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#40【Born Free】

 根性丸は大海原を往く巨大な住居だ。泣こうが笑おうが、船底一枚下は深蒼の奈落が口をあけて待っている。
 このご時世、ここより危険な物件はそうそうあるまい。たしかに家賃敷金礼金食費はタダ同然、だがしかしとんでもないオプションがついてくる。たとえば個室居並ぶ土手っ腹がいつも敵国のターゲットに据えられていることとか。
 船舶搭載用の紋章砲はコンパクトだけれど、威力は絶大である。まともに喰らえば、わずか一発でいとも簡単に海の藻屑となってサヨウナラだ。あわよくば生き残っても捕虜として牢屋にぶちこまれる。そののち形式ばかりの裁判を経て、絞首台でやっぱりサヨウナラ。
 つまり、なにが言いたいかというと――住人は一蓮托生。人種も性別も年齢も職業も目論見もいっさいがっさい関係ないということ。そのうち何割が戦争しているという自覚を持っているかさだかではないが、一丸となって団結しなければ命の保証はございませんよという話はみんな知っている。
 にわかには信じがたいと思うが、これが当方の誇る最強の『軍隊』なのだ。子どもも主婦も戦闘のプロも泥棒も、みな一緒くたになって戦っている。山岳ゲリラの集団が海に拠点を移したのにも似ていなくはないけれど、こちらのスポンサーは一国の王。すなわち、れっきとした国軍である。
 総大将はまだ若い。名はノエル。浅海のような蒼い瞳とまっすぐな金の髪をもつ、年の頃十六、七の少年だ。ガイエン海上騎士団で鍛えあげられただけあって腕っ節はやたら強いが、筋肉のつきにくい体質なのだろう、ややもすると女の子に見える。顔立ちも穏やかで女性的だから、よけいにそう感じるのかもしれない。
 けれどもノエルを見くびってはいけない。彼がヒエラルキーの頂点に立つことを妬む者はひとりもいない。根性丸ではオベルの王、リノ・エン・クルデスと対等なのである。少年は軍の旗頭として立派にその役を務めている。口数はけして多くはないけれど、そのかわり部下に迷いを見せない。寡黙なカリスマと人は言う。
 ぼくもノエルにスカウトされたひとりだ。群島諸国とクールーク皇国とのいざこざに興味があったわけではないが、強い光を秘めた蒼の瞳に魅せられて二つ返事で了承した。戦争に荷担することの大義名分はあとからとってつけたようなものだ。
 当時、ぼくには理由よりも身の置き場が必要だった。狩猟民族特有のひどく狭い社会に慣らされた身体は、共同体から外れて生きることを恐怖としか認識できなかった。どれだけのあいだ、彷徨ったのだろう。仲間のところに戻る勇気も、ひとりで生きていく勇気もぼくにはなく、ただひとつ残された狩人のあかしである弓矢をしっかりと抱きしめて途方に暮れるだけの毎日だった。
 まるで、迷子になった子ども。けれど迷子なら、親が必死でさがすはず。自分にはさがしてくれる親も兄弟もいない。離縁されたからだ。ぼくの村では、血のつながりは仲間のつながりよりも軽んじられる。親子の愛がないわけではないが、掟は絶対なのだ。
 戦争は正義を盾にした殺人行為なのだと、以前のぼくなら非難しただろう。一軍に志願して殺人の片棒を担ぐいまのぼくを、けして許さなかっただろう。
 ぼく自身も驚いている。自分のなかの急激な変化は、なにが原因なのだろうか。自問してもわからない。
 ノエルの下で働き、その答えが最近少しずつ見えてきた。明確ではないけれども、ぼくがこの船に導かれた理由がだ。運命とか宿命とか、善男善女がよろこんで使いそうな安っぽい言葉が、急激に形を成してくるのをぼくははっきりと感じた。
 もしもきっかけがあったとしたら、あの子。
 ――テッドは、はじめて見た瞬間から目が離せなくなった。胸の奥底にわきおこった不可解な衝動を、どう言いあらわせばよいのだろう。
 野生の獣だ。まっさきにそう思った。他者を拒絶し、近づく者には牙を剥く。気弱そうな表情をしているけれど、悲壮なまでの意志を秘めている。迂闊に触れたら命を獲られかねない。
 テッドが一員として迎えられたとたん、よくない噂は電光石火のように広まった。例の幽霊船騒動の直後にひっそりとあらわれただの、軍主の決定には滅多に異議をはさまないリノ王が最後まで渋っただの、得体の知れない紋章魔法を使うらしいだの。吹聴してまわったのは、新入りの偏狭な態度を快く思わなかった連中にちがいない。
 ノエル以外の人間を完璧に無視するテッドはたしかに軍においては異分子だった。ましてや、噂だけが独り歩きしているあの紋章が、ほんとうに禍いをもたらすものだとしたら――獅子身中の虫は排斥されなくてはならない。
 王だけではない。軍師エレノア・シルバーバーグとその参謀しかり、武官相当の地位を得ている女海賊キカしかり、上層部はあきらかにテッドを疑い、監視している。噂は噂にとどまらないというなによりの証拠だ。
 テッドは自ら孤立することを望んでいるようだった。紋章についても追求されても否定しない。知りたかったら自分の目で確かめろと言わんばかりに、あからさまに発動してみせるときもある。そばにいるだけで血管が凍りつくような、身の毛もよだつおぞましい紋章魔法だ。正体はわからなくとも、それを目撃したらただおののくしかない。事実ぼくがそうだった。
 彼はやばいよ。あんまり関わらないほうがいい。親切な人たちはぼくを気遣ってそう言った。
 忠告はもっともだと思う。テッドがじつは人ではないと明かされても信じてしまえるのと同様に。いくら鈍感なぼくでも彼がふつうではないことくらいとっくに気づいている。
 いまわかっている情報から、ある程度の事実関係も容易に仮定できる。テッドが、ノエルにだけは気を許していることがその仮定を確信に変える。
 ノエルだけが特別なのはなぜか。ノエルが他者と決定的にちがう点――真の紋章を持っている。
 もしも事実がぼくの想像したとおりだったら、二人のあいだに、ぼくなどの入りこめる余地はない。理解したいと望むこと自体が傲りだ。
 この戦争だって傲りだ。きれい事などみじんもない。王も、軍師も、海賊も、真の紋章を利用する。いまはまだ、それはこちらの手の内にあるから、群島諸国は弱小でも戦える。クールーク軍が独占する大量破壊兵器、紋章砲に対抗できる唯一の武器だ。その武器は人に寄生する性質を持ち、いまはノエルの左手を拠り処にしている。つまり――ノエルが我が軍の切り札なのだ。だからノエルは利用される。否応なしに、戦争に巻きこまれる。
 正義を貫きたいのならばノエルの悲鳴がきこえないように耳をふさげばいい。
 せめてもの代償にその身元を引き受け、特別な地位を与え、シンパをあつめて身辺を固めさせる。
 リノ、そしてエレノア、あなたがたに罪の意識はおありか。猛烈に、問いただしたい衝動に駆られる。だが、すんでのところで踏みとどまる。咬みつくのは愚かだ。指揮官は一個人の判断のみで事にあたっているわけではない。千篇一律の道徳を訴えたところでどうこうできるものではない。
 ぼくにたいした力はないのだと思い知らされる。歴史を動かすのはぼくに与えられた役目ではない。
 無力感に苛まれるとき、ぼくは甲板にあがって星を見る。
 だれかが言った。星にはそれぞれ名があって、唯一無二の個性がある。星はみな似たり寄ったりに見えるけれど、その星だけが果たしうる特別な力を内包するのだ、と。使い古されたようなイデオロギーだとそのときは笑ったけれど、あながち間違いでもないのかもしれない。
 もうすぐぼくは、ぼくに与えられた本来の役割を見いだせそうな気がする。
 少なくとも軍に所属するという最初の判断は誤りではなかった。本能というのがおこがましいのなら、運命の女神さまに手柄を譲ってやってもいい。重要なのは、いま自分がこの場にいるということだ。
 ぼくの意識はもはやテッドから反らせない。たとえ彼にとってぼくが取るに足りない存在だとしても、それはそれで構わない。
 愚かしい執着だと笑うか? まあいい。軍に迷惑をかけるつもりはない。後ろ指を指されても結構。
 ただ、何故だと問うのならこう答えておく。
 数多の野生動物を狩ってその命を喰らってきた人間の、直感だと。
 テッドは悲鳴をあげている。寂しいと、だれかたすけてと叫んでいる。
 牙の奥から漏れる、その声がきこえるのは、ぼくだけだ。


初出 2007-09-20 再掲 2009-01-10