プロローグ
砂上に累々と横たわる馬や人の死体は、潰乱した部隊の置きみやげだった。
何の前触れもなく襲い来た、悪魔の正体も知らぬ間に息絶えたのであろう。逃げおおせた者は幸運である。武器も傲慢もすべて放り投げて、ヒイヒイと去っていったにちがいない。
それにしてもなんと凄まじく、愚かで、醜悪な光景なのか。そこまでして他者の幸福を手に入れたかったか。ひとにぎりの強者の浅ましい欲望が引き起こした大量殺戮。そして、その罪を顕わにし裁きを下した大いなる意志の爪痕。
敗残の徒は歴史を捏造し、隠匿するだろう。証拠となる亡骸は放っておいてもやがて風化し砂に埋もれる。都合のよくないことは、ここではなにも起こらなかった、と。
もっとも、なにが起こったか正しく語ることのできる者もおるまい。
人々の営みがあったはずの場所がある時を境に廃墟となり、朽ち棄てられる。
歴史では幾度も繰り返されてきた珍しくもないできごとだ。
そこでは善も悪も建前も愚行も理想すらも、論じるだけ無駄である。
気に病むな。それともまだ戦乱が怖いのか?
テッドは疲労した身体を横たえたまま、相棒の戯れ言にふっと笑った。
右手の相棒は言葉を持たないが、いつも真理を残酷に突きつけてくる。ときどき、相方がただの人間であることをすっぽり忘却しているのではなかろうかとおかしくなるほど辛辣で、正直勘弁してほしかった。宿主を破壊してしまったら元も子もなかろうに。右手から右手へ、犠牲者を自由に渡り歩くことができるのなら話は別だが。
どうやら相棒は、現在の宿主であるテッドが身代わりとなる者を差しださないかぎり、居住まいをただす気はないらしい。
相棒は戦乱をひどく好む。
だから向かう先々で戦乱を起こす。
膨大な量の命を嬉々として刈り取っていくのが”彼”の存在する証なのだ。だが人間でいうところの愉快犯とは違う。命を摘み、大地にばらまくのは、再生させるための手順でもある。死がなくて生はあり得ない。それをテッドは否定できない。
問題なのは、宿主が”彼”のターゲットから外されてしまっていることだ。いずれはその命も喰ってしまうつもりなのかも知れないけれど、なにしろ”彼”には時間の感覚というものがまるでない。永遠と一瞬に微塵の違いもないらしい。人間にとって永遠がどんなに残酷なことなのか、考えようともしない。宿主の扱いだけはどうしようもなく愚鈍で高慢だ。それがなければうつろい歩くこともできないくせに。
またもや死に損なった宿主を、感情のない眼で見ている。
じっと見ている。
哀れ、ではなく。感謝では毛頭なく。蔑むのでも束縛するのでも道具として扱うのでもなく。ひややかに、静かに、諭すように、あるがままを受けいれろ、と。テッドをつかんで放さない。
何人死んだ?
おれは何人殺した?
最初に”喰った”のは、砂漠地帯で生きるすべをテッドに教えてくれた老人であった。
老人は貧困層の人間だったが勇敢なる経歴と知恵の持ち主だった。近隣の地方官僚がオアシスの利権を狙い私設軍隊を率いて攻めてきたとき、老人はテッドを逃がそうと、一度は脱出に成功した市内にわざわざ戻ってきた。こんなことにならないようにとテッドが張っていた感情の防衛線も、紋章をごまかす役には立たなかった。老人はテッドのことを孫のように思ってしまったのである。十歳を少し越えたばかりの浮浪児がこの先ひとりで生きていく力を、残された人生を賭けて伝えようとしていた矢先であった。
虐殺と略奪のもっとも激しい中央区に取り残され、テッドは見知らぬ大勢の市民といっしょに身を屈めていた。侵略に成功しただけでは飽きたらず、兵士は傍若無人に市中を闊歩していた。市民は皆殺しにせよという命令が出ていたのかも知れない。蠢くものは小犬であろうと八つ裂きにされていった。
砂漠の都市は軍隊によって封鎖され、いままだ中にいるということはそのまま死に直結していた。絶望と嘆願が行き交う。死にたくない、たすけてくれ、市民はみな涙を流しながら訴えていた。
テッドは膝を抱えて座ったまま、革手袋に包まれた右手をぼんやりと見た。透けて見えなくとも、中の疼きははっきりと伝わってきた。歓喜している。喰らう悦びに。阿鼻叫喚のなかでおまえだけは、命の輝きにうちふるえているんだ。
前方にしゃがみこんでいた男が何かを叫んで立ちあがった。その胸を矢が射抜いた。息をのむ間すらなく、群衆はパニックに陥り、群れがフライパンの上のコーンのように爆ぜた。悲鳴をあげる者、走りだす者、腰を抜かして踏まれるがままになる者。それらの獲物を矢はつぎつぎと襲った。
テッドの小さい身体もはね飛ばされ、路地に叩きつけられた。誰も人のことなど構っている余裕はない。自分で身を守るしかないのだ。守れるものならばだが。
少しでも希望のあるほうへ走りだそうとしたテッドの腕を何者かがつかんだ。ぎくりとして振り向くと、老人の視線があった。
老人は人の動きとは正反対の方向へテッドを引きずっていった。相当な歳のはずなのに凄い力である。袋小路になっている劇場に身を潜めると、外の様子をうかがいながら、地下への非常階段を探すようにテッドに指示をした。いまは使われていないが、劇場と市の周回道路を結ぶ荷物運搬用の地下通路があるはずだと言う。
なるほどそれは確かにあった。老人を呼びに地上へあがったテッドの目の前で、彼は下卑た嗤いを浴びせられながら分断された。即死であった。真っ赤な血が噴水のように噴きだした。
はっきりと感知した。右手の相棒が、老人の魂を腹におさめた瞬間を。
甲が燃えるように熱くなった。病的な疼きは激しい痛みとなった。脳内に咀嚼の音がかりかりとひびいたような気がした。自分のなかの一部が、にたり、と嗤った。
どす黒い恐怖に襲われて、テッドは逃げだしていた。地下へ。どれくらい走ったのかわからない。何度もつまずき、暗闇に投げだされた。衣服は裂けて泥だらけになり、無数の擦り傷に血が滲んだ。だんだん胃がムカムカしてきた。壁に手をついて荒く呼吸し、少しだけ吐いた。胃液が食道を灼き、咳きこんだ。涙の滲んだ目に外の光が飛びこんできた。
出口を塞ぐ鉄格子から砂塵が大量に流れこんできた。来るな、と拒まれているような気がした。ここからはけして逃さない。戻れ。戻っておとなしく、死を待て。
テッドは唇を噛み、鉄格子に手をかけた。びくともしない。目を閉じてみる。こういうときの対処法がなにかあったはずだ。冷静になって、思いだせ。たしか、放浪の魔法使いと数ヶ月を暮らしたときのことだ。おまえは筋がいいと、見返りも求めず鍛えてくれた。あれは、そうだ、雷の魔法。
練習用に貸与された雷の紋章はいまはない。紋章がなくとも、発動のしくみと基本構造は覚えている。障害物は、鉄。鉄を溶かす要因は、熱や酸、アルカリなど。そのうち比較的容易に調達できるものは、熱である。雷の放電によって手にいれる。詠唱の方法も、たぶん忘れてはいない。
テッドの唇がかすかに動き、呪文を紡ぎはじめた。うまくいかなくて当然。だがなにもしないで指をくわえているよりはましだ。生に執着する自分を卑下する前に、やれることはやっておく。惨めでも、生きてこそ、やれる。それも老人から教わった砂漠の人生訓だった。
すべての語句を詠唱し終える。なにも起こらない。やはり悪あがきだったか。いや。
空気が振動し、みるみるうちに紫色に膨らんだ。
来る!
自分が招いたのに、テッドは反射的に身を屈めた。これでは近すぎる。側撃をくらってしまう。鉄格子とともに詠唱者も黒焦げなんてお笑い沙汰だ。
紫色が弾けた。避けるひまもなかった。
しかし生まれた雷はお粗末なほど小さく、髪の毛が静電気によって引っ張られる程度の衝撃しかなかった。テッドはへたへたと座りこみ、滑稽なほどの過信を嘲笑った。
カラン。
鉄格子が音をたてて折れた。
あまりにもあっけなく、外への道が開かれた。
テッドの自嘲がすっと止んだ。生きろということか。この期に及んでまだ道を開くのか。誰が仕組んだ。このシナリオを、いったい、誰が。
よろよろと立ちあがる。どのみち進むしかないのである。すでに背後で老人の屍を踏みつけた。戻ってもういちど粉々になるまで踏みにじれというのか? それはしたくない。だから、外へ行くしかない。
折れた鉄格子のすきまから身を這いだした。砂塵が口にはいってじゃりじゃりと音がする。唾を吐いて、テッドはそろそろと歩みはじめた。
周回道路も安全な場所ではなかった。むしろこちらのほうが兵の数も多い。だが一般市民がこんなことろをうろついているとは思われていないのだろう。身をひそめつつ脱出をはかるのはさほど難しくはなさそうだった。
武器になるものが欲しいと思った。ナイフでもなんでもよい。遠隔攻撃用の軽い弓があったら上等だが、贅沢はこの際言わない。
見回してみたが、そんなものが都合よく落ちているわけもなかった。テッドは舌打ちした。中央区で拾っておけばよかった。
どのみち武器を使用する状況に追いこまれた時点でアウトである。鼠のように壁づたいに走って、安全な場所へ脱出するが先だ。テッドは頭に地図を思い描いた。南だ。南へ、走ろう。
太陽の位置を確認する。黄砂に滲んでぼんやりとかすんでいる。いまは何時くらいだろう? 勘に頼るしかない。迷うな。立ち止まるな。動け。
遠くでまた絶叫が聞こえた。テッドは振り返らなかった。ごめん。心のなかで頭を垂れる。おれのせいだ。うっかり気を許しすぎたからだ。ほんとうは、居てはいけなかったのに。
居心地のよさに甘えて、まだだいじょうぶだと自分に言い聞かせて、そう思いこむように仕向けて。相棒をコントロールすることに自信があった。すべては錯覚。思いあがり。相棒はいつだっておれを見ていた。
喰え。
喰らい尽くせ。
魂を喰らい尽くせ。屍を大地に撒け。
テッドは駆けながら呻いた。黙れ。真理などくそくらえだ。もうじゅうぶん血をすすっただろう。いい加減、眠っちまえ。
だが、右手は、嘲ることをやめない。
やはり怖いのか。人が死ぬことが。なぜだ? 魂はおまえの力に還元される。強大な力だ。なにも恐れることはない。あるがままに、身を委ねればよい。わたしはおまえを生かそう。けして逃がしはせぬ。おまえに魂を与え続けてやろう。永遠にだ。
うるさい。うるさい。うるさい。
段差につまづいて、小さな身体がバランスを失った。思わず、あっ、と声が漏れる。
見張りの兵士がテッドに気づいた。笛を鳴らして、ボウガンを向けてきた。
膝を崩した勢いを利用して、勇気を出して石段を転げ落ちてみた。矢は追ってこられなかった。だが、すぐに四方から殺気だった兵士たちが駆け寄ってきた。テッドが体勢を立て直すのも許さず、ぐるりを囲んで至近距離から狙いをつけた。
薄汚い子供ひとり、息の根をとめるのは容易い。女子供をひっくるめた虐殺命令が出ている以上、すみやかに任務を遂行し、持ち場に戻るのが兵士たちの使命のはずだった。
それをしないのは、兵士たちが道路封鎖という退屈な任務に少しばかり飽き飽きしていたからに他ならなかった。
前に立った野蛮げな男が、地面に倒れこんだテッドの首筋を手にした長剣でからかうように小突いた。鋭い痛みが奔る。今度は反対側の首筋。切っ先が這い、血が滴る。テッドは呻きもしなかった。きっと男を睨みつける。それが男の嗜虐心をさらに煽ったようだった。
刃先が今度は肉を抉って肩口に突き立てられた。死よりも、屈辱を与えることを優先させた厭らしいやり方だ。征服欲に酔いしれている目。手の中の小鼠が、キイキイ啼くのを期待しているのだ。
時間を稼げ。テッドは激痛に耐えながら右の拳を握った。相棒に話しかける。殺す必要はないから。戦意を喪失する程度に、魂をかすめとれ。ほんの少しだぞ。ほんの少し。
玩具を手にいれた兵士たちは残酷な笑みを醜悪にはりつけて、口々にテッドを責めにかかった。どれもこれも陳腐な加虐だった。命乞いをしろだの、泣きわめけだの。滑稽すぎて逆に笑みが漏れる。
予想どおり、それは兵士たちを苛つかせ、ざわめかせた。
気の短い男の刃が高く上がった。振り下ろされようとした瞬間、赤く黒い閃光が炸裂した。
まさに一瞬のできごとであった。
ほんの少しで、いいと、言ったのに……。
テッドは虚ろな目で、砂塵の舞う、誰もいなくなった風景を見た。どうして命令をきかないのだろう。コントロールできなくなっているのは、なぜだろう。よろよろと立ちあがる。血がぼとぼとと落ちた。出血を止めるものをまず探して、砂漠へ出よう。出てどうする。水も薬もなにもない。のたれ死には必然だ。
出血のせいか、だんだん考えることが億劫になってきた。いま何人喰らったのか覚えてはいないが、傷の治療に魂をまわしてくれればよかったのに。相棒はこういうとき、あんがい気が利かない。
行くも地獄、戻るも地獄。
喰いたりぬ。ふいに右手がそう囁いた。
ふつうの精神状態だったら、右手の強欲に戦慄していただろう。だがテッドは、ぷっと吹きだした。勝手だな、おまえは、と。
侵略者に対する憎しみはない。呆れているだけだ。市内にはまだ生きのびている善良な市民もいるだろう。彼らに思いを馳せる気持ちもなかった。砂漠の街がひとつ滅ぶ。ぼんやりと確信したのはただそれだけだ。滅ぶのはなぜだ? おれがいたからさ。だからあんたたちは餌食になるんだ。恨むか? それでもいいよ。もう、おれの意志ではどうにもならない。たぶん制御できない。
ごめん。
テッドは最後にもういちどだけ謝って、右手をゆっくりと挙げた。
「ソウルイーター……」
それは清廉なる発動ではなく、狂気の暴走であった。
ターミナル・コード
ヴィクターの厚い唇はかさかさにひび割れて、血をにじませていた。半ば無意識に舌を這わせるが、唾液がしみるだけでひとつも潤わない。次に肉が食えるときに油を塗りたくってやろうか。次なんていう単語はここでは糞の役にも立たないけれど。
市をぐるりと取り囲む砂漠はここ数年で、勢力を著しく増した。異常気象による低温小雨はこの夏も終息しなかった。旱魃は自給に頼るしかない地方の民を飢えさせ、ささくれた心を無慈悲に荒らす。利用価値のない砂漠の都市ははやばやと国家から見捨てられ、援助も期待できずに衰えていくしかなかった。
足元すらおぼつかない国家が独立を謳うこと自体がおかしい。おとなしくハルモニアなりなんなりの属国になっちまえばよいものを。
自力で立つこともできぬくせに、他人の所有物になることは拒む。見栄か、プライドか。滑稽すぎて反吐が出る。為政者は国家が飢えはじめていることに気づいていないか、あるいは見ぬふりをしているのだろう。まったく胸くその悪くなる話だ。
いつの世でもまっ先に犠牲になるのは下の人間である。切り捨てても国家の安泰には影響しないということだろう。あまつさえ、膿を絞りだすように積極的に排除しようとする輩もいる。
数ヶ月前、六〇マイルほど北に離れた地方都市が忽然と消えた。同じ砂漠に生きる街としての積極的な交流はなかったものの、クーデターが起こっただの、魔物が襲ってきただのという奇妙な噂が独り歩きして、ここのところ市民の話題はそれで持ちきりだった。国家による情報操作が行われたのは明白である。どう考えても胡散臭いのだ。
笑わせやがるぜ。どうせ潰しちまったのは根底まで腐れきったろくでもない官僚どもだろうが。
ヴィクターは、彼の生まれた故郷の属する国家にはなんの未練もない。産声をあげて三十年、ただの一度も国家という傲慢な組織に庇護してもらった憶えなど、なかったからだ。信じられるものはこの目で見た現実だけだ。
厄災を予感し、生き抜くことを誓った。たとえ国家が転覆しようとも、やすやすと巻き添えを喰うつもりはない。勝手に疲弊して、ハルモニアに頭を下げるがいいさ。国家の持ち主が変わろうが民の心は簡単には変わらない。おれも勝手にやらせてもらう。
地下酒場は昼日中から飲んだくれている脱落者でいっぱいで、貧乏な客相手でもけっこうな繁盛ぶりを見せていた。カウンターの内側で怠そうにカクテルをこしらえているのは、ヴィクターの女房、エリスである。丸顔で小太りだが、ヴィクターは個性的な美人だと思いこんでいるふしがあった。がさつな性格のヴィクターに文句ひとつ言わず十何年も連れ添ってくれた、心根のやさしい女だ。
オレンジを絞るエリスの手が止まった。無理もない。会うのはざっと数えてひと月ぶりである。
「あんた」
女房の顔は予想どおりみるみる不機嫌に彩られた。
「どこほっつき歩いてたんだい、この唐変木」
口調はきついが、安堵感がにじみ出ているのがわかる。旦那の放浪癖はすでに慣れっこになっていた。本気で叱ることはしない。呆れているだけだ。
ヴィクターがいなくてもエリスはひとりでじゅうぶん酒場を切り盛りしていける。彼女を心から信頼しているからこそ、ヴィクターは自由に動けるのだ。ただ気まぐれに放浪しているわけではない。市を離れるのはヴィクターの仕事の一部だった。
「元気そうだな、マイスウィート」
客席の笑いにつつまれてエリスは「アホか」とそっぽを向いた。あたしは知らないよといった風情でオレンジの搾汁に没頭する。それにどのみちヴィクターの関心はすぐに女房を離れ、カウンターの男に向けられるはずだから。
そう、カウンターの男。体格のよいヴィクターよりもまだひとまわり大きく、存在感も圧迫感も客の誰よりも格上だ。だからこれほど混雑する店内で、誰もみなカウンターには着席したがらない。
名前はヨゼフ。ヴィクターとエリスにとっては旧知の仲だ。ここから数ブロックほど離れた宿屋で用心棒を請け負っている。身体中いたるところに刻まれた無数の傷が見る者の恐怖感を煽るが、じつはうたた寝をして荷馬車から落ち、馬に蹴られたときの傷がほとんどだった。本人は砂漠トラと格闘したと豪語している。見かけと違って気はよいが、とんだ詐欺師である。
酒を一滴も口にしない彼がバー「クリプト」に姿を見せる理由はひとつ。ヴィクターにここで待てと指示をされたからだ。エリスは男のために熱いコーヒーを煎れ、ヴィクターがまもなく帰ってくるのだと思いながらオレンジを手にしたのだった。
「あいかわらずひでえ砂塵だ」
白っぽくなった綿の上着をいまいましそうに払うと、ヨゼフが顔をしかめた。
「外ではたいてこい。大迷惑だろうが」
「ちくしょう。口ん中までじゃりじゃりしやがる」
「コーヒー、やろうか」
「そんな胃に悪いもんは、ごめんだ。水で結構」
ヴィクターはピッチャーの冷水を含むと、口中でころがして飲み干した。砂漠のど真ん中とは思えぬほど清涼な清水が市の中心にわき出る。小雨でも枯渇しない、奇蹟の泉だ。これのおかげで市はなんとか生き残っている。しかしそれすらも無尽蔵ではあるまい。
「くそったれ、旨ぇぜ」
喉を鳴らしてピッチャーを空にしてしまった。砂漠のキャラバンでは貴重な飲み水の量は厳密に制限されていたので、ごくごくと飲めることがとても有り難かった。
市民を潤す水は、大地から賜った恩恵なのだ。
ヴィクターが幼い頃から口にしていた命の水だけは、権力者に独占されるのは癪だった。
「こんなに旨い水は、余所にはないな」
「そう言い切れるほど、諸国をまわってるのかよ、ヴィクター」
ヴィクターは苦笑いをした。たしかに。ハルモニアはおろか、隣国へも足を踏みいれたことがない。この国土にはなんの自慢すべき点もないが、面積だけはご立派なのだ。
「さて、と。コーヒーも酒も飲まないのなら、行くか」
店の奥が夫婦の居住空間になっている。ふたりで住むには広すぎる間取りの家だ。地下という不健康さを我慢すれば、この街では贅沢の部類だった。
ヨゼフはまるで自分が家主のように、先に立って歩きだした。本当の家主のほうがお客様のようである。木の扉を閉めると、喧噪が嘘のようにかき消えた。
気圧の変化だろうか。軽い耳鳴りにヴィクターは首を振る。
日中でも薄暗い室内は絵本で見る熊の穴蔵のようだった。木のテーブル、木のベッド、薪ストーブ。入手困難な木材家具をせっせと集めてきたのはエリスだ。寝るところくらい安らぎのある空間にしたいわ、というのが彼女の持論であった。
パッチワークのタペストリーがいささかやりすぎの感もあったが、ヴィクターに口出しできる筋合いではなかった。むしろ、感謝のほうがはるかに大きい。どうしたらヴィクターが我が家でほっとできるか、いつでも考えてくれているのだ。一生懸命に、さりとて押しつけがましくなく、あくまでもさりげなく。
ヴィクターにとっては、そんなエリスさえいてくれたらたとえ地獄でもほっとする場所なのだが。
椅子は三脚あり、ひとつはヨゼフのために用意されたものだった。三人は子供のときからいつもいっしょにいたから、ヴィクターとエリスが結婚したあともヨゼフの場所はつねに空けられていた。エリスのことに関しては抜け駆け一歩手前の攻防があったのだが、もはや遠い昔の笑い話である。
「見てきたか」
椅子に着くなり、ヨゼフは訊いた。
「ああ。ひどいもんだった。ここより繁栄してたのによ、まるで化け物の棲家だった」
「率直な感想として、どう思った」
「魔物に襲われたってのも、あながち間違いじゃねえって思ったぜ。じゃなかったらよっぽど悪辣な兵器でも投入されたんだろう。実験台にされたのかもしれんな」
「ハルモニアに対抗する訓練か」
「考えたくねえけど、そうでもしなくちゃ説明がつかねえ。焦げ目ひとつ残さず、建物を瓦礫にしちまう武器を狂ったやつらが発明していればの話だけどな」
「なんだ、それは」
「破壊された街だ。尋常じゃなかった。こう、重力に押し潰された感じなんだ。毛糸の玉みてえなのが転がっててよ、拾いあげたら何だと思う。犬っころさ。犬がよ、掌に乗るくらいに圧縮凝固してやがった。あんな人間を拝まなくて、ほんとうに幸運だぜ」
「ヴィクター。おれの役目じゃなくて心底ほっとしたよ」
ヨゼフは茶褐色の虹彩を落ち着きなく動かして、汗をぬぐった。市民を怯えさせている北の街の噂に、とんでもない計略を看破したヴィクターたち私設自警団は、秘密主義の市長に頼らず独自で調査を開始したのだが、その直後からあからさまな妨害がはじまった。言いがかりをつけられるだけならまだしも、仲間の幾人かは理由もなく投獄され、ろくな裁判も受けさせられずに国境の収容所へ送られた。あまりの暴挙に自警団は地下へ潜って徹底的な対抗を誓った。そのリーダー格がヴィクターとヨゼフであった。
自警団改め『ハッシュ(沈黙)』と名づけられた組織には、おもにダウン・タウンに生活の場を持つ労働階級のメンバーが集った。いずれも黙って強者の言いなりとなることをよしとしない、砂漠に生き砂漠に死ぬ人々であった。
深刻になりがちな暗雲のなかで、せめて小洒落てみようとメンバーにコードネームをつけることを提案したのは、ヨゼフであった。ヨゼフは三度の飯よりも大衆小説が好きなのである。まずもっとも身近な相棒に『プラグ(栓)』と名づけてその出来映えに満足すると、自らを『ドラムヘッド(鼓膜)』と呼ぶように強要した。ヴィクターが苦笑するとドラムヘッドは気をよくして、エリスにまで『シルバ(森)』なる名前を献上してきた。
こうしてハッシュのメンバー全員にコードネームを与えたヨゼフ<ドラムヘッド>は、おもに宿屋を利用する旅人から外部の情報を聞きだし、『鼓膜』の名が意味するとおり、ありとあらゆる音を集め中枢に伝える諜報員として動きはじめた。『森』は木々を隠すアジト、『栓』は中身をけして漏らさぬ見張り番である。センスがあるのやらないのやら、本人が楽しんでいるのだからまあいいかと、ヴィクターは思った。
酒の買いつけ名目でキャラバンに交じったヴィクターの目的は、消滅した北の街の偵察であった。噂は軽々しく信じるわけにはいかない。情報操作が行われてるならなおさらだ。そこでなにが起こったかを実際に目で見て判断するために、ヴィクターは旅立った。
そして、想像をはるかに超えた空恐ろしいものを目に焼きつけて、帰ってきた。
「いま思い出しても、身震いがする」
「そのことだけどよ、ヴィクター」
ヨゼフは急に声をひそめた。徹底した防音構造すらも信頼できないというような態度であった。
「おまえさんがでかけているあいだに、こっちでは証人を拾った。思いもかけない収穫だぜ」
「証人?」
「おうよ。北の生き残りだ。おれの知っている限り、唯一のな」
ヴィクターは息を呑んだ。都市の住民はひとり残らず死んでしまったと聞いている。みんなあの犬のように全身を潰され、ひと塊にされ、荒れ狂った砂嵐に吹き飛ばされてしまったはずだ。
「どこにいる」
「おれんちだよ。ちいとばかり病気でな。『アンテセプテック』が看ている。まだガキだぜ。たぶんおまえさんも砂漠ですれ違ったはずだ。反対方向へのキャラバンがあっただろう」
「ああ、たしかに」
「砂漠のど真ん中で死にかけてんのを偶然拾っちまって、見捨てるのも寝覚めが悪いし、とりあえず連れてきたんだとよ。最終的に押しつけられたのはうちの宿屋だったけどな」
「そいつが、北を脱出してきたのか」
「おれもはじめは同情を引くためのでまかせだと思っていた。だがとんでもねえ。話を聞くうちに、こいつはぶったまげるような情報を持っていると気づいた。それで、おれがほだされたふりをして、身柄を引き受けたというわけだ」
ヴィクターはにやりとした。なるほど、独り者だが気はやさしい用心棒どのが、捨てられた子供を哀れに思って養子にしたか。すばらしい筋書きだ。
「ガキだと言ったな」
「十二、三そこそこじゃねえのか。もっとちっせえかもな。だがよ、こいつがなんていうか、冗談じゃなく……癖のあるやつなんだ。会えばわかる。それから、ハッシュのメンバーになることはすでに了解済みだ」
「会ってみよう」
「ヴィクター。油断するなよ。見かけに騙されるな。剃刀のようなガキだ。おれも危うく切られそうになった。ああ……喰われそう、だな」
「喰われる?」
「説明できねえ」とヨゼフは頭を掻いた。「まあ、とにかく話をしてみるんだな。おれは先に帰っているから、気が向いたら来い。憲兵に気をつけろ」
ヨゼフは立ちあがり、振り向いて言った。
「コードネームは『ソウルイーター』。おれがつけた。ぴったりすぎて寒気がするぜ」
破壊の足音が……(笑)
2005-12-18
