦しまなかったのが幸いだった。
 おれは残ったパンの耳を朝食がわりにかじりながら、畑でも耕してみようか、と思った。
 じいさんは何を思って種族から離れ、自給自足で生きてきたのか。
 彼は自分の人生に満足していたのだろうか。
 じいさんがいなくなってはもうもとの町に戻る手段がないことに気づいたのは、それから少したってからだ。
 じいさんは、家を、畑を、森を守ってくれとは言わなかった。
 適当に処分してくれ。すなわち、おれの人生は束縛しないから好きにしろという意味だろう。
 おれはじいさんとちがって自分の寿命を知るすべはないけれど、そのかわり種のしがらみに縛られることもない。時を、気にする必要もない。
 いまになって回想すると、おれにとってけして無駄ではない十年間だった。
 畑を耕して野菜をつくり、小動物を狩り、墓に花を手向け。
 そのあいだも追跡者の影に怯えていることに変わりはなかったけれども、それでもおれはあのときたしかに人らしい生活をした。
 たった十年で放棄したけれど、じいさんには感謝している。
 ―――おまえさんもはぐれ者じゃろうて
 ご明察。けれどどこまで気づいていたのか。
 いつかまた出逢えたら、訊ねてみたい。


初出 2007-04-27 再掲 2007-06-20