夢うつつで笛の音色を聴いていた。けして個性を主張しない、とつとつとした演奏であるにもかかわらず、浸らせてくれる心地よさがあった。音楽もあんがいいいものだ、とテッドは思った。ここが地獄でなければの話だけれど。
倒れたことすらも、テッドは憶えていない。いちどきに大量の魂が流れこみすぎて、堤防がやすやすと決壊してしまった。老人の魂を喰らったときに感じた右手の激しい痛みも、それが何千何万人ぶんともなると、宿主を卒倒させるのに余りあった。地面に激突する直前に、テッドは笑んでいた。砂を噛み、その瞬間に意識が飛んだ。相棒が幾度か語りかけてきたようだったが、面倒だったので適当に無視をしておいた。意識は断続的につながったり切れたりを繰り返し、そのたびに少しずつ身体が砂に埋もれていく気がした。
何人死んだ?
おれは何人殺した?
自問自答しても、気が滅入るだけであった。いまさらしてしまったことを数字に置き換えてもどうにもならない。
疲れた。このまま眠ってしまおうか。砂漠の夜は冷えこむ。うまくいけば、永遠に眠ったままでいられるかもしれない。苦しむこともないだろう。眠るだけだ。ちょっと、眠るだけ。
笛も、最初は幻覚かと思った。砂嵐の音か、さもなくば自分の血流をそれと勘違いしているのだと。しかし音色はたしかに音楽を奏でていた。音ではない。音楽を。
ぴたりと止んだ。ほうら見ろ、やはり気のせいだった。いま生きてこの地にいるのは、おれと相棒だけだ。鳥も犬も虫けらも残っちゃいない。
ふわりと身体が浮いた。屈強な腕が命の残り火を砂からすくいあげたのだ。小さな躯は簡単に抱きあげられ、力なく救済者に身をゆだねた。
なんと軽い。若き僧侶イシュトバーンは世の無常に胸を痛めた。肩口に酷い刀傷がある。血液は凝固して、元は青色だったと思われる衣服をどす黒く染めていたが、出血はそれ以上認められず呼吸も比較的安定していた。適切な手当てを施せば助かるだろう。
「イシュトバーン様」
法衣を目深にかぶったサーシャが横笛を懐へおさめ、不安な面持ちで導師を見あげた。小柄なサーシャよりも頭ふたつ分も高いイシュトバーンは、南方系の濃褐色の肌を持つ、僧侶よりは漁師の格好が似あいそうな逞しい男であった。
イシュトバーンの所属する仏教教会は、僧王派と長老派の内部抗争が激化し、勢力が二分化しつつある最中であった。齢二十にして僧王派の要職にあったイシュトバーンは、本来聖職であるべきはずの僧侶たちが争うのに耐えられず、異議申し立てを断行して寺を追われた。妻帯を認める僧王派の慣例に従い、熱心な教徒のなかからサーシャを娶ったが、彼女は夫がその地位を奪われたあとも父母の反対を押し切ってイシュトバーンと旅立つ道を選んだ。
頼る者もない布施の道行きである。ましてや四方に生ける者の気配を感じない地獄のただ中で、この子の手当てを望むことは不可能に等しい。
もたもたしているうちに、小さな命は確実に消えていくだろう。
イシュトバーンは唇を噛みしめた。教会のあった低デルタ地帯の熱帯林から、はるか遠い苦行の旅をしてようやく辿りついた砂礫の国で、幼子ひとり救うことすらできぬとは。
イシュトバーンとサーシャの目前で、砂漠の都市が異様な色の塊にすっぽりと包まれた。
人の仕業とは思えなかった。天から神が、あるいは死神が来迎し、人々の魂を根こそぎさらっていったかのようだった。悲鳴も、怒号もなかった。あったのはカタストロフ。理解をはるかに超えた天の御業だ。
「せめて、傷を洗う清冽な水でもあれば……」
サーシャは目を伏せて悔しがった。街には地下水脈があるはずだったが、いまそこに足を踏みいれることは無謀に思えた。傷ついた子供を背負って瓦礫を歩くわけにはいかない。いちばん近い都市でも六〇マイル離れている。途中は草も木も生えない灼熱の砂漠だ。
「サーシャ。わたくしたちがこの地を目指した目的は」
不意に訊ねられ、サーシャは面食らった。
「それは……略取された”夜の紋章”を探しだし、彼の地へお運びすることです」
イシュトバーンは頷き、テッドを抱えなおした。
「あなたは、この災厄が”夜の紋章”が招いたものであると、お考えですか」
サーシャは首を振った。
「いいえ。先ほど見た禍々しい気は、わたくしの存ずるどの紋章とも性質を異にします。たとえて申しあげるならば、常闇の気です。”夜の紋章”の性質は、星辰。世界に、まことに必要なだけの光をお与えくださる方です。あのような……おぞましいものではございません」
形のよい唇はうっすらと凍えていた。おぞましいもの。その形容すらも恐怖の前では色褪せる。世界の根源なる力のひとつが関与したのだと頭では理解できても、感情が遅れをとった。あと少し早く砂漠の街に着いていたら、地獄に巻きこまれていただろう。サーシャはぶるっと身震いした。
「サーシャ」
イシュトバーンはふたたび名を呼んだ。琥珀色の瞳がじっと前を見据える。
「はい」
「わたくしは、これも”夜の紋章”のお導きであると思います。困難ではありますが、いましばらく、この地にとどまりましょう。そうだサーシャ、わたくしは肝心なことを忘れておりました。水はあります。そこへこの子を託すことができるかもしれません。あなたにもわたくしにも、覚悟が必要でしょうが。おそらくは、この子にとっても」
「どういうことですか、イシュトバーン様」
「キャラバンの方々が恐れていた、砂漠の盗賊団。人道の欠片もない一味であるとうかがいました。いまのわたくしにはそれにすがるしか、この子を救う手だてはないと思います。わたくしは無力であることを後悔したくない。無駄にみえる道でも、たしかな過程であると信じたいのです。お許しください、サーシャ」
「御心のままに」とサーシャは頭を下げた。
イシュトバーンは悲しそうな顔になった。砂漠の荒くれに接触し、女性であるサーシャがどんな目に遭うかを考えると迷わずにはいられなかった。
「……もし、あなたがお認めくださるなら……わたくしたちは、ここでお別れしましょう」
イシュトバーンの言葉を予測していたのか、サーシャは毅然と首を振った。
「いやです」
「あなたは、殺されてしまうかもしれません」
「それでも」
法衣の奥から、イシュトバーンと同じ色をした瞳が力強く訴えていた。
「殺められようと、この身を蹂躙されようと、わたくしはイシュトバーン様のおそばにおります。おそばに……おりたいのです。どうか、お責めにならないでください。わがままなサーシャの願い、お聞きとりください、イシュトバーン様」
イシュトバーンの胸に、熱いものがこみあげてきた。愛しいサーシャ。夫婦とはいえ、身体を重ねたことすらない。ただいつでもそばにいて、イシュトバーンの行動を見守り、時には諫め、連れ添ってくれた。長く困難な旅路を耐え抜いてきたのは、サーシャが隣にいてくれたからこそだ。
サーシャ。星辰に祝福された女性よ。なにがあっても、わたくしがあなたを守りましょう。
イシュトバーンは頷き、霞む太陽に目を向けた。ぼやぼやしている時間はない。万にひとつの希望でも、逃してはいけないのだ。すぐに狼煙を焚き、砂漠の盗賊団に居場所を知らせなくては。
砂漠のことは砂漠に生きる者がいちばんよく知っている。うまくいけば”夜の紋章”の情報も聞きだせるかもしれない。いまさら危険を回避しても詮無いこと。それが試練であるのならよろこんで受けるつもりだ。
イシュトバーンは昏々と眠りつづけるテッドを見た。もう少しだけがんばってください。次に目覚めたとき、笑顔をわたくしに見せてください、と。
ダウン・タウンに夜はあってないようなものである。不穏な動きを鎮圧しようと政府が躍起になってみても、街をまるごと封鎖でもしない限り、厄介者の根絶は不可能だ。ハッシュの活動も正確には察知されていないだろう。市長を中心とする肥え太った腹黒軍団は、ヴィクターにとっていわば無能の寄せ集めだ。おそろしいのは、その裏で糸を引く不気味な影であった。
尾行はついていないと思うが、用心するに越したことはない。ヴィクターは路地から路地へ数軒の酒場を飲み歩き、ついでに酔っぱらい相手の花屋で白いカサブランカを五本買うと、いい気分をよそおってヨゼフのアパートにすべりこんだ。念のため外をうかがうが、憲兵に怪しまれた様子はない。
夏でもないのに古びた扇風機のカタカタと回る廊下を横切って、階段をのぼった。老朽化した木の床板がギシギシと音をたてる。宿屋の用心棒の安月給では豪邸暮らしなど望めるはずもないが、アパートの大家はハッシュの創立当初からのメンバーのひとりで信頼できる老人だった。
郵便受けがひとつぶら下がっているだけの素っ気ないドアをノックする。応答を待たずにヴィクターは中にはいった。
「よっ」
キッチンから、エプロン姿のヨゼフが顔を出した。野菜を煮込む甘い匂いが室内に充満している。
「なんだ、自炊に目覚めたのかドラムヘッド。似あわねえぞ」
「そっちこそ、なんでぇその花束。リボンまでつけちまって。シルバへのみやげのつもりか? けーっ、似あわねえ、似あわねえ」
「バカ抜かせ。女房だったら花じゃなくてロックレスタのケーキを買うさ。こいつは病人への見舞いだ。どうせおまえんちに花瓶なんて洒落たもんがあるわきゃねえよな。ソースの瓶にでも差しといてくれ」
「じゃあリボンはボクの頭飾りにでもしますか」
「喰われない程度にな」
ヨゼフはくっくっと笑ってスープレードルを振り回した。キッチンと直結した居間の奥に書斎兼用の寝室がひとつだけあって、当人はそこへ寝かされているのだろう。居間の椅子には寝袋が無造作に置かれていた。
「アンテセプテックは帰ったのか」
「さっきな。おれがいないときだけボクの面倒を見てもらってるんだ」
「なんだ。久しく会っていないから挨拶しときたかったのに」
ヴィクターは冴えない町医者の顔を思いだして軽く落胆した。儲からない診療所をもう二十年もダウン・タウンに開いている、くそ真面目な男である。
「あしたまた来るさ。今夜は泊まっていけばいい。あー、寝袋がひとつしかねえな。じいさんから毛布借りてくるか」
「なあ、そんなにずっと付き添ってなきゃならねえほど、悪いのか」
「ン? ボクか。そんなこたぁねえけど……ちょっとな」
ヨゼフは言葉を濁した。その様子が不自然で、ヴィクターは閉じられた寝室の扉を見た。
「ま、会ってみりゃいいさ。おれはちょっくら毛布借りてくる」
「ああ、よろしく」
ヨゼフが出て行ったことを見届けると、ヴィクターはキッチンへ行って鍋の蓋をあけてみた。
「野菜粥、ねえ」
とんだ重病人を背負いこんだものだ。
寝室のドアをノックしてみた。返事はない。眠っているのか。壁の薄っぺらい安普請のアパートだ、起きていたら居間の会話もすべて聞こえているだろう。
「こんばんは、っとね」
何とはなしに遠慮して、ドアを開ける。照明は抑えられていたが、部屋の様子がわからないほどではなかった。五メートル四方ほどの正方形の部屋は一面が天井まで届く本で埋め尽くされていて、反対側の壁にへばりつくように粗末なベッドがあった。窓は換気用の小さいものがひとつだけ。砂漠地帯では隙間から砂が侵入するのを嫌って、たいていの家がこのような小ぶりの二重窓だ。小柄な人物でも、ここから抜けるのは苦労するだろう。
強い視線を感じて、ヴィクターは足を止めた。ベッドの少年は眠ってはおらず、訪問者を無言で見つめていた。
冷たい刃のような、鉱物質の目つき。
だがヴィクターを驚かせたのは、視線だけではなかった。少年は血の滲んだ包帯をぐるぐる巻きにした両の手をベッドのパイプに縛りつけられ、口には猿ぐつわを噛まされていた。これでは声をあげようにも、あげられるわけがない。
「……どういうことだ」
独り言のようにつぶやいたヴィクターの背後に、毛布を手にしたヨゼフが立っていた。
「ご対面。プラグ、こいつが『ソウルイーター』だ」
「てめえ、知らないあいだにそっちの趣味に走ったんじゃ」
「バーカ。妙な勘ぐりをするな。傷ついちゃうよ、オレ」
ヨゼフは少年の頭に手をかけてそっと横を向かせると、猿ぐつわにしていた布をするりとほどいた。
「我慢させて悪かったな。苦しかったろ。まあ、しかたねえ」
少年は恨み言も言わず、黙って首を元に戻した。手の枷は外されぬままだ。
「起きているうちはいいんだけどよ。眠っちまったら、ヤバいんだ」
「ヤバいって?」
「アンテセプテックに言わせると、自傷行為、っていうのかな。ちょっと、こっちのほうの病気みたいんだよ」
こめかみを中指でトントンとつつく。
「暴れるわ噛みつくわ……こないだなんか舌を食いちぎりそうになって、それでこんなことになっちまったんだ。見ろよ、手も身体も傷だらけだ。こんなちっこいのにおれよりもスゲエ」
「ちっこいって言うな」
ふいに少年が口を開いた。低く、牽制するような鋭い声だった。幼い見かけにはひどく不釣りあいで、毒を含んでいた。
「口をきく気があるのか、テッド」と、ヨゼフはにたり笑った。「おれのときは一週間もだんまりを決めこんでくれたくせによ」
「ああ、あんたおもいっきり胡散臭いヤツに見えたからな」
「これだよ。きいてくれよプラグ。このクソガキ、大人に対する畏敬の念とかちっとも持っちゃいねえんだ。助けられたのも迷惑ですってツラしやがってさ。おめえもいっぺんガツンと言ってくれ、ガツンと」
「恩義を押しつけるのは感心しねえなドラムヘッド」
「ザマーミロ」
ヴィクターを味方と見るや、テッドはつっけんどんに言った。ヨゼフの顎がかくんと落ちる。
「いきなり結託かよ。ズルいぞ、クソガキ」
「あんたはいつまでも勝てないさ、クソハゲ」
ヴィクターは吹きだした。いいコンビではないか。なによりこんなに楽しそうなヨゼフは久しぶりに見た。彼はとりわけ子供が好きなわけではなく、むしろ対等に話すことのできる人間があらわれて高揚しているように思えた。それに相手の少年、テッドという名だったか、どう見ても十二、三なのに、ハッシュの脳髄と呼ばれるヨゼフと堂々と渡りあっている。奇妙な感じであった。
「まずはよろしく、『ソウルイーター』」
握手を求めようとして、相手が束縛されているのを思いだした。ところが少年はにやっと笑って、軽快に返してきた。
「こちらこそ。話はこのクソおっさんからよーく聞いてるぜ。世話になる、『プラグ』」
ゾクリとした。あまりにも手慣れている。冷ややかな茶色の瞳は笑っていなかった。ヴィクターは、「見かけに騙されるな」というヨゼフの台詞を反芻した。冷や汗が脇を伝う。
「テッド。おまえの話をもういちどプラグに説明してやってくんねえか」
ヨゼフはベッドの端に腰掛けて、一脚しかない円椅子をヴィクターにすすめた。
「いいけど。でもあんたあの話、マジで信じてんの」
「そうでなけりゃ、プラグも連れてこねえし、おまえさんのことも教会かどっかに押しつけてる」
「へえ。てっきり、頭のイカれたガキだから縛りつけやがったのかと思った」
「アホ。自分がどっかおかしいの、わかってるんだろ。話を信じる信じねえ以前の問題で、さ。薬はだんだん影響しなくなるってアンテセプテックも言ってたし」
「薬?」
ヴィクターは訊いた。
「薬物依存。たぶん、逃げられねえようにだろう。そんくらいのことは平気でする連中だ。こいつがおかしくなっちまった原因はそれだけじゃなさそうだけどな。ま、仕方がねえ。時間をかけるさ」
「そういえば、きみは北を脱出してからここへ来るまでのあいだ、どこへいたんだ?」
北の市が消滅したのはかれこれ半年近く前。キャラバンが瀕死のテッドを拾ってからひと月も経っていないだろう。
テッドはぼそりと答えた。
「盗賊の棲家」
「……盗賊?」
ヨゼフが補足説明を買って出た。
「キャラバンで聞かなかったか? 砂漠の盗賊団。ほんとうの名前はなんていうかしらねえけどよ。かなりの悪党どもだって噂だぜ。ああ、噂は、な。単なるチンピラどもならもっと派手にやるさ。けど一部の者しか知らない。目的が不鮮明だ。なにを狙ってる連中なのか……それすらもわからねえ。テッドは北の近くでそいつらに拾われて、飼われていたらしい」
ヴィクターの眉がひそめられた。「飼われて?」
「そ。”教育”を受けるためにな。そうだったよな、テッド」
テッドは無言でうなずいた。
「教育? どういうことだ」
「盗賊団は、金品の強奪だけが目的じゃない」とテッドは言葉を選びながら語りはじめた。
「頭領はペトルーシャという男で、頭がえらく切れる。キャラバンを襲っているのはオツムのよくない三下たちだけで、ペトルーシャは略奪には一切関与してない。得体の知れない、怖いヤツだ」
「おまえでも怖いと思うのか」
「……そうだな。あいつは、人の眼をしてないから」
座がしんとした。
「あいつの眼には、なんの感情もなかった。カラクリ人形みたいなヤツだった。殺人鬼ってのを、おれ、はじめて見たぜ。ほんとうの殺人鬼は、無差別に殺して愉しむことはしないんだ。そんかわり、狙いをつけた者を、確実に葬る。甘やかな夢も一切見させずにな。ヤツは、見込みのある人間を、そういった……殺人鬼にするために、教育していた」
感情のない眼。ヴィクターは、部屋に足を踏みいれたときのテッドの視線を思い浮かべた。彼の話は、そのまま少年にあてはまる。薬物で束縛し、半年も”教育”を施したらどれだけの変化があらわれるのだろう。殺人鬼の教育など想像もできないが、テッドに感じる年齢不相応の異常はそれが原因なのだろうとヴィクターは直感した。
「きみは、人の殺し方を教わってきたわけだな」
「ちがう」
テッドはあっさりと否定した。「人を殺すのは善良な人間にだって簡単にできる。おれが叩きこまれたのは、そういうもんじゃない」
言葉をいったん切る。その表情が歪んだ。
「これ、なんの匂い?」
「……は?」
「いやな匂いだ。ムカムカする」
ヨゼフが腕組みをしながら言った。「やっぱりダメだったか。こいつはな、カサブランカっていう花の匂いだ。すげえな、野菜の匂いにまじっていてもわかるのか」
「……花? なんでこんなに甘ったるいんだよ」
「そういう花だからな。プラグが見舞いにわざわざ買ってきてくれたんだぜ。感謝だけはしときな」
「あ、そ……」
テッドはぷいっとそっぽを向いてしまった。かわりにヨゼフががりがりと頭を掻いて申し訳なさそうに言う。
「悪気はないんだぜ、プラグ。ただちょっとな、こいつ、匂いのきついもんがだめで……食い物も最初はぜんぜん受けつけなくて、ようやく野菜の煮たのなら口にするようになったばかりなんだよ。おかげでキッチンじゃコーヒーも禁止だ」
道理で。いつものヨゼフの部屋とは違った感じがしたのは、コーヒーの香りが染みついていなかったからだ。
「キャラバンがこいつを捨てていった理由もわかるような気がするな」
「悪かったな、手のかかるガキで」
「まったくだ。感謝しろよ?」
「気が向いたらな」
ヨゼフの指がテッドの額を弾いた。防御も応戦もできない相手に対して、かなり卑怯である。だがヨゼフが少年に精一杯の気を遣っているのがわかった。
食べ物すら受けつけなくなるくらい、精神を苛まれてきたのか。ヴィクターはベッドのパイプに固定されている包帯の巻きついた手を見た。そしていま気づいた壁に残る殴打の跡。この子供は夜ごとどんな悪夢にうなされ、自らを傷つけてきたのか。
ヨゼフが「時間をかける」と言うのは正しいかもしれない。焦って正常に戻すことはかなりの負担をこの子に強いるような気がする。それでなくとも、まだ成長途中の微妙な年代なのだ。
「きみは、北の街の生まれなのか」
ふとヴィクターは訊ねてみた。
「いや、あそこには偶然、流れ着いただけ」
「流れ着いた?」
「そうだね。おれ、いわゆる戦災孤児ってやつだから。世話になったキャラバンがたまたまあそこの街に用があったんで、下ろしてもらったの。とりあえず、縁はそんだけ」
あっけらかんと答える。口調には悲惨さはまったく感じられない。
「それで、運悪く事件に遭遇してしまったということか。ああ、勘違いしないでもらいたいんだが、おれたちはきみに無理にあの日のことを思いだせと言っているわけじゃない。ただ、きみは貴重な証人である可能性が高いから、おれたちはまずきみにここでゆっくり休んでもらって……」
「回りくどいな。遠慮するなよ」
テッドが遮った。口元が薄く笑っている。
「あんたは訊きたいんだろ? それに、もうその件ならこのおっさんに喋ったからな。いまさらどうとも思わない。どうせ他人だし。感傷なんて、さらさらないよ」
うろたえたのはヴィクターだった。隣のヨゼフに眼で助言を求める。いいんじゃないの、という顔をしてヨゼフはつぶやいた。「ぶったまげるなよ」
ヴィクターはごくりと唾を飲みこんで、まずは単刀直入に訊いてみた。
「なにがあった。北の街で」
「利権がらみのセコい侵略。市民の虐殺。それから、真の紋章の暴走」
整然と並べたてて、テッドは言った。
「真の紋章……?」
単語の意味が脳に浸透するまでに時間を要した。重力に押し潰された街。圧縮凝固された犬。死体なき廃墟。
「真なる27の紋章」
「そうだ。よく知ってるな、さすが」
「創世のお伽噺くらい子供でも知っている」
「お伽噺じゃないぜ。ざんねんだけど」
背筋が凍った。なるほど、説明のつかないことを説明するにはお伽噺を用いるしかない。しかし、あまりにもリアルすぎた。誰もが一笑に付するであろう戯れ言を、嘘ではないと本能が見破った。
「きっかけは、ほんとうに醜悪なことだったのさ。真の紋章は、罰を下しただけだ。なにがあったかと言うと、すなわちそういうこと」
目眩がした。国家がハッシュの仲間を投獄してまで隠匿しようとしたものは、利権のほうか、それとも、真の紋章か。
その疑問を口にするまでもなく、テッドが補足した。
「たぶん、お偉方にあったのは恐怖だけじゃないの。あいつらパニックを起こして、必死になにもなかったフリをしてやがんだよ。ガキくせー。でもな、気をつけたほうがいいぜ。ガキほど、プッツンしたらなにをしでかすかわからないからな。それからいっとくけど、あんたたちハッシュが戦うのは、腰抜けの国じゃない。相手を間違うな」
「どういうことだ」
テッドはひどく大人びた咳払いをした。なにかを言いあぐねているようにも見えたが、すぐに意を決したようだ。
「すぐに真の紋章を巡る争いが起こる。”夜の紋章”が、おそらくはこの街に持ちこまれた。ペトルーシャが南の国から盗んできた紋章だけどな、そいつをさらに奪ったやつらがいるんだ。ペトルーシャが死んであいつら敵がいなくなったと勘違いしてやがるからな。おそらく、やりたい放題だろうぜ」
「死んだ? ペトルーシャが?」
「ああ」
その時のテッドの薄笑いを、ヴィクターは生涯忘れまい。どんな悪魔が微笑んだよりも残酷で、美しい笑みであった。
「おれが、喰ったの」
沈黙。それ以外にどんな反応を返せよう? 身体を束縛された、あどけない狂人に。
悪魔は愉快そうに、くすっと笑った。
「おかげで三下のやつらに半殺しにされかかったけどな。けどさ、感謝してるぜ? いろいろ教えてもらったからな。自分の殺しかた。屍に同情しない方法。肉体の痛みなんかもコントロールできるんだぜ。誰も教えてくれなかった。ペトルーシャ以外はな。あいつは、おれのいちばん近しい魂だったんだ」
ヨゼフが手首の縄を解かないのはこのためか。それでもヴィクターは訊かずにはいられなかった。
「テッド。おまえ、何者だ」
「『ソウルイーター』さ」
首筋がちりちりと灼けた。この厭な感じはなんだろう。自分はいま、本物の悪魔を目の前にしているのではないだろうか。呑まれる。やんちゃそうな茶色の瞳。柔らかそうな髪。友、ヨゼフを魅了した少年。
騙されるな。
騙されるな。
「おい、ヴィクター」
本名を呼ばれてヴィクターは我に返った。黙りこくった友を案じ、ヨゼフが覗きこんでいる。時折、非難めいた視線をテッドに向けながら。
「あんまり脅かすなよ。あんがいチキンハートなんだぜ、プラグは」
「あー、悪かったな”ドラムヘッド”。ってことで、協定成立ってこと?」
「おっと。まだひとつ訊いてねえことがあるぜ。おかげでハッシュの戦うホントの相手はわかった。それは結構。真の紋章だかなんだが知らねえが、街をかき回されるのは大迷惑だ。よそでやれ、ってな。さてこっからが肝心。おまえさんだよ。なぜハッシュに協力する気になった? 言ってたろうが。どうせ他人だってな。おまえさんはそういうやつだ。見りゃわかる。裏があるんだろ、裏が」
「当然。駆け引きがないわきゃ、ないだろ」
「言ってみろ。次第によっちゃ考えかたも変えなくちゃなんねえ」
テッドは演技じみたしぐさで眼をきょろりと回し、悪戯っぽく唇を舐めた。
「夜の紋章に、興味があってね」
どこか遠いところを見る。やがて、ぼそりとつぶやいた。
「”彼”と、話をしてみたい」
2005-12-19
