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掌編 ぬくもり

「いらっしゃいませ」
 カランと鳴ったベルの音にジェンマが顔を上げると、客の女性は申し訳なさそうに「まだ大丈夫ですか」と聞いた。開いた扉から木枯らしが吹き込んで、飾ってある民芸品の人形がカタカタと踊った。秋の日はつるべ落とし。ぼんやりしているあいだにすぐ日が暮れてしまう。
 近くにある道具屋などはそろそろ閉店する時間なので急いで走ってきたのだろう。肩で息をしている。コートも着ずにマフラーだけで、足は突っかけ。手には財布をそのまま持っている。
「はいはい、大丈夫ですよ。うちはここに住んでるからね、閉まっていても呼び鈴を鳴らしてくれたら、寝てなきゃ応対しますよ」
 女性はほっと胸をなで下ろして「よかったあ」とほほ笑んだ。「あした大切なお客さまがいらっしゃるのに、うっかり紅茶を切らしてしまったんです。さっき気づいて、もう慌てちゃって。あはは」
 ジェンマはカウンターの奥から出て、商品棚の前に移動した。小さい店だが立地条件がよいので固定客もすぐついてくれた。女性もそのひとりである。トランの英雄ティル・マクドールの屋敷で留守を任されている、クレオという名の別嬪さんだ。
 マクドール邸はこのあたりでいちばん大きい屋敷だが、いま住んでいるのは彼女だけである。ティルの父親であるテオが戦死したあといったんは競売にかけられそうになったが、テオの部下だったアイン・ジードが生前に根回しをして、誰の手にも渡らないようにしたという。
 いまのあるじは首都を離れていると見えて、近くで目撃されることはない。グレッグミンスターにはいまだティルに悪感情をいだいている者も数多くいて、ここにいても愉快なことばかりではないだろう。歳もまだ若く、人生はこれからである。大統領の座におさまるよりは喧噪を離れて自由に暮らしたほうが少年のためだ。
英雄が生まれ育った屋敷は革命のシンボルとなって、遠くからも観光客が訪れる。中に入ることができるのは大統領府の人々だけだが、聞くところによるとなごやかな集会場になっているらしい。偉い肩書きがついていてももとはみな解放軍の一員で、同じ釜の飯を食った気さくな連中だ。
「レパント大統領が来られるのかい?」
「ええ。なんでも、都市同盟からどなたかいらしてるみたいで。ここだけの話ですけれど」クレオは声をひそめた。「お忍びのお客さんみたいなんです。だからうちにお泊まりいただくことになったの」
 ジェンマはそうかいと言って顔をくもらせた。「あの国もざわざわしはじめたね。ふう、平和になったと思ったらもうこれだよ。いつになったらバナー街道を整備してくださるんだろう」
 クレオは弾かれたように笑顔になった。「それでしたらもうじきですよ! ちゃんと大統領に進言して、優先するというお約束もいただいていますから。これを機に、都市同盟とも仲よくできるといいですね」
 まったく、この人たちは。ジェンマはやれやれといった顔で苦笑した。堅苦しいしきたりがないというのはこれほどまでに自由なのかと感心してしまう。君主がいない共和制になったことでトランはこれからますます苦労するだろうが、元気な若者がこの国を引っ張っていくのならそれもよいと思う。
「さて、大統領なら特別なお茶にしないとね。ちょうどファレナから最高級の紅茶が入ってきたばかりだよ。ちょいと値が張るけど」
「あっ、それにします! お金はレパントさまに請求するからへいき。えへへ」
 クレオはテオ・マクドールの部下だった人で軍の出身だが、いまは民間人に戻る修業をしているという。逆ならまだ話もわかるが、ひょっとしたら彼女の言うそれは花嫁修業という意味なのだろうか。適齢期なのにまったく男っ気がないのが心配だ。早急に見合い相手を紹介してやらねばなるまい。心の中のやることメモに書き留める。
 透明なガラスの壺から茶葉をすくって計量し、袋につめる。お茶の説明を一枚一枚手書きで書いた紙をそえて手渡す。
「もうひとついただいていこうかしら」とクレオは言い、商品棚をきょろきょろ物色しはじめた。常時三十種類ほどの茶葉を取り扱っているので、迷った客には店主おすすめの茶を味見してもらう。
「どれか飲んでみるかい?」とジェンマはうながした。「よかったらそこにお座りくださいな」
「いいんですか? ご迷惑じゃない?」
「どうぞどうぞ。味見して選んでもらうのがいちばんですからね」
 店には喫茶のために四人がけのテーブルがひとつと、カウンター席が三つある。広さの関係でこれが限界だが、味見だけなら立ち飲みもできるのでじゅうぶん回せる。窓の外は中央広場の緑。よい物件に巡り会ってほんとうによかった。
「じゃ、お言葉に甘えます」クレオはカウンター席に腰掛けた。「ふだん飲みの、お小遣いで買えるくらいのでおすすめはありますか」
「お客さんはグリューワインのスパイスを入れるのがお好きでしたよね」
「あっ、覚えていてくださったんですか」ぱあっと表情が明るくなった。「そうです。量り売りのスパイス屋さんで売ってるの。ワイン用だから変かなってわたしが言ったら、すてきだってほめてくださいましたよね。ほっとしました」
 その話を聞いてこの人だと確信したのだから、もちろん覚えている。ジェンマの使うスパイスもその店で買っていた。よく使うのはオレンジだが、アムリットにごちそうしたのがたまたまリンゴだったので、彼はぽろりとクレオの話をしたのだった。
 最近になってジェンマは彼の本名も知った。いつでも待っているとゆびきりげんまんをしたのだが、その約束が守られることはもうない。訃報を聞いたのは戦争が終わってからだ。生きていてくれると信じていたから、いつか来る大切な客のために思い出の紅茶も残してあった。いまも手がつけられないままジェンマのもとにある。それから餞別に渡した缶も、城の引き出しからみつけて懐にしまって帰った。
 バルバロッサもこの世を去り、クラウディアの墓に並んで手厚く葬られた。ジェンマはまたひとりだけ残されてしまった。しかし落ち込んだりはしない。大切なものはまだ残っているからだ。
「それじゃあ、スパイスを入れても騒がしくならないようなお茶にしてみようかね」
 養豚場の紅茶に性質がとても近い、クールーク地方のペコーを選んでポットに入れた。熱湯をそそいで蓋をし、手作りのティーコージーをかぶせて蒸らす。砂時計をひっくり返し、カップにも熱湯を入れてあたためる。
 そのときドアベルが鳴り、大荷物をかついだ老人が店に入ってきた。
「おつかれさま」
 老人はジェンマの編んだ毛糸の帽子をとってクレオに会釈し、持っていた古めかしい鉄の棒を壁のフックにかけた。瓦斯灯の着火棒は骨董的価値が高いので、使わないときは見えるところに飾って店のシンボルにしている。
「ありがとう」と老人は言って、狭い階段を二階に上がっていった。二階は二部屋あり、ひとつはジェンマの個室、ひとつは老人がたばこを吸って休憩する部屋だ。彼は仕事を終えると部屋に鞄と脚立を置き、窓から広場をながめて一服してから家に帰る。
 ジェンマは老人のためにもうひとつポットを用意し、同じ茶葉をつまんでいれた。やわらかい湯気が老女を包む。一日のうちでもっとも穏やかな時間であった。

                       終