なにかがひっそりと動いたような気がしてルーファスは顔をあげた。
廃屋の小窓はガタガタと軋んでいたけれど、すきま風はひとつも侵入してこない。
突風が吹いただけだ。寒冷前線が真上にある。氷雨のたたきつける音がする。
小屋にはもう何日も前からルーファスひとり。
古い暖炉にさっき拾いあつめてきた木ぎれを組んで火をつけたら、ぱちぱちとよく爆ぜた。濡れていないのを探すのはたいへんだったが、ひと晩じゅう凍えるのもぞっとしない。
どこかなつかしいあたたかさと、枯れ枝の燃える匂い。
ああ、まただ。
誰もいない宙を漆黒の瞳が追う。
残像が空気を揺らすわけがない。幻が頬をなでるわけがない。
裸火に手をかざす。濡れた手袋を剥ぎ取る。
ごめんな。冷たかったろ。
いまあっためてやるから。
熱がじんわりとしみてくる。血行の回復とともに指先がむず痒くなる。いつのまにかかさかさにひび割れて、ごつさを増した十本の指。
羽ペンとスプーンと棍だけしか持ったことのなかった手が、いまはこんなに逞しい。
だけど成長しない手。
あてのない旅を続ける手。
友が預けてくれた手。
友の眠る手。
握る。
絶え間ないリズム。
感じる、鼓動。
脈打つのはルーファスの血だ。永遠の循環にも疲弊しない血だ。
ひとときも休むことなくルーファスを歩かせ続ける。
ときどきこうやって、忘れかけた残像をまとわりつかせ。
どんな顔だった?
瞳の色は。髪の毛の色は。笑うときはどんなだった。怒るときは。
記憶とは残酷だ。どんなに忘れまいとあらがっても遠ざかっていく。
友の姿はもう残像でしかない。
あの日、ルーファスの腕のなかで、消えた。
きらきらと輝く蒼水晶と、冷たい月の光。友もまた光となり、まじりあって、すべてが天高く消えた。
ルーファスに遺されたものは、
その名前と、いつかは喪われるだろう記憶と、ひとつの紋章。
それから、
友のぶんまで生きるという約束。
すくった水のように手のひらからこぼれ落ちていく友の記憶。
けれど友の残像は笑っている。
それでいいんだよ、と。
おまえはおまえのために生きろ。
約束だっていつかは消えてなくなる。気配に振り返ることも、幻を追いかけることもやがてなくなる。
そして次なる継承の時が来る。
とまった時の川は、いつ出逢うかもわからない海に向かって音もなく流れていく。
友の祈りは原初の水のひとしずく。
やがて海に抱かれる穢れなき蒼。
”テッド”
虚空にむかって、ルーファスはその名前を呼んでみる。
Diminuendo :イタリア語表記の音楽用語。デクレッシェンド。次第に弱く、あるいは精神的衰退。
初出 2006-02-07 再掲 2006-02-27