人が煙になるのは、なんと呆気ないのだろう。ノエルは戻ってきた小さな箱をほんの短いあいだ胸に抱いて軽さを確かめ、黒い腕章をつけた警察官に手渡した。離れた瞬間、カラリという空虚な音がした。
形ばかりの弔いでも、しておけばよかっただろうか。
あまりにも事務的な別れ。それを望んだのはノエルなのに、時が来たら惨めなほど動揺している。
父が口をきけるならなんというだろう。ノエルの心の葛藤をなさけないと一喝するにちがいない。優柔不断なことにはことさら厳しい父であったから。
父との別れは、ノエルに下された罰だ。だが、それに値する過ちをノエルが犯したというのだろうか。
かたく禁じられていたのはナンバー27への同情。それは27ラボの戒律であった。ノエルはたしかにそれに背いた。だから罪を背負うことになった。
しかし、父はまったく関係ない。
贖いならば自分の命を差しだす。父が身代わりになるのは理不尽だ。
命を獲られることを覚悟して我が子を守ろうとした勇敢な父を、誰が裁くという?
父さん。
ノエルは心の中で語りかけた。
ありがとう。ごめんなさい。
許してください。
ぼくはまだ、やることがある。だからもうしばらくそちらには行けません。
ラ・ダムネイションがぼくを放棄する、ぎりぎりの時まで足掻いてみたいんです。
「もう、よろしいですか」
弾かれたようにノエルは顔をあげて、うなずいた。
ぞろぞろと引き払っていく背広姿の私服警察官にお辞儀をして見送ったあと、ノエルは銀町絵麗亜と連れだって理事長室を出た。
もうひとつ、やっておかなければいけないことがある。
管区警察本部の五階に、その部屋はあった。
フロアを支配する空気が陰気に思えるのは、窓にはめられている脱走防止の鉄枠のせいだけではない。ノエルの心がそれ以上に沈んでいたからだ。
この階にはハルモニア製薬とて許可なしに足を踏みいれることはできない。銀町がそう指示したのだからなおさらである。ノエルを乗せた車は正体を隠した護衛を山のように引き連れて、先ほどこの玄関前に到着したのだった。
建物内には27ラボの旧スタッフ七名が隔離されている。いずれもプエルトリコあるいはアメリカ国籍を持つ医師たちだ。
銃刀法違反容疑を口実に身柄確保したのだが、実質的にはハルモニア製薬からの保護が目的である。内情を知る者たちをハルモニア製薬が放置するはずがない。本国へ強制送還するわけにはいかないというのが銀町の考えであった。
六名は自発的に亡命の意志を示したが、事件を公にできない日本政府は即答を避けた。
第三国への出国を配慮するという後ろ向きの姿勢に異を唱えたのも銀町である。
「優秀な人材をみすみす手放してどうするんだい。もういい、うちで引き取るよ。小児科の医者が圧倒的に足りていないんだ。はな垂れを診ることくらい、できるだろ」
鶴の一声とはこういうことをいう。
スノウ・フィンガーフートという名の年若い医師ひとりがその提案を拒んだ。
だからといってほかに確たる希望があるでもない。いわゆる自暴自棄の状態である。供される食事にも頑として手をつけず、口をかたく結んで身じろぎもしないという。
その報告を受けたノエルは、スノウと会うことを決意したのだ。
梁山泊を出ることは危険が伴ったが、銀町が同行するという条件で急きょ警護班が編成された。ノエルはじつに三週間ぶりに陽の光を見てまぶしそうに目を細めた。
都心部にも雪が降り積もるのだ。妙に感動しながら、キラキラと輝く綿帽子を手にすくってみた。ひやりとした感触が伝わり、はかない純白はすぐに水になって手のひらを濡らした。
だが、気持ちは晴れない。
どんな顔でスノウに会ったらよいのか、皆目わからない。
いまだ躊躇しているのに、その部屋のドアは容赦なく目の前にあった。
警察官がノックする。
鉄の扉が内部から開けられた。
ノエルはごくりと唾を呑んだ。数人の監視に囲まれて、スノウの灰青色の瞳がこちらを向いた。厭そうにきゅっと歪められる。
額に白い包帯をぐるぐる巻きにしている。手にも絆創膏。
床の崩壊で階下に落ちたときにあちこち傷ついたのだろう。
「お話は、考えてみてくれたかい」
銀町の問いをスノウは無視した。口をきくのも煩わしいといった感じだ。
ノエルからも目を反らす。
強い拒絶が見え隠れした。
「……悪いが、ちょっと席をはずしてくれないかね」
居並ぶ警察官に銀町が言った。「あたしがついているから大丈夫だよ。十分だけ」
銀町のお願いは命令に等しい。残されたノエルと銀町はスノウと向かいあわせの席に座った。
スノウもノエルも表情は硬い。銀町がまず流暢な英語で切りだした。
「友人同士、しなくちゃならない話もあるだろう。あたしは空気のようなものだと思えばいい。遠慮なく言いたいことをぶつければいいよ」
「話すことなんてありません」
スノウが不満げに言った。
「ふうん。じゃあ今後の身の振りかたを相談するかい」と銀町。
「プエルトリコに帰してください」
「あんたはそう簡単に、故郷には帰れまいよ。わかっているだろうに」
「父は政府の要人です。悪い噂が流れたらあわす顔がありませんから」
ここに至って体裁を口にする。口実かもしれないが、話の持っていきかたがスノウらしい、とノエルは思った。
「生きていてこその親子関係だと思うがね、あたしは」
スノウは黙りこんだ。
銀町はため息をついて腕を組んだ。
「ノエル、あんたはしゃべらないのかい」
話を振られてノエルはぎくりとした。しゃべれといわれても、何から話していいのかわからない。
「あの……スノウ、ぼく……ごめん」
とっさに口からでたのは、謝罪だった。
「きみまでたいへんなことに巻きこんで……このまえいわれて気づいた。ぼくはたくさんの人に迷惑をかけたんだ。きみはいつも、立派な研究者になりたいっていってたのに、ぼく、その夢まで奪ったのかな……」
「わかってんならもうぼくに近づくな。ひと……人殺しのくせに」
スノウはこみあげる怒りにぶるぶるとふるえた。
「ポラリス博士を殺したんだってね。さすがだよ。人の心まで失っちゃおしまいだよな」
「スノウ」
「ラ・ダムネイションってのはとんでもないキチガイだってことが、よーくわかった。撃ったのに死なない。たしかに当たったのに、きみはぴんぴんしてる。人じゃないよ。ナンバー13だってそうだ。あいつなにをした? 優秀なマウスだなんて笑わせる。従順で人の役にたつマウスのほうがまだかわいげがある。おまえたちは、化け物だ。人間なんかじゃない。ぼくはもうこんなのはいやだ。関わるのはごめんだ。もうぼくの前から消えてくれ」
一気にまくしたてるとテーブルを手のひらで叩いた。
ノエルの胸がずきんと痛んだ。
消滅したはずの銃創が疼いてどうしようもなかった。
「スノウ、ごめん……ごめん」
それしか言えない。弁解も、関係修復のための努力も無意味に思えた。
一発の銃弾がふたりの絆を永遠に分ったのだ。
いっしょに夢を語りあったスノウ。気が弱いけれど潔癖で、曲がったことの嫌いなスノウ。かばってもらったり、慰めてもらったり。彼の存在にどれほど感謝したことか。
やさしかったスノウ。
兄のように慕ったスノウ。大好きだったスノウ・フィンガーフート。
ノエルはまたもや大切なものを失った。最初は父、そして次は最短距離にいたはずの友人を。
鉄人の顔がふっとうかんだ。
鉄人にかじりついて、思いっきり泣きわめきたかった。
いまは涙のひとかけらも落ちやしない。
言葉だけが、ほろりとこぼれる。
「ありがとう、スノウ。アディオス(さよなら)」
立ちあがるノエルを銀町は引きとめはしなかった。
帰りの車のなかでノエルはずっと押し黙っていた。
スノウはぎりぎりながらも未成年という事実をふまえ、とりあえず強制措置として京東大学医学部の小児科長が身元保証人を引き受けた。ハルモニアにつけ狙われる可能性もある。当面はおとなしくしているしかない。国内にとどまるか出国するかはだいぶ先の課題だ。
決まったことだけを淡々と説明したあと、銀町はそっと言った。
「いやな思いをさせたね」
「いえ、ぼくが会うってきめたんですから。ありがとうございました」
「そうやって歯を食いしばるんだね。おまえも、なよっとしてるくせにあんがい強いところがあるね」
「強くなんてありません」とノエルは否定した。「流されっぱなしです」
「水は流れるもんだ。川だって、ずっとダムにとどまったら腐っちまう」
「へえ、日本じゃ川まで腐るんですか」
「試薬ビンのなかじゃあるまいし、精製水が流れているとでも思うかね。川にはね、たくさんの有機物が溶けこんでいるんだよ。世界には黒い川もあれば白い川もある。上流からいろんなものを連れてきて、海に流れこむのさ。川の色は流域の色、水が酸性なら流域には女の子が多く産まれる。アルカリなら男の子。人間だって左右されるほどなんだ。海が命の源というのは、そういうとこからもきているんだよ。どんなに清浄な水だって、手に負えないほどの有機物を抱えこんで停滞すりゃドロドロに腐るのはあたりまえだ」
銀町のたとえは理解できる。ひとつも難解ではない。けれども悲しみを癒すにはほど遠い。
もっと強くならなくてはだめだ。
せめて分岐点で迷いながら渦を巻かなくてもすむように。
ノエルは唇を噛んだ。窓の外を街のイルミネーションが流れていく。クリスマスほど派手ではないが、冷たい冬の夜をあたたかく照らしている。
銀町は独り言のようにいった。
「メソポタミア文明を育んだのはふたつの大きな川だった。チグリスとユーフラテス。エデンの園から流れだし、幾多の戦乱を目撃しながらやがてふたつの川はひとつになり、ペルシャ湾に注ぎこむ」
そしてぽつりとつけくわえた。
「ノエル、おまえには鉄人がいるじゃないか」
自室へ戻ろうと階段を下りているところで、政経教師の海神瀞偉に呼びとめられた。
「魁くん、遅かったじゃないか」
「なんでしょうか」
「1組の燕くんが今夜、誕生日パーティとかでね。ずっときみの帰るのを待っていたんだけれど、あまりに夜遅くなるのはいけないから先にやっていなさいと言ったんだ。きみはわたしが責任を持って送ることになっている」
そういえばそんな話もあったような気がする。ありがた迷惑ついでにまったく脳裏に焼きついていなかった。
「送る、って」
「駅前のラプソディアという燕くんのおうちの経営する店が会場らしい」
「出た、ラプソディア」
ノエルは顔をおもいきりしかめた。波乱の一日の締めくくりに最高の縁起悪さ。
「魁くんのルームメイトも招待されたらしいね。まあ、たまの息抜きならいいのではないかな。アルコールは御法度だがね」
「しょうがないな……じゃあこの格好じゃなんだから、着替えてきます」
「五分後に地下二階の搬入ゲートで」
ノエルはふと疑問に思った。こんな時間に地下のゲートが開いているのだろうか。
部屋に戻ると、なるほど誰もいなかった。かっぱえびせんの空袋が布団の上にころがっている。ノエルは制服を脱いできちんとハンガーにかけると、カーゴパンツを履きジャケットを羽織った。いちおうは喪中なので黒ずくめである。
地下二階へ行くとゲートの前に海神が待っていた。車のキーをチャランと手で転がして、「行こうか」と外に出る。
ひんやりとした空気と、寒々とした照明灯が不気味だった。梁山泊を含めた校舎内の警備を銀町が承諾しなかったため、警察官の姿はない。
牡鈴学園とボディに書かれた白の軽自動車にふたりは乗りこんだ。ヒーターを入れたとたん送風口から冷たい風が吹きだした。ぶるっとふるえるノエルに海神は「温まる前に着いてしまいそうだね」と言った。
地下補給路を車で走るのは、ノエルははじめてである。いったいいつのまに、これほど大がかりな施設をつくったのだろう。知れば知るほど、銀町財閥の力に驚くばかりだった。
ほんの数分で車はA22と書かれた駅前地下に到着した。陰気で実用本位なコンクリート階段を上り、緑色の非常口灯がともる防火扉を開けるとそこはどこかのトイレの個室だった。
「なんでこんなとこに出るんスかね」
鉄人っぽく訊いてみる。カムフラージュだろうね、と海神は苦笑いした。
ドアが針金で固定されているので、上部に開いている人ひとりがやっと通り抜けられるすきまからはい出た。ドアには故障中使用厳禁の紙がガムテープで貼ってある。
「先生、マズい、ここ女子トイレだ」
「うむ、見つからないうちに逃げるぞ」
「了解」
ノエルと海神は忍びさながらに、トイレを飛びだした。地下商店街はこの時間ともなると人気も疎らで、幸いなことにだれにも見咎められずにすんだ。
はあはあと息をしながら、ノエルと海神は同時にふきだした。
「銀町先生もやることがお茶目ですよね」
「まったくだ。偉大とキ印は表裏一体という証明だな」
地上に出て、なつかしさにノエルは表情を緩めた。このバスロータリーから山手行きの市バスに乗り、銀町邸に帰ったのである。手には鞄とマックのLサイズコーラ。月曜日には週間少年ジャンプ。ふつうの高校生を演じることに夢中になっていたノエル。ついこのあいだのことなのに、遠い昔の過ぎ去った幻のような気がした。
お灸をすえられながらまずいカツ丼を食べた交番も、カフェバー『ラプソディア』までの退廃的な道も、あの日のままだ。変わったのは自分だけ。
だが、まだ大丈夫。笑おうと言ってくれる仲間がいる。
ノエルの帰りを待ってくれる仲間がいる。
鉄人。遙兵。時雨努。経夢人。あんまり考えたくないけど燕。
コーヒーなど出したためしがないくせにキーコーヒーの看板を掲げる『ラプソディア』を見てノエルはくすりと笑った。考えようによっては妙な縁の店である。
Rhapsody(狂詩曲)だって。ヘンな名前。
そういえば店内にピアノがあった。誰が弾くのかは知らないが。
営業のあかりは消されていたが、海神はかまわず階段を下りてドアをあけた。カランというカウベルの音がした。
中はひっそりとして薄暗かった。
店内には誰もいないように見えた。
手首をつかまれる。
「海神先生?」
だがそれは別の人物だった。ドアのわきにいたのであろう。目つきの鋭い、髪の毛のピンピンに立った若い男だ。燕組の者だろうか、とノエルは思った。
「ビエンベニド(ようこそ)」
ノエルは硬直した。
海神に背を小突かれ、ピアノに押しつけられる。
「へえ。これが、例の」
男はじろじろとノエルを見回した。
「”できそこない”のほうね。へええ」
「油断しないほうがいいよ、ロジェくん。できそこないでも、なにをしでかすかわからない」
ロジェと呼ばれた男はうなずいて、ノエルに握手を求めた。
「あー、はじめまして。自己紹介をしようね。おれ、ロジェ・ウィンドブラト。こう見えてもあんたとご同業ね。九六九大学医科学研究所ってとこにいるんだけどさ。会えて光栄だぜ、ノエル・ポラリス」
ノエルは差しだされた手をとらなかった。海神に困惑した目を向ける。
「これはどういうことですか、海神先生」
ボックス席に潜んでいた数名の男がノエルを囲んだ。ますますただごとではない。
海神は少し緊張した顔で言った。
「騙してすまなかったね、魁くん。おとなしくいうことをきいてくれれば、けして悪いようにはしない」
ロジェは嘲るように笑った。
「このセンセイはな、もともと燕魚太の息がかかってンだよ。でも燕が裏切ったもんでよ、粛正が必要になっちまってな。でもほら、センセイにはその気はねえだろ? 咎めないって条件で働いてもらったのさ。あんたを無傷で連れてくるっていう簡単なお仕事。ま、発覚したらもうあっちには戻れねえだろうけどな」
「なんの目的だ。おまえたちもハルモニアとつながってるのか」
「ったりめーだろ。おまえらを回収するために、いったいどんだけ苦労してると思ってんだ」
「帰る」
ノエルはピアノから離れようとしたが、男たちに羽交い締めにされた。
「ぼくにさわるな。命の保証はしない」
ロジェは「おお、怖」と笑った。
「わあってるって。おいたができねーように、ちゃんとおねんねしてもらうから」
背後から口元を布で塞がれた。
甘い刺激臭が鼻をつく。
吸入麻酔薬だ、と思ったときはすでに膝が崩れていた。
「手荒な真似はしないでくれよ」
そう言った海神に、ロジェは懐から出した短銃を向け、躊躇もせず発砲した。
「……せ、んせ……」
海神先生。
ゆっくりと倒れる海神瀞偉の背が、ふっと遠くへ去り、ノエルは意識を失った。
「あっれー、ノエルまだ戻ってねーのかな」
談話室で開催された新学期杯かっぱぎ王座決定戦で大量のスナック菓子を盛大にかっぱいだチーム・マトリックスは、部屋にノエルがいないことを訝しんだ。
着ていった制服はハンガーにかけてある。
「風呂にでもいったのかな」
「こんな時間にか」
鉄人は携帯電話を出して時計を見た。午前零時。
グレアム・クレイに番号を掌握されたままというのも気味が悪かろうと銀町が再契約してくれた携帯である。鉄人はノエルの番号にかけてみた。出ない。
「ケータイ不携帯か」
いつものことだからと思おうとしたが、ふといやな予感がした。
今日は銀町といっしょに、スノウ・フィンガーフートに面会にいくと言っていた。なにか問題でも発生したのかもしれない。
「おれちょっと理事長のとこにいってくる」
鉄人は部屋を飛び出した。
銀町は理事長室の簡素な机に座って、ブランデーのグラスを傾けていた。
「いや、七時には帰ったよ。許可なく外出するはずもないから、どこかにいるんじゃないのかい」
「警察でなにかあったんですか、先生」
鉄人の質問に、銀町は少し言葉を選んで答えた。
「まあ、あの子にしてみれば酷は酷さね。でもそんなことで挫けるような子じゃないよ」
「おれ、もういちど梁山泊内をさがしてみます」
出て行こうとする鉄人を銀町はとめた。
「お待ち」
マイクを手にする。
「夜分すまん、魁ノエル、いたらすぐ理事長室に来なさい」
だが五分待ってもノエルは来なかった。かわりに用務員の婆咲舵狸男から内線電話がはいった。
「事故で搬入が遅れた荷物が来るってんでゲートあけて待ってんスけど、こんな時間になっちまったんでもう閉めちゃっていいっスかね」
銀町の眉が寄った。
「待て」
受話器を置き、真剣な表情で鉄人を呼んだ。
「ついておいで」
ガウンのままで階段を一段飛ばしに駆け下りる姿はとても五十代の女性には見えなかった。なるほど、ライフル銃がよく似あうわけだ。
ゲート外部の駐車帯を確認すると、銀町はうなった。
「軽が一台足りない。鉄人、居住区へ行って遠藤先生を連れてこい。寝ていたらたたき起こせ」
「わかりました」
鉄人は踵を返して階段をまた駆け下りた。胸がどきどきして、息苦しい。
地下四階と五階のあいだの踊り場にさしかかったとき、ポケットのなかでメールの着信音がした。
素早く開けてみる。
受信 まんじゅう怪人 00:24 ファーイースト・フィナンシャルビル、屋上展望台。ふたりで夜景を見よう。きれいだよ
手がふるえた。
これは、罠だ。
ノエル。
鉄人は息をひとつ吐き、携帯電話をポケットに戻した。壁に額をついて呼吸をととのえる。手が無意識にズボンをさぐった。指先が入れっぱなしの財布に触れる。電車賃くらいはあるだろう、と思いながらすでに終電が出たあとだということに気づいた。タクシー代なんて持っていない。
ファーイースト・フィナンシャルビル。
隣の市に建設されたばかりの超高層ビルである。
三時間くらい歩いたら着けるだろうか。
階下を向いていた身体が反転した。そして鉄人は猛然と地下一階の通用門へ向かって駆けだした。
2006-02-17
