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終章 夜明け

 階下からイェルツ・ルターの鎮魂曲がきこえてきた。カレッカの虐殺事件から七年めとなる追悼式典で演奏するために宮廷合奏団が練習しているのだ。今日はリハーサルを行っているらしく、指揮者がダメ出しをしない。
 式典の規模は年々縮小し、今年は戦時下のために参列者はさらに減少する見通しという。北方警護の首将であるカシム・ハジルを来賓とするわけにもいかないが、形式だけであっても必ず執り行うという真摯な姿勢は国内外へ向けての宣伝活動となる。
 バルバロッサ皇帝は音楽にも造詣が深く、春夏秋冬を通して宮廷内に音色の絶えることはない。合奏団の団員は徴兵を免除され、平時であれば年二回の巡業と国外公演をこなす。非常時であるからこそ音楽は重要である。それは疲れた人々の心を癒やし、未来への希望を語りかける。
 テッドはぼんやりと聴いていた。ルターの曲はどちらかというと好きなほうだ。
 太陽暦455年春、叛乱軍は前リーダーであるオデッサ・シルバーバーグ死去の報と、新たなる指導者としてティル・マクドール就任の旨を正式に公表した。それ以前に周知の事実とされていた事柄ではあったが、この実質的な宣戦布告によって帝国内部も大きく揺さぶられることとなった。現時点で勢力は完全に拮抗しており、どちらに転んでもおかしくない状況であった。
 ロリマー領を占拠されたことは軍の想定よりも大事にはならなかった。しかしネクロード将軍が敗れたことと、ロリマーの城塞を守っていた兵士が誰一人として戻らなかったことは戦況に暗い影を落とした。行方不明者の家族も団結して騒ぎはじめたことから、グレッグミンスター城下の異様な空気は極度に張りつめた。
 マクドールの屋敷で行われた会議に加わったあとすぐに竜洞騎士団領に出発するのだろうと待機していたのに、呼び出しはまったくかからなかった。なにが早急に検討して話を進めましょうだ。性急に事を進めたかと思えば、次の段階ではのらりくらりと引き延ばす。ウィンディのやり方はいつもそうだ。振り回して苛立たせ、じりじりとしているテッドを見て嘲笑する。どちらかといえばこちらは軽快にぽんぽんと、できたらあまり頭を使わずに進めていきたい性分だから、考える時間を過剰に与えられるとリズムが狂って自滅してしまう。
 新緑の季節が終わって雨期がおとずれ、重苦しい天気に気分まで押しつぶされそうになり、食事の量がまた減った。風呂にある姿見に己を映すとがりがりであばら骨が浮きあがり、情けなくてしょうがなかった。ジェンマに会いたいと思った。しかし門より向こうには行かれない。
 バルバロッサから用があるから来いと呼び出されたのはそのころだ。
 鎮魂曲の最後の小節がとけるように消える。テッドは静かに目をあけた。出立の準備はほぼ完了していたが、まだやり残したことがあった。
 先日、ウィンディからようやく通達があった。出発は明朝。すでに秋もかなり深まっていた。

 バルバロッサ皇帝とはその一回だけ謁見した。やはりウィンディが城を空けている時で、テッドは近衛隊副隊長を通じて謁見の間に呼び出された。むかしティルが興奮ぎみに語っていたとおりのぴかぴかに磨かれた大理石の床に緋色の絨毯、ずらりと並ぶ銀の燭台、そして一段高いところにある玉座とそこに座る黄金の皇帝がはなつ存在感に圧倒された。宮中庭園で話をしたときとも、会議場で見たときともまったく印象がちがう。孤高ともいうべき気高さと天下無敵の人間像。身体の内よりわきあがる畏怖に震えながら深々と頭を垂れ、覇王の前にひれ伏した。
「竜洞騎士団領へ赴くそうだな」
 バルバロッサは穏やかに言った。ウィンディか、そこの副隊長に聞いたのであろう。
「はい。ですが、時期はまだ」
「うむ。同行の兵たちがそなたを守ってくれよう。安全であるとは言いがたいが、くれぐれも無茶はせぬように」
「ありがとうございます。ご期待にそえるよう、努力します」
 公の場なのでさすがによそよそしさを感じるねぎらいだが、いやな気はしない。ジェンマに手を握られながらテッドが感じたあたたかさは、皇帝の意思による守りの天蓋だ。ぼろぼろの状態にあった自分を救った厚意を信じ、いまはそれに委ねたいと思った。
 皇帝は副隊長に人払いを命じた。謁見の間にはテッドだけが残された。
「アムリット・ベラスケス」と皇帝は呼んだ。「おまえが何者であるかは聞かぬ。聞けばおまえは苦しむであろう。おまえがもしも、わたしが考えたとおりの人間であったならば、わたしはおまえに謝らなければならない。ウィンディの振る舞い、まことにすまなかった」
「おそれながら、なんのことだか……」とテッドは言いかけた。
「よい。黙っておれ。ウィンディがおまえに何をしたかおおよその見当はついておる。わたしは持てる力を使い、いまだけその呪縛を解くこともできる。しかし、考えた。それはせぬ。一時の解放になんの意味があろうか。おまえをさらに苦しめるだけのことだ。それに、おまえ自身にも呪縛を打ち破る力がある。そうであろう、生と死を司る紋章の縁者よ。わが竜王剣がびりびりとおまえに呼応しておるぞ」
 テッドは硬直して、思わず両腕で自分の身体を抱いた。
「いちど結ばれた縁は果てしなく続く。おまえを苦しめているものも、おまえを守るものもその紋章である。そうであろう。ならば信ずるよりほかないではないか。それともおまえは縁を否定するか。うむ、それもよい。しかしそのような人間は価値がない。わたしは傲慢であるからな、価値のある人間だけを愛するのだ。ウィンディとてしかり、あれはけして失われてはいけないものだ。価値のある人間だ。わたしは何があろうとも彼女を愛し、守る。顔をあげなさい、アムリット」
 怯える茶褐色の瞳がバルバロッサに向けられた。そこに映っていたものは絶望の色にも見えた。皇帝は厳しく諭すように問いかけた。
「おまえはどちらを選ぶ。価値のある人間になるか、それとも苦しみより逃れるためその運命を手放すか。答えよ」
 テッドは必死に唇を動かした。
「逃げないと……おれはもう逃げないと、誓いました。自分の価値なんてわかりません。そんなものないかもしれないし、なくったっていいです。でも逃げるくらいなら死んだほうがましだ」
 それには魂を千切られるような痛みをともなった。彼はほとんど悲鳴のように訴えた。「死んだほうがましなのに、死ねない。死なせてくれない。おれは死にたくない! ぶざまに死んでたまるか。ソウルイーターはこの国のものにはならない。あなたにも渡さない。おれは根の村の最後のひとりだ。あなたが赤い月を背負うように、おれにだって誇りがあるんです。百万と百のちがいがあったって、おれはあなたと同じように、守らなきゃならないものがある。ちっぽけな自尊心だって笑うならそうしてください。おれは、この命にかえても、ぜったいに……!」
 バルバロッサはすっと手をあげた。「よく、わかった。おまえの決意、しかと受け取った」
 テッドは肩で荒く息をした。それはけして口にしてはならない、禁じられた言葉だった。彼は支配の紋章に勝ったのだ。
 感情がこみあげてきて、テッドは大きく喘いだ。怒りなのか悲しみなのか、それとも悔しさか。複雑すぎてわけがわからない。
 バルバロッサは目を細めて、口調をやわらげた。
「わたしがあれに騙されていると罵る者もいる。そうではない。だが、わたしは弁解しない。わたしの戦う理由はあれと出会ったことによって確かに変わったのだからな。おまえも人を愛すればわかる。愛した女を守るために戦うことの意味もな。わたしは目を瞑ってなどおらぬ。しかと目を見開いて戦っている。そう、命をかけて戦っている。すべてはウィンディのため。この身を捨てる覚悟もとうにできている。
 わたしはおまえを救うことはできぬ。どのような紋章を使っても、それは不可能だ。期待を持たせるようなことは、するまい。だが、最後にどうしてもおまえと話がしたかった。おまえともっと、話がしたかったのう。茶会は愉快であったな。ここ最近ではいちばん楽しかったぞ。ジェンマもおまえのことを気に入ったようで、ほんとうによかった。おお、そうだ。クラウディアの薔薇をきれいだと言ってくれたな。うれしかったよ。クラウディアはいつまでもあの場所に咲くだろう。それからウィンディも。わたしがいなくなったあとも、永遠にな」
 薔薇愛でる皇帝は黄金の玉座でひっそりとほほえんだ。赤月帝国第十七代皇帝、バルバロッサ・ルーグナー。後の世に『最後の皇帝』と呼ばれたその男は、けして他者に見せることのない剛と柔の本質をテッドの前に明かした。その想いは雨水が大地にしみこむように静かに深いところへ向かい、やがて彼の道を決めることとなる。
 わたしはおまえを救うことはできぬ。だが、おまえは救われるであろう。
「ひとつだけ教えてくれぬか。おまえの名前はなんという」
「テッド。おれのほんとうの名前……テッドです」
「そうか。おお、まことであったか。祝福されしその名、心に抱いて往くぞ。テッド」
 バルバロッサは深くうなずいて、「ありがとう」と言った。
 あふれるものを押しとどめることはできなかった。テッドはしゃくりあげ、皇帝の目前で額を床につけて嗚咽した。
 故郷を喪ったあの日以来、三百年のあいだずっと声をあげて泣いたことなどなかった。涙の記憶は忌むべきものと己にいましめて、よけいな荷物と同様に道に捨ててきた。いつの間にか泣きかたすら忘れて、自分は一生泣けないのだろうと諦念すらしていた。
 バルバロッサはその場に立ち、慈愛に満ちた双眸でテッドを見下ろした。剣をすっと胸元に掲げる。
「わが真なる覇王の紋章よ。なんじの同胞に応えん。ここに在らるる生と死とその眷属に、そのこころ優しき縁者に温情と安らぎを与えたまえ」

 本の整頓やら生活道具の片づけやらで半日ほど費やしたが、書斎はすっきりとした。それからジェンマにもらった紅茶をいれて飲んだ。白詰草の茶器は洗って、厨房の棚へこっそりひそませておいた。使いこんだ毛布だのクッションだのは馬小屋へ運んで引き取ってもらったし、テラリウムも研究所の机に戻した。立つ鳥跡を濁さず。いつも遂行している簡単なルールではあるけれど、今回だけは例外をひとつだけ認めた。紅茶の入った丸い缶を引き出しに収める。
 これは、おれがここで生きていたあかしだ。思い悩んだことも苦しみ悶えたこともぜんぶこの丸い缶に詰めこんで、置いていく。戦いが終わったらジェンマが気づいてくれるだろう。あの子はウィンディと戦ったと、そう思ってくれるだけでいい。
 赤月の伝統衣装に着替え、フードのついたコートを羽織った。もうここへ戻るつもりはない。テッドは最後に一度だけ書斎を見回して、ドアを閉めた。
「あら、もうしたくをしてしまったの? せっかちね」
 ウィンディは研究室の机で目を丸くした。テッドの旅姿を上から下までながめ回す。
「弓は持って行くのね。いいのかしら。それであの坊やを撃てって命令しちゃうかもしれないわよ」
「いい。これは武器っていうよりおれのお守りみたいなもんだ。それにティルがのこのこ現れるって保証はないし」
「必ず来るわよ。そのために念入りに下準備をしたんですもの」
「あんた、いつか『翼と鱗の世界』に殺されるぞ」
 ウィンディはフフッと笑った。「その前に門の入り口をふさいでこっち側へこられないようにするわ。それに、いつかなんて永遠にこない。門の紋章とソウルイーター、ふたりでこの世界を……」
「やっぱり」とテッドは言った。「なんでソウルイーターが必要なんだってずっとふしぎに思ってた。やっとわかったよ。あんたは円の紋章がもつ『世界』の力を破壊できる唯一の紋章がソウルイーターだって言ったけど、そうじゃない。あんたは滅びにあこがれてた。だから滅びをつかさどるソウルイーターにそばにいてほしかったんだ」
「ふっ、ふはは、はははは!」
 ウィンディは首を左右に振り、頬杖をついた。テッドから目をそらし、あさっての方向を見る。「そうね。そうかもね。あんたの言う通りかも。だから何? あたしが寂しがりやだとでも言いたいの。ばかばかしい。勝手にそう思ってりゃいいわ。どっちみち、もうすぐ幕も下りる。分析してくれなくったって終わりはいっしょよ」
 寂しがりやなのは自分も同じだ。同じだから理解ができた。そうでなかったら誰がウィンディなどに同情するものか。哀しい女だとあわれむものか。
 テッドは研究室を横切って、出口へ向かった。歩きながらウィンディに「でかけてきていい?」と訊いた。
「夜は出歩けないわよ。憲兵が見張ってるから」
 ドアに手をかけて、返答する。「街まで行かせろなんて言わないよ。会議場の前の広場で夜景を見るくらいかな」
「あっそ。なら好きにしたらいいわ。あたしもこのあとバルバロッサのところへ寄るから、もう別行動でいいわね。明け六つの鐘で落ち合いましょう」
「馬車の待機場な。わかった。あんたもいちゃついてないで、少しは休めよ」
 それきりテッドは振り返りもせず、足早に階段を駆け下りた。夜半を過ぎているので館内に人の姿はない。正面玄関に見張りの近衛兵がふたり立っていたが、テッドを見るや敬礼して扉の鍵を外してくれた。
 上弦の月が天空にあった。今夜は晴れていて雲もなく、星がまたたいている。地面の温度のほうが空気よりも先に下がり、冷気は地面より伝わってゆく。雲があれば暖かい空気の流出を妨げるので気温の低下は少ないが、風が弱くよく晴れた夜は放射冷却が起こり著しく気温が下がる。息を吐くと白く湯気のようにただよった。
 城内はよく整備されているし、一定間隔にある石灯籠にはオイル・ランプが設置されているので足下に不安はない。夜間は門を閉ざしているため警備の人数も少ない。一度も呼び止められることなく広場までたどり着き、そこにあったベンチに腰をおろした。
 グレッグミンスターの市街が宝石のように輝いていた。いつも部屋から眺めている夜の風景と同じはずなのに、光の数が何倍にも増したように見えた。ここにあるひとつひとつが、誰かが灯した明かりだ。人がいなければ明かりは灯らない。黄金の都を浮かびあがらせる無数の光はすべて人の手から放たれたものだ。
 歳をとると涙腺が弱くなるらしい。テッドは袖口で顔を拭った。謁見の間で一生分の涙を一挙放出したはずなのに、残党がしつこく残っている。子供のころの自分は泣き虫だった。男の子なんだから泣くなと祖父によく叱られたものだ。そんなことだけは鮮明に憶えている。三百年たっても本質はまったく変わっていないのかもしれない。けれど、それも今夜で終わりだ。夜が明けたらもう泣かない。
 ジェンマから進むべき地図を与えられ、バルバロッサからけして消えない光を賜った。これで自分も明かりを灯すことができる。その方法を親友は許してくれないかもしれないけれど、テッドが考え、決めたことだ。明かりを目にすれば親友もきっと気づく。それが誰の灯した明かりであるかを。
 怖くない。いや、怖い。怖くない戦いなどどこにもない。ティルはこれから数多の恐怖を経験するだろうけれど、テッドが見守ることはおそらくできない。けれど、親友を信じている。ティル・マクドールは力強く歩んでゆく。
 それから長い時間、テッドは夜を見続けた。やがて東の空が白みはじめ、星々のまどろみを消し去っていった。黎明にどっしりと横たわるトランの大地と、そこを踏みしめてきた己の足跡がはっきりと見えた。
 中央広場の瓦斯灯がひとつ消えた。そしてまたひとつ。そこにいる人の手が幸せでありますように。テッドは祈り、暁を胸にしまって立ちあがった。

流水のバスティーユ 完