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魂を喰われた人

 焦れば焦るほど、結果は裏目に出た。中がぽっかりと空洞になった雪庇を踏み抜き、テッドは冷たい雪解け水に投げ出された。
 もし冷静であったならそこが暖かさで弛んでいることくらい踏み込む前にわかるはずだった。
 水の流れは想像を絶するくらい重く、テッドは暗い雪の洞に閉じこめられそうになるのを必死で耐えた。水を吸って重くなった革手袋は、ひと振りすると簡単に脱げた。赤く悴んだ素手でそこにあった木の根を掴む。トゲが刺さろうがもはやお構いなしだった。その手の甲で荒く脈打つ禍々しきものの痛みに比べたら。
 水圧に抗ってテッドはまた歩き出した。狂おしいまでの執念だった。落ちたときにできた傷が悲鳴をあげるのにすら気づいていないようだった。
 ただひたすら、彼をかばって谷底へたたき落とされた青年の元に駆け寄ることを願い。
 名を呼ぶテッドの叫びは水魔の放つ轟音にかき消された。

 夜もだいぶ更けていたが宿の女主人は快く部屋を提供してくれ、男は深々と礼をすると階段をあがりかけて立ち止まった。薄暗闇の中、暖炉の赤い火に浮かび上がった少年に見覚えがあったのだ。
 誰であったか瞬時には思い出せなかったのだが、少年がこちらに気づいてゆるゆると首をあげるのを見たとたん記憶が鮮明に戻ってきた。
「テッド……くん?」
「あ……」
 少年はそれだけ声を漏らすと、男を避けるように目を背けた。だが、その行動で確信できた。ほぼ1年ほど前、同じ軍の仲間として共にクールークと戦った少年ではないか。
 勝利の凱旋すら待つことをせずに旅立ってしまったと聞いていた。
「憶えていらっしゃいますか。私ですよ。イザクです」
 男は階段に乗せかけた足を戻して少年に歩み寄った。少年はうつむいたまま返事をしない。
 以前のテッドもそういう子供だった。イザクはそのことを承知していたので、気にすることもなく隣の椅子に腰をかけた。大剣を大事そうに脇に置き、見た目の豪傑さには似合わないほどにやさしく語りかける。
「懐かしいです。いまも旅を続けているのですね。私もです。まさかこんな片田舎でお会いできると思いませんでした」
 反応はない。暖炉の薪が崩れて、火がぱちぱちと爆ぜた。
 イザクは柔和な瞳で少年を見た。自分の息子かヘタをすると孫ほどの年齢である。イザクの知っている彼ならばこんなとき無言で立ち上がり自室へ消えてしまうのだろうなと思った。だが1年ぶりに再会したテッドはそうすることをせず、ただぼんやりとうつむいていた。そこには拒絶も感情も存在しなかった。
 憔悴しているような感じがした。
 イザクの眉が曇った。いつもしていたかに思われるあの革手袋はなく、かわりに真新しい包帯が巻かれていた。その右手が小刻みに震えていた。
「テッドくん……」イザクはけして刺激しないように静かに訊ねた。「なにか、ありましたか?」
 テッドの唇がほんのかすかに動いた。だがそれは言葉を発するほどの動きではなく、やがて小さな吐息と共にまた固く閉じられた。
 イザクはふと、目の前の少年を痛ましく思った。齢若いというよりむしろ幼いとも言ってよいこの子供が、たったひとりで耐えているものが何かを知って慰めてやることが自分の義務に思えた。
 戦争中はそんな感情は思いもよらぬ事だった。いろいろなことがありすぎて、何百名という乗組員のひとりひとりに気を回す余裕すらもなく、ましてや滅多に顔を合わすこともない少年の内側などというものはイザクには関係あるはずもなかった。
 だが咄嗟のイザクの行動は、テッドを怯えさせ大声をあげさせるにじゅうぶんだった。
 取られた右手を強く振り払うと、テッドは椅子を蹴って飛び退いた。左手で身体の右側を大げさにかばい、叫んだ。
「……あいつに、触るな!」
 爆発した激しい感情にイザクは驚き、よろめいて膝を折ったテッドにまた驚いた。騒ぎを聞きつけて宿の女主人がカウンターから飛んでくる。手を差し伸べようとしてイザクは少し躊躇した。
 女主人は仕方ないねといった顔でテッドを椅子に座らせた。何か事情を知っているのだろう。イザクに目配せをする。恰幅のよい身体がテッドを向き、拳骨で頭をゴチンと殴った。
「飯もろくに食わないでいきなり立ち上がるバカがいるかい! そんなにフラフラになるまで意地張って、まさか死んじまうつもりじゃないだろうね、ええ? うちは客の葬式なんか出さないよ!」
 わざとらしくため息をついて腕組みすると次はイザクに言った。「お客さんこの子の知り合いみたいだね。アンタからも言っとくれ。人間、頓挫しようが悲しかろうが腹は平等に減るんだ。まず食ってから考えなってね。さあさあ、なんかあったかいものでも作ってやるから、部屋に戻った戻った」
 女主人の機転にイザクは感謝した。先ほど、テッドが叫んだときに大事なことを思い出したのだ。
 テッドを追うように旅に出た人物がもうひとりいた。イザクはその人物をよく理解していたし、彼が人一倍テッドを気にかけていたことも知っていた。彼、アルドはもう旅を共にしていないのだろうか。
 あいつに触るな、とはどういう意味だ?
 あいつとは、誰だ?
「アルドか?」
 ふと、口をついた。怒らせるつもりはなかった。無意識の問いであった。
 テッドの視線がうつろに泳いだ。どうやらさっきの気力が精一杯だったらしい。ビンゴだな、とイザクは感じた。なんとわかりやすい子供だろう。
 少しの沈黙に耐えたあと、テッドの瞳からぼたぼたと涙がとめどもなく落ちはじめた。

 しゃくりあげながらスープとパンをたいらげると、テッドの気持ちも少し落ち着いたようだった。ばつの悪そうにイザクに目をやると、小さく「すみません」と謝った。
 小さな肩掛けカバンひとつに、矢筒。そのそばに立てかけられている、寂しい違和感をイザクに与えた鉄の弓。それがテッドの荷物のすべてだった。
 相方のことは訊かなくてもわかるような気がした。テッドは「あいつ」を失ったのだ。
 生き別れになったのか、それとも。訊きたいのはその一点だけだったのだが。問いかけるのをためらったその疑問に、テッドは促されることなくきっぱりと答えた。
 森と生命を慈しんだ心優しい青年にイザクは心から黙祷する。
「事故か、病気か?」
 イザクがたずねるとテッドは少し黙り込んだのち、「事故」と言った。
「きみはその場にいたのか」という問いには、かすかに頷くだけだった。
 つらい思いをしたのだろう。アルドが一方的にテッドを案じてついていったにしても、旅のあいだにはいろいろあったはずだ。あるいは和解も。その矢先に、アルドが倒れたのだとしたら。
 取り残される気持ちは大人とてつらい。
 人の死を目の当たりにして、この小さい子供の精神が平常でいられるはずもない。
 逢えてよかったとイザクは胸をなで下ろした。もうすぐイルヤ島が焼かれたその日がまた巡ってくるのを機に、旅を終えて群島へ戻るつもりでいたのだ。寄り道したのはほんとうに小さな偶然でしかなかった。
「イルヤ島かあ」
 テッドはベッドの上で膝をかかえながら懐かしそうにつぶやいた。「あの花、また咲くようになったかな。チューリップ」
 イザクは目を見開いた。「きみは昔のイルヤを知っているのかね」
「うん」テッドは薄く微笑んだ。
「……円形の、すごく広い広場で……信じられないくらい大量のチューリップをひとりで植えようとしてた女の子がいてさ。あれ全部咲いたら、すごかったろうな。なんか、俺も手伝うハメになっちゃってさ……変な思い出」
 イザクの中でパズルがカチリとはまった。ああ、そうだったのか。イルヤの悲劇で失われた少女が楽しそうに語った「テッド」という名の少年は。
 花が好きで、笑顔がとびっきり幸せそうだという「テッド」は。
(この子だったのか)
 焦土と化したイルヤの花々が再び芽吹く時はまだ先のことだが、その日を待ち望んでいる者が自分の他にもいたということが、イザクの心を激しく揺らした。
 心を分かち合えばこれほどいい子なのに、テッドはあの船で何故自分から人を拒絶しようとしていたのだろう。いつかアルドが言った言葉が記憶の隅に残っている。
「テッドくんは、寂しいから……だから、ぼくはそばにいてやりたいんです」
 旅の半ばでテッドを再び孤独にさせてしまったことを、アルドはさぞ悔やんでいるだろう。
「群島に戻られるなら」とテッドはカバンの中から何かを出してイザクに手渡した。それは深い湖の色を閉じこめたターコイスの耳飾りの片方だった。
「森に帰してあげてください」
 テッドはそれだけを告げて秘やかに懇願した。
「きみは戻らないのかね」
 テッドは首を振った。今にも泣き出しそうな微笑み。その表情はすべてを諦めているようにも、なにかを決断したかのようにも見えた。
「おれには……」少しだけためらって、テッドからその言葉が紡がれた。イザクはこの先、少年の見せたその顔を忘れることはないだろう。
「おれには、あいつを弔ってやる資格がないんです」
 絶望を享受して微笑む少年。イザクは無神論者ではあったが、祈らずにはいられなかった。神よ、もし居られるのなら、失われれし魂と、遺されて彷徨う魂を救いたまえと。


私がアルドとテッドの物語の結末を書かないのは、自分の中で二人の別れがどうしても想像できないからです。テッドはものすごく後悔して自滅寸前まで行きそうな気もするし、逆に全てを受け入れて冷静に歩を進めるような気もする。先の戦争で罰の紋章の人から学んだことも考えると後者であってほしいとも思います。けど、今回は敢えて叩きのめしてみました。嘘のテッドかもしれません。テッドがこの通過地点を経て、つらいときに泣けるようになったのならそれでいいと思います。

2005-03-23