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#9【カウントダウン】

 今夜の艦内はいつになくざわめいている。
 結局のところみんな、お祭り好きなのだ。これもまた南国気質というものなのだろうか。戦時下だから華やかなお祝いは自粛しようという発想は、群島にはないようだ。
 こんな明日をも知れない世のなかだからこそ、新しい時代に希望を抱こうと笑うのだろう。人とはほんとうに逞しい。どんなに崖っぷちに追いつめられようとも、明日を諦めようとしない。気恥ずかしいくらい、眩しすぎる。
 渡されたジュースのグラスになんとなく口をつけて、テッドはぼんやりと首をめぐらした。その目が、ひとりの女の子にとまった。
 今夜は、笑っている。リタとかいう喧しい少女が中心にいるおてんば軍団にまじって、ケラケラと大声で笑っている。
 浅瀬色の服が鮮やかで、すぐにあの子だとわかった。胸のあたりに大きく、ひょうきんな魚の絵が描いてあるのだ。大きな瞳と、そこからぽろぽろとこぼれおちる涙が印象的で、記憶のすみにひっかかっていたのかもしれない。
 いつだったろうか。たぶん、この船に移ってそう間もないころ。甲板に積まれた木箱に隠れ、ひとりですすり泣いているところにばったり出くわしてしまった。
 クールーク軍による住民の虐殺がおこなわれたナ・ナル島からの避難民であることは、額につけられた三角の証が示していた。悲しい事情は容易に想像できる。
 だが、テッドにとっては関係のないことだった。彼女がひそんでいた場所は、自分にとっても数少ない貴重な居場所であったのだ。先客がいようが、状況がどうであろうが、知ったことではない。
 女の子はテッドに気づき、慌てて目をごしごしとこすった。
 まだ十歳くらいだろうか。しかし、もう幼い子供ではない。誰かに泣いているところを見られるのは恥ずかしいのだ。
 腫れぼったい瞼をすぐにごまかせるわけもないのに、気丈さをつくろって、元気に顔をあげる。目があうなり、よくとおる高い声でひとこと。
「もしかして、見たわね?」
 みごとな牽制であった。さすがである。一人前に、身を守る術を心得ているのだ。
 はじめからテッドには関与する意志など毛頭なかったのだが、それで反対に完全無視をするわけにもいかなくなった。こういう場合どうしてよいものか判断に窮し、とっさに口をついてでた言葉が「……ごめん」であった。
 言ってから、少し後悔した。
 肯定しては、よけい恥をかかせるだけではないか。
 そのとき、目にとびこんできた。とてつもなくひょうきんな赤い魚の絵。にたりと笑っているように見える。へんなの。脈絡もなく、おかしくなった。
 さいわい女の子は気をとり直し、よくまわる口でおしゃべりをはじめた。テッドに涙を見られたことは、ご破算にする気らしかった。話を聞いてやる義務はなかったが、成り行き上、アルドなみに邪険に接するのもどうかと思われたので、いつものごとく関心のないふりを決めこんでみる。
 海鳴りが聞こえる。
 赤い魚が、話しかけてくる。わたしはいつも泣いているの。泣いて、泣いて、たくさん涙を流すの。涙は海になるの。
 魚の想いはなんて純粋なのだろう。まるでお伽噺のようだ。自分の耳にはもう届かない、遠い遠い寝物語だ。
「お兄ちゃんも、いつもひとりだよね」
 その言葉が、テッドを現実に引き戻した。
「……えっ?」
「ごめんね。わたし、ほんとはずっと知ってたの。見てたのは、わたしなの。勝手にかくれがを使ってこめんなさい。いつか、きちんと謝ろうと思ってたし」
 どういう意味だろう。テッドには図りかねた。
 魚の服の女の子は言葉を選びながら、一生懸命に語った。
「わたしね、お友だちなんていらなかった。お父さんがいないのが、悲しすぎて、気持ちがいっぱいいっぱいで、だからずっとここで泣いてるつもりだったの。泣いてたとき、ときどきお兄ちゃんを見たの。すごく寂しそうだなって思ったの。お兄ちゃんは泣いてなかったけど、いつも、ずっと、ひとりぼっちだったでしょう。お友だちがいないのかな、って……そうしたらね、わたし、すっごくお友だちがほしくなっちゃったの。お父さんはもういないけど、がんばらなくちゃって思ったの」
 この子は、なにをそんなに必死で訴えているのだろうか。心に浸透してこない。テッドのどこかが言葉を拒絶している。魚のことばが、わからない。サカナノコトバガ、ワカラナイ。
 赤や黄色の珊瑚礁に遊ぶやんちゃな魚。陽の光が届く蒼い海の似あう元気な魚。
 深海にはけして与えられることのないきらめきだ。きみは、海の底のなにを知っているというのか。闇をかいま見て、その身が光の内にあることを安堵したのか。
「お兄ちゃんと、お友だちになりたい」
 テッドは笑った。あまりにも幼く、愚かなほど浅はかな願いであった。死にたければ、構わないぜ。そう口にしかけてやめた。どうせ言葉など伝わらないのだ。
 魚には笑顔が似あう。涙なんかよりずっと。
 ちゃんと笑えてるじゃないか。テッドは自分でも気づかずに微笑した。そういえば、誰もが今夜は笑っている。酔っぱらいながら、わめきながら、ケンカしながら、笑っている。
 まるで魚の大軍団だ。ひょうきんな顔の赤い魚がわんさかいやがる。
 港に最初の花火があがった。歓声とどよめき。ラズリルの花火職人たちが、群島統一を願って今夜のために準備したのだ。百と八発めの花火を打ち上げるのにあわせて、新しい年が来るという。
 それはこの船とこの世界にいる人々が、そろってひとつ歳を重ねる瞬間だ。
 自分には関係ない。だけど。
 見ているぶんには構わないだろう。
 誰も咎めはしないだろう。
 ノエルが、お祝い用のまんじゅうを配りながら、いっしょになって花火の数を叫んでいた。ひとつ数を数えるごとに、未来が減っていくというのに、そんな憂いはどこにも見せず。みなと同じように笑いながら。
 あいつも、へんなやつ。いちばん狂っている魚だ。
 橙色や黄色や乳白色の光が夜空に躍る。いまので、百。
 誰にも未来などはわからない。それなのに未来への道を数える。不可思議だ。理解不能だ。
 27の真よりもよっぽど得体が知れない。人間なんて。
 どよめきが大きくなる。唱和する。あと三つ。あと、ふたつ。
 その先は未来か、地獄か。
 わからないからこそ、熱狂する。
「……ひとつ」
 テッドは、ちょっとだけ口を歪ませてつぶやいた。
 笑いながら。ふしぎと心、躍らせながら。


初出 2005-12-31 再掲 2006-01-05