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ハレルヤ-断崖のインビジブル・ハンド3

 ノエルの指の動きにあわせてガチンという重苦しい金属音が発せられた。
 ノエルは呼吸も忘れ、ただきつく目を閉じ歯を噛みしめていた。だが、あって然るべき衝撃はいつまでたっても訪れなかった。
 少ししてノエルは自分の行為が未遂に終わったことを知った。
 喉からひゅっと息がもれる。停まった時間がまたゆっくりと流れだした。色を失った手が小さくふるえた。
 背後で魚太がはああと大きく安堵のため息をついて言った。
「カミサマてのはいるもんだな……糞ヅマリだよ、そりゃ」
 ぼそりとつけ加える。「オートマにしといてよかった。どえらい九死に一生を見せてもらった」
 璃乃が硬直の魔法から解かれたカエルのようにへなへなと膝を折った。
 作動不良で薬莢が排出されなかった拳銃はノエルの手を離れ、力なく床に落ちた。
 そのときだった。新たなる異変が起きた。
 ゴン、と空気がたわんだのである。
 魚太ははっとして音のしたほうを見た。
 いまいる大会議室前の向こう。建物東側の壁全体が大がかりな舞台装置よろしく水平移動している。
 隠された外部通路の存在をこのときハタと思いだした。
 ヤバくなったら隔壁を開けるからそこから逃げろと銀町に指示されたではないか。
 やがて東にぽっかりと明るい空間があらわれた。東京駅から京葉線ホームに向かう長い長い地下通路を彷彿とさせるが、こちらは大型トラックも通行できそうな雰囲気である。
「こんなばかでかい仕掛けだったのか」
 魚太は感心して、置かれている状況も忘れにやりと笑った。
 だから階段方向からどたどたとやってくる複数の足音に気づくのが遅れた。
「……テツ! ノーエールゥゥウウ!」
 乱入してきた集団の先頭めがけて、武装したハルモニアの銃が一斉に向けられた。

 耳元で鳴った金属音と、誰かの嗚咽で鉄人はうっすらと意識を取り戻した。
 押し殺したようなこの声は、ノエルだ。ノエルが泣いている。
 鉄人をしっかりと抱えているのはノエルの腕だ。力がこめられる。弱々しさなどひとつもない。
 本番一発勝負だったが、うまくいったのかもしれない。原理を理解するのはこれからだけれど、本能が起こした行動はおそらくは正解だったのだ。自分が送りこんだエネルギーは首尾よく、ノエルの失われた細胞組織を、血液を、生体物質を補ったと見える。
 右手のレセプターは生命を受け取るだけではなく、他者に伝達することもできるのだ。
 いや、セラフィムを持つノエル相手だったからこそ、こんな無茶がまかりとおったのかも。
 あるいはふたつのセラフィムが。
 ラ・ムエルトとラ・ダムネイションが、人知れず契約を交わしたのだろうか。
 以前、鉄人がセラフィムを単なる神経細胞と嘲ったとき、ノエルがそれはちがうと否定した。いまでは鉄人もセラフィムに意志があると認めることができる。
 仲間意識が存在するのかどうかなんてわからない。ただそれの持ち主として感じるのは、セラフィムには同類に対する悪意がまるでないということだ。
 個を確立しながらも他を尊重する。それがセラフィム同士の疎通のような気がする。
 理屈はどうでもよい。
 いまは結果のみがすべてだ。
 ノエルが生きている。
 よかった。
 まだ、大丈夫。ふたりとも前に進める。
 だからノエル、泣くことなんてないじゃないか。はやく立ちあがらなくては、グレアム・クレイに先手を打たれる。あいつは狡猾で情け容赦ない。うかうかしていると、隙を衝いてくるにきまっている。
 でも、困った。手足に力がはいらない。
 身体が命令をきかない。
 ああ……そうか。
 ノエルに与えちゃったからだ。
 欠けた部分を修復するには、供給するものが要る。
 けれど自分はそれを望まない。
 望まなければ、ひょっとしてこのまま冷たくなって死ぬのかな。
 ぼんやりとそう思ったときだった。頬に、あたたかいものが触れてきた。
「ノ・キエロ、ペルデルテ……ティ・アモ」
 きみを失いたくない。
 愛し……てる?
 やわらかい肌が触れた。
 切ないしずくが触れた。
 頬に、まぶたに、そして鉄人の唇に。
 中米ではごくあたりまえに交わされる、日本人からみたらこっ恥ずかしくなるような情熱満載ラテン系愛情表現だけど、鉄人はそんなことをされたのははじめてだった。ふつうは親が我が子へ、異性が恋人へ、あるいは幼子同士がふざけあいながら、するものだ。
 唇と唇があわさる。
 おいおい。
 いくらなんでもそりゃ情熱的にすぎるぜセニョール。っていうかもうすでにどこかそのへんで凝視してるにちがいない女っ気のないエンちゃんによってキ印の烙印確定まちがいなし。
 ”ティ・アモ”
 どんな障壁でも難なく乗りこえてしまうであろうそのやさしい言葉が、こぼれおちる水のように鉄人の生命をうるおしていくのがわかった。
 重かったまぶたが開いた。
 手がノエルの背中を確かめた。
 鼓動と鼓動がかさなった。
 無から有はけして生じない。その法則をさらりとはねのけて、鉄人とノエルを中心に新しいエネルギーが産声をあげた。そのエネルギーは超新星が発するニュートリノよりもさらに低質量で、存在と非存在のぎりぎりの位置にあった。だがそのぶんだけ自由気ままに、生き生きと、周囲の物質を透過し覆い尽くした。
 その力は殺戮と破壊活動がはじまろうとしていた地下二階を、一瞬で洗浄した。
 なだれこんだ生徒たちも、武装したハルモニアの兵たちも、グレアム・クレイも。
 圧倒的な神の意の前になすすべもなく呆然と立ち尽くした。
 なにもかもが光の前にひれ伏せざるをえない、浄化という導きの中で、鉄人とノエルだけが自由だった。
 ふたりの熾天使は支えあいながら立ちあがった。
 血にまみれた姿は燃えたつ翼のようにも見えた。戦場に巣くう愚か者たちに、集ってきた勇者たちに、ふたりは神から賜った言葉をおごそかに告げた。
「立ち去れ、外野。ここはぼくたちの学校だ」
 あたりは弾かれたように騒然となった。
「出て行け、ハルモニア!」
「そうだそうだ、帰れ帰れー!」
「毛唐のクスリ売りに用事はねえぞー!」
「失せないとケロリン洗面器ぶつけちゃうよ!」
「日本の健康はゾウのサトちゃんが守りまーす!」
 とどめに霧流が握った手の親指を下に向けて、「サノバビ~ッチ(クソッタレ)」と言いはなった。
 瓦礫をひょいひょいと跳びこえて、まっ先に鉄人のもとへ駆けつけたのは遙兵だった。そのまま鉄人とノエルにむしゃぶりつき、ぎゃんぎゃんとわめいた。
「ケガ! け、怪我っ、だだだだいじょうぶかよなあおいっ、う、撃たれたんか? ムックレー(クレイのことらしい)になんかされたのか? ホントに痛くねーか、ちゃんと生きてんのか、おいったら」
「落ち着け、ハー」
「そうだよおちつけオレ! ……ってテツ、暢気じゃねーかよ、ったくもう……心配ばっかかけやがって……マジ、カンベンしろよ。はああああ」
 ずるずると崩れる遙兵にノエルはくすりと笑って、ぽんと肩を叩いた。
「ありがとう。来てくれたんだね」
「チェッ、なんだよテツもノエルも。平然としやがって」
 鉄人とノエルは顔を見あわせて、きょとんとした。お互いどす黒くなるほど血まみれで、なるほど豚の解体業者さながらである。致命的な出血量は取りも直さずノエルの身体から流れでたものなのだが、銃創はいまはどこにも認められない。
 ノエルの顔がスッと曇った。
「父さん」
 鉄人もハッとして、吹き抜けとなった破壊痕を見た。
 一帯の床は地下三階まで完全に落ちこんで、いまにも折れそうな鉄骨が端を支えていた。
 ノエルの父も27ラボの人々も残骸もろとも下に落ちたにちがいない。助かってくれていればよいが。
 ものすごい人口密度とごうごうたる罵声の嵐をかいくぐって声を張りあげたのは銀町絵麗亜だった。
「クレイ」
 指示を出しそびれていたグレアム・クレイの顔が不快な色に彩られた。
「これはこれは……貴女みずからおでましとは」
「こちらの科白だよ。遠いところわざわざご苦労なことだね」
 ライフルを向けようとした武装兵をクレイは手で押しとどめた。
「それだけ、逃げた彼らがわたくしどもにとって重要であるということですよ。勝ちを得るためには座して待つ墓石となるなかれ。機を見きわめ動く巨岩であれ。貴女さまのお言葉だった記憶がございますが」
「ふん。妙なところだけきちんと覚えているもんだね」
「たしかに動けば動いたぶんだけ、逃げた宝石が光り輝くのをこの眼で確認することができました。比類なき宝石だからこそ手にいれたい。誰もが持つ人としての欲望です」
 銀町はおかしそうに笑った。
「無いが意見の総仕舞い、ってのはあんたには当てはまらないのかい。あんたの欲望はまったくどこまで果てしがないんだろうねえ」
「お互い様ですよ」
 クレイは目をぎろりと光らせた。
「エレノア・銀町、貴女が擁護し、人権を与え、生き永らえさせようとする二名はもはや現実には融合できぬものたちです。あらぬ力を持ち、老いることもない。それが人としていかに奇異であるか、おわかりにならないわけではないでしょう。貴女おひとりがよしとしても、世間は異質なものを忌み嫌います。貴女個人の欲望が、両名に無用の試練を押しつけようとしているのではないですかね」
「ちゃんちゃらおかしい。あんたの人としての器は高校生にも劣るね」
「そうだぜ!」と怒鳴ったのはまたもや遙兵だ。「どえらい医者かなんか知ンねーけど、もいっぺんガッコー出直せ、ウンコたれ」
「ご同意ありがとう、穴あき靴下」
 銀町は苦笑した。
「1年3組、猛地遙兵、美化委員」
 遙兵はぶすっとして言った。
 次に口を開いたのは鉄人だった。
 顔色はまだあまりよくはなかったが、はっきりと透る声で言った。
「グレアム・クレイ、おまえの眼はなにも見えていない」
 クレイの口元が歪んだ。
「おれはずっとおまえに怯えてた。おまえがおれを死神と名づけたあのときから。けど、おまえのチンケさがよーくわかってよ、怖いなんて気持ち、すっかり吹っ飛んじまった。おまえより銀町先生のほうがよっぽどおっそろしーや。いいか、セラフィムがただの貴重な石コロだと思ってたらヤケドするぜ。欲しかったらな、一万回くらい死ぬ覚悟でかかってこいよ。地獄に出入り禁止になるまで足しげく通ってよ、閻魔大王にもうおまえはいい、来んないわれたらそんときは相手してやるよ」
「つくられたマウスの分際で面白い口をきく」
「つくったの、アンタじゃねーだろ」
 クレイのこめかみがぴくぴくと痙攣し、銀町は呆れたように天を仰いだ。
「……ほう。では、誰がきみをこの世に生みだしたのかね。神とでもいうつもりかね」
 鉄人は指先をクレイに向け、傲然と言いはなった。
「ボケ! とーちゃんとかーちゃんにきまってっだろーが!」
 シーン。
 ごもっとも。
 そこにいる誰もがちからいっぱいそう思った。
 パン、パン、パンと手が鳴った。出所は燕霧流だった。
「弓ノ間くん、かっこいい」
 優等生の時雨努が思うに、かっこいいというよりは本日の屁理屈大一番という気がした。
 拍手がぱらぱらと起こった。
 やれやれ、とノエルが呆れるひまもなく、まばらな拍手はスタンディングオーベーションと化した。
「ごほん」
 銀町のわざとらしい咳払いにもどこか苦笑の色がただよっていた。
「どうするね、クレイ。あんたがこのまま手を退くとは思えないけど、ここはいったん策を練り直したほうが互いのためではないかね。取引しようじゃないか。あんたらは学園の包囲を解く。マスコミにはハルモニアに都合のよい情報を流すがよい。我々は今後もここを拠点とし、このふたりを狙う者を徹底的に叩く。正々堂々とやろうじゃないか」
「抵抗勢力は弱体化させ、必ずや駆逐する。運でつかんだ優位をだらだらと惜しむつもりはない。時間と駒は有意義に使うものだからな。わたしは時を待たずして13と27を手にいれる」
「では、取引成立だね。お帰りは正面出口にしとくれ。さっき開いた裏口は我が校の生徒専用だ」
 クレイは鉄人を向いた。
「サーティーン。おまえはいずれわたしのもとに戻る運命だ。そのこまっしゃくれた口を塞ぎ、反抗など考えることができぬようにメスを入れてやる。おまえが救われる道は最終的にそれしかない。楽しみに待つがよい」
「あんたドクター・キリコかよ。いっとくけどものすげーありがた迷惑だかんな」
 鉄人は撤退をうながすクレイの背にあかんべをした。
「テツ、やつにキンケリかましたのか」
 遙兵に訊かれ、「しまった、積年の恨みを晴らすチャンスだったのに」と鉄人は後頭部を掻いた。

 地下通路を指し示して、銀町はフロアをぎゅうぎゅうに埋める生徒に言った。
「この道は市内各所に通じている。おまえたちの大好きなマック……ドナルドや、市立図書館、駅、牡鈴女子短大、植物園、中央医科大学、湾岸道路のサービスエリア、そのほかさまざまな場所に出られる。おまえたちが方向音痴でなければだがな。現在、午前七時四十二分。いまの時点をもって、籠城作戦は終了とする。生徒諸君、ほんとうに長い時間ご苦労だった。今日は全員、まっすぐに帰宅すること。寄り道も買い食いも厳禁。始業式は予定より三日遅らせる。諸君たちはおもてに出ると同時にマスコミや国民の取材攻勢に遭うだろうが、どう対応すればいいかわかるね」
 高等部生徒会長の加速南々類(あくせるななる)が声をあげた。
「産業スパイは誰ですか、ときかれたら!」
 全員がいっせいに手を挙げた。
「はーい、記憶にございませーん!」
「よろしい」と銀町はうなずいた。
 樹花はぷっと吹きだして、ほんの少しのあいだに激変した自分にうろたえた。
 銀町の話は続けられた。
「梁山泊は今後もハルモニア製薬に対抗するための前線基地とする。諸君らはいつでもここに帰ってきなさい。ここはな、みんなのもうひとつの、家だよ。遠慮することはない。好きに出入りしとくれ」
「いっそのこと、全寮制にしちゃえばいいんだわ」
 某雁瀬音香が言った。無邪気な歓声がとどろいた。
 自室へ私物を取りに戻る者、さっそく地下通路へ駆けていく者、ぞろぞろと人の入り乱れるなかで鉄人とノエルは何度も肩を叩かれ、あたたかいねぎらいを受けた。
「ノエル、ついてきなさい」
 銀町にうながされてノエルは階段を下へ向かった。鉄人と遙兵、霧流たちが続く。
「さきほど、地下三階でのびていた八名を捕虜にした」
 銀町は簡潔に言った。
「脳震盪をおこしただけの者は先生たちが監視している。だが……」
「父ですか」とノエルは硬い表情で言った。
 銀町の硬い表情から、ノエルはなにが待っているのかを悟ってしまった。
 もっとも至近距離でふたつのセラフィムの発動に巻きこまれたのである。無事でいられるほうが不思議であった。
 銀町はなにも言わず、地下五階の医務室へノエルを連れて行くとふたりだけで中に入った。閉めだされた鉄人はドアに額をおしつけてじっと待った。
 中から小さく、くぐもった声がきこえた。
 それはノエルの嗚咽だった。
 喪ったのだ。ノエルは、父親を。
 ドクトル・ポラリスと戦うと宣言した強気のノエルは、いまは姿を消しているだろう。
 じわっと、眼の奥が熱くなった。
『鉄人はやさしいんだね』
『臆病なだけだ』
 そう、やさしいだけではなにもできない。いまの鉄人にはドアをあけて飛びこんで、ノエルを背中から抱きしめる勇気すらもない。臆病で、無力で、どうしようもなく情けない存在。助けに駆けつけた遙兵や時雨努たちのほうがよっぽど人間くさいじゃないか。
 こんな肝心なときにぴくりとも動けないなんて。
 涙が流せるからって、なんになる。
 ぼろぼろと頬をつたう。なんの役にもたたないものが、あふれてくる。
 ティ・アモ。
 せめてそのことばがノエルの悲しみを癒すなら、鉄人は何度でも贈る。
 いまは壁に隔てられていても、あすにはきっと手を取りあえる。
 鉄人の右手とノエルの左手はつながっているのだから。生命と生命を分けあって、いまこうしてふたりとも生きている。
 そうだ。奇蹟すらも起こせるのだ。
「ノエル」と鉄人は友の名を小さくつぶやいた。「いっしょに行こう」
 戦いはまだ終わっていない。明日はもう泣いたりしない。
 明日は、ノエルの肩を支えることのできる自分でいたい。
 新たな決意に、鉄人はきゅっと唇を結んだ。


2006-02-12