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#13【Diminuendo】

 なにかがひっそりと動いたような気がしてルーファスは顔をあげた。
 廃屋の小窓はガタガタと軋んでいたけれど、すきま風はひとつも侵入してこない。
 突風が吹いただけだ。寒冷前線が真上にある。氷雨のたたきつける音がする。
 小屋にはもう何日も前からルーファスひとり。
 古い暖炉にさっき拾いあつめてきた木ぎれを組んで火をつけたら、ぱちぱちとよく爆ぜた。濡れていないのを探すのはたいへんだったが、ひと晩じゅう凍えるのもぞっとしない。
 どこかなつかしいあたたかさと、枯れ枝の燃える匂い。
 ああ、まただ。
 誰もいない宙を漆黒の瞳が追う。
 残像が空気を揺らすわけがない。幻が頬をなでるわけがない。
 裸火に手をかざす。濡れた手袋を剥ぎ取る。
 ごめんな。冷たかったろ。
 いまあっためてやるから。
 熱がじんわりとしみてくる。血行の回復とともに指先がむず痒くなる。いつのまにかかさかさにひび割れて、ごつさを増した十本の指。
 羽ペンとスプーンと棍だけしか持ったことのなかった手が、いまはこんなに逞しい。
 だけど成長しない手。
 あてのない旅を続ける手。
 友が預けてくれた手。
 友の眠る手。
 握る。
 絶え間ないリズム。
 感じる、鼓動。
 脈打つのはルーファスの血だ。永遠の循環にも疲弊しない血だ。
 ひとときも休むことなくルーファスを歩かせ続ける。
 ときどきこうやって、忘れかけた残像をまとわりつかせ。
 どんな顔だった?
 瞳の色は。髪の毛の色は。笑うときはどんなだった。怒るときは。
 記憶とは残酷だ。どんなに忘れまいとあらがっても遠ざかっていく。
 友の姿はもう残像でしかない。
 あの日、ルーファスの腕のなかで、消えた。
 きらきらと輝く蒼水晶と、冷たい月の光。友もまた光となり、まじりあって、すべてが天高く消えた。
 ルーファスに遺されたものは、
 その名前と、いつかは喪われるだろう記憶と、ひとつの紋章。
 それから、
 友のぶんまで生きるという約束。
 すくった水のように手のひらからこぼれ落ちていく友の記憶。
 けれど友の残像は笑っている。
 それでいいんだよ、と。
 おまえはおまえのために生きろ。
 約束だっていつかは消えてなくなる。気配に振り返ることも、幻を追いかけることもやがてなくなる。
 そして次なる継承の時が来る。
 とまった時の川は、いつ出逢うかもわからない海に向かって音もなく流れていく。
 友の祈りは原初の水のひとしずく。
 やがて海に抱かれる穢れなき蒼。
 ”テッド”
 虚空にむかって、ルーファスはその名前を呼んでみる。


Diminuendo :イタリア語表記の音楽用語。デクレッシェンド。次第に弱く、あるいは精神的衰退。

初出 2006-02-07 再掲 2006-02-27