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官邸占拠

 市の秩序維持請負機関である憲兵たちの執拗なまでの警戒は続いていたが、ヴィクターが隠密裏に動くよう『ハッシュ』の各員に伝達したことにより、治安は表向きには保たれているように見えた。ハッシュはその名のとおり『沈黙する』者となったのである。息をひそめながら、彼らは真の敵をさがしていた。
 変化に乏しい毎日だった。ダウン・タウンは雑多な喧噪を連れ歩きながら明けて、また暮れる。貧乏人のすべてを養えるほど仕事の口があるわけでもないのに、不思議とこの街で飢えて死ぬ者が少ないのは、砂漠という厳しい自然状況で暮らす人々の連帯感が弱者を支援しているからだ。
 モルグ(遺体安置所)という小洒落た通り名のついた一角に、コーネリアスの診療所はあった。ろくな設備も医療器具もないにかかわらず、けっこう繁盛していた。もっとも患者のほとんどが貧困層だったので、儲かるという言葉とは無縁であった。看護師を雇う金銭的余裕もなかったし、医薬品の調達にも四苦八苦する始末で、開業していられるのが不思議なくらいだ。それでもコーネリアスは当初の信念を曲げなかった。
 ダウン・タウンの子供たちのほとんどが、モルグの町医者に風邪だの腹痛だのを診てもらった経験があった。うだつがあがらない男なのに、「コーネル先生」はストリートの人気者であった。四十路に片足を突っこんでいるのに結婚もせず、いつも消毒薬の匂いをまとわりつかせて、トレードマークの白衣をだらしなく羽織って往診に駆け回る医者に住人たちは最大の好意を寄せていた。
 その日の診療費もコーネリアスは湯気のたつ饅頭で受け取り、温かさを逃さないように衣服の下に入れて十三番街を急ぎ足で歩いていた。長患いで苦しむ母親を診てもらうせめてもの礼にと、幼い子供たちが朝早くから粉を練り、貴重な肉も少しだけ入れてつくってくれたのだ。そのことをコーネリアスはよく知っていたので、いやな顔ひとつしなかった。診療に対する、正当な報酬なのだ。遠慮をしては逆に子供たちを蔑むことになる。
 昼食も忘れて駆けずり回っていたので、腹が不服を訴えていた。コーネリアスは彼のいまもっとも気にかけている患者とこれを食べるつもりだった。患者の家は十三番街のはずれ、いまにも崩れそうなボロアパートの二階にある。
 アパートの階段は、コーネリアスの軽い体重にも不満を漏らして、ギイと軋んだ。格闘家のような体型の住人や、入り浸っている酒場の亭主が、よく踏み抜かないものだ。修理しないのは、侵入者が来てもすぐにわかるようにだと住人は笑っていたが、とってつけた言い逃れであることは明白だった。
「ごくろうさん、アンテセブテック」
 今日迎えてくれたのは、酒場の亭主のほうだった。住人は用心棒の仕事に出ている時間である。
「やれやれ。今日も風が強くて砂だらけになったよ」
 コーネリアス<アンセテブテック(消毒薬)>は廊下で白衣を二三度叩いてから、中にはいった。衣服の下から紙袋に包まれた饅頭を出す。
「みやげか」
「ダメですよ。これはテッドくんとぼくの昼食ですから」
「ちっ、つまんねえ」
 コーネリアスは柔和にほほえんで、「ひとつだけなら、どうぞ」と取りだした。ヴィクターの眼がきらりと輝く。この部屋では食べるものも酒も制限されているので、留守番のあいだはいつも苦痛だった。
「どうです、その後」
 コーネリアスは奥のドアに目をやりながら訊ねた。
「うーん。相も変わらずってトコだな。むしろ夜なんか酷くなってるって気もするぐれえで。ゆうべも片っぽ引きちぎりやがって、縛りなおしたらしい」
「そうですか」
 医者は声を落として、続けた。「いまが正念場かもしれませんね。正直なところ、どんな薬もあの子を治すことはできないんですよ。医者として悔しいですけど。あの子が自分自身でどうにかしようと思わないことには、どうしようもないんです。ああなったのはなにがきっかけだったのか、わかればよいんですけどねえ」
「そりゃあ、あれだろ。盗賊団で味わった恐怖が」
「ぼくが思うに、それは原因ではありませんね」
「あんたに、なんか喋ったのか。テッドは」
「いえ、あの子はなにも言ってくれません。言えないなにかに、ほんとうの原因があるような気がします。おそらくですけれど、自分が非覚醒時になにをやっているのかの自覚もないんでしょう。お話をしているとわかりますが、あの子はとても頭がいいです。自信もたっぷりで」
「皮肉もばんばん言いやがるしな」
「まったくです。でもね、あの子はここで自分を否定してるんですよ」
 コーネリアスはそっと胸に手をあてた。
「自傷行為というものは、無意識に力をセーブする場合が多いんです。つまり、ほんとうに死んでしまわない程度にね。あの子は、その歯止めが効いていないように見えます。まあ、特異なケースですね。なにかよっぽどのことがあったんでしょう」
 コーネリアスはふうと息を吐いて、「しまった。お饅頭がさめてしまう」と言った。
 いつもと変わらぬ体勢で、テッドはベッドに括りつけられていた。手首の紐は前回見たときよりもさらに頑丈で、胸から下も輾転できぬよう幾重にも縄がかけられていた。
 痛々しい床ずれの部位に軟膏を塗ることだけが、コーネリアスにできる治療だった。心の病は専門ではない。へたに治療を試みて、よけい深刻になってしまったら元も子もない。
「こんにちは、ソウルイーター。ごはんを持ってきたよ」
 もごっ、と声にならない音がした。口の布をはずされて、テッドはようやく大きく息をついた。
「ふえぇ。あー、もう。こんだけは勘弁してほしいよな、ったく」
「そうですね。やってるこっちもつらくなります。もうあんなことはしないとお約束してくださったら、考えましょう」
 あんなこととは、自分に向けた攻撃欲の始末に窮したテッドが唇や舌先を無茶苦茶に噛んで、ショック症状に陥った事件のことだ。お約束もなにも、無意識下の衝動なので制御しようがない。テッドはぶすっとした顔を天井へ向けて、敗北を認めた。
「ぬるくなってしまったけど、さっき蒸したばかりですよ。少し、食べてみませんか」
 饅頭の端をひと口大に千切り、テッドの口元へ持っていく。唇の両端になぜか青痣があった。わりと新しい傷も目につく。手の包帯は取り替えた方がいいだろう。
「臭い」
 テッドは眉をひそめて、唇を結んだ。苦手なニンジンを押しつけられた幼児のようである。
「まだ、嘔吐はありますか」
「それほどひどくもないけど」
「じゃあ、我慢してでも少しお食べなさい。いくら寝たきりとはいえ、栄養を摂らなければ身体が参ってしまいます」
 隙を見て押しこまれないように警戒しながら、テッドはもごもごと反抗した。
「だって、それ、いやな匂い。キモチ悪い」
「以前から、好き嫌いはあったのですか」
「そんなえり好みできるほど、いい育ちはしてねェよ」
「だったら、騙されたと思ってひとくち入れてごらんなさい。あんがい、おいしいかもしれませんよ」
「肉はいってるだろ、それ」
「いいお鼻ですね。じゃあ、ぼくがわざと動物性蛋白質を持ってきたこともお見通しなのかな」
「なんで医者ってのは、どいつもこいつも狡猾なんだ。近づきたくない人種の筆頭だな」
「はい、病人はつべこべいわない。冗談はさておき、ほんとうに食べられそうにないですか。あまり無理をさせるのもよくないか……」
「悪い。肉の匂い、イヤなんだ。食えない」
「しかたないですね。なにか、かわりのものをつくってきます。眠らないで待っていてくださいよ」
 立ちあがりかけたコーネリアスを、テッドが引きとめた。
「なあ、頼みがあるんだけど」
「はい? なんですか」
「ドラムヘッドから、離れたいんだ。あんたんちでも、プラグのとこでもいいや。ここじゃなかったら、どこでも」
 この少年が、どんなことでもお願いを口にするのははじめてだった。しかもひどく面倒で、難しいお願いだ。叶えてやるには理由も尋ねる必要がある。
「どうして。ケンカでもしましたか」
「そういうわけじゃないけど……」
 返答を濁す。確たる理由はないような雰囲気だ。頻繁に出入りする三名のなかではもっとも気を許してそうな感じだっただけに、唐突ともいえる敬遠は少し不自然だった。
「ぼくの診療所は入院設備もないですし、プラグのところも目立ちすぎます。どうしてもというのであればほかのメンバーをあたってみますが、すぐにはむりですよ」
「どうしても。できるだけ早く」
 コーネリアスはため息をついて、寝室をあとにした。

 ダウン・タウンで木賃宿を切り盛りしている老夫婦へ注文の食前酒一ケースを届けたエリスは、ロビーのあるサロンで大衆小説を読みふけっている用心棒に気づき、声をかけた。
「ドラ……じゃなかった、ヨゼフ、ずいぶん退屈そうなお仕事ね」
「そっちは、力仕事か。ごくろうさんだな」
「配達担当のぼんくら亭主が、油を売ってるもんでね」
「おー、そういやきょうは看護婦さんの日だったな。悪いなエリス」
「これだから男どもは……変わってもらおうかしら」
 心にもないことを言って、ヨゼフを笑わせた。社交的なエリスはひとりの陰気な病人より、酒場で大勢の酔っぱらいを相手にしているほうが好きなのだ。
 エリスはヨゼフの幼なじみで、はじめて惚れた女だった。けしてヴィクターに遅れをとったわけではなく、むしろ積極的に求愛していたのはヨゼフなのに、敵は女性の母性本能を刺激する技で(いわゆる、放っておいたら道端で凍死しかねないと思わせる裏技で)エリスをものにしてしまった。完敗である。
 しかし、エリスとヴィクターの結婚はヨゼフの人生にも光をもたらした。夫婦の住居はヨゼフにとっても帰るべき我が家になった。ハッシュという新たな絆が信頼をさらに深めた。過去の三角関係など、もはや問題にもならない。
 ハッシュという地下運動が政府に目をつけれていて、いつ何時投獄されるかもしれない危険をはらんでいても、理不尽なことに対しては徹底して強攻策をとる考えだ。その点ではダウン・タウンの住民すべての意見は一致していた。これほどの規模の連携は類を見ない。いかに市長がダウン・タウンに信頼されていないかの証だった。
 しかしどこに密告屋の眼があるかもわからない。地上では平凡な一市民をよそおい、本名で呼びあい、ごく日常的な会話をする。ハッシュのリーダー格とてそれは変わらない。
「ン? 宿代踏み倒し犯とでも格闘した?」
 短めでコロンとした指がヨゼフの口元に触れた。切れて周囲が青く痣になっている。ビリッとした痛みが這い、ヨゼフは顔をしかめた。
「ゆうべな。猫ちゃんにひっかかれた」
「悪さをしたんじゃないの」
「亭主みたいなことを言うな。あんまりニャーニャー啼くもんでよ、寂しいのかと思ってだっこしてやったら、毛ェ逆立ててガリッ、だぜ。痛ぇのなんの」
「だっこォ? あんたまさか、妙な育児書にでも感化されちまったんじゃないだろうね」
 ヨゼフはぎくりとした。図星であった。手のかかる子供の原因と対処法をいろいろと羅列した子育て支援本がたまたま宿の休憩室にあって、戯れにぱらぱらとめくってみたら、書いてあったのだ。問題行動を起こす子供は幼児期の抱擁が足りていない場合が多い、と。これか、と妙に納得して帰った矢先、テッドがまた酷くもがいて身体を傷つけようとしたのだ。
「さては、大当たりだね。バッカだねえ。そんなの逆効果だってこと、認識しなよ。あんたは父親じゃないんだからさ」
 エリスはテッドに会ったことはない。しかし事情はすべて知っている。赤の他人の疑似愛情で落ち着くなら、医者も多忙を押してかよう必要はないし、ヴィクターも夜遅くまでぼんやりと考えこんだりはしない。
「できることとできないことってのが、世の中にはあるんだよ。無理強いしちゃいけないやね」
 傷が思いだしたようにズキズキと疼く。エリスの叱責はどんな消毒薬よりも沁みた。
 居候が夜中に何度もうなされるので、ここしばらくヨゼフは熟睡から遠ざかっていた。回復に向かうどころか、日に日に悪くなっている。このまま家へ置いて、ほんとうに大丈夫なのだろうか。不安に思いはじめていた。貴重な情報源であることは確かだが、ハッシュの足手まといになっては困る。
 寝袋に半身を入れて暗い天井を見ていると、隣からどすんという派手な音がした。
「あいつ、また」
 飛び起きると、寝室のドアを蹴破るように開ける。頑丈に固定したはずの紐がちぎれていた。不気味な痣のある、右手のほうだ。テッドはまだ覚醒していないのか、自由になった腕を激しく壁に打ちつけた。口の布はずり下ろしたのだろう。首に窮屈に巻きついている。声すらまともにあげられないほど、苦しげに酸素をむさぼっていた。
 とんでもない力だ。手首は血だらけだ。痛みすらもこの衝動をとめられぬのか。
「テッド、おいテッド!」
 いつもなら再度縛りつけてそのままにしておくのだが、今日ばかりは見ていられなかった。暴れる右手をつかむと、テッドは目を閉じたまま呻いた。唇が、なにか言葉を刻む。
「お、じい、ちゃ……」
 おじいちゃん?
 飛び散った血痕と大量の汗が濡らす顔を、苦悶の表情が走り抜けた。
「もう……イヤ、だ……こんな…の……」
 はじめて。
 テッドが幼い”子供”に見えた。
 ヨゼフは迷いもせず、テッドを抱きしめていた。くだらない、ほんとうにくだらない同情である。それは自分自身がよくわかっていたが、それでもせずにはいられなかった。
 腕の中でテッドは硬直し、右手が痙攣した。くぐもった叫びが漏れた。
「やっ……」
 目が覚めたのだろう。このままおとなしくしていろと言わんばかりに、ヨゼフは腕に力をこめた。
「やめろー!」
 絶叫であった。次の瞬間ヨゼフは、己の迂闊さを後悔した。眠るときも用心のため胸のポケットに携帯しているナイフが、仇となった。テッドは瞬時にそれを見切ると、凄まじい力で右手をふりほどいて、引き抜いた。柄の部分ではなく、刃を掴んで。
 密着するふたりの中間に、ぽた、ぽた、ぽたと赤い雨が降った。
 格闘を生業とするヨゼフが驚愕するほど、素早い動きであった。
「よせ……テッド……指が落ちちまう」
 そっとなだめるように、小刻みにふるえる右手に触れ、茶色の瞳をのぞきこんだ。その瞬間、ヨゼフは戦慄した。
 人の眼をしていない。
 完璧な、殺意。
『ペトルーシャに、教えてもらったのさ』
 自分の殺しかたを。
 凶器を喉に突きたてる直前に、ヨゼフは渾身の力をこめてそれをはじき飛ばした。間髪をおかず、同じ手がテッドの頬を平手打ちした。
 一度では飽きたらず、二度、三度。
 口の端が切れて血が滲んでも、緩めなかった。
 テッドの受けている痛みが、自分に跳ね返ってきた。馬鹿野郎。馬鹿野郎。何度も叫んだ言葉は自分への嘲笑でもあった。
 はあはあと肩で息をし、ヨゼフはテッドの身体にまたがったままうなだれた。テッドは抗う意欲もないらしく、冷ややかな眼でヨゼフを見つめていた。
「どんな理由があっても……生きるのを諦めたら、終いなんだぞ」
 やっとそれだけを絞りだしたヨゼフに、テッドは侮蔑の色をこめて言った。
「砂漠のやつらは、みんなそろいもそろって同じことを言うんだな」
 ヨゼフは目を瞑った。たしかに陳腐な言いぐさだ。狡賢いおとなの逃げ道だ。どんな教訓めいたことを告げても、この子はすべてお見通しなんだ。
「……重い。どけてくれよ」
 心底つらそうに、テッドが身体をよじった。ハッとして、ベッドから下りる。またもとのように縛りつける前に、掌と指と口元を治療せねばなるまい。
「救急箱を、とってくる」
 居間へ戻ろうとすると、テッドが止めた。
「よけいなこと、しなくていい。さっさと縛るなりなんなりして、失せろ」
「……悪かった。すこしやりすぎちまったな」
「ドラムヘッド」 テッドはヨゼフのコードネームを呼んで、少年にはおよそ相応しくない、脅迫の言葉をささやいた。「これ以上おれに構ったら、殺す」
「ヨゼフ?」
 思考は、エリスの小鳥のような声で中断された。
「おもてがなんだか騒がしくない?」
 ダウン・タウンなんていつでも騒々しいじゃないか、と言いかけてヨゼフも尋常ではない外の気配に気づいた。宿の客も数人、不安そうに客室から顔をのぞかせた。
 それが拡声器をとおした治安部隊の警告であることは、すぐにわかった。窓から様子をうかがうと、いつも怠そうに通りをパトロールしてまわっていた憲兵の姿はなく、いかつい鎧に身を包んだ歩哨が外出禁止を叫んでいた。
「市民は、許可なく屋外に出ないでください! 外出中の方は、最寄りの建物にはいり、指示をお待ちください。帰宅しようとなさらないでください。市街は一時封鎖されます。くりかえします、市民は許可なく屋外に出ないでください」
 武器屋にでかけていた旅の戦士が、大急ぎで宿へ帰ってきた。背後から歩哨がやってくる。
「いま、中にいるのは何名だ? ……十二名。よし、許可が下りるまで扉をあけてはいけない。外へ出たら命の保証はないから、そのつもりで」
 扉が閉じられると、旅の戦士が大汗をぬぐいながら言った。
「戒厳令らしいですよ。いやあ、まいったまいった。あす発とうとしたのに、足止めをくらっちまいました」
「なにが起こったんですか」
「聞く話によるとね、市長が殺されたそうなんですよ。ほら、防砂林堤防の着工式典で演説するっていってたでしょう、向かおうと官邸を出たとたんに待ちかまえていた連中に八つ裂きにされたんですと」
 一同は目を剥いた。もっとも慌てたのはエリスだった。
「まさか犯人がダウン・タウンのなかにいると疑ってるんじゃ」
「いえ、犯人一味は市長殺害後、官邸を占拠したそうなんです。まだなんか目的があるみたいでね。人質も犯人グループもひとりふたりじゃないそうで、中央区はおおごとになっています。さっきの兵隊さんのせりふじゃないけど、おとなしくしてたほうが身のためって雰囲気ですよ」
 すぐに真の紋章を巡る争いが起こる、とテッドが言っていたのを思いだした。想像ではあるが、事件はなにかそれと関係ありそうな気がした。
「ちょっと小耳にはさんだんですけどね」と戦士はヨゼフに言った。
「犯人一味は、数日前に忽然とあらわれて中央区をうろうろしてたんだそうです。偵察でしょうね。なにしろ目立つ連中ですから、かなり噂になってたそうなんですよ」
「目立つって?」
「みんなそろって肌の色が褐色で、南方から来たって感じでね。それに格好が、袈裟みたいなやつだったそうで。女も男もいたそうですが、どこかの国の坊さんが集団で旅行するような場所じゃないですしねえ、ここは」
「なるほど。そいつぁたしかに怪しさ爆裂だ」
 テッドならなにか知っているかもしれない。ハッシュの『戦う相手』が官邸占拠犯かどうかも、見極める必要がありそうだ。宿屋からアパートまでは歩いて五分ほどしか離れていないが、いまはその距離が絶望的なほど遠く感じられた。
「水だよ」
 ふいにエリスがつぶやいた。さらに声をひそめる。ヨゼフにしか聞こえないようにして、こっそりと耳打ちした。
「中央区にある泉。ヨゼフ、あんたあれがそのまんまあそこにわいているとでも思ってたかい? ふふっ、冗談じゃないよ。あれはね、ダウン・タウンのすぐ南にある地下水源からひいてるんだ。パイプを伝ってね。掘削工事したときの地下道が、いまもそのまんまに残されてんのさ。たぶんお偉方はすっかり忘れてると思うけど」
「使えるのか」
「バッチリ。ただし真っ暗で足場は悪いし、砂漠ネズミがうようよ」
「どこからはいれる」
「このへんの排水溝からなら、どっからでも。こういうことはね、大人より子供たちのほうが詳しいよ。あたしもケーキ屋のネイサンに聞いたんだ」
「ネイサン、ああ、ロックレスタに住んでる鼻のぺちゃんこなガキか」
「ぺちゃんこが聞いたら怒り狂うよ。でもあの子の言うことはたしかでさ。いっぺんヴィクターともぐってみたけど、なるほどありゃ奇蹟の泉がダウン・タウンにくれた恩恵ってやつだと思ったね。そんとき旦那と計画したんだ。なにかあったら、地下道を使って『クリプト』に集合」
「なかなかいい感じだ、エリス。いや、『シルバ』」
 エリスはびっくりしてきょろきょろとした。さっきの戦士も、客たちもみなそれぞれの話に夢中で誰もこちらを見ていない。宿の老夫婦以外はエリスとヨゼフを夫婦と勘違いしたのだろう。ひそひそ話に聞き耳をたてるような野暮な人間はいなかった。
「そうと決まったら、行くよ、ドラムヘッド」
「ああ。ちょうど勝手口の真ん前にドブ臭い排水溝があるんだ。あれをラッキーと思ったのは、はじめてだぜ」

 外出禁止令はヨゼフのアパートにも届いていた。がなりたてる拡声器の音はだんだんとひび割れてきて、けっこうな騒音であった。テッドは顔をしかめると、指で耳栓をしているヴィクターとコーネリアスを恨めしそうに睨みつけた。
「さて、なにがあったと思う、ソウルイーター」
「知るか。ま、おおかた例のヤツらがようやく騒ぎを起こしましたってとこだろ」
 テッドはぶすっとして言った。
「例のヤツら、ね。おまえは正体を知っているのか」
「おれだってペトルーシャに聞いただけだ。自分で見たわけじゃないから、なんとも言えない」
 そう前置きをして、続ける。
「ずっと南のほうに、いっぷう変わった宗教を信じている地域があってな。ああ、仏教っていったかな。そこは、”夜の紋章”を代々継承していたんだ。でもさあ、なんか仲間割れしちまったみたいで。混乱に乗じて紋章を盗みだしたのが、ペトルーシャ。あいつもとんでもない男だったけど、なんでだか夜の紋章がヤツを気にいったらしくてさ。紋章なんて気まぐれだからな」
 紋章が人を気にいるだの、気まぐれだの、ヴィクターたちには理解以前の問題だったが、黙って聞いていた。
「だけど今度は、ペトルーシャが逆に紋章を盗まれた。泥棒団は誰だと思う。もともと紋章を持っていた、仏教教会のなかのグループだ」
「持ち主に返ったというわけか」
「おっと、そうじゃない。そのグループってのは、本来の継承者じゃないんだ。仲間割れをして独立した連中でさ、長老派というのを語っているほうだ。宗教家だって聖職者の面かぶってなにすんのかわかんねえよ。夜の紋章がどうしても欲しかったんだろうな。復讐するためにも」
「復讐?」
「過大な力ってのはな、手にいれたやつの意志とは関係なしに、妬み恨みつらみを吸い寄せちまうもんなんだよ」
 語尾は消えいりそうだった。なにか別のことを考えているような表情で、唇をきゅっと結ぶ。
 ヴィクターが話を引き継いだ。
「と、いうことはだ。例のヤツらというのは、その教会の長老派ってことだな。けどよ、なんでそいつらがわざわざうちの街で騒ぎを起こす? とっとと持って帰ればいいじゃねえか。そんな薄気味の悪いもんはよ。それともなにか? せっかく手にいれた真の紋章だから、力をためしてみようってのか。まるで北の……」
 口にしかけて、ヴィクターははっとした。
「まさかそいつら、夜の紋章を使って、北をあんなめに遭わせやがったのか」
 握った拳がふるえるのがわかった。いま思いだしても戦慄する。人間の仕業とは思えぬ、異常な光景。
 テッドは視線だけヴィクターに向けた。きっぱりと否定する。
「違う。北で暴走したのは、まったく別の紋章だ」
「真の紋章が、そんなにいくつも砂漠にころがっているというのか。どうなっちまってるんだ、くそっ」
「訊きたい?」
 テッドが低く言った。茶色の瞳がヴィクターをまっすぐに見ている。
「おう。こうなったらもう驚かねえぜ。なんでも言っちまえ」
「後悔しない?」
 またもやヴィクターは迂闊だったのだ。やんちゃそうな瞳に騙された。後悔してもしきれないほどの恐怖を、彼は味わうことになる。
「……北の街で暴走したのは、27の真の紋章のひとつ、『生と死を司る紋章』」
「生と死?」
「ああ。この世でもっとも呪われた紋章と言われている。別名があるんだ」
「……?」
「『ソウルイーター』ってね」
 重力が覆いつつんだような沈黙をはさんで、最初に呻いたのはコーネリアスだった。彼は医者としてテッドの右手の包帯を何度か取り替え、その甲にある気味の悪い痣も見ていた。残念ながら彼に紋章の知識はほとんどなく、その痣が紋章の焼きついた痕跡であることは想像上でしか知ることができなかったのだ。いま、はっきりとそれが一致した。
 ヴィクターの喉がからからに渇いた。水をくれ。喉を潤す、あの冷たい水だ。
 テッドの視線を逃れることはできなかった。やはり悪魔だったのか。ヨゼフ、おまえはとんでもないものを拾ってしまったぞ。
 テッドの薄ら笑いが消えた。裁きを下す審理官が、無情を告げるかのように口をひらく。
「……ここで、決裂だね。ほどいてくれたら、おれ、ひとりで行くよ。あんたたちには世話になったから、感謝してる。最後まで協力できなくて悪いな」
「ひとりでどこへ行くつもりだ」
「イシュトバーン・スンダクという男をさがす。夜の紋章の正統なる継承者で、この砂漠にいることがわかってる。長老派のリーパー(刈る者)も、せっかく奪った夜の紋章に手をこまねいて、イシュトバーンをおびき出そうとしてるんだと思う。たぶんやつら、この街をまるごと人質にすることくらい平気でやるぞ。おまえらも、戦うんだな」
 ヴィクターにはテッドを引きとめることはできなかった。無言で、縄をほどく。手も足もがりがりに痩せていまにも折れそうだ。こんなになってまで、なにがおまえの足を立たせる、ソウルイーター?
「ペトルーシャとイシュトバーン。恩人には、借りを返しとかなきゃ」
 別れる直前、テッドはそれだけを言った。ヴィクターは黙って、『クリプト』の地図を右手に握らせた。


2005-12-21