はっと我に返ると、そこには冷酷な現実だけがあった。崩れかけたほこら。見るも無惨に焼け落ちた村。そして聞こえる、追っ手の息づかい。
夢ならさめろ。ぼくは頬っぺを手のひらでたたいてみたけれど、涙ですべっただけでなにもかわりはしなかった。
泣くな。しっかりしろ。これはほんとうに起こっていることなんだ。戻ったらぼくも殺される。ここでぐずぐずしていても同じこと。つかまったら、紋章を奪われる。
ぼくは涙と、ついでにとまってくれない鼻水をごしごしぬぐった。逃げなくちゃ。どこへ。どこか遠くに。どっちに。考えているひまなどない。
右も左も、ひろがるものは荒漠とした原野だ。
ぼくの村があったのは、そもそもそういう場所なのだ。だれにも見つからないように、ひっそりと隠れ住んできたのだから。血縁は裏切ることをけして許さず、よそ者はぜったいに立ち入らせない。ずっと昔からの掟だ。
ならば、あの人たちはだれだったんだろう。見たことのない、あきらかによそ者。けれども、ぼくが逃げるのを手助けしてくれた。強くなりなさいと抱きしめられた。ぼくの名前を知っていた。
おにいちゃんと、おねえちゃんと、クマみたいなおじさん。ほこらがまばゆくかがやいて、みんなの姿をのみこんだ。おにいちゃんはぼくを連れていくといちどは言ったけれど、そのあとですごくつらそうな顔をした。
ぼくをひとりにするの。置いていくの。ひとりにしないで。ぼくも連れていって。一生のお願いだから。
必死でそう懇願したのに、ぼくは見えない力ではじかれた。ほこらを包む光のむこうに、どこかちがう世界が見えた。みんなあそこに帰ってしまうんだ。ぼくだけ行けないんだ。だって向こう側は、ぼくのいていい世界ではないから。
おにいちゃんは消える寸前に、ぼくを見て叫んだ。必ず会えるから。ぼくを信じて。ぼくたちは親友だ。生きてくれ、生きろ、テッド。
ぼくは、なにも言えなかった。ただ、うなずいた。
気がつくと静寂。
風のうなる音。熱風がここまで届いて肌を脅かす。みんな燃えた。みんな死んでしまった。きっともう、ぼくしか残っていない。後戻りは死を意味する。
右手が奇妙な感覚を訴えた。おじいちゃんから預かった、生と死を司る紋章を持っているからだ。熱のような、痛みのような、はっきりとしない不快感。ぼくはその紋章が、神さまにも匹敵するおそろしい力を内包していることを知っている。
ごくりと唾をのみこんで、右手をぎゅっと握った。これを守らなくてはいけない。悪意のある者に奪われてしまったら、世界が滅びる。
もうほこらに未練はなかった。待っていても、おにいちゃんたちは戻ってはくるまい。踵を返して地平線に目を向ける。
もうすぐ陽が落ちる。危険な獣やモンスターが徘徊しはじめる時刻だ。日中でもあぶないから、ひとりではけして冒険してはいけないといういいつけだったが、ぼくはそれをはじめて破る。手練れの大人でも狩りで命を落とすことがあるというのに、おもちゃのような小さな弓しか扱ったことのない自分が、そんな場所で生きのびられるとは思っていない。
けれど不思議と怖さは感じなかった。おじいちゃんや死んだみんなの魂が、守ってくれるような気がしたのだ。あまりのことに、恐怖心が麻痺していたのかもしれない。仮の勇気でも、立ちあがる力を生むにはじゅうぶんだった。
手持ちの食べものはない。水すらも持ち出せなかった。自分でなんとかしなくては、すぐにのたれ死ぬ。そんなのはいやだ。死ぬのは、いやだ。
真っ赤な夕陽をまっすぐに見て、ぼくは歩きはじめた。そちらへ向かえば、夜のおとずれをほんの少し遅らすことができるだろう。そう、ほんの少しでも、生きのびるチャンスが得られるなら。
おじいちゃんはぼくといっしょのベッドでは眠ってくれなかった。けれども、真夜中に何度もそっと部屋をのぞいてくれたのだ。ゆらゆらとゆれるランプのあかり。いまでもどこかで見守っている。太陽が沈んでも、きっと月明かりが道を照らすだろう。
ひとりは怖い。死ぬのは怖い。まっくらな夜は怖い。だれもいない闇につつまれるのは怖い。
だけどぼくは、後ろは振り返らない。そこにはもう、ぼくの持っていたものはなにも残ってはいないから。失ったものを望んでも、戻ってくるはずがないのだから。
それがぼくの、永い夜の旅のはじまりだった。
初出 2006-11-11 再掲 2006-11-26