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禁忌

 規則的に時を刻む機械時計の音だけがやけに耳につく。
 少年にとってはさほど意味を持たない、一秒一秒。
 だが鋼のゼンマイによって動く二本の針が重なり、かわいげのない鳩がポッポ、ポッポと軋りながら十二回飛び出してくるそれ自体は、意味のある合図には違いなかった。
「おや、こんな時間かい。ようしテッド、もういいよ。手を洗っておいで」
 恰幅のよい、がらがら声の女性はよいしょと重たげに立ちあがると、奥にある台所へはいっていった。テッドはテーブルの上に山積みにされた小袋を崩さないように軽くまとめてから、言われたとおりに水道の蛇口をひねった。
 生ぬるい水が不規則なリズムで流れ出る。指にべっとりとねばついた薬草の汁はなかなか頑固で、水に濡らした程度では容易に落ちなかった。石けんをひっつかみ、ごしごしとこする。そうして右の手の薄汚れた包帯ごと泡だらけにした。
 不衛生だから交換しろと何度注意されても、テッドは頑なに右手を退けつづけた。大人たちはとうとう降参して、ようやくなにも言わなくなった。
 べとべとは完全に除去できたとは言いがたかったが、午後にまた汚れるのだから適当でかまわない。備えつけのタオルで手を拭くついでに、誰も見ていないのを一応確認して顔をごしごしこすった。
 昼食といっても毎日代わり映えのしない質素なもので、パンとスープ、それに野菜でつくられた一品がほんの少々つく程度だ。どこでつくられているのかテッドは知らない。運んでくる人の素性も、自分のいる施設の概要すらも、なにも知らない。
 簡単な仕事と食事を与えてくれるさっきの女性は、周囲の人たちから先生と呼ばれていた。なんの先生なのか、という興味はテッドにはなかった。
 ここ数日の仕事は、半乾きになった薬草の袋詰め。秤できちんと量をはかり、白い袋にいれて口を糊でとめる。その単調な繰り返し。道具屋に卸すのだと『先生』は教えてくれた。
 詰めても詰めても終わらない。テッドに課せられたのは、ノルマではなく時間だった。午前に三時間、午後に三時間。それ以上は一分たりとも残業を強いてこない。
 この程度の作業で食事と寝る場所と身の安全を与えてくれる。労働は単なる付随物だった。政府の運営する、社会的弱者救援施設のようなものだろう。予算はあまり下りていそうになかったが。
 なんにせよ、テッドにはありがたかった。どうやら施設は閑古鳥で、ほかの入所者はいそうになかったから。友だちをつくれと強制されることもない。ひとりなら、軟禁に近い状況も苦ではなかった。
 テッドは腹をくくって、遠慮なく二、三ヶ月ほど居候させてもらうことに決めた。食べるものの心配はしなくて済む。それでなくともさんざんな目に遭ったあとだから、このあたりですこし休息をとっておかないと精神がもたない。
 ふと、洗面台の横に掲げられている鏡が目にとまった。
 幼い顔。華奢な躯。半袖のシャツからのぞいた細い腕。
 どこをとっても嫌悪以外のなにものでもない。
 首に巻いた包帯だけが異様なほど真新しかった。この下は、忌むべき陵辱の痕だ。国境警備隊が人身売買の摘発に乗り出さなかったら、いまごろどうなっていたことやら。
 指でそっと包帯の上から触れる。ぬぐい去りたい記憶とともに、治っていない傷がズキンと痛んだ。
 いつの間にか、トレイを持った女性が背後に立っていた。テッドは慌てて、休憩用の小テーブルについた。
「まだ、傷むかい」
 湯気のたつスープ皿を置きながら、女性は訊いた。テッドは首を振った。
 気まずさをごまかすようにパンにかじりつこうとするテッドを、女性はパシッと軽やかに叩いた。
「ほら、また忘れてる! 食べる前は?」
 テッドはパンを置くと、不満げに両の手を顔の前に合わせた。
「そう。食事の前は感謝の祈り。天にまします我らが神よ、今日も糧を得られることを深く感謝します。はい、目を瞑る!」
 神様なんているもんか。そう思ったが、食事と反論を天秤にかけるつもりはない。素直に従うことも要領のうちである。
 今度こそパンを頬張るテッドを見て、女性はわずかに顔を曇らせた。
 彼がこの教会に連れてこられてからひと月になる。国境の検問で、犬のように首を縛められて幌馬車に積まれていたところを保護されたのだ。
 きつく締めつけられたまま長いこと放置されたのだろう。首の傷は膿み、異臭を放っていた。右手は左の脇の下にしっかりと挟んだまま、兵士がうながしてもけしてさらけ出そうとしなかった。その手には、汚れて黒ずんだ包帯が巻かれていた。
 医者の診断を受けるあいだも、右手を調べられることを頑として拒んだという。
 そして、少年はひとことも言葉を口にしなかった。
「耳はきこえているようです。おそらく発声にもなんの問題もない。病んでいるのは、別のところでしょう」
 医者の出した結論を受けて、教会がひとまずの身元引受先となった。この先、条件にあった養親があらわれるまで、少年はここで過ごすことになる。落ち着いたら、一般の子どもたちに交じって学校にも行かせられるであろう。
 最初はひどく手こずった。ろくな食事も与えられていなかったらしく、体力は限界まで落ちていた。それなのに、出された粥にも手をつけようとしない。
 牧師が業を煮やして、スプーンを無理矢理口に押しこんだ。少年は鳶色の瞳で相手を睨みつけ、もぐもぐと口を動かした。自分からすすんで食事をさせるのに、五日かかった。
 呼び名でもひと悶着あった。少年が口をきかないので、牧師は信仰する宗教に登場する使徒の名を仮に与えた。少年はそれがいたく気にくわなかったらしく、呼んでも振り向きすらしなくなった。
 数日経って、彼はテーブルの上に指で自ら名前を書いた。
『テッド』と。
 そのころから世話係をまかされていた女性は、にっこりと笑って「テッド」と呼んだ。
 少年は、ほほえみかえさなかった。表情すら変えなかった。
 右手を大事そうにズボンのポケットに突っこんで、ややうつむき加減に、視線だけでぎろりと睨んだ。
 放っておいてくれ、とその瞳が語っているような気がした。
 あの日からテッドはただの一度も笑わない。女性に対する拒絶はかなり薄れてはきたが、気を許してくれたわけではなさそうだった。
 女性はかなりの期間、孤児たちの心のケアをボランティアで行ってきたが、ここまで人を排除しようと頑なになる子どもと出会ったのははじめてだった。テッドという名前以外、生い立ちは一切わからない。言葉を失うほどのショックを与えられたのだということは、想像がついた。
 鍵は、右手にあるような気がした。
 食事をするときも、パンやスプーンをつかむのは左手である。仕事中、彼の利き手が右であることは確認していた。左手で用事を済まそうとするが、やはりぎこちない。
 いつ取り替えたのかわからないくらいに汚れた包帯。その下にある傷がおそらくは彼から言葉を奪い、子どもらしい笑顔を奪ったのだろう。
 視線がじっと注がれていることに気づいたのか、テッドは少し不機嫌になった。スプーンを置き、そっぽを向いてしまう。
「ああ、ごめんよ。気にせずおあがり」
 女性は空のトレイを持って立ちあがった。台所に戻ると、自分とテッドのために湯を沸かす。野良猫がニャアとその足にすり寄ってきた。
 教会をねぐらとしている親子だ。牧師から、餌をもらっている。戦争直後は行き場のない孤児であふれたこの教会も、いまは猫のほうが圧倒的に多い。
 それにしても、不思議だった。苛める者がいないためか、人なつこい猫たちが、テッドがいる部屋にはけして近づこうとしない。彼の気配を認めると、怯えたように逃げてしまうのだ。虐待をしたわけでもないのに。
「猫たちも、気づいてるんだろうねえ」
 女性は独り言をつぶやいた。彼女の受け持ちの少年はまだ十歳そこそこなのに、時折、ぞっとするほど大人びた、冷酷な表情を見せるのだ。怖い、と思った。
 少年はなにか理由があって、深く傷ついている。首の傷はまもなく癒えるであろうが、右手と心の傷はとても難しいものに感じられた。
 自分の力ではおそらくどうすることもできない。ボランティアとしての経験は自信につながっていたが、それすらも脆く砕かれた。この子が最後の「生徒」になるのかもしれない。そんな気がした。
 別の職をさがして、経済力をつけよう。それには何年かを要するだろう。そして、彼を迎えに来よう。あなたさえ構わないのなら、支えあって暮らしましょう、と。
 女性は自嘲した。絵空事のような思いつきだった。この歳まで結婚もせず、親のない子どもをさも偉そうに指導してきた自分が、いまさら親になりたいなどと。
 しかも、あんな難しい子どもの。
 放っておきなさい。関わると痛い目に遭うよ。自分自身が警告を発する。
 湯が沸騰して、蓋が跳ね落ちるまでぼうっとしていた。
「いけない」
 慌ててヤカンを下ろす。掌を少しだけ火傷して、顔をしかめた。柔らかい皮膚が赤く染まった。
「なに、してるんだか」
 水で簡単に冷やして、茶を二杯いれた。ひりひりする。あとで軟膏を塗っておかなければいけないだろうか。
 つきまとう猫を太い足で押しのけて、茶を手に戻った。
「おまたせ。あ、ちょうど済んだところだね」
 テッドの顔が上がった。ただ単に声に反応しただけの、いつもの無表情。それが、あきらかに驚愕の彩りに変わった。
 少年がはじめて浮かべた、苛立ち以外の感情だった。
「……あ……」
 テッドはくぐもった呻きを洩らした。それが、彼女が聴いた最初で最後の、少年の声。
 右手を必死にかき抱く。表情が驚きから、複雑に入りくんだ─────恐怖と焦燥になった。やがてその顔はくしゃくしゃと歪んだ。必死に首を振り、女性を凝視する。全身全霊の、否定。胸に置かれた右手が、左手に覆われたままがくがくとふるえた。
「どうしたの、テッド?」
 ふわりとあたたかい湯気が、ふたりのあいだをなんとか阻もうと無力に立ちのぼった。






2006-01-12