百五十年あまりの長く苦しい逃亡人生でつちかってきた危機回避能力が、最上級のレッドシグナルを発していた。
おかしい。なぜだ。胸がどきどきする。
戦況は一時的な小康状態。群島一帯は移動性高気圧にすっぽりと覆われ、海はおだやかに凪いでいる。どこまでも広く、はてしなく蒼い海と空。
物資の流通もとどこおりなく、群島諸国間のもめごともいまのところ穏やか。暇を持て余した海賊連中が問題行動を起こしているという話も聞こえてこない。
視界良好。オールクリア。本日は晴天なり。けれどこの胸騒ぎの正体はなんだ。
こういうときは体内の嵐が通り過ぎるまで自室に籠もっているのが賢い。気のせいならばそれですむ。
テッドは急ぎ足で階段を駆け下りた。
拉致られたのはその十秒後である。
大きな手で肩をわっしとつかまれたので振り向くと、リノ・エン・クルデスがいた。
解説しよう。南国リゾートな格好で短パンサンダル履きすね毛むきだしのこの大男は、こともあろうに泣く子も黙るオベル王国の王さまなのだ。口も悪いが柄もかなり悪い。世の中下品な男はゴマンといるが、下品な国王ランキングならまちがいなくトップクラスだろう。
下品でも一応は国の王だからやたらめったら金持ちで、当軍艦のオーナーも当然のようにこの人である。すなわちテッドの雇用主。おいそれと逆らうわけにはいかない。
「い~いところ、へ」
マズイところへ。ちっ。
「見張りの帰りだろ?」
「……当番だったから」
テッドはぶっきらぼうにこたえた。
「ふーん……」
リノは毛むくじゃらの腕を組んで、ぽりぽりと顎を掻いた。
「用事がないのなら、おれ、疲れてるから」
踵を返そうとしたが、リノの用事はまだ終わっていなかった。
「さっき、船が大きく傾いたんだよな」
「ああ、それなら」
この時、黙っていればよかったのに、律儀に説明してしまったテッドを嘲ってはいけない。
「例のデ……ディジーちゃんがあんまり鬱陶しいんで、ちょっと脅かしてやった」
ソウルイーターをわりと強烈なレベルで、死なない程度にサクッと。
「ああ、そりゃ、ディジーちゃんの棲んでる海域に平気でつっこんでくブリッジも、あー、悪かったよな。ふむ」
たりめーだ。飼い主を怒らせたらミドルポートは永久に入港禁止だろ。だったら回避する努力をするのが順当だ。あんな貝の化け物、いっそのことクラムチャウダーにしてしまえばいいのによ。
「もう、いいだろ。おれ休みたいから……」
「あいにくだが、現行犯逮捕だ」
リノはテッドをかるがると小脇に抱えて、階段をのぼりはじめた。
「おいっ、ちょっと! なにする……ぎゃーっ!」
じたばたしても、鍛えられた海の男には勝てない。おっと失敬、王さまだったか。どっちにしろ野蛮な大男だ。
「ほら、容疑者を連行してきたぞ!」
下ろされた場所は食堂だった。
そこには軍主ノエルをはじめ、数十人が深刻な顔で円座になっていた。
料理長のフンギに至っては、青ざめているというレベルではない。あきらかに泣きはらした顔をしている。
複数の目玉がいっせいにテッドを向いた。
ぎろ。
ななななな、なにがあった。おれがなにをしたってんだ。
「テーーーッド?」
ノエルが地獄の底から声をしぼりだす。
ぎくぎくっ。
コイツが怒っているなんて、ろくでもない前兆にきまってる。
「お、おれが、なにを、し……」
言い終わらぬまに、ノエルが先制した。
「自分の眼でたしかめてごらんよ。フンギ、さあ」
「はい……これ、です」
フンギは厨房にあった巨大鍋の鍋ぶたをとった。
もうもうと湯気があがる。
数百名の胃袋を満たすために、フンギが毎日早朝から仕込んでいるスープ鍋だ。
だが、いつもとどうも様子がちがう。この、匂いは。
「船が傾いて、棚からいっせいに落ちてきたんです」
なにが、と訊くまでもなかった。
いつもそこに並んでいた瓶がきれいさっぱりなくなっている。そう、色とりどりのスパイスが。
「げっ」
ノエルはわざとらしくため息をついた。
「わかったね、テッド。フンギがせっかく心をこめてつくった完成間近の野菜スープが全滅したの。まあ、テッドに悪気があってのことじゃないけど、食べ物の恨みは恐ろしいっていうしねえ。グリシェンデの人たちにバレるのも時間の問題だしなあ。ふう」
ぞくり。
年中腹ぺこの海賊どもがこのことを知ったら、まちがいなくテッドはマストにハリツケだ。
だが、しかし。
さっき鍋から立ちのぼったこの匂い。これは、もしかして。
「あっ、テッド!」
テッドは大鍋に駆け寄って、中身に指をつっこみ、ぺろっとなめってみた。
「おなかこわして死んじゃうよ!」
とめようと数名がとびかかる。
羽交い締めにされて、テッドはきゅうと鳴った。
「責任とって自殺なんてしないでね!」
「アホ! そ、そんなんじゃねーってばよ」
どこのだれがこんなくだらない冤罪でせっかくの人生をだいなしにするかっちゅうの。
それに。
「まちがいない。これは、カレーだ」
「か、カレー?」
ノエルをはじめ、一同は目をぱちくりとした。
「そう、カレー」
周囲の反応はない。テッドはびっくりして、言った。
「もしかして……カレー、知らない?」
全員 「なにそれ」
テッドの顎が、かくんと落ちた。
唯一、そのメニューに思い至ったのがフンギであった。
「そういえば……アーメスのほうで、そういう料理があるってきいたことがあるな。スパイスをふんだんに使った煮込み料理って、記憶してる……けど、これが?!」
カレー、恐るべし。
これぞ偶然カレー。
「そういうこっちゃ」
テッドは両の手を天井に向けて、肩をすくめた。
一件落着。
群島諸国にカレーライスという食べ物がひろがった歴史的背景に真の紋章を宿した少年が関与していたことは、後世の料理研究家の手によって伝えられはしなかった。
だが、料理人フンギはその渦中で固く誓った。
降り注いだスパイスのなかに、重曹や昆布茶といった、あきらかに煮込み料理にはそぐわない異質な物質が混ざっていたことは生涯内緒にしておこうと。
微妙な味わいだったのは、すなわちそういうことだ。
これもまた、偉大なる歴史の一頁。
初出 2006-08-09 再掲 2006-08-23