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サードステージ-断崖のインビジブル・ハンド1

 その夜、ぐっすりと眠れた者は結局のところほとんどいなかった。異様な興奮状態もさることながら、尽きぬおしゃべりに誰もがみな夢中になっていたのである。
 照明をほどよく落とした大ホールはオレンジ色の毛布の花畑。各々が好きなようにからまりながら、飽きもせずに語りあった。他愛のないおしゃべりから将来の夢までさまざまだった。
 鉄人もノエルや遙兵たちとふざけて足を絡めてゲタゲタと笑い、そのまま時の経つのを忘れた。一年以上先の修学旅行がはやく来たみたいで、楽しかった。
 今夜ばかりは教師たちもうるさいことは言わず、それどころかどこから持ちこんだことやら、芋焼酎の水道水割りで宴会になだれこむグループまであらわれた。
 零時ごろに霧流が編駝麓をひきつれて乱入し、遙兵の威嚇を軽くかわしつつ長々と燕組の偉業について講演していった。若様の誕生パーティに鉄人を招いてくださるというお土産つきだ。鉄人は苦笑いし、遙兵は脳天から水蒸気を噴いた。
「ったくよォ、なーに考えてンだあいつら……」
 歯をぎりぎりとすりあわせてうなる遙兵を見て、鉄人はふと思いついたことをなんの気なしに口にした。
「ハーってさ……赤ちゃんみたいなきれいな肌してるよな」
……はあ?
 言ってからしまったと思ったが、後の祭というやつだった。
「あ、いやその、ほ、ほら! 秋田美人ってゆーの? 寒いとこの人間は肌がきめこまかいなあって、誉めてんだよ」
「男にいわれても嬉しかねえよ……ぐはあっ」
 遙兵はがっくりと頭を垂れ、おおげさにへこんでみせた。
 サッカー部の練習で陽に焼けて色白とはほど遠い肌は秋田美人の定義からはじき出されるけれど、小さい頃から餅肌ねとかわいがられてきたことは遙兵にとってある種のコンプレックスでもあった。
「ごめん……」
 鉄人がせっかく反省をこめて謝ったそばから、天然培養のノエルが油を注いだ。
「ぼくもそう思ってたんだ! 遙兵って美人だよね」
 時雨努がひきつって「ぶっ」と吹きだした。
 クリティカルヒットを真正面から喰らった遙兵はヒットポイント1の瀕死状態に陥ってしまった。
「ノエルのせいで死んじまったぜ、あわれな遙兵。マドレ・デ・ディオス、ナーマンダーブ、ちーん」
「言いだしっぺは鉄人だったよな」
 時雨努の模範的ツッコミに鉄人は声をあげて笑った。
 楽しい。
 ばかばかしい、時間の無駄、くだらない、意味がない、そうやって遠ざけられてきたものがこんなにも貴重だなんて思わなかった。
 ノエルもノエルで、顔も知らない中等部の女の子三人組にフェルトでできた手づくりのお守りもどきをプレゼントされて、クールに受け取ったはいいものの、まんじゅうに目鼻口手足がついたようなそれは呪い人形のような不気味さをがんがんに放っていて、身につけるだけで大凶という雰囲気で、ほんとうは怖いくせにやせ我慢しながら安全ピンでオーバーシャツのすそにとめていることを鉄人は知っている。
 情のかけらも持たぬ医師たちと監視カメラに囲まれながら孤独に眠らされた幾多の夜。同じ閉ざされるにしてもなんという違いだろう。おれたちの夜には、未来がある。
 ラボに戻らなくてすむのなら、どんなに絶望的な賭けでも立ち向かえる。
 だめでもともと。そうしたらこの世からいなくなるだけ。クレイの手の内で発狂するよりはましだ。
 いちど失った命が戻ってきたのは、きっとこのためだったんだ。
 ノエルを向く。経夢人と小突きあってふざけている。隔壁のむこうで、実の父親が自分を抹殺するためにライフル銃を手にしていることを、ノエルはちゃんと知っている。けれども、笑っている。それは、ノエルも未来を諦めていないから。
 瞳を閉じる。
 この夜がいつまでも続けばいい。
 もちろん時計は正しく秒針を進め、楽しいだけの時も終わるときが必ずくる。
 それでも。
 それでも。
 それでも、鉄人は笑いながら夢を見ていたい。

 作戦会議は夜明けを待たずに開始された。
 渡されたパンにも手をつけず、オレンジ・ジュースのストローを口にたばこのようにくわえて鉄人は仏頂面をしていた。
「先生、それでは約束がちがいます。先生はここを守ってくださいとお願いしたじゃないですか」
「あたしはなにも約束を反故にするとはいってないよ。生徒を守るのはあたしの最大の責務だからね」
「じゃあ先生は待機してください。おれとノエルだけでじゅうぶんですから」
 深夜にどのような展開があったのかは知らないが、機動隊は全員、もとの非常線まで退いたようだった。緊迫した様子のテレビニュースにはものものしい様子の牡鈴学園が映しだされた。
 まばゆいばかりの照明灯とパトカーの回転灯に照らされ、疲れた顔のアナウンサーが嗄れた声でこのたびの件がいかに大事件であるかをがなりたてている。
 深夜時間帯の報道番組としては前代未聞の瞬間視聴率を記録しそうだというくだりには、生徒たちからもどよめきの声がもれた。
「中に残ってんのは情け知らずの悪党どもだよ。機動隊がいたほうがまだ安全だった。わかってんのかい」
 交渉の席に同伴すると言いだした銀町絵麗亜を鉄人は困ったように睨みつけた。
「わかってないのは先生ですよ。やつら、セラフィムを持ってない人間は問答無用でブチ抜きます。理性だの論理性だの期待するのは大間違いです」
「じゃあおまえたちだって同じことさ。とりあえず撃っといて、脳死に至るまえに大切なものだけ取りだしゃいいんだ。イカレ医者どもならそのへんの廊下を手術室にすることくらい朝飯前だろうよ。どうだい、怖じ気づくならいまのうちだが」
「あいつ、おれにはそんなことしませんよ」
「自信ありげだね」
「まあね。以前ならともかく、あの腐れ野郎、おれごとラ・ムエルトを愛しちゃったみたいですから。あのとき”発現”したからだろうね、きっと」
 銀町は頬杖をといて腕組みした。
 たしかに鉄人の起こしたケースは、研究材料としても貴重だろう。そう簡単に鉄人だけを切り離すとは考えづらい。
「問題なのはノエルです」
 鉄人の言葉にノエルは伏せていた目をあげた。
「27ラボのスタッフがそろいもそろってここに来ているということは、いままさに先生のおっしゃったそれを実践するためだと思います。持ち帰るのはなにもヒトの形をしたノエルじゃなくてもいいわけだから」
「キチガイだな」と璃乃が吐きだした。
「でも、ぼくはついてくよ。鉄人ひとりに行かせられない」
 ノエルの決意は揺らぎそうにない。
「わあってるって。決着つけなきゃ、やってらんねーよな、ノエル」
 ぶんぶんとうなずく。テコでも動かぬといった顔である。
「銀町先生、彼らにはわたしが同行しましょう」
 起立したのは燕魚太だった。
「荒事には慣れていますし、銃器の扱いも心得ています」
 断指の隣で派手な指輪がキラリと光る。
「ふむ。で、あんたの面子はどうなんだい」
「ラ・コーサノストラですか。あんなものは利用しただけですよ。株を買ったようなものです。大損する前に売っぱらわなくてはね。どのみちオメルタ(掟)に背いたからには、戦う以外に道はないんですがね。息子もきちんと一流大学に入れなくてはならないし、親としてはどうにもこうにも」
 ヤクザ、燕魚太は二者面談で恐縮する保護者のようにぼりぼりと頭を掻いた。
「インサイダー取引じゃねえの」とぼそりつぶやくは勝手に参加している遙兵。
 銀町は十秒ほど沈黙すると、「では、お願いします」と言った。
 雲行きがあやしくなってきた、とノエルが思った瞬間、こんどは璃乃が銀町に喰いつかれた。
「遠藤先生、あんたもいっしょに行っとくれ」
「え、おれ……はあ? お、おれ?」
 突然のことであたふたとする。まあ、当然の反応だろう。
「あんたはガタイもでかいし、声もでかい。なに、安全距離で様子を見てくれるだけでいい。危険を察知したら無理せずにすぐ跳んで帰れ。斥候をしろとはいわん」
「体格と態度で決めていいんですかい!」
「担任だろう」
「そんだけかよ!」
 みごとなステテコパンツステップである(地団駄ともいう)。
 璃乃にとって不幸なことにさしたる反対意見もなく、話はグレアム・クレイと交わされた内容に移った。
「話しあいの場所は地下二階大会議室。会議室内部に入れるのは双方、四名を限度とする。ああ遠藤先生、あんたは無理しなくていいからね。交渉開始時刻は午前七時。内容はいっさいモニタされない。話がつきしだいすみやかに、全員が待機位置に戻る。とまあ、お約束だけはご立派だがハルモニアが正攻法で来るわけなかろうね。要するにこの隔壁を出たらあんたらの命は風前の灯ってことだ。そこで、こちらとしても奥の手をつかう必要がある」
 銀町はパイプ机に梁山泊の見取り図をひろげた。
「大会議室がフロア中央部分にある。そこから西側はこの大ホールの真上にあたる。逆方向……」
 指が紙の上をすべっていった。
「……東側に、外部とつながる極秘の地下補給ルートがある。鉄人、おまえの指示がありしだい遠隔操作でここの隔壁を開ける」
 鉄人は銀町に渡された近距離用呼び出しベルを握りしめた。
「この隔壁はセキュリティも兼ねてかなり頑丈にできている。開閉動作を指示するのに六十秒必要とする。鉄人、あんたは不可能を可能にするために六十秒与えられるのではなく、六十秒を耐えなくてはならない。できるか」
「黙って待つ愚は犯さない。そのあいだにもなにかやれることがあるはずだから」
 いまからそこまで想定しても詮無いことだ。
 銀町は「上等だ」とうなずいた。
「理事長先生、おれも意見、意見」
 遙兵が手をひらひらと振った。
「穴あき靴下か。発言したかったらいますぐ約束の黒板の適当な空欄に名前を書いてこい」
「おっ、お許しがでたぜ! シグもヘルも遠慮すっこたーねえぞ」
「書く書く」
「ぼくもぼくも」
 三人組は黒板にすっ飛んでいき、チョークで名前を書いた。
「ちゃんとみんな名前の一字があってわかりやすいよな」
「そしてまたご丁寧にそこだけぽっかり空いてるし」
「運命の導きってのを感じるよ、なあ!」
 和気あいあい。見かねた海神瀞偉がひかえめにうながした。
「きみたち、意見」
「おっと、そうだった」
 遙兵はぽんと手を打つと、声をはりあげた。
「さっきシグだちと話しあって考えたんだけど、テツたちが出て行ったあとここの隔壁は閉めないで、開けたままにしといてくれよ。天下の梁山泊軍が、引きこもりはどうかって思うぞ」
 鉄人の冷静な反対意見が飛ぶ。
「階下にガスを流されたら一発で終わりだ。オウム事件知ってんだろ。ハルモニアの連中、VXかサリンを隠し持ってる」
「あんなあ、秘密結社たって表向きは鋭意営業中の会社なんだからさ、こんなに全世界が注目してんのにそのド真ん中で無差別テロ起こすわけないっしょ。株価下がるどこの話じゃねえぞ。あくまであちらさんは正当な知的所有権を主張してらっさるんだからよ」
「けど、危険だ。防御も戦術のうちだから、ハー……」
 遙兵は怒鳴った。
「テツ! テメー、守られるのウンザリって自分でいっときながら、それはねえんじゃないの? と、に、か、く! おれたちゃテツが上にいるあいだ、ぜってーに、意地でも、隔壁閉めねえからな。仲間が戦ってるときに見すてるなんて腰抜けのすっことだ」
 鉄人は天を仰いだ。
 妙な説得力があって反論できない。
「わかったよ、勝手にしろ。けど、上で発砲音がしても絶対に飛んで来っなよ。起こるのはおまえら一般人の首つっこめるような戦闘じゃないからな。なにがあっても待機。いいな、わかったな。いうこときかないと呪うぞ」
 ぎりぎりの折衷案である。
「おお、でもなテツ、おまえ自分のマトリックスパンチはあんまり過信しないほうがいいかもよ。鍛え方がなあ、なーんかイマイチ足んねえんだよ。やべえときはキンタマ蹴っちゃれ」
「……ご教授、どうも」
 遙兵は生徒たちに向かって高らかに選手宣誓した。
「さあてと! 死神サマに呪われない程度にせいぜいハッスルさせてもらおうぜ!」
 大歓声のなか、くるりとまた鉄人を向く。
 ぽりぽりと爪先で頬っぺたを掻いて、照れくさそうにつけくわえた。
「……戻ってこいよ、テツ。ノエルもだぞ。おれたち、ずーっとここで待ってっからよ?」

 午前六時五十分。
 用務員の舵狸男が操作をすると、隔壁に設けられたゲートがひとつだけ音を立ててあいた。
 先頭に立った男性教諭たちがすかさず通路に目をやる。人の気配は、ない。
 荒らされた様子もなく、地下五階への侵入の痕跡はまったく認められなかった。
「よし。各階のシャッターをすべてあけていいよ、舵狸男」
 かすかな振動を感じた。遠くでガシャンという金属音がする。
 低音のモーター音は上空を飛び回るヘリコプターだろうか。それ以外はむしろ、しんとしたものだ。誰かが階下におりてくる気配はまったくない。
「行きます」
 鉄人は短く言った。
 狭いゲートの内側で整列し、体育座りを命じられた生徒らが一斉に騒ぎだした。
「弓ノ間!」
「魁!」
「負けんなよ、マトリックス!」
「帰ってこいよー!」
 声援はごうごうと渦になって、背中をひたひたと叩いた。鉄人はゲート越しに生徒の列をぐるり見回すと、遙兵たちがいいつけを破って立ちあがり、手をぶんぶん振っているのが見えた。何列か横では霧流ととりまき連中もなにか叫んでいる。
「……ロ・シエント(ごめん)」
 鉄人は小さくつぶやいた。
 ありがとう、というのは照れくさすぎる。
 また会おう、というのは約束できない。
 だから精いっぱいの気持ちが、これだった。
 鉄人とノエルは目と目とあわせ、力強くうなずいた。
 魚太が先に立ち、少年ふたりをはさんで璃乃が後方を固めた。通路は不気味なほど静穏である。廊下を走るなと書かれた張り紙が靴痕をつけられて床に落ちていた。
 奥へ行くと中等部用の居住部であるが、途中で通路を右に折れ、階段を地下四階へ向かった。フロアDと名づけられたそこは調理室と食堂、食材保管庫などの施設がある。いつもなら腹ぺこの生徒であふれかえり、賑やかさの途絶えることのないこの場所も、いまはしんと静まりかえっていた。
「燕さん、アレ持ってきた」
 ふいに鉄人が訊いた。
「ああ」
 魚太は懐からずっしりと重そうなそれを取りだした。
 小型のオートマチック拳銃が二挺。
「ちょ……ちょっとおい、あんた!」
 なにも知らない璃乃は狼狽した。
「弓ノ間、おまえ、武器はいらないって」
「気がかわった」
 鉄人は一挺をノエルに手渡すと、ぶっきらぼうに言った。
「”とりあえず撃っといて、脳死に至るまえに大切なものだけ取りだしゃいい”……あれ聞いて、策……ってほどじゃないけど、こっちの切り札が見えた。どうするかわかるよな、ノエル」
「もちろん」
 ノエルは慣れた手つきで小型の拳銃を握ると、オモチャでロシアン・ルーレットをするように自分のこめかみにあてた。
「脳漿までぶちまけちゃ、回収不可能。ってことだよね、鉄人」
 璃乃は目をひん剥いて、ぱくぱくと喘いだ。
 魚太はわざとらしくため息をついた。
「あきれたな。自爆か。組の者にも、そんな大胆なやつはいないぞ。スカウトに値するな、きみたちは」
「どういたしまして」
 鉄人とノエルの声がハモる。
 ノエルは銃を利き手の左に持ちかえて、にやりと鉄人を見た。魚太をこっそり引き入れたのにはこういうわけがあったのか。銀町によけいな心配をさせまいとしたのだ。
 当然ながら自爆は最後の手段である。ハルモニアをがっかりさせるためだけに自分の命を使うのは割にあわない。だが万が一、不愉快な事態になったら躊躇しているひまはない。
 セラフィムなど、この世に出でるべきではなかった。
 セラフィムは、この世界で具現化した神のひとつの形。
 セラフィムは、人を混沌に縛りつける。たくさんの欲望を惹きつけ、自身を巡る争いを起こす。セラフィムは、永遠の闘争の元凶となる。
 破壊できるのは。
 ノエルはごくりと唾を呑みこんだ。破壊できるのは、セラフィムをその身に宿す者だけ。すなわち自分。
 地下三階への階段をのぼる。いつでも撃てるように、拳銃をしっかりと握る。汗ばんだ手のひらが気持ち悪い。
 もちろん誰だって死ぬのは怖い。無駄死にならなおさらだ。
 四人の靴音が踊り場にひびいた。あくまでもクールな表情の魚太と、ヤケクソ気味の璃乃。鉄人はといえば、うっすらと笑っている。
 そして、地下二階へ。
 ここに来てようやく人がいた。背の高い、蒼い瞳がやけに印象的な男。手にはライフル銃を持っているが、構えてはいない。
 その人物に見覚えがあった鉄人は、ノエルより先に身を凍らせた。
 そうか。ノエルの時折蒼みがかって見える瞳。
 どこか日本人離れしていると思ったが、混血だったのか。
「お久しぶりです、父さん」
「ああ。元気そうじゃないか」
「ご迷惑をおかけしました」
 ガチャン、と重い音をさせて魚太が拳銃を構えた。ただし敵にではなく、ノエルの後頭部を狙って。
「手出しをしたらどういうことになるか、わかるな」
 ドスの利いた声で言う。おまけにくっきりしっかり日本語である。
 父親は眉ひとつ動かさずに、「ばかなまねはよせ」と言った。
 鉄人は父親の背後に立つ、おそらくは27ラボの医師たちであろう七人に威嚇の目を向けた。いちばん右に、ノエルが友人と指さした青年がいる。
 蒼い瞳が鉄人をとらえた。
「そっちのきみがナンバー13だな」
「どうも、はじめまして。いつもノエル君にはお世話になっております」
 皮肉たっぷりに言ってのける。
「はじめまして……か。きみにとってはそうかもしれないね」
「は?」
「ドクトル・クレイがきみの執刀をしたとき、わたしもチームに加わったんだが、覚えていないのも無理はない。もう二年になるか。なつかしい。ちっとも変わっちゃいないね、きみは」
 鉄人の顔色がさっと変わった。
「鉄人、気にするな。心理作戦だ」
 ノエルの声。
「ノエル」
 父親のそれは、諫める口調ではない。
「彼とともに暮らして、望んだものがみつかったかね」
「……」
 ノエルは口をつぐんだ。
「おまえがセラフィムに異常なまでの興味を示していたことは知っている。トゥエンティセブンに同情したのもその延長だね。だが、興味も同情も医学には必要ない。求めるものは真実、それだけでいい」
 スッと指先を鉄人に向ける。
「そこに真実にもっとも近づいたマウスがいる。それを極めることは医学の、いや人類の黎明だ。わたしは新しい時代が明けるのをおまえとともに見るのが夢だった」
 ノエルは激しく否定した。
「父さんはまちがってる。父さんは、真実がそんなに大事なんだ。母さんが泣いてたのも、トゥエンティセブンがたすけてっていってたのも、鉄人がもういやだって叫んでるのも、なんにも見えなかったくせに真実、真実って。ぼくには父さんがウソっぱちの塊に見えるよ。父さんは、そんな人じゃなかった。セラフィムのせいだ。みんなこれに狂わされたんだ。セラフィムなんか、破壊されたほうがいいんだ。なくなっちゃえばいいんだ」
 滅多なことで感情を爆発させるノエルではないが、ぶるぶるとふるえて肩を上下させている。
「鉄人はマウスじゃない。ぼくだってマウスじゃない!」
 左手の拳銃を向ける。
 まっすぐ、父親に。
「……よせ、ノエル」
 鉄人が止めようとしたときだった。
 思いもよらなかった場所から、銃声がした。
 硝煙が立ちのぼったのは、医師たちの並ぶ右端だった。
 ノエルの瞳が驚きに見開かれ、口から友の名前が漏れた。
「ス……ノウ……」
 そしてノエルは、ゆっくりと倒れた。
 青年医師、スノウ・フィンガーフートは呆然とした表情で言った。
「ノエル、き、きみが悪いんだよ……なにもわかっていないのはきみじゃないか。27を逃したら、ラボの人たちと家族がどんな目に遭うか、考えてみたこともないんだろ。偉そうなことばかり言って、わかったふうな口きいて、なんだよ。自分さえ消えればいい? 勝手ばっかり。ぼくはきみのそんないい子ぶったところが……だいきらいだ。だいすきだったのに。きみとならやっていけると思ったのに。どうして」
 拳銃を持った手が力なく垂れる。
 ノエルの下に赤いしみがひろがっていった。
「ノエル」とスノウは泣き笑いのような顔で呼んだ。「ぼくはきみを、”持って”帰る。ダミーのテストをクリアしたレシピエント候補のマウスが、準備してあるから。きみはもう、なにも苦しまなくていい。ちゃんと役立ててあげる。ぼくは、きみのことを忘れない。ずっと忘れない。だから」
 鉄人が動いた。
 魚太の銃がスノウを向くのと同時だった。
 動かないノエルの前に、父親が立ちふさがる。
「……さよなら」
 スッと持ちあげられたスノウの手が、二度目の発砲を許した。
 撃ちだされたふたつの弾丸は次の瞬間、まばゆいばかりの光に包まれた。
 光は弾丸を粉々に砕き、次いでそこにいた人々を覆い尽くした。


2006-02-09