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七 牙城―バスティーユ

「入っていいかい?」
 研究室との境にあるドアがノックされた。上半身の中心線からちょうど半分がこちら側にはみ出していた。はじめから開いているのだから勝手に入ってきてもよいのだけれど、お肉がむっちりとして背の低い老女はこの階のしきたりに明るくなかった。
 横になっていたテッドはのろのろと頭をもたげて訪問者を確かめた。動くのがひどく億劫だ。
「どうぞ」
 その合図でジェンマはぴょこんと敷居をまたいだ。珍しい客だ。今日は見慣れた制服を着ていない。エプロンのかわりにあたたかそうな毛糸のショールを羽織っている。ワンピースはシンプルな茶色のウールで、同じ色のタイツを履いているためにムササビ感がさらにパワーアップしている。ありきたりで地味だが、彼女にはよく似合っていた。しかし最初は正直誰だかわからず、たまに来る物品配達の係が変わったのかとテッドは思った。
「ふうん。ここがあんたのお部屋かい。はあ、どえらいことだわ、本で床が抜けちまうんじゃないかね」
 ジェンマは物珍しそうにきょろきょろと書斎を見回した。どうやらこの部屋に来るのは初めてのようだ。普段は皇帝付きのため、主館には用事がない。たまに空中庭園を歩いているのを遠くから見るだけだ。彼女を味方につけようと思ったのははじめだけで、いまはその気力も残っていなかった。
「ウィンディさまの書斎です。おれは単なる居候だから」
「あの人も居候だろう。そういや、しばらく見ていない気もするね。派手なおしゃれをして諸国漫遊かね」
 ウィンディに対してあまりよい印象を抱いていないらしく、ジェンマはしばしばそのようなきつい物言いをする。嫌悪しているだけではなく、隙あらば化けの皮をはいで失脚させたいと思っていそうだ。
「近ごろお忙しくて」とテッドは濁した。確かにここ半年ほどは帰ったと思えばまた出て行く。黒騎士ユーバーを従えて南方のロリマーあたりを行き来しているのだ。ユーバーには汚職官吏のカナンが腰巾着のようにくっついているので、さすがにウィンディもテッドを同行させたりはしない。
 カナンは近衛隊のもと隊長副官で、テッドが清風山でソウルイーターを発動させたのをウィンディに密告したその人である。上司のクレイズもろともどこかに左遷させられたと思っていたのに、ちゃっかりと座り心地のいい席に納まっている。コネの活用以外に能がないクレイズよりは若干使い道があるだろうが、有能な帝国兵がどんどん離脱していく中で奴が脱落しないのは悪夢としか思えない。
 ジェンマが突っ立っているので、席をすすめなければとようやく思い至った。「どうぞ」と空いている椅子を示す。何をするにも気だるくて思考もうまく回らない。
 ジェンマは聞こえなかったかのように、ドア付近にある小机の前で腰を屈めた。マホガニーの天板の上に置いた小さなガラスケースを興味深そうに眺めている。
「かわいいわね、これ。箱庭みたいだわ」
 完全に密閉されたテラリウムだ。苔とシダを育てている。ウィンディがどこからか持ち帰った、おそらくは土産物だろうと思われる品物だ。直射日光が当たるとよくないと思い書斎に移してあった。
「でも、変だね。お水をどうやってあげればいいの」
「ああそれ、水も世話もいらないんです。中はいつも湿っているので、手をかけなくてもだいじょうぶ」
 もとはといえば温暖な国々から観葉植物を運ぶために交易商人が発明した技術だ。封じ込める際に適度の水分を与えてあり、それが乾かないうちは枯れることはない。ガラスケースには出口がなく、蒸発した水分は葉の表面やガラスの内側で結露し、冷えると滴って土に染みこむ。この循環によって植物は生育できるのだ。
「へー。よくそんなしくみを考えつくもんだ。しかし、あれだね。不憫だね。外の世界も知らずに死んでいくなんてねえ」
 ジェンマは床に放置された本の山をぴょこぴょこと避けながら椅子に腰掛けた。じろじろと住人を見る。寝間着を兼用している部屋着は三日も着たきりで、その間ずっと顔も洗っていなければ櫛も通していない。安楽椅子のまわりは生活感が満載だし、彼女はきっと几帳面な性格だから小言のひとつもよこすつもりだろうとテッドは覚悟した。
「あんた、なんだかえらく痩せたねえ……」とジェンマはつぶやいた。「ここの子たちが、あんたが食事をしないって心配してたよ。けど、それどころじゃなさそうだね。どうしちまったんだい。すっかり病人じゃないの。ほっぺたもげっそりこけて。ねえ、具合が悪いんだろう」
「いえ、どこも悪くないです。ちょっと、疲れているだけで」
 ジェンマはため息をついた。「そりゃ、食べるもの食べてなきゃ疲れるわ。病気じゃなければ、悩みごとかい。ウィンディさまにいじめられてるとか? どうせ留守なんだろ。あたしにチクってもいいよ」
 顔を寄せてくる。テッドは無言でかぶりを振った。話をそらそうと巡らない頭で考えて、重い口を開いた。
「あのう、それよりジェンマさんがこっちにいらっしゃるなんて珍しいですね。制服も着てらっしゃらないし」
 ジェンマはぽんと手を合わせた。
「ああ、用事を忘れてた。へへへ、歳を食うと忘れっぽくなるね。バルバロッサさまからあんたへの伝言をつたえにきたんだよ。今後、空中庭園への立ち入りを禁ずるってさ」
「えっ」テッドはぽかんとして聞き返した。「なんで」
「うーん、理由までは聞かなかったなあ。でも、あんただけじゃないよ。あたしもさっき、お暇をいただいちまってね。庭師や専属コックも解雇されちゃったよ。まあ、遅かれ早かれこうなるとは思っていたんだけどね。来ちまったものはしょうがない、従うさ。みんなも納得してる」
「そうなんですか」
「皇帝のおそばにいて叛乱軍に攻め込まれたら、身内と見なされて殺されるかもしれないじゃないか。敵も気が立ってるだろうし、革命の最後にはよくある話だよ。あんたも気をつけな。こっちも女の子は辞めさせられるみたいね。あぶないからしかたがないね」
「そんなに逼迫してるんですか」
「いまさらうそをついてもしょうがないよ」
 テッドはうなだれた。テオ・マクドール将軍の鉄甲騎馬団が打ち破られてから帝国軍は暗澹としたムードを抱え込むようになっていた。大将軍を喪った騎馬団は瓦解し、指揮官の双璧だったアレンとグレンシールは叛乱軍に捕らえられた。半年前のあの日、勇ましく出立していった兵士たちは半分も戻ってこなかったのだ。
 この国ですべてが順調なのはウィンディとその一味だけだ。最近になって存在を誇示しはじめた黒騎士ユーバーは、どうやら普通の人間ではない。ウィンディやテッドと同様、真の紋章によって長い時を生かされた異形の存在らしかった。居場所を定めることはないようでグレッグミンスターでも見かけたことはないが、よくない噂は耳を塞いでも聞こえてくる。ウィンディが言うには、テッドとは隠された紋章の村でいちど会っているらしい。
 おぼろげな記憶ではウィンディはひとりで村を襲ったのではなかった。村人を惨殺し、火をつけた実行犯が複数いた。夢にまで出てきて三百年もテッドを苛んできたのに、姿形の記憶はすっぽりと抜け落ちている。おそらくは心を守るための自己防衛反応であると思う。幼いころのテッドは、細部を忘れることで極限の恐怖に耐えようとしたのだ。
「お茶を飲まないかい」とジェンマは言って、ショールの下から丸い缶を取り出した。今日の缶には馬の絵ではなく、真っ赤な苺が描かれている。どうやらのど飴の空き缶のようだ。テッドはぎこちなく笑ってうなずいたが、立ち上がろうとしたところを止められた。
「いいよ、あたしがやるから王様のように座ってな。どうせ動くのもしんどいんだろ。茶道具があるようだから勝手に使わせてもらうよ」
 よいしょ、と重そうな尻を持ち上げて脇机に向かった。この頃は茶を入れることもできなくて、水は湯沸かし用のポットに汲みっぱなしだ。アルコール・ランプの燃料も蒸発しかけている。
 ジェンマは手際よく燃料を足してランプに火をつけた。五徳を置いてポットを乗せる。
「ふうん、いい茶碗だ。ちゃんと二客あるのもいいね」
 白詰草のカップを見て、感心したようにジェンマは言った。「これは絵付けも繊細だし、飲み口が薄くて口当たりもよさそうね。けど白詰草とはちょいと不吉だね」
「えっ?」
「白詰草の花言葉は、『わたしを思って』『約束よ』。だからそいつが破られると『復讐』になる。復讐しようなんて思い詰めるのは、愛する人の裏切りにでも遭わないとなかなかね」
 テッドは小さく唸った。二客のうちひとつは医者のシンをもてなすために自分で置いたものだ。シン・グレイソンはまさしくこの場所で、白詰草のカップで毒を飲み、絶命した。テッドの秘密に触れ、魂を近くに置こうとした報いである。
 シンはテッドに寄りそいすぎた。忠告した時点で手を引けばよかったのに。紅茶に猛毒を混入させたのはテッドだ。それがウィンディの指示だったのか己の意思によるものだったのか、どちらかに決めようとすると息が苦しくなる。毒薬の瓶は確かにウィンディから預かったし、誘導もあった。しかしテッドの意識ははっきりとしていて、毒殺の手順もちゃんと自分で考えた。
 今でもカップを見ると感情が鈍麻する。罪悪感が強すぎて片づけることもできずに使い続けている。いわば枷のようなものだ。そしてそれは、暴発のトリガーにも容易になり得る。
「う……」
 視界が狭まるのを感じた。無用な追体験であった。代謝が急激に鈍り、冷や汗が流れる。頭ががんがんして身体を支えていられない。
 ガタン、という衝撃音に驚いてジェンマが安楽椅子を向くと、テッドが上半身から床に崩れおちていた。顔面蒼白で、のぞき込むと目は開いているが焦点が合っていない。
「ちょっと、あんた! アムリットさん!」
 抱き起こして安楽椅子に寝かせ、横向きにする。嘔吐したとき喉に詰まらせないようにするためだ。頬に触れるとひやりと吸いついた。ショック状態で血が巡っていない。意識はかろうじてあるようだ。
「す、すみません。貧血、みたい、で」
「ふう。こりゃよっぽどだね。医者を呼んでこようかね」
 テッドはぶるぶると首を振って拒絶した。「医者はだめ、だめです。ほんとにだいじょうぶですから、呼ばないでください。少し寝たら治ります」
 ジェンマはうーんと腕組みをして、足もとのすきまに腰掛けた。毛布を胸元までかけてやり、様子をうかがう。呼吸は乱れていたが、だんだんとリズムを取り戻した。
 お湯が沸いてしゅんしゅんと湯気が立ちのぼった。ジェンマはランプから五徳ごとポットをずらし、さてどうしようかと考えた。
「お茶、どうしようか」
「いただきます。喉が渇いた」
 テッドは弱々しいがはっきりと答えた。ジェンマは缶を回し開けて、茶葉を白詰草のポットにつまみ入れた。スプーンは使わず、豪快に手づかみで。もうひとつの缶を懐から出し中身をぜんぶ入れてから、お湯をドポドポと注いで蓋をした。
 紅茶の芳醇な香りに、リンゴとシナモンの甘酸っぱい香りが混ざった。つられるようにテッドは目を開けた。目の前にジェンマの丸いおしりがある。びっくりした。
「いい香り」
「落ち着いたかね。よかった。バルバロッサさまはお堅いからこういうのは邪道だって敬遠されるけど、あたしはあんがい好きなんだよ。美味しく飲んでなんぼだよね。風邪薬にもなるよ」
「アップル・パイのにおいです」
「ふふ、鼻がいいじゃないか。乾燥させたリンゴとシナモンを贅沢にドバッとね。あたしは友達といつもこうして飲んでたよ。胃が弱ってるだろうから少しうすめにしといたよ、はい」
 白詰草のカップをテーブルに置いた。テッドはちらりと目をやった。「少しさましていただきます。猫舌なもので」
「ああ、知ってる知ってる。いいよ、ゆっくりで。あたしはせっかちだからお先にいただきます。うん、おいしい。あったまる」
 目を閉じるとなつかしい感じがした。マクドールの家でクレオがいれてくれた紅茶の香りだ。なんだかほっとする。安堵したと思ったら目頭が熱くなって、テッドは慌てた。
「いいんだよ、隠さなくて。感情を殺すことはないよ」
 ふいにジェンマは声を低くした。「あんた、かなり抑圧されているね。ひょっとして洗脳かい? あの女狐に」
 突然のことですぐには返せなかった。緩みはじめた心が瞬時に警戒する。
「な、なんのこと……か、わから、な」
 舌がこわばって、うまくしゃべられない。それどころか息をするのも難しい。
「しっ。口をきいちゃだめ。呼吸に集中しとくれ。鼻で素早く吸って、口から長く吐く。スウッ、ハー。スウッ、ハー。そうそう、じょうずじょうず。泣いてもいいからね。黙ってなよ。あいつに気取られないように。わかったね」
 ジェンマはテーブルにカップを置いて、また足もとに座った。そしてやさしく背中をなでた。そうしているうちに涙がぽろりとこぼれた。悲しいのかどうかよくわからなかったけれど、その涙で緊張がとけていくような感じがした。
 しばらくして、ジェンマは話しはじめた。
「……いまだけでいいから、あたしの話を聞いておくれ。信頼するかしないかは別としてだ。わかったらうなずく。無理して声に出さなくていいよ」
 そのとおりにした。
「だいじょうぶ、いまはバルバロッサさまがお守りくださってる。あたしのそばにいれば、覇王の紋章はあんたも守ってくれる。そうだね、風がはいってこないように手を握っていようか。そしたら絶対に心配ない」
 しわだらけの手がそっと延び、横臥するテッドの右手に重なった。あたたかい手だ。ジェンマはテッドの魂に寄りそおうとしているのに、シンに感じたような破滅の恐怖はまったくなかった。
 覇王の紋章とはいったい何だろう。それはバルバロッサが所有する特別な紋章なのだろうか。
「まずはあたしのことを話そうね。あたしは、あんたくらいの歳の頃にグレッグミンスターに連れてこられた。バルバロッサさまはあたしのことを乳母って言ったけど、正確には、そうね、護衛ってとこかね。生まれた皇子の身辺警護のためにって、あたしとあたしの友達とふたり引き取ってくれたんだよ。先代の皇帝陛下はあたしらの命の恩人さ。父親のように慕ったもんだよ。弟君のゲイルさまもお優しくてご立派な方だった。なつかしいね。
 あんたは知らないと思うけど、むかし南のファレナ女王国に『幽世の門』っていう秘密組織があったんだ。それは国家直属の暗殺者集団でね。身寄りのない子供を集めて洗脳教育し、意思をもたない暗殺者に育てあげていたらしい。本当ならばひどい話さね。それをある人から聞いて、そりゃあぶったまげたよ。あたしがいた組織とやってることがまるっきり一緒だったからさ。ひとつだけファレナのほうがえげつないと思ったのはね、理解力のない子供を使ってたことだわね。保護者になる見返りに人生のたのしさを奪うなんて、まったく悪魔の所業だよ。うちはちがった。あたしらは暗殺者だった男女の子供で、組織で生まれたから、それなりに親の愛ってやつも知ってるんだ。けど、組織はひどいとこだったよ。あんたには言わない。そいつはとても危険だからね。知らない方がいいんだ」
 紅茶をとり、また一口飲んだ。
「あたしはいろんな教育を受けたから、人でなしの手口ってやつをけっこう知ってる。なかでもいちばんくそだと思うのが洗脳のやり方だ。こいつは殺人よりもずっと難しくて、知識も掌握術も必要。組織でもその方法で人を増やしていった。かしこくて、深く考えるタイプのほうがよく引っかかる。
 いいかい、人を洗脳するには必ず五つの手順を経る。ひとつめは、隔離。日常から引き離すことだ。塔の最上階でも、地下室でも、山奥でも船でも牢獄でもいい。外部からの刺激をとことん遮断する。ふたつめに、鬱化。逃げられなくした標的に攻撃を加える。死なない程度に、執拗にね。身体的にも精神的にも限界まで追いつめて、人格を破壊してしまう。ここで自殺しちまうのもいるよ。そういうのははなから見込みがなかったのだから、ふるいにかけるようなもんだね。そしていよいよみっつめの刷り込みだ。このとき標的は壊れてからっぽになった状態だから、都合のよい情報を抵抗なく流しこめる。おまえの使命は人を殺すことだ。慈悲は要らぬ。おまえ自身の痛みは感じるな。そんなふつうなら受け入れがたい内容でも、あっさりと入っちまう。だがそのままでは実戦で使えない。容れ物が壊れやすいままだからね。さて、どうするかというと、よっつめの安定を施す。これはね、ご褒美だ。弱らせるのをいったん中断して、安らぎを与えてやる。いい子にして言うことに従ったら、こんなに楽で悩みもないんだぞと。さあて、ここまで来たらいよいよ仕上げの五段階め。刷り込みが抜けないように、強化する。すなわち異常を日常とする。完成だ。洗脳された者は命令ひとつで人を殺し、その行為になんの疑いも持たない。もちろん、死ねと命令されればはいと言って死ぬ」
 おれだ、とテッドは思った。身震いするような話だが、現実に自分のことだ。ウィンディはきちんと手順を踏んだ。心当たりがありすぎて、否定する気も起こらない。
 ジェンマはまるで代弁者のようだ。どうしてそこまでわかるのだろう。
「あんたもあの女に洗脳を受けているね? でも、第五段階には達していない。そうだね、いまのあんたはなんか恐ろしいことを刷り込まれて、ご褒美ももらったあとだ。だけどちょっとしたことでつまずき、ふらふらとよろめいてる。空っぽになったところに刷り込んだまではよかったが、そのあとのご褒美で失敗したかな? 安らぎを与えるとき、疑念を持たれてはだめなんだ。不純物が混じると安定しないので、二流と割り切れないのならもう処分するかしかない。いちど入りこんだ疑念はまず排除できないから、一からやりなおすのは現実的じゃないんだよ。さては、いちばんだいじなところを軽視したね。ふん、しょせんはにわか仕込みのシロウトだ」
 テッドは考えて、うなずいた。自分の心と身体に起きている説明のつかない現象のすべてを、支配の紋章が関与することだと刷り込まれているのだとしたら。あたかもそれが逃れられない運命であるかのように記憶させられ、疑念を手放すよう誘導させられているとしたら。身体の支配が先で精神の支配があとという、冷静に考えたら不可解でしかない時間差に「なぜ」を突きつけてこなかった。ようやくわかった。それは洗脳の五手順に要する時間だったのだ。
 触れている手には不思議な安心感があって、テッドを落ち着かせた。それも洗脳のひとつなのかもしれないけれど、魔女に与えられる苦しみよりはずっと慈愛に満ちていた。
 ジェンマはしばらく無言で、テッドが考えるのを待ってくれた。
「おや、雪が舞ってるよ。冷えると思った」
 窓の外を見てジェンマが言った。テッドはゆっくりと身体を起こした。
 寒々とした灰色の空からちらりちらりと降ってくる。暦の上ではもう春なのに、まだ名残り惜しいらしい。ひとつ前の冬は地下の牢獄にいて、空も雪ももう見ることはないだろうと思っていた。なんだか、ずいぶん久しぶりのような気がする。
 この冬もたくさん雪が降った。いや、降ったらしい。記憶がなんだかあやふやで、日々をどう過ごしてきたのかも覚えていないのだ。
 紅茶はぬるくなってしまったが、手元に寄せて口をつけた。懐かしいアップル・パイ。おやつですよ、坊ちゃんもテッドくんも手を洗ってくださいね。姉がいたらこんな感じなのだろうか。怒るときは厳しいけれど、それは相手を大切に思っているから。あの人の紅茶はやさしい味がした。
「やっぱり。クレオさんのだ」
 つるりとつぶやいてしまった。ジェンマがおやおやという顔で見た。しまったと思ったが、老女はほんのりと笑った。
「うれしいねえ。そうかいそうかい。紅茶はねえ、たんなる飲み物じゃないよ。思い出なんだ。それぞれのポットにそれぞれの香りがある。時間や、空間。音、色、光、人。そんなものを思いだすんだよね。いまさらだけど、お店を潰してしまったのは失敗だったわ。繁盛してたのに、惜しいことした。アハハ、あたしときたら投げやりになっちゃったりして」
「紅茶のお店ですか」
「うん。友達がね、下の街でいい人を見つけて嫁に行ってしまったから、あたしも倣ってちょいと面白い人生を探してみようって気になってさ。顔も知らない親戚からもらった土地に宿屋でも建ててみようかと最初は考えたんだがね、都の暮らしに慣れすぎて田舎に引っ込む勇気がなくてねえ。そいで、前々からあこがれてた紅茶の店をやってみようと思ったのよ。そしたら、嫁に行った友達が手伝いたいって言ってくれてさ。貯めてた金で物件を借りて、食器をそろえて、内装からなにからぜんぶ自分たちの手作りさ。楽しかったねえ。組織にいたときは笑ったことなんてなかったから、失った時間を取り戻すみたいにおしゃべりしたわよ。あの子、最期はちゃんと旦那さんに看取られて、しあわせな人生だったんじゃないかね」
 老女は遠い目をして何度もうなずいた。クレオの名前を知っているようなそぶりだったので少し焦ったが、継承戦争のころはジェンマはすでに女中の仕事に戻っていたらしいので、早とちりだ。テッドはクレオの経歴を詳しくは知らないが、マクドールの屋敷に住み込む以前はかなり片意地な娘で、料理や裁縫など女らしいことはなにひとつしたことがなかったとパーンから聞いた。お茶屋から意識高いレシピを学んでくるような性格ではない。そもそもお茶のフレーバーひとつで接点があると勘ぐるほうがおかしい。
「あんたはあそこにある、苔だよ」ジェンマはふいにテラリウムを指さした。「作られた箱庭に閉じ込められて、狭いところをただ循環してるだけの水を見て、ああ、世界だとおもってる。枯れて朽ちるまで、ほんとうの世界を知ることはないんだろ。人の生まれるはるか以前からこの世に在った苔が、きのうやきょう生まれたばっかりの人間に屈するのかね。むなしいねえ。この城をごらんよ。水があちこちから湧き出して、水路をごうごうと流れている。水は城にとっての要。黄金の都もこれがあったおかげで栄えた。けど、これも大っきな箱庭じゃないのかね。これが世界だと勘違いしてさ。いま流れていった水は、これから流れてくる水よ。ぐるぐる同じところを回って、まわって。ふふ、際限なく循環するんだよ。汚れない水、死なない水、命のない水。そんなもんを永遠と讃えてなんになる。ハン、まるで牢獄だね。あたしゃそんな都はどんなに美しくったってごめんだね。
 アムリット。いや、その名前も仮に与えられたやつか。まあいい。あたしがあんたに教えられることはほんの少しだよ。でも、あんたはきっとそれを有効に使うだろう。いいかい、洗脳を打ち破る方法は、ある。まだ遅くはないから、しっかり聞きなさい。まずは、食事をとり、眠り、身体を弱らせないことだ。きついだろうが、頑張れるね。それと、どんな方法でもいいから疑うことをやめないでおくれ。あの女に与えられた記憶は必ず間違っている、そういうふうに考えるんだ。自分と戦うんじゃない。あの女、ウィンディと戦うんだ」
 テッドは力強くうなずいた。暗闇に埋もれて見失っていた道が、雲が切れて月光に浮かびあがったように思った。月はふたたび隠れても、道は一瞬で記憶した。胸の奥に地図を書きとめる。これでもう忘れない。この部屋で死んだシン・グレイソンもきっと会話を聞いているはずだ。
 ジェンマは握っていた手をほどき、よっこいしょと立ち上がった。
「さてさて、あたしはこれからどうするかねえ。いまさら行くあてもないし、こっちの女中部屋にも空きができるだろうから、適当に働きながらのんびりするかね」
 テッドは首を振った。「いえ、城を出られたほうがよいと思います。街でお暮らしになっては。ジェンマさんならどこへ行っても現役でしょ。またお茶の店をはじめてみたら? そのほうがいいです。……お願いします」
 うん、とうなずく。「わかったよ。そう言うと思った。優しい子だね、あんたは。あんたに出会えてよかったわ。ずっと前にどっかで会ったような気もしてるんだけど、そんなわけないね。あ、そうだ。これ、餞別にやる」
 ショールの下から丸い缶を取り出して、ぽんと手渡した。絵は愛嬌のある豚。何が入っていたのだろう。それはともかく、いったいふところにいくつ隠し持っているんだ、このお婆様は。
「ふつう、餞別って旅立つ人に贈るものじゃないですか」
「水を差すようなことを言わない。おばあちゃんなんだから粋に行かせておくれ。それに、あたしはいなくなるわけじゃないからね? あんたが街に出てきたら、いつでも迎え撃つよ。覚悟しとき。ほんとうに待ってるよ。ぜったいだよ。ゆびきりげんまん」

 空中庭園でバルバロッサ・ルーグナーはひとり瞑想していた。公の場に出るときと同じ黄金の鎧をまとい、地に足をつけた直立不動の姿である。
 心のよりどころである薔薇園は冬越しの休眠状態にあり、冬薔薇が寂しげにフェンスにからみついて咲いているだけだ。春の訪れはもう少し待たなければならない。庭に張り巡らされた水溝はがっちりと凍てつき、水車も動かないように荒縄が巻かれている。冬期の散水はほとんど必要がないので、雨水をためた甕だけで足りる。
 皇帝は両手で竜王剣を持ち、その鋭い鋒を地面に突き立てた。その剣には太古の紋章が宿る。ルーグナー家に代々伝わる、27の真の紋章【覇王】である。
 覇王の紋章は持ち主に、あらゆる紋章を封じ込める力を与える。太陽や月でさえもその剣ひとつで陰らすことができる。その強大な力ゆえに赤い月の継承者は一子相伝で紋章を守ってきた。己の欲望で剣を振るえば、紋章の怒りが帝国を滅ぼす。ゲイル・ルーグナーの欲したものは力でも、ましてや平和でもなく、皇位の象徴であるその剣。継承権のないゲイルは紋章の真実を知らない。だからこそ死守せねばならなかった。たとえ実の叔父を殺すことになっても。
 竜王剣の息づかいをバルバロッサは感じていた。それは過去に経験したことのない異変であった。その変化は少し前にさかのぼる。ざわめく乱世に呼応しただけとは思えない。おそらくは何者かが剣をまどろみから呼び覚ましたのだ。
 正体のわからない第三者の意思はここより南西にあった。奇しくもウィンディが昨今足繁く通いつめているロリマーの方角である。その気配はウィンディの宿す門の紋章とはあきらかに異質であったが、同族の気高さを発していた。あなたは真の紋章であるか、とバルバロッサは問いかけた。応答はない。
 意識をさらに集中する。荒野を吹きすさぶ風の音や、断崖に打ちつける波の音が現れては消えた。溶岩に囲まれて灼けるように熱くなったかと思うと、次の瞬間にブリザードの極地に立たされた。さまざまな臭いや匂いが通り過ぎた。時間や空間の概念から解放された世界では、存在できる事象はひとまず混沌へと振り分けられ、混沌は色彩の奔流となる。そして、すっとベールを裏返すとそこは秩序。ありとあらゆる事象が灰色に凍りつく。
 秩序と混沌を行き来していると、事象のいくつかが形を成して結実しひとつの景色となった。現実のようであって幻のようでもある。そこは隧道のような一本道からたどり着く行き止まりの洞窟だった。暗くてうすら寒く、水のしたたる音が反響している。岩がむきだしになった壁には鉄の燭台が穿たれ、ろうそくが燃えていた。
 中央には祭壇があった。人面が彫られた剣が垂直に刺さっていた。
「竜王剣を呼んだのはあなたか」とバルバロッサは尋ねた。するとただの飾りに擬した人面が眼をかっと開けてにたりと歪んだ。
《ほう、よくここがわかったな、人間よ。では、おぬしも参ろうか。一寸だけだぞ》
 神々しくも軽薄そうな声が頭の中に響いた瞬間、黒い光に包まれた。あっという間のできごとであった。
 天地の感覚が消え失せ、取り落とさないようにと思わず剣を握りしめた。足もとは空中にあるようだが、落下ではなく、移動でもない。この世のものではない力でどこかへ引っ張られた。
 光は唐突に消滅して、バルバロッサは土の上に立っていた。周囲は明るい。しかし空を見ると夜である。はっとした。
 建物が黒煙をあげている。彼の感じた明るさは、あたりを焦がす紅蓮の炎であった。断末魔の絶叫がいくつも響く、そこは地獄であった。
「さあ、早く紋章を渡さないと、順番に村を焼き払っていくよ」
 聞こえてきたのはバルバロッサのよく知る声だった。
「ウィンディか?」
 声の主を探して首を回すと、果たして彼女はそこにいた。視界の端で黄色いセーターを着た幼い男の子が泣き叫んでいた。その顔に面影があった。まさか、あれは。アムリット。
 少年と女性が男の子の手を引き、まだ燃えていない建物へ逃げ込んだ。バルバロッサは息を呑んだ。見間違えるはずがない。テオの息子だ。
 何度名を呼んでもウィンディはこちらに気づく様子がない。見えているはずなのにまるでそこには誰もいないかのように振る舞う。彼女は見知らぬ老人と対峙していた。
「おのれ……」老人はテオの息子が入っていった家に背を向け、立ちはだかるようにして言った。「そんなにこの力、ソウルイーターの呪われた力が見たいのか。よかろう。見せてやるとも。呪いの紋章ソウルイーターよ、その力を示し、わが敵を……裁きたまえ」
 耳をつんざくような悲鳴が聞こえたが、それは真の紋章の発動する歓喜の叫びであった。老人を中心としてどす黒い悪意が放射状に放たれ、重力の天蓋となって降ってきた。
「ウィンディ!」バルバロッサはとっさに竜王剣に命じた。「ウィンディを守れ!」
 竜王剣はぶるりと震え、首をもたげた。と、その時。
《おっと、手出しはさせん》
 バルバロッサは帰還していた。まばたきをするほどの刹那だった。身体を支えられず膝から崩れ落ちる。手はみじめに震え、指の関節がこわばって剣を落とすことができない。
(呪いの紋章、ソウルイーター)
 ウィンディが喉から手が出るほど欲しがっていたもの。処刑されたテッドという少年が宮廷内で暴発させた紋章だ。あのときは覇王の紋章でかろうじて威力を削ぎ、予想される最悪の事態は免れた。しかし封じ損ねた側撃が居合わせた近衛兵三名を即死させ、術者本人にもはね返った。恐ろしいまでの力であった。
 いまはテオの息子に継承されて、彼はそれを革命の旗印としているはず。
 宿主の老人は誰だ。アムリットにそっくりな子供は本人なのか。そしてウィンディは。
「無事でいてくれ」
 頭が混乱し、何が何だかわからない。ウィンディがアムリットを支配の紋章で呪縛し、過去の幻影をたびたび見せつけて苦しめていることはわかっていた。しかし、テオの息子がなぜそこに加わるのだ。いや、そこにいるはずがないのはアムリットのほうか。
 アムリット、あの子はいったい何者なのだ。たまたま有していた先天的な魔力を単に利用したかった、それだけではあるまい。いまの光景があの子を苛む過去の幻影ならば、ウィンディが粘着する理由も想像がつく。そうか。
 嵐の夜、ソウルイーターの煽動に乗って招かれた先にアムリットが眠っていたのは、そういうわけだったのか。あの子もまた紋章の縁者。ティル・マクドールをおびき出す囮だったのだ。

 ひと月ほどたってグレッグミンスターに帰還したウィンディは以前にもまして不機嫌であった。バルバロッサと喧嘩でもしたのか、空中庭園へも足を向けない。日がな一日研究室でフラスコをいじっているので、テッドは気詰まりでリラックスもできない。触らぬ神に祟りなしといきたいところだが、八つ当たりをすべてかわすのは難しそうだった。
 そもそも元凶はロリマーにあった。赤月帝国のもっとも南西に位置する風光明媚なこの地を総括する将軍に、吸血鬼と噂される得体の知れない成り上がり者を任命したのはウィンディである。この決定には参謀本部もざわついた。
 ウィンディは広範な人事権を皇帝から拝命したものの、鳴り物入りで編制された近衛隊は無能な隊長の不手際により部下の不満が鬱積してクレイズは失脚。人事はふたたび皇帝が取り仕切るようになり、能力主義を取り入れて一時は信頼を取り戻したかに見えた。ところが戦局に暗雲がただよいはじめた頃には人事権はふたたびウィンディのものとなっていた。近衛隊も設立当初は帝国領内でもてはやされて、ウィンディの功績を讃える声も大きかったが、今回はそうはいかない。
 名のある将軍が次々に投降あるいは戦死して、軍内部にも危惧の声があがりはじめていた。とりわけテオ・マクドールを喪った穴が甚大であった。まさに歯の抜けた櫛の様相であったのに、空いた席を埋めたのが赤月の者でなかったのだから吸血鬼でなくとも騒動になる。
 赤月帝国には種族差別による排除の風潮が色濃く残っていて、エルフやコボルト、ドワーフなどの亜種族はモランの森にコロニーをつくり、人間族から離れて生活していた。将軍であったクワンダ・ロスマンが大森林の村を襲撃したために、両者の対立はより明確となった。帝都の人々が人間族でないものを信用するはずもなく、ましてや魔物や怪物により近い吸血鬼族を将軍に据えるなどと言われて誰が納得するものか。
 吸血鬼に関してはいまから三百年ほど前、ハルモニアよりもさらに北方の無名諸国において歴史上で初めて書物に記された。地方領主ワイルダーの討伐奇譚がそれである。想像力を駆使して書かれた史話であり、勇者ワイルダーは口碑上の人物とされる。しかし吸血鬼は物語を飛び出して存在を誇示しはじめ、数十年ごとに各地で悪事を働いた。隠された紋章の村でテッドが会ったというその男が吸血鬼であるとウィンディが言うのなら、その通りなのだろう。
 ここに来て人事の采配ぶりを非難され、仏頂面でしぶしぶ帰ってきたというわけだ。吸血鬼という言葉が思った以上に一人歩きして、その火消しで疲労困憊もしたであろう。自業自得である。
 ロリマー領に自治権を持つ戦士の村は、その名の示すとおり勇敢な戦士を多く輩出する村だ。これが叛乱軍と結託したら大変な痛手である。なのに吸血鬼将軍ネクロードはむざむざ寝た子を起こすような真似をしでかした。それも魔女の指示であったのなら、今回ばかりはさすがにお転婆が過ぎる。それとも文民統制などもうどうでもよいと考えているのだろうか。そろそろバルバロッサにも不信任案が届きかねないし、これ以上地方を敵に回してはいけないとウィンディもわかっているはず。さては、戦争ごっこに飽きてきたか?
「皇帝んとこ行かないの?」
 めずらしくテッドから話しかけた。ウィンディは魔道書から顔をあげて、面倒くさそうに聞き返した。「なんでよ」
「あんなに仲良かったのに」
 ハッ!とウィンディは嘲笑した。
「本気で言ってるの? あんなのただの木偶の坊じゃない。なんであたしがつきっきりで世話しなきゃなんないのよ」
「でも、おれにはべったりじゃないか。ただの木偶の坊なのに」
「あんたは、いいのよ。あの人とはちがう」
「どう違うんだ」
「うるさいわね。ちょっと黙ってて」
 ウィンディは人差し指をちょんと横にすべらせた。テッドの唇が縫い止められたように動かなくなる。鼻を鳴らし、書斎に引き返そうとすると、
「お茶」
 これだ。小間使いが必要なだけではないのか。
 ジェンマに忠告を受けてから、意識して体力をつけた。痩せてしまった身体はすぐには戻らないけれども、日常生活を維持できるくらいには回復したと思う。意識が飛ぶことはまだある。それでも頻度は激減したし、寝込むほどでもない。ウィンディ付きの侍女たちが解雇されて、食事をテッドが一階の厨房から運ばなくてはならなくなったのも結果としては良い方へ働いた。動いたり、会話をしたりという日常的な刺激は大事だ。
 ウィンディが居座っているといやなことばかりだが、居なければ居ないでテッドは独りの世界に引きこもってしまいがちになり、ろくなことを考えない。自分は魔女に依存をしているのかも、とも思う。ウィンディも同じだ。腹が立てばテッドに当たり散らして憂さ晴らしをする。何のかんので互いのことをよく知っているから、口にしないだけで意識しあっているのだ。魔女の正体を知らず、思慕をいいように利用される気の毒な皇帝とは確かにわけが違う。
 引きこもる暇を作らないよう、前に少しだけ関わった指南所の仕事みたいな非日常の時間を組み込んでみようか。できれば他者と接する活動がよい。花壇の手入れも気晴らしにはなったが、内面と向きあう時間をいたずらに増やしただけのような気もする。
 何をやるにしてもまずはウィンディから許可を得なければ。説明が煩わしいが、そこを通さないことには何もできない。
 宮廷御用達の茶葉でミルクティーをいれて、ウィンディの横に置いた。どうしようかと少し躊躇したが、とりあえず打ち明けてみることにした。
 馬鹿にされるかと覚悟はしたものの、ウィンディは意外にも「わかったわ、仕事がしたいのはいいことよ」と真面目な顔で承諾した。「わたしもそれを考えていたところなの。あした内々の作戦会議があるんだけど、そこに連れて行くから、出席して発言なさい」
「えっ?」
 予想だにしなかった展開に驚き、困惑した。
「あんたを軍師にしてあげる。ごっこじゃなくて正規のよ。ほんとは補佐からはじめてもらうのが順当なんだけど、あたしの推薦ということにしておくからそこは省略。もちろん、まずいことを言わないように近くで監視させてもらう。軍事に関することだったら忌憚なく意見してもいいのよ。ほかの出席者はぼんくらどもだから、ひるむことなんてないわ。できるでしょう。そうね、あんたはできるはず。前の戦争でもそうしたのよね」
 テッドは突っ立ったまま、口をつぐんだ。ウィンディは紅茶に口をつけてから机に頬杖をついた。
「あたしが気がついてないって思ってたんでしょう。ばかね。あんたがソウルイーターとともにこの世界から離れていたのも、そのあと自分から望んで群島諸国の戦争に首をつっこんだのも、エレノア・シルバーバーグの下で副軍師みたいなことをしてたのも。ごめんなさいね、ぜぇんぶ知ってるの。不老のあんたの見かけが少し変わったのも、そのときなのよね」
「あ……」
「ソウルイーターは渡さないって意地張って逃げ回ったくせに、あんな異形の業突く張りにあっさり渡しちゃうなんて、ほんと意外だった。あんなのに持たせたらこの世界終わっちゃってたわよ。あたしのほうがよっぽどましなのに。まあ、あんたも思うところがあったんだろうし、昔のことだからもういいの」
 なんだか身体から力が抜けた。虚脱感が大きすぎて腹も立たない。
「そんなとこまで見てたのか。えげつない。くっそ、ぜったいバレてねえって思ってた。群島戦争も知らないのかバーカって鼻で笑ってたのに。若さがちっとも変わらなくてうらやましいなんて、ほんとは変わってんのわかって皮肉ったんだな。あーあ、ざまあねえや」
「ふふ、バーカじゃなくておあいにくさま。そういえばあんた、エレノアの話をするときずいぶん向きになっていたものね。知らないふりをしたのは、これでもあたし、あなたの威厳を保ってやろうって思ったのよ。いい時代だったんなら大切にするといいじゃない。そんなことまでいちいちケチくさく否定しないわ」
「なんか、気色悪い。おかしなメシでも食ったんじゃないのか」
 ウィンディはけらけらと笑った。少し機嫌がよくなったようだ。それを見てほっとしている自分もどうかしている。
「ああ、おかしい。久しぶりに笑ったかも。でもね、テッド。あんたはもうちょっと注意深くならないとだめよ。防御が甘すぎ。まあ、いまさらか。あのね、門の紋章の目を欺くなんてできっこないのよ。あたし、群島では手出しができなかったの。妹があんたを監視していたせいで」
「妹? ああ、魔術師の島の占星術師か。門の片割れの」
「ええ、妹のレックナート。あたしと似てないでしょ、あの子。血がつながってないもんね」
「おれを監視していたって? どういうことだ」
 テッドがレックナートと会ったのは魔術師の島が最初だし、それきりのはずだ。それに出会ったときに気づいたのだが彼女は視力を有していなかった。群島諸国でテッドがおもに居住していたのは船上だったし、それこそ重度の引きこもりで陸に上がることもなく、外での活動は必ず仲間と連れ立っていた。もちろん乗組員の顔は船主から飼い猫に至るまで全員わかる。監視と言われてもまったく身に覚えがない。
「門の紋章はね、世界を見守る役目をもってんのよ。詳しいことは機会があったら妹に直接きいてちょうだい。あの子のことはいまはどうでもいいわ。兎に角、あたしはあんたの経験と能力を買ってるの。指南所でもうまくいった。今回だってできるわ」
 いまさら群島時代の話で動揺などしないし、軍師のまねごとをするのにも異存はない。ただ、レックナートのことはどこか引っかかった。クレイズの命令で魔術師の島へおつかいに行ったとき、レックナートがティルだけを中に招き入れて人払いをしたのを思い出したのだ。
 ひょっとしたらこれは、門の紋章姉妹の代理戦争ではないのか? ウィンディがレックナートのことを大嫌いなのは何度も聞かされてうんざりしていたが、両者の軍事的対立には思い至らなかった。宮廷占星術師であるレックナートが赤月帝国に刃を向けるはずがないという先入観があったからだ。盲いた目に恥じず、深い洞察力で星々を読む。温厚で優しい女性だとテッドは思っていた。しかし、それは大きな誤解だったのかもしれない。
 自分はまだまだだ。テッドは自省するしかなかった。たっぷり時間があったのだからこういうことをもっと考えるべきだった。自分のことで悩むのはひとまず後回しにして、周囲をもういちど一から見直してみよう。
(疑うことをやめないでおくれ。あの女に与えられた記憶は必ず間違っている、そういうふうに考えるんだ。自分と戦うんじゃない。あの女、ウィンディと戦うんだ)
 ジェンマの言葉を反芻する。テッドは小さくうなずいた。戦う相手だからこそ知る必要がある。理解しなければならぬ理由がある。
 魔女が封じたテラリウムのガラスを割るのだ。そして外の世界の真実にふれろ。かりそめの水を失って干からびることになろうとも、やり遂げろ。
「で、やるの?やらないの?}とウィンディが訊いた。やらないと言ってもさせられるに決まっているのだが、テッドは力強く即答した。
「やる」
「いいお返事。じゃあ、あした未の正刻、ここに迎えに来るわね。支度をして待機していなさい。いつもの白い服じゃ目立ちすぎるから、そうね、去年お外でレオンと密会していたときに着ていった、フードのついたコート。あれがいいわ」
「え?」
「会議の場所は城内じゃないの。マクドールのおうちよ」

 二頭立ての四輪馬車が門前に付けられると、上級兵士が素早く駆け降りて踏み台を置き、うやうやしく頭を下げた。その手を借りながらウィンディが馬車を降りる。今日の衣装はコルセットを使わない細身のドレスに大ぶりのショールだ。ドレスの色はモーヴから青へのゆるやかなグラデーション。一行が門をくぐるのを見届けてから、馭者は馬車を発進させた。
 いまにも雨が落ちてきそうな重苦しい空だ。テオ・マクドールの邸宅は一階の窓がすべて木の板で封鎖され、立ち入らないように警告する立て看板が置かれている。罰則は単純な住居侵入罪のみにとどまらず、より重い証拠隠滅罪あるいは国家反逆罪の適用もあるとされることから、空き家探索を試みようとするやんちゃな若者もいない。庭木は葉がすべて落ちて地面を覆い、朽ちて土に還ろうとしている。グレミオが手入れを怠らなかったチューリップの花壇も、この時期には育った葉がみずみずしく並んでいるはずなのに、掘り起こされなかった球根から芽吹いたのであろうひ弱なひと株がぐったりと横になっているだけだ。
 ここへ帰ってくるのはおよそ五百と五十日ぶりだ。テッドが連行された雨の夜から季節は一周し、誰もいない屋敷はあるじまでも喪った。そこからさらに数えること半年、マクドール邸はぬくもりのない長い冬を凍えながら耐えてきた。相続人が逆賊であるために、土地と建物は今後赤月帝国が所有することになる。建物はトラン歴史的建造物群の指定区域内にあるので安易に取り壊すことはできない。内部の検証もあらかた終え、問題がなければ都市計画を担当する部署に移管される手筈である。
 ウィンディはその最終確認に託けて、あまり聞かれたくない話し合いをこっそりと行う腹のようだ。出席者のうち少なくともひとりふたりはブラックルーンによる躾が完了した傀儡が混じっているだろう。
 外気を締めきった玄関ホールは生活のにおいがした。食事室で焚かれている暖炉が家の中を心地よく暖めているのだ。調度品も意外なほど荒らされておらず、ほんとうに自宅へ帰ってきたような錯覚を覚えるほどだった。嬉しいのと同時に、テッドは泣きたくなった。こんな形で帰宅するのはあんまりだった。
 近衛兵に誘導されて食事室に入った。六人で食事をとった大きなテーブルはそのままで、クロスだけが取り払われていた。テッドに充てられていたのはいつも入り口に近い末席だったけれども、偶然にもそこに座るように指示された。近衛兵が出席者の前にコップと水差しを置いて下がった。ドアが閉められる。
 テーブルについたのは十名だ。テオの席でもあった一番の上座に座ったのがウィンディ。そのすぐ左隣に黒騎士がいた。この男はおそらくユーバーであろう。テッドは膝の上で震える拳を握りしめた。ほかに顔の分かる者はアイン・ジード。復讐に燃えた、テオの高弟である。あとの者は宮廷を支える官吏ということだったが、名前はわからない。このメンバーで初顔はテッドだけだから、いまさら紹介しあう必要もなかった。
「狸は一緒じゃないのね」ウィンディは黒騎士に言った。
「当然です。あれは留守を命じたらあからさまにほっとしていた。面倒ごとは避けたいのであろう」
 地の底から響いてくるようなおどろおどろしい声だ。気持ちが悪い。
「都合がいいわ。会わせたくない子がいたから」ウィンディはちらりとテッドを見た。黒騎士の視線も追うように動く。恐怖で身がすくんだ。
「コートを脱いだら? 暖かいわよ、アムリット」
 胸が早鐘のように鳴った。正体をさらせと言うのか。
「はい……」
 命令に逆らえるはずもない。テッドは覚悟を決めてフードを取り、コートを脱いで膝の上に置いた。
 アイン・ジードの目が見開かれた。真っ直ぐにテッドを見、うなる。「君は……」
「あたくしの弟子、アムリット・ベラスケスです。ちょっと変わったところがあるけど、優秀よ」
「いや、しかし……失敬。君はひょっとして、テオさまのところの。ううむ、まさか。あの子は処刑されたはずだ」
 テッドの口が勝手に動いた。「他人のそら似です。よく言われます。正直、迷惑です」
 ウィンディはぷっと吹き出して、他人事のようにけらけら笑った。テッドはじろりとウィンディを見て、「笑わないでください」と自らの意思で懇願した。
「ごめんなさい。あたしの弟子はご覧のとおり、謀反人と間違われて怒り心頭のいたって普通の子よ。愛想がないのは許してやってね。もしかしたら起爆剤になるんじゃないかと思って連れてきたの。あたしたちだけで話し合っても目新しい意見は出ないでしょうし、単なる報告会で終わりそう。この子だったらどこにも関与していないから、反省の必要がないわ。おもしろい趣向じゃない?」
 場の何人かがうなずいた。アインは気まずいといった体で頭を下げ、「気を害したようで、かたじけない」と言った。上司のテオに似た堅物のようである。どこで顔を覚えられたのかはわからないが、おかげで肝を冷やした。ふざけた趣向は無用だと魔女を怒鳴りつけてやりたかった。
「始めましょうか」テッドの左隣に座る男がぼそりとうながした。五十を越えたくらいの印象の薄そうな男だ。表情が変わらず、生気もない。膝の上で組んだ手を神経質そうに動かしている。
「そうね。ではゾリク指揮官、報告を」
 隣席の男はゾリクというらしい。ロリマーでネクロード将軍のすぐ下にいるはずの人物だ。単なる報告会に終わりかねない会議に出席するために、わざわざ激戦地である城塞を空にしたのだろうか。指揮官は前線に常駐して指揮を執るのが任務だと思っていた。それにしても、この人は本当に大丈夫なのだろうか。死にそうな顔をしている上に、さっきから見ていると一度もまばたきをしない。
「はい。では報告いたします。このたび中央より赴任されましたネクロード将軍のご采配におかれまして、われわれロリマーの騎士団は……」
 指揮官の報告は通り一遍で下手な朗読のようであり、十五分もだらだらと引き延ばした末に苛立ったアインにとがめられた。
「指揮官、もう少し手短にお願いできませんかね」
 ゾリクは素直に応じて、というよりもあきらかに話半分で中断して「以上です」と締めくくった。周囲の失笑も意に介することなく、水の入ったコップを手にした。
 喉に流し込んだのはしぐさだけで、縁からだらだらとこぼれて胸元に染みこんでいくのが見えた。置いたコップについた指紋が、脂ぎっててらてらと光った。テッドが横目で見ていると、そこから黒い汁がつうっと垂れた。ぎょっとした。
 アインは咳払いをして、「ロリマーのことで、二、三確認したいことが」と切り出した。「率直に申しあげますと、将軍人事に関する件です。ネクロード将軍のお名前をわたしは存じあげませんでした。これはまあ、たたき上げの事情に明るくないわたしの浅学によるところでございますが、先般、ロリマーから引き揚げる兵団をクワバの城塞で出迎えましたところ、新しく赴任した将軍の身辺が何やらきな臭いという話を小耳にしまして。それでわたしも気になったものですし、こちらに赴くついでに庁舎で記録を閲覧してまいりました。ところがネクロード将軍のお名前がどこにも載っていません。どの組織に属していたとか、功績をあげたとか、まったくの皆無でそれ以上調べようがありませんでした。これはいったいどのようなご采配なのでしょう、ウィンディさま」
 話を向けられたウィンディはまったく慌てることもなく、さらりと回答した。「バルバロッサさまの旧いご友人とうかがっております。皇帝陛下じきじきのご指名によるものです。わたくしはそれに従っただけのこと」
「なるほど。では、将軍が吸血鬼であるという根も葉もない噂は、根拠のない流言であると早急に周知徹底しなければなりませんな。皇帝陛下の御名に泥を塗るわけにはまいりません」
 同席者のひとりが呆れたように笑った。「吸血鬼だって? そんなくだらない話を本気で信じている者がわが軍におるのか。ばかばかしい。話にならん」
「しかし、ロリマーに駐留する家族と連絡が途絶えたという調査依頼が殺到していると聞きます」
「作戦従事中は連絡を取り合うことを禁ずることもあろう」
「先に話題にしました帰還兵が、奇妙なことを申しておりました。兵の数が、駐留している人員よりもあきらかに多いと。はて、わが軍に増員の余裕がありますでしょうか。ロリマーのような、言っては失礼ですがさほど重要でもない辺境に?」
「戦士の村や近郊の町から、傭兵を募ったんじゃないかね。さっきからなんだね、きみは。どうしても吸血鬼とやらのしわざにしてしまいたいわけか。なんとか言ってやれよ、ゾリク指揮官」
 ゾリクはうつむいたまま声を発しない。男がその顔をのぞきこんで、「おっと、これはいけない」と言った。「長旅の疲れがでたのでしょう。すやすやとお休みになっておられる。けさも調子が悪そうでしたので」
 ウィンディは口に手をそえて、案じるような表情をしてみせた。
「それはお気の毒でしたわね。報告も済んだことですし、先に城へ送ってもらいましょう」
「わたしがつきそって、馬車を呼んでもらいます」
「そうしてくださる? 申し訳ないわね。ああ、あなたもお城に戻って結構よ。おつかれさまでした」
「はい。では」
 ゾリクは男に支えられて出て行った。テッドの背後を通るとき、ぷんと嗅ぎ慣れた臭いがした。死臭だ。おそらくはもう、だめだろう。戻るのは城ではなく墓場だ。
 アインに対して批判的な男は、ブラックルーンの力で調教された飼い犬にちがいない。意識はしっかりしているようで内面の葛藤をうかがわせない。精神支配が完了しているということか。見た感じ信念もない小者のようだから、ああいうタイプが扱いやすいのだろう。アイン・ジードはそれとは真逆でバルバロッサに対する忠誠心が篤く、そういう点ではテオに似たところのある人物だ。御するには骨が折れそうで、ウィンディはその労を好まなかったようだ。テオ・マクドールもブラックルーンの制御を受けている様子はなかった。
 ここを離れたあとアインに接触できないかとテッドは考えた。正体を明かすことはできなくとも、間接的に気づいてもらえるかもしれない。ひょっとしたらすでに疑っている可能性だってあるし、ウィンディに対しても猜疑心を口にしている。この人なら魔女の陰謀を見破るかもしれない。
 アインはふたたびウィンディに向き直った。「いまロリマー地方を死守したところで、勢力図が大きく好転することは期待できません。トラン湖南岸を押さえられている以上、ロリマーはあまりにも地の利が悪すぎます。いっそくれてやってもいいくらいだ。それよりもわたしは北方の防御を強化し、中立を宣言している竜洞騎士団を引き込むことが先決だと考えています。空を制圧されては、今より以上に動きづらくなります。そしていったん体勢を立て直し、カナン地方、ゴウラン地方いずれかの奪取を次なる目標とすればよろしいかと」
 テーブルの上には赤月帝国の地図が広げられ、テッドも身を乗り出してそれを見た。なるほど、これはボードゲームである。帝国も叛乱軍も序盤に持てる駒の数は同じ。動いた先に相手の駒があればそれを取ることができるので、勢力は変動する。敵のキングを追いつめて逃げられないようにしたほうが勝ちだが、敵の動ける範囲を封じ、引き分けに持ち込むこともできる。敵のキングを包囲し狭めていく攻撃的戦法よりも、駒を取りつつ足止めもする防御的戦法のほうが現在の布陣には適しているし、兵力の温存にもなる。
「なにを生ぬるいことを。攻め抜いて、邪魔立てする者は殺す。兵など掃いて捨てるほどいる。腰抜けの議論は退屈で、あくびがでる」
 ユーバーが嘲笑し、本当に大あくびをした。甲虫のような漆黒の鎧を揺らす。角が隣の席に刺さりそうだ。不遜な態度にアインをはじめとする数名がいやな顔をしたが、ユーバーは高圧的にのけぞり、テッドを指さした。
「いままでおれの前に立ちはだかったヤツは大勢いたが、生き延びているのはふたり。そこの隅っこにいるガキがそのひとりだ」
 全員の目が一斉にテッドを向く。血の気が引いた。刺し殺されるのではないかと思わず腰を浮かせそうになった。
「あはははは」とユーバーは笑った。ウィンディがぴしゃりとたしなめた。
「相変わらず口の悪い。何年か前に構って逃げられたのをまだ根に持っているの? かわいがりたいくせに、素直じゃないのね」
「お許しいただければ、可愛がってさしあげますよ?」
「あとでね」ウィンディは口角を上げた。「アムリット、あなたの意見も聞きたいわ。アイン・ジード隊長の考えをどう思う? そんなかちかちにならないで。もう部外者じゃないんだから遠慮することはないのよ」
 テッドは追いつめられた兎のような目でウィンディを見たが、口を操られる気配はなかった。本当に思ったことを言ってもよいのだろうか。あとから折檻されるよりは、いま止めてくれたほうがありがたいのだが。
「わたしは、竜洞騎士団を味方につける案に賛成です」腹を決めて、口を開いた。何はともあれ、アインに声を聞いてもらいたい。ウィンディがお気に召すか否かは二の次だ。「バルバロッサ皇帝がお住まいの塔と空中庭園を拝見して、危機感を覚えざるを得ませんでした。空からの襲撃をまったく想定しておらず、あまりにも無防備なことに対してです。それをする方法は確かに限られていて、これまでは重要視しなくても問題はなかったのでしょうが、いよいよ考えを改めるべきだと思います。ある程度の高度を飛行し、人が騎乗できるものとして実際に使われているのは、大型の鳥や昆虫、フライリザード、それから竜です。竜は正統な竜騎士の家系か、騎士団に認められた特別な者しか扱えないきまりです。もしも竜洞騎士団が叛乱軍に与するようなことになれば、現在契約されている竜騎士の派遣も打ち切られてしまうでしょう。現状を維持した中立を願い出るか、あるいは強制的にでもこちらにつけてしまわないと」
 ほう、と声が上がった。アインも深くうなずいた。
「具体的にはどうしたらよいと思われます?」列のこちら側に座る男が訊いた。近衛隊の副隊長だ。カナンの後釜である。隊長の席が空いているため、実質的な隊長代理だそうだ。
 テッドは考えた。あまり突拍子もない提案はできないだろう。かと言って「わからない」では次回からもう呼んでもらえなくなる。せっかくのチャンスは活かさなければなるまい。
「竜洞騎士団はとても閉鎖的と聞いております。会談を持ちかけるにしろ、精通している方を立てておくのに越したことはないでしょう。どなたかおられないのでしょうか。竜の盟約を管理する部署は? その担当者なら話が早いかも」
 別の男が口を挟んだ。「竜洞騎士団領は赤月帝国の領土ではありますが、全土が竜の保護区域に指定されているために、厳しいきまりごとが山のようにあります。その内容は竜騎士でないわれわれの関与できる領域ではありません。ですから自治権は、事実上の不可侵権であります。その契約は毎年交わされるたぐいのものではなく、慣例と見なされて自動継続されます。ですから、担当窓口はございません」
「そうなんですか。あ、でも、あれはどうでしょう。宮廷に献上する紅茶を栽培するのに、騎士団領が最適だったからそこにしたと聞いたのですが。そのあたりで接点はないのですか」
 ああ、と男が言った。「それならば、あります。帝国側から竜洞騎士団領に立ち入ることができないのは、竜の産卵期のみです。詳しいことはわかりませんが、産卵期になると別の世界から母なる竜がやってきて、竜洞に卵を産み落とすのだそうです。異世界の門が開いているあいだのみ、騎士団領は完全に閉ざされます。茶畑を運営しているのは赤月帝国の農業協同組合ですし、竜洞騎士団との交流もそれなりにあると思いますよ」
「それだ。その協同組合が交渉に立ち会ったらよくないですか?」
 男たちは声をあげて笑った。おかしいことを言っただろうか、と目でウィンディに助けを求める。口を操っていいから、気の利いた言葉で場を収めてくれたらいいのに。
「びっくりしたわ。そんな柔軟な発想は、頭の固いおやじじゃ無理ね」とウィンディは言った。「でも、ほんとうによい考え。竜洞騎士団は竜たちを守ることが絶対の使命だから、人の争いに積極的ではないの。いまも、飛び火しないように祈りながら必死で竜を守ってるわ。たぶん放置しても叛乱軍と手を組むことはないと思うけど、アムリットの言うことも一理ある。それに、気になる報告も入ってきているの。くだんの農業協同組合から」
 みんなは一斉にウィンディを見た。
「産卵期でもないのに、騎士団領を追い出されたそうよ。これから本格的な茶作りに入るところだったので、かなりの落胆だったようね。理由を聞くと、騎竜たちに深刻な問題が発生したとかで。病気のようだけど、気になるわね」
「なんと。それでは、よけいに戦争どころではありませんな。ここで手を貸しておけば恩義を売るチャンスにもなるかも」
 テッドは反論した。「いや、竜が病気というのはあくまでも聞き伝えの情報でしょう。もしかしたらすでに叛乱軍が接触を図っていて、意図的に帝国軍を閉め出したのかも。竜を貸したくない口実かもしれないでしょ。いつでも裏の裏を予測しないとだめです。信じすぎだ」
 アインが拍手をした。
「同意見です。タイミング良く深刻な問題が発生ですか? いや、ここは疑う以外ないでしょう。万が一にも空を封じられてしまったら、こちらは圧倒的不利になります。あまり言いたくもないのですが、ここでの判断が勝敗を分けるような気がしてなりません。無駄足であっても構わないので、探りを入れることを提案いたします」
 ウィンディは一同を見回して、「異議のある人」と訊いた。誰も名乗り出ない。「では、早急に検討して話を進めましょう。この件はあたくしに一任してくださるかしら。軍を率いてぞろぞろ押しかけて、刺激してはいけないからね。できるだけ少人数で、それと悟られないように接触しましょう」
「ウィンディさまにお任せいたします」
「アムリット」とウィンディは呼んだ。「あなたが適任だわ。年齢的にも怪しまれない。竜騎士に接した経験もあるし、頭も回る」
「おれ? い、いや、わたしが?」
「そうよ。みんなそれぞれ持ち場があるし、自由に動けるのはあなただけですもの。あたしもできる限り助言するから、思い切ってやってみなさい。成功したら、皇帝陛下に推薦状を書いてあげる。将軍になれるかもしれなくってよ。どう? 悪い話じゃないと思うんだけど」
 うっ、と喉が詰まった。また遊ばれてしまった。端から見たら師匠が見込みのある弟子に敢えて難しい役を割り振って、花を咲かせようとしているように思うだろう。残念だがそんな心温まる話ではない。そして承諾もあらかじめ脚本に書かれていることだ。
「はい。わかりました。つつしんで承ります。あと、自分は将軍の器ではないので」
 拒否という選択肢はない。敵の本拠地に特攻しろと命じられたわけでないからとりあえず平静をよそおっていられるが、ウィンディの与える情報には必ず嘘が混じっている。疑わなくてはいけないと思えば思うほど、不安もまた膨らんでゆく。
 初めて幹部連中の前に顔をさらせと命じられた。初めて帝都の外へ出陣を命じられた。あまりにも急激すぎる変化だ。ウィンディの企みが読めない。
 そこからの会話はほとんど頭に入ってこなかった。取りこぼしのないように意識を集中させても、不思議なほど内容が理解できない。その異様さに気づいたとき、魔女と目が合った。
 嗤っていた。
 あっ、と思った。聞かせたくない話を遮断して孤立させ、さっきの指令を記憶に埋め込み固定しようとしている。疑念を持つであろうことをあらかじめ想定しているのだ。
 ウィンディはいつも先回りをする。ならばテッドはさらにその先を往こう。戦う相手はウィンディひとり。矛先を己に向けるべからず。内部に葛藤のあるとき、ジェンマの教えは役に立つ。
 会議は二時間ほどで終了した。皆に釣られて席を立つと、アインが握手を求めてきた。
「きみには感銘した。しっかり、大役をこなしてくれたまえ。またお目にかかろう、アムリット・ベラスケスくん」
 武人と言うよりも研究者のような風貌だが、そこかしこにテオの影響をひしひしと感じる。鉄甲騎馬団の後方支援を任されながら、敬愛する上司を救うことができなかった男。その傷はどれほどの痛みを彼に与えつづけるのだろう。後悔の念に苛まれながら、それでもテオの遺志を継いで帝都に殉じるつもりなのだ。大きくてごつごつとして、あたたかい手のひらだった。この人にはできたら本当の名前で呼ばれたかった。
 アインが立ち去ると、黒騎士ユーバーはじろりとテッドを睨みつけた。両の瞳が左右で色の異なる邪眼であることをその時に知った。
「あたしのものなんだから、壊しちゃだめよ、ユーバー」
 悪魔はくっくっと喉を鳴らした。「わかってますよ、宮廷魔術師さま。わたしの殺すのは人間の虫けらだけです。とうに壊れたお人形さんになど興味はございません。ですが」
 ユーバーの左手が閃き、テッドの手首をつかんだ。強い力で引き寄せられて、背後の壁に押しつけられる。続いて顎の下あたりに鋭い痛みが走った。
「くっ……!」
 目にも止まらぬ速度で鞘から抜かれた剣の切っ先が、皮膚に食いこんでいた。
「フン。その眼が気に入らん。きさま、人形のフリをした虫けらか? だったらこの場で殺す」
「ちょっと、そのくらいにしてちょうだい、ユーバー」
 ウィンディがのんびりとたしなめた。他の者はすでに玄関ホールに出ていて気づいていない。
「虫けらのままで苦しめなきゃ復讐になんないでしょ。あんたにはたくさん虫けらをあてがってやってるじゃない。それで満足して。この子はあたしのよ。絶対にダメ」
「ちっ」
 触れていた刃が離れていった。テッドは首を押さえて大きく喘いだ。傷は深くはないが出血が多く、胸元あたりまでべっとりと付着している。
「コートを着なさい。見られたら面倒だわ」
 ウィンディが命令した。ユーバーは鎧をガシャガシャ鳴らして外へ出て行こうとした。
「帰るの? せっかくだし何日か滞在していけばいいじゃない。客用の立派なお部屋を用意してさしあげてよ」
「お申し出はありがたいが、ご遠慮します。社交ダンスは性に合わないもので。野良で人を斬っているほうがずっと愉しいんでね。では、ごきげんよう」それからテッドに向かっての捨て台詞。「こぞう。これ以上俺様に例外を作らせるなよ。いつか必ずクリムゾンの餌食にしてやる。この方が飽きて放り出すまで、せいぜいみじめに生きるんだな。くっくっく」
 震えが止まらない。邪眼の男にはこの先も蛇のようにからみつかれるだろう。それほどまでに激烈な恨みをテッドに抱いていたのか。三百年前の記憶は霞がかかったように曖昧で、ユーバーを怒らせた原因など覚えているはずもない。
「怖かったわね。かわいそうに」
 ウィンディはにやにやとしてテッドの肩に手を置いた。まったくこの女はいちいちふざけている。むっとして払いのけ、止血のために傷口を強く押さえた。ずきずきと痛みが駆け抜ける。あとわずか深く食いこんでいたら、確実に頸動脈を傷つけていただろう。
 近衛兵が後片付けにやってきたので二人は食事室をあとにした。ウィンディは廊下に立っている兵士に話しかけた。
「検めなければならないものはどこ?」
「手前の大広間にまとめてあります。こちらです、どうぞ」
 兵士は向かい側の部屋に案内した。勝手知ったる家ではあるが、うかつに歩き回ることはできない。なつかしさよりも先に悲しみのほうが強くにじみ出てきた。自分がつけた血のしみが玄関ホールや廊下の絨毯に黒ずんで残っていた。まるで殺人現場の惨劇だ。今更だけれど、生きているのが不思議でしょうがなかった。
 どうして戻ってきてしまったのだろう。
 何万回めかの後悔をくり返す。降りしきる雨の中で絶望に歯噛みしながらまっ先に思い浮かべたのがこの家だった。寄り道をせずに堀に身を投じれば、紋章とともに濁った水の底に沈むこともできた。ほかにも方法はあったはずだ。優しい人たちを巻き込むことになると想像もできなかったあの日の自分が愚かすぎて、情けなくて、悔やんでも悔やみきれない。
 今、なぜ自分だけがこの家にいるのだろう――
「重要なものはこれといってなさそうね」
 ウィンディの声で我に返った。大広間は数本のろうそくで控えめに照らされていて、床の中央に本や紙の束、日記帳、畳まれた衣服や武具などが乱雑に積まれているのが見えた。ふと見ると、その中に自分の弓と矢筒があった。大事にしていた鉄の弓だ。
「あっ……」
 テッドは弓に触れ、ほほえみ、愛おしげになでた。まだこの家に残されていたことが驚きだった。処分されてしまったものと覚悟していたのに。
「それは、あんたの?」ウィンディが訊いた。
「うん」
「持って帰ってもいいのよ。どうせこのあと処分するものだから」
「……ほんとに?」
 喜びを隠しきれなくて、子供っぽい反応になってしまった。ウィンディはくすくす笑って、テッドが矢筒を背負うのを見ていた。そのあと兵士に向かい、「ここに残っているものはぜんぶ処分して結構よ」と告げた。
 迎えの馬車が到着したと近衛兵が呼びに来た。玄関を開けると外はすでに暗く、雨が激しく降っていた。中央広場の瓦斯灯がぼんやりと光っているのが見える。
 あの夜と同じだ。テッドは振り返り、家の中を見渡した。
(心配するな。おれも逃げ切ってみせるから。必ずこの家に戻ってくるから)
 その約束は親友を逃がすための嘘だったけれど、結果として半分だけは守られた。もう二度とこの家に帰ることはないだろう。諦めというよりは予感である。行き過ぎた期待は荷物になるから持たないと昔から決めている。だから今回は約束しない。
「その弓があの子に向けられないといいわね」
 挑戦的な言葉がウィンディの口を衝いて出た。テッドは感情を閉ざし、その刃をかわした。