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神様との約束

 日中でも薄暗い館はじめじめと湿っぽく、一階と地下は古びた空気とむせかえるようなカビの臭いが充満していた。
 かろうじて陽のさすお館さまの居室は二階にある。こちらはなんとか住処としての威厳を保ってはいるものの、いまの代に替わって使用人をすべて解雇してから階下は荒れ放題だ。
 ここには現在、三種類の人間が住んでいる。二階に館のあるじ、地下牢に奴隷として売られるのを待つ人々、そして、館内ならば自由に歩くことを許された囚われの少年がひとり。
 少年が館に来て一年になる。そのあいだ、ただの一度も外に足を踏み出したことはない。
 館で眠り、館で食事をし、館で奉仕をして暮らしてきた。
 少年を連れてきた元のあるじは半年ほど前の暑い日に、不慮の事故で急死した。
 あるじはすぐに別の男に替わったものの、館の存在意義はなんら変わることはなかった。少年もまた、元のあるじがそう命令したようにそこで働きつづけた。
 少年は小さい両手にかかえきれないほどのパンを持って、この夜も地下におりた。牢に閉じこめられている者たちの夕食である。
 食事といっても、あたたかいスープや栄養価のあるものを用意できるわけではない。たいていは廃棄するしかないほどに劣化した食べ物の余りだ。それすらも手に入らないときもある。
 パンは、新しい獲物をふたり牢へ押しこめていった昨夜の客人が残していった残飯のなかから発見した。非常食として荷馬車に積んでおいたが、役にたたないまま期限を過ぎてしまったのだろう。
 少年は長い時間をかけて丁寧にカビを刃のこぼれたナイフでこそげとり、まだ食べられそうな部分だけをよりわけた。
 排水のたまった地下にいるのだから飲料水など与える必要はないとあるじは言ったが、見つからないようにこっそりと水差しに白湯をつめた。落とさないように注意しながら古い階段を下る。
 階段の途中は木が腐れていて、いつか踏み抜くかもしれない。慎重に回りこむ。
 それでなくともカビやら何やらでぬるぬるの床はすべりやすい。
 鉄格子の奥からいくつもの眼がぎろりと少年を睨んだ。どの眼にも、強い怒りと少年に対する蔑みが満ちていた。
 少年は仮面のような表情をまったく崩さずに、食事を差しいれるための小窓をあけてパンと水差しをそこから内部に置いた。受け取ろうと近づく者はなかった。
 囚人のだれもが無言で、少年の作業を傍観した。
 いまにはじまったことではない。毎日がこの調子。無視される理由を、少年もはっきりと理解していた。
 地下で自分がなんと呼ばれているのかを知っている。
 ”裏切り者”
 一年前の氷雨の夜がはじまりだった。原野で小さいキャラバン隊が盗賊の襲撃を受けて積み荷を奪われたのである。
 善良な商人と旅の民間人のうち、逆らったりパニックを起こした半数はその場で惨殺されて、残る者は捕らわれた。男性と女性は別々にされて、そのうちの幾人かは周囲を昼なお暗い森に囲まれている古い館に連れてこられた。
 少年は一人旅の途中でその惨禍に巻きこまれた。
 館のあるじは人身売買の仲介をしているらしく、地下には捕まえた人々を一時的に隔離しておく強固な牢があった。
 取り扱うのは男性ばかりである。早い者は一両日中に、最低でもひと月内には奴隷としてどこかへ売られていく。館には目つきの鋭い人身売買組織のメンバーが連日のように出入りし、あるじの商売が繁盛していることを裏づけていた。
 奴隷制度はもうずっと以前に国家が禁止したはずなのに、闇ではまだ盛んに取引されているのだ。
 少年が狩られたとき、ともに捕まった男たちはもうだれも牢には残っていない。身寄りのない少年がたったひとりで旅をしていることを不憫に思い、ほんのいっとき、やさしく接してくれた男たちだった。
 裏切り者の呼び名は彼らが去り際に残していったのである。
 少年は周囲よりもひとまわり年若かった。十二、三の外見は紛う方なく子どもの領域である。
 子どもが捕まるのはめずらしいことだ。このくらいの歳でもけして需要がないわけではない。見かけがよければなおのこと、引く手あまたのはずである。
 それなのに先代がこの少年を商品として扱うことをやめたのは、潜在的に持つ性癖のせいだった。
 少年は地下牢から二階へ居場所を移され、こざっぱりとした衣服を与えられた。
 食事も館のあるじの口にはいるものと同じである。贅沢とは言わないが、囚人たちとは雲泥の差があった。風呂にも入れてもらえたし、独占はできないが寝心地のよいベッドに眠ることを許された。
 だがそれは少年にとって、牢に閉じこめられる苦痛をはるかにしのぐ地獄であった。
 あるじは少年に、自分が求めているものを最初の段階で徹底的に教えこんだ。
 少年は顔をひきつらせ、抵抗こそしたが、諦めるのもまた早かった。
 おとなしく言いなりになるか、それともベッドではらわたを引きずりだされるのがいいかと問われたら、ふつうならばどんなに恐ろしくともうなずくしかあるまい。
 少年は完全に屈服したように見えた。ただ、あるじも気づかなかっただろうが、少年はこの手の下卑た脅しははじめてではなかったのだ。
 度重なる戦乱で荒れ果てていく大地を歩きながら、少年は覚悟を決めた。
 生きるためならなんだってする。
 その決意に至るまでに、どれだけ道をさまよったことか。
 完成されていない幼い身体で、だれのたすけも借りずに生き抜くためには、そうするしか方法はなかったのだ。
 感情を封じこめる方法も修得した。たったひとりで。
 裏切り者。それなどはまだましな方に思える。
 薄気味悪い子、疫病神、人殺し、悪魔。子どもの姿には似つかわしくないそんな暴言を浴びせられながら、逃げるように生きてきた少年は、明日もまた生きようとした。そして今回も、与えられた暴力を利用したのだった。
 けれども、少年はまだ悟りに至るには幼すぎる。どんなにうまく封じこめても、留め口がほころぶときだってある。
 長い長い責め苦からようやく解放されて、陵辱者に背を向けると涙がこぼれそうになる。背後で粗野ないびきが聞こえてくるまでじっと我慢してから、バレないように身体をふるわせた。
 小柄な身体を猫のように丸めて、襲い来る痛みにじっと耐える。
 だからぐっすりと眠ったことなどいちどもない。
 ここにいる男は二人めだ。前のあるじは死んだ。頭がいかれていたからだ。
 その悲劇的な末路に、少年は直接関与したわけではない。玄関先につけようとした荷馬車を誘導しているうちに運悪く、車輪と地面のあいだにはさまれた。いつも以上にたくさん乗せていた奴隷たちの重みで贅肉たっぷりの腹が轢断され、軒先に断末魔の絶叫と内蔵をぶちまけた。
 毎晩のように少年を脅したその言葉どおり、自分が哀れな姿になってしまったのだ。
 少年は閉じられた二階の窓からその一部始終を見ていた。
 少年の顔にはわずかの安堵と、それまでになかった怯えの色が浮かんでいた。
 それはどんなに屈辱的な仕打ちをされようとけして見せたことのない、恐怖の表情だった。
 少年は洋窓に己の右手を打ちつけ、がたがたとふるえた。
 革手袋に包まれた手を口元へやり、その場に座りこんだ。吐瀉物が床を汚す。
 そのまま意識を失ったのだろう。気づいたときにはベッドに寝かせられていた。
 あるじを失った部屋にはすでに、見知らぬ男がいた。
 それからも、なんら変わることのない毎日。
 異常性愛のかたまりだった男が死んで、少年を道具としてしか見ない男がかわりにやってきただけのことである。
 それでも以前よりは気を張らなくてすむ。
 二人めのあるじは、命まで奪われはすまい。
 少年の右手にかけられた、他人を犠牲にするおそろしい呪い。それは愛とか憐憫とかいうエサに反応するのだ。異常であるなしには関係ない。
 少年を脅しながら、ひどく一方的で醜悪な愛を押しつけた男には、天罰が下ったのだ。
 忌むべき呪いが、少年を解放してくれたというのに。
 どうしてあのとき、館の裏手から森に逃げなかったのだろう。
 自由になれるチャンスだったのに、放棄してしまったのはなぜだろう。
 少年は己を封じこめることに必死で、疲弊していく心に気づかなかったのだ。どれだけ精神が病んでいたか、少年は自覚していなかった。それが過ちだった。
 少年がじゅうぶんに持っていたはずの行動力は、支えを失って倒れた心に砕かれた。
 逃げることより、まっさきに渇望したのは、眠ることであった。
 一夜にして少年のあるじが別の男に変わっても、それをあっさりと受けいれてしまうくらいに、少年は疲れきってしまったのだ。
 新しいあるじはあれやこれやと館の用事を言いつけ、夜になると獣のように幼い身体を貪った。だが男には、少年に対する愛情の欠片も存在しなかった。
 奴隷たちの食事の世話を少年に一任したのも、信頼からではない。ああなりたくなかったら抵抗するなという、低俗そのものの脅迫である。
 ストレスと欲のはけ口となってやるのは計算のうちと、少年は自分に言い聞かせた。その反面どうしようもない無力感がこみあげてくる。
 憎む勇気すらもない。パンを切り分けるナイフでも、その気があればじゅうぶんに人を殺せるというのに。ベッドのマットレスに隠しておき、満足して眠った男の心臓めがけて突き立てればよいのだ。
 簡単なこと。方法は違えどこれまで幾人もの人を、この手にかけてきたではないか。
 どうしていまになって、その一歩を踏み出せないのだろう。
 なにもできぬまま、また屈辱に満ちた朝がやってくる。
 暗い森に囲まれた牢獄の朝が。
 まだ眠っている男を起こさないように、少年はするりとベッドを抜け出た。裸足でぺたぺたと広い室内を歩き、椅子にかけてあった衣服を手早く身につける。
 昨日もまた何人か運びこまれた。腹を空かせているにちがいない。なにか少しでもさがして持っていこう。
 冷えこんだ廊下に出ると、息が白く凍った。
 本格的な冬がおとずれるというのに、牢には毛布のひとつもない。身を寄せあって暖をとるにも限界があるだろう。下手をしたら、凍え死ぬかもしれない。
 そんな危惧を口にしたら、放っておけと咎められるのはまちがいない。冷酷なあるじを説得するのは相当骨が折れる作業だろうが、なんとかしなくてはいけない。
 激しい折檻は覚悟して、今夜にでも切り出してみよう。
 身体だったらいくら傷をつけられても、時間がたつと癒える。だが、失われた人の命はけして戻ってこない。
 あいだに立てるのは自分だけなのだ。我慢できないことなどあろうか。

 暗い階段を下りてくる足音を聞きつけて、青年は氷柱の張りついた鉄格子に頬をおしつけた。
 周囲の空気が、瞬時に固まったような気がした。囚われた人々はみな、敵の気配に怯えている。檻の外にいる人間はすべて、地獄への悪しき招き人にちがいないからだ。
 足音はとても小さく、薄闇に浮かびあがった人影もひどく小柄だった。しかも顔が隠れるくらいにたくさんの毛布を抱えていて、足元はかなりおぼつかない。
 牢のなかでだれかが舌打ちするのが聞こえた。
 毛布が床に置かれると、あらわれたのは身なりのよい少年であった。
 明るい色の髪の毛に、それより少し濃い鳶色の瞳。青年はそれに見覚えがあって、思わず驚きの声をあげた。
「……テッド! テッドか? どうしてこんなところで」
 鉄格子を両手でつかんで、直感を確認しようと図る。少年はびくっと跳ねあがり、まん丸く見開いたどんぐりのような眼を青年に釘づけた。
 唇の端が青く腫れあがっている。とても痛々しい。
 だが、まちがいではない。少年は、彼のよく知っている子であった。
「ライオネル……さん?」
 青年の名前を口にして、少年はハッと口をつぐんだ。あわてて顔をそむける。
「こっちを向くんだ、テッド。わけを話してくれ。なんで、突然いなくなった? 宿の連中がどれだけ捜しまわったか、わかっているのか。おかみさんなんか心配して倒れてしまったぞ」
 少年は目もあわせずに、抑揚のない声で淡々と否定した。
「知りません。人違いじゃないですか」
「フざけんな。なあ、テッド、どうしちまったんだ。まさか悪い連中に脅されているんじゃないだろうな。それともなにか? こういう仕事をするんで黙って消えちまったのか」
「毛布、持ってきました。使ってください」
「テッド、いい加減にしねえと……」
「ぼくはそんな名前じゃありません」
 牢の奥から苛立った声があがった。
「兄ちゃん、その裏切り者になにをいってもむだだぜ。そいつはな、クソ野郎どもに身体を売っていい思いをしてやがるのさ。ガキのくせに芯まで腐れきってやがる。くせぇメシぐれぇで弁解しようったって、魂胆見え見えなんだよ。その毛布だって、クソどもをくわえこんだときの使い古しにちげえねえや。へっ、どっかにこびりついてんじゃねえのか。エゲツねえのが。毎晩毎晩そりゃスゲエって、ここまできこえてきやがるからよ、だれだって知ってる。なあ、みんな」
 ゲラゲラと笑いが起こった。
 ライオネルの拳がぶるぶるとふるえた。
「この子は……そんな子じゃありません」
「ふん、まあ忠告はしたぜ。騙されんのは兄ちゃんの勝手だけどな」
 少年は反論もせず、ただきゅっと唇を結んだ。
 背を向けた少年にヤジが飛ぶ。
「二度とツラぁ見せンな、陰間ヤロウが!」
 正義感の強いライオネルが大立ち回りを開始するのがわかったが、少年は振り返らなかった。
 ぼろぼろと落ちる涙を見られたくなかった。
 とめられない嗚咽を聞かれたくなかった。
 一目散に階段を駆けあがり、厨房のドアを乱暴に開けると、無機質な壁に背をついて、泣いた。
 名前を呼ばれることがこんなに苦しいことだったなんて。
 テッド。それはまぎれもなく少年の本名だった。館のあるじでさえも知り得ない、もしくはまったく関心のない、少年が生まれながらにして持つ固有名詞。
 捨てることができないのなら、せめて忘れていたかった。そのためかもしれない。少年の心がこの館を去ることを拒んだのは。
 ぼくの名前を知っているのは、神様だけでいい。
 いつか、神様が言ったんだ。
 強い子になりなさい。決して負けないこと。
 だれも来られるはずのない、隠された紋章の村で逢ったあの人たちは、ぼくの名前を知っていた。
 テッドくん、と呼んでくれた。
 逢ったときからすべてを知っていて、だいじょうぶと、ほほえんだ。
 あれは、神様にちがいない。きっと、そうだ。
 神様との約束は破れない。破ったら、地獄に堕とされる。むかしから、そういうことになっている。
 だから、なにがあってもぼくは負けられない。強くなるということは、泣いたりしないということだと思う。
 だけど涙がとまらない。
 神様、ごめんなさい。
 神様――もういちど逢いたい。
 ぼくの名前を呼んでほしい。何度も、何度も呼んであのときのように抱きしめてほしい。
 それともぼくはもう見捨てられてしまったのだろうか。あの日から神様は二度とぼくの前にはあらわれなかった。
 残ったものは、ひどく難しい約束だけ。
 ”負けないこと”
 それを大事に守りつづけることにも、限界がある。

 神様、ぼく……もう疲れた。
 この手段だけはぜったいにとるまいと思っていたけれど、暗い森を抜け出すためには、もうそれしかないのかもしれない。
 神様、一度だけ。一度だけソウルイーターの力を借りることを、お許しください。
 どっちを向いても地獄なら、立ち止まるも歩くも同じこと。
 せめてソウルイーターの邪悪な力で、涙が出なくなるのなら。

 少年は右手を高く掲げた。
 人の持つ希望のすべて消えた口元には、わずかの逡巡も、謝罪もなかった。






あとがきのような駄文をブログに書きました。

2006-04-17