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迷走するインビジブル・ハンド

 クリスマスが終わり、私立牡鈴学園はお待ちかねの冬休みを迎えていた。
 三年生にとっては大学入試センター試験を目前に控えた、大事な時期であった。牡鈴学園高等部の大学進学希望率は例年ほぼ百パーセント。年末年始を返上して生徒も教師陣も受験対策に奔走している頃合いだ。
 しかし、今年度の牡鈴学園は様子がまるでちがう。
 中等部と高等部の全校生徒五百四十名と教師たちが、とある犯罪容疑者の無実と権利を訴えて、学園の地下に籠城しているのである。
 国際手配された高等部一年の男子生徒二名の引き渡しを巡って学園側が一斉蜂起したのだ。
 両名には第一級産業スパイの容疑がかけられていた。
 ところがこの話には裏があった。少年たちが海外から無断で持ちだしたという極秘の技術資料などは実在しないことが、日本のマスコミによってすっぱ抜かれたのである。銀町ネットワークが巧みに情報コントロールしたからだが、もとが冤罪事件であることは事実だ。
 米国とプエルトリコの両政府が必死になって奪還しようとするものが、書類やデジタルデータではなくて、ふたりの少年それ自体であることに日本が気づくのに時間は要らなかった。彼らこそ、生命倫理を論ずることなく実行に移された、恐るべき神への冒涜の犠牲者であることを日本のマスコミは(やや扇情的にではあるが)報道したのである。
 アメリカ政府に対する非難の声がわきおこった。
 とりわけ、ヒロシマ・ナガサキの爆発ぶりは凄まじかった。平和公園に座りこみをする市民の数はどんどん膨れあがり、師走の街はジングルベルとシュプレヒコールの喧噪で満ちた。
 思いもかけぬ日本の抵抗に冷嘲したアメリカは、国連の要請を受けて経済制裁だけはいったん解除したものの、強硬姿勢を崩すそぶりはまったく見せず、二名の身柄引き渡しをかさねて要求してきた。拒否すれば最悪の場合、日本が国際刑事警察機構から除名されかねない。
 警察と牡鈴学園のにらみ合いは膠着状態に陥ったまま、事件発覚から一週間を経過しようとしていた。
 來羽巴政権の支持率は哀れなほど急降下し、虫の息に陥っている。
 元気を失った自民党を完膚なきまでに踏みつけようと、拡声器でがなりたてる野党の演説カーが走り回る日本は、奇妙なことにどこか活気に満ちあふれていた。
 平和ボケした日本。
 声をあげてもどうせなにも変わらない。抜本的改革を放棄して、だれきった政治家に決定権を預けていた無気力な日本。
 自衛隊のサマワ派遣にも、お茶の間で顔をしかめるだけだった日本。
 夢も希望もないこんな時代に生まれてくる子どもがかわいそうと、出生率をどんどん下げていった日本。
 その日本がいま、自らの足で立ちあがろうとしていた。
「どうだい、この国も捨てたもんじゃないだろう」
 牡鈴学園理事長、銀町絵麗亜はパソコンのモニタから視線をはずして、ニッと笑った。
 魁無影響量は非難するように、銀町を見た。
「こんなに大騒ぎになっちゃって……どうしたら……」
「なに、予定どおりさ。生徒たちにだってそういつまでも、お陽さんを浴びさせないわけにもいくまい。若いもんに不健康をさせてもうしわけないが、まだもう少し時間がほしい。あんたらが大手を振ってシャバを歩くために、たくさんの人間ががんばっているんだ」
「でも、ぼくたちの顔写真が……」
「公開されているわけないじゃないか。ばかだね、あの冗談を本気にしてたのかい。この国じゃね、犯罪を犯した少年の身元はバラしちゃいけないありがたい決まりになってるんだよ」
 ノエルは目を丸くした。
「考えてごらん。五百四十分の二がどれほど曖昧かをね。学生を隠すには学生の中に。けどね、あんたはこれっぽっちもこそこそする必要はないんだ。堂々としていろ。何度も言っているように、ノエル、あんたには権利ってもんがある。自分の権利は、主張してナンボだ」
 権利。たしかに銀町は、その単語を頻繁に持ちだしてくる。
 ラボで研究員として働いていたときは、興味のある医科学分野に没頭することがノエルの権利だった。なにもかも失ったとき、権利もすべて奪われた。
 残された権利とは、なんだろう。
 ふつうの高校生として生きることか。いや、余命を宣告された自分がこの期に及んで生きることを主張するのも妙な話だ。
 自分には、主張するものなどなにもない。
 ただ、なにも知らないまま生を諦めるのはいやだ。
 鉄人のセラフィムが暴走しかけたのを無我夢中でとめようとした際に、ノエルは自分の生命が彼の右手から吸収されるのをはっきりと自覚した。圧倒的な破壊力を持つその流れが初期の段階で堰きとめられたのは、ノエルのセラフィム『ラ・ダムネイション』と、鉄人が渾身の力で行った制御のおかげだった。
 それでもノエルはその一瞬、生きることを諦めた。
 鉄人になら。
 自分の命をあげてもいいと思った。
 願いが叶えられることなく医務室で目を覚ましたノエルは、隣りあったからっぽのベッドをぼんやりと見ながら、ぼくはまだ生きてる、と思った。
 安堵する自分がいた。
 もっと生きたいのか。それとももう死んでもかまわないのか。ふらふらとどっちつかずな自分の心。
 意志のさだまらないこんな不安定な自分に、主張できるものなどあるわけがない。
「先生、ぼく、お返事をまだいただいていません」
 気持ちを逸らそうとノエルは本題を切りだした。理事長の部屋を訪ねたのは、梁山泊を離れたいという気持ちを伝えるためだった。
 銀町はふうとわざとらしいため息をついて、きっぱりと断った。
「認めるわけにはいかないね」
 予想のうちだった返答。だがノエルは落胆を隠さなかった。
「……まったく、あんたといい、鉄人といい……梁山泊の首脳陣がまっ先にシッポ巻いて逃げだしてどうするんだい。聞かなかったことにしてやるから、部屋に帰ってふつうにしてな」
「先生、鉄人といいって、どういうことですか。まさか、あいつ」
「ああ、さっきのあんたと同じだだった。暗ぁい顔してね」
「それで、先生はなんて」
「決まってるだろ。寝ぼけるのも大概にしなと追いだしてやったさ」
 悪びれもせず銀町は言い、声のトーンを少し落とした。
「あの子はまわりに抑えつけられた経験しかなかっただろうから、いきなり胸を張れというのも酷なんだがね。それでも、心を鬼にするしかないのさ。上に立つ者に意気消沈されてもらっては、全体の士気に関わる。おまえならわかるだろう、ノエル」
「先生、鉄人は……その……」
「おまえを殺しかけたという話ならもう聞いた」
 ノエルはびっくりして瞬いた。
 銀町はあくまでも冷静だった。
「定着したセラフィムが、なんらかの外因によって急激に活性化したのだろう。ラボの生活を離れて精神が比較的安定したことにも関係があるのかもしれない。問題は鉄人だよ。ダメージが大きすぎる」
 むくむくと疑問が頭をもたげ、ノエルは訊ねた。
「先生。先生は、どこまでご存じなのですか。どうしてぼくたちのことを、そこまで分析できるんです」
 銀町は上目遣いにノエルを見た。口が動く。
「ハルモニア製薬の幹部のひとりとは、ちいとばかり昔なじみでね」
「えっ……」
「脳外科医のグレアム・クレイ博士。おまえも名前くらい知っているだろう」
 グレアム・クレイ。
 その人物を知らぬ職員はいない。
 ハルモニア製薬の、プエルトリコにある研究施設に在籍する幹部職員で、噂では財団の実質的なナンバー2だという。父からもクレイ博士には逆らうなと厳重に釘を刺されていた。
 ノエルはごくりと唾を呑んだ。
 銀町絵麗亜がハルモニア製薬とつながっている?
 ノエルが緊張したのを、銀町は見逃さなかった。
「そう固くならずともよいよ。ただ、わたしはおまえの想像以上に、おまえたちのことを知っている。理屈ではわかるね?……そう、そういうことだ。わかったらとっとと部屋に帰ンな。鉄人がふてくされてるだろうから、麻雀にでも誘ってやるんだね」

 階段を下りながら、談話室が騒がしいことに気がついた。
 テレビの置いてある広い談話室は、ニュース目当ての生徒たちでいつもいっぱいだった。各局は年末特番をすべて打ち切り、牡鈴学園籠城事件の報道特別番組を二十四時間態勢で流しつづけていたからだ。
 ノエルと鉄人の情報が歪曲されて伝えられているのに、銀町は生徒たちにいっさい否定をしなかった。おかげでノエルは滑稽ともいえるテレビ画面を正視できなくなり、談話室に足を運ばなくなったのだ。
 だが、中から聞こえる怒号に鉄人のものが交じっていたので、足をとめた。
「……これがなんだってんだよ。おれに関係あんのかよ。人のすることが、ンなに目障りかよ。予定狂ってしまいますってか? 誰が、いつ、構ってくれって頼んだ。ああ? 誰がそうしてくれってお願いしたんだよ。冗談じゃない」
 尋常ではない口調の声。鉄人である。
 ぎょっとして、ノエルは談話室をのぞき見た。
 ラフな私服を着た生徒たちが黒山の人だかりをつくっていた。中心にいて皆の注目を浴びているのが鉄人らしい。
「お生憎さまだな、何遍だって言ってやるさ。テツ、テレビ見えるだろ? 目ェ、見えてんだろ。こんだけの人がよ、なんとかしなきゃってジタバタしてんだぞ。いっとくけど、オマエのためなんかじゃねえからな。みんな、ド腐れヤローどもがてんで勝手に自分の理屈をほざくのがガマンなんねーんだよ。ここにいるみんなだってそうだろ。受験だってあんのに、自分のことしたいのに、地下に残ってんの、なんのためだ。ええ? オマエ、自分のためだって自惚れてるんじゃねえだろうな。ふザケんなよ。目ン玉かっぽじってよーく見やがれ、どこのだれがお家に帰りたいってぬかしたよ。迷惑だって言ったヤツがいたら名前をあげてみろよ。言ったような気がしただけだろ。思いあがってそんなふうに決めつけただけだろ」
 一気にまくしたてたのは遙兵のようだった。
「迷惑なのはこっちだよ。カンチガイするな」
「ふん、ずいぶんじゃねーの。言いたいことだけ言ってあとは構うなってか。何様のつもりだよ。自分だけ特別か? なあテツ、自分だけ不幸で悲劇的でカミサマから見すてられた人間だから、ほかのやつらの理屈は関係ありませんってか?」
「……るさい、うるさい、うるさい!」
 鉄人もかなりエキサイトしている。
「ガキじゃねえんだから、現実を見ろっていってんだよ、アホ!」
「なにがわかるんだよ! もうこんなのいやだ! けっきょくどいつもこいつも理想ってヤツをうっとり夢見てるだけじゃんか。集団でおんなじコト考えるのはらくだよな。ワクワクするよな。ふつうじゃないって、いいことだよな。でもおれ、もうそんなの、たくさんなんだ。いいかげんにしてほしいんだ。だからもう好きにしてくれ。いままでありがとな。おれがいなくなれば済むことだし、みんなも鬱憤晴らしならもうじゅうぶんやっ……」
「バッカヤロー!」
 ノエルは思わず目を瞑った。
 群衆も悲鳴を発した。
 いやな音がした。遙兵が鉄人を殴ったのである。
 誰かがノエルの腕を引っ張った。見ると、青ざめた顔をした時雨努と経夢人が立っていた。
「鉄人が、自分だけ警察に投降するって言いだしたんだ」
「えっ……」
「遙兵と言いあいになって、あいつ、テレビニュース観ろって鉄人の耳つかんで、ここに引きずってきた」
「鉄人も、いきなりアレはどうかと思うけど……遙兵、すっかり頭に血がのぼっちゃって……どうしようノエル」
 うろたえる経夢人を追いつめるように、悲鳴が幾重もかさなってきこえてきた。
「やめて、猛地くん!」
「だ、誰か弓ノ間くんを猛地くんから離してやって」
「弓ノ間くんがしんじゃうよ!」
 遙兵の荒い息づかいが交ざる。
「テツ! なんとかいえよ、殴り返してみろよ、口があんだろ、手があんだろ、もがいてみろよ、行きたかったらおれをブン殴っていけよ、あそこに戻る覚悟があんだったらそんくらいできっだろ。簡単だろ。どうなんだ、この!」
 ノエルはむらがる生徒たちを必死でかきわけた。数人に羽交い締めにされている遙兵と、大量の鼻血を指のあいだから流している鉄人が見えた。
「鉄人、遙兵」
 鉄人はちらりとノエルを見、すぐに目をそむけた。
 遙兵は暴れるのをやめ、身体を震わせながら鉄人を凝視している。
 ノエルはすっと鉄人に近寄った。
 胸ぐらをつかみ。
 驚いた顔でにらみつける鉄人の左頬を、渾身の力をこめて、撲った。
 パーンという高らかな音が談話室に響いた。
 声をあげる者は、いなかった。
 ノエルの手のひらに、真っ赤な血がべっとりとついた。
「……遙兵の前にぼくを倒していけ」
 低い声が絞りだされた。「本気だったら、ぼくを倒して、遙兵を殴って、自分の足で歩いていったらいい。そうしたら鉄人、キミは自由だ」
 細い身体のどこにそんな力があるのか、ノエルは片手だけで鉄人を軽々と持ちあげると、脅迫じみた言葉を続けた。
「ラボを出たときのことを思いだせ。きみを自由にするために、命を落とした人がいただろう。忘れただなんていわせない。少なくともぼくは忘れちゃいない。鬱憤晴らすためにやっただなんて、あの人たちをちょっとでも侮辱してみろ。ぼくは絶対に、きみを許さないからな。いま鉄人がここにいて、ぼくがここにいるのは、たくさんの人がそうしてくれって願ったからじゃないのか。それを踏みにじる気なら、もうきみなんか……鉄人なんか」
 ノエルはいったん目を瞑り、ふたたび開いた。
 蒼色の宿った瞳だった。
「望みどおりに、死ねばいいんだ。ナンバー13のままで」
 鉄人の顔が歪んだ。
 ノエルは、視線から逃れることを許さない。
 機転のきく時雨努が生徒たちを談話室から追いだした。だだっ広い部屋には鉄人とノエル、そしてルームメイトの三名のみが残された。
 わずかではあったが、鉄人の身体から力が抜けた。それを合図に、ノエルも手を放した。
 鉄人は絨毯を敷いた床にぺたんと座りこんでしまった。
 長い沈黙。誰も率先して破る者はいなかった。遙兵は突っ立ったまま目線を落とし、時雨努と経夢人はじっと成りゆきを見守った。
「……たく、ない」
 小さく洩らしたのは鉄人だった。
「死にたくない」
 繰り返す。
 ノエルの唇も動く。
「ぼくも死にたくない。けど、ぼくはもうすぐ死ななくちゃいけない。鉄人、ぼくのセラフィム、ラ・ダムネイションがどうやって他人に寄生するかをまだ教えてなかったよね。きみがぼくの身体からテロメアを奪っていった、あの原理と同じだ。まったく逆のことが劇症型としてあらわれると考えてくれればいい。ぼく自身のマクロファージがテロメアを喰い尽くしてそれを瞬間的なエネルギーに転換し、セラフィムと、ぼくの記憶の一部をを次の人間に埋め込む。もとの身体は細胞の分裂停止と老化を一気に引き起こし、短時間のうちに塵となる」
 声にならない、くぐもった呻きが鉄人から漏れた。
「ぼくは、存在しなくなる。死ぬなんて生易しいものじゃない。消滅するんだ」
「……ノエル、おれ……」
「知らなかったろう? 話すつもりなんてなかったから。もちろんきみにその瞬間を見せるつもりもなかったし。知らないでいてほしかった。ぼく、そのことをきみが知ったら歩けなくなるんじゃないかって、怖かったんだ。だってそうじゃないか。鉄人はせっかく、生きるチャンスを手にしたのに。ぼくができないならせめて、鉄人に生きて欲しかったんだよ。ねえ、それもきみにとってはいい迷惑なの」
「……」
「きみはぼくじゃない。ぼくはきみじゃない。そんな簡単なことわかってる。わかってるけど、人間ってのは愚かでバカで複雑なイキモノだから割り切れないことだってあるよ。鉄人だってそうだろ。諦めなかったから、生きてあそこを出られたんだろ。ねえ鉄人、もう口を塞いで目を瞑るのはよそうよ。きみもぼくも。すごく怖いけど、苦しいけど、つらいけど、それをしちゃお終いなんだよ」
 遙兵がぼそりと「代弁ありがとう」と言った。
 鉄人はうつろに床の一点を見つめていた。
 ぽたぽたと落ちる鼻血をぬぐいもせず、表情すらぴくりとも動かさないで、ただぼんやりとノエルの言葉を聞いていた。
 見かねた時雨努がポケットティッシュを渡そうとした、その時。
 つけっぱなしのテレビ画面に、ノエルの視線がスライドした。
 鉄人の身体が強張る。
 『生中継』と書かれた画面には、色素の薄い瞳が印象的な、顎髭を生やした四十代くらいの外国人男性が映しだされていた。
『それでは、事件の発端となったハルモニア製薬から、来日されている広報担当のグレアム・クレイ氏をお招きしております。クレイさん、未確認情報ではありますが、ごらんのとおり日本国内ではこのたびの件が人道問題だとする意見が圧倒的多数を占めております。本日出された公式見解について、あらためて解説をおねがいしたいと思います。どうぞ』
 通訳の男性が英語で話しかけた。男は薄笑いにも似た表情で聞いていたが、やがてわずかにうなずくと口を開いた。
『I cannot follow your logic(あなたがたの論理はまったく理解できませんね). We seem to talk at cross-purposes(我々は誤解しあってるのではないでしょうか). The United States is forbid any form of human cloning-related research(アメリカはいかなる理由があろうともヒト・クローニング技術の研究を禁じているのです).』
「……鉄人?」
 指が白くなるほどきつく握りしめ、鉄人は画面を凝視した。激しい動揺を示すかのように身体のそこかしこが痙攣していた。
 あのときと同じだ。
 ノエルは瞬時に理解した。グレアム・クレイ。鉄人と携帯電話で話をしたのは、彼にちがいない。だがもしそうだとしたら、鉄人はまた。
 いや、今度はさせやしない。
「鉄人! 目をしっかり開けとけよ!」
 ノエルは叫んだ。「目を伏せるな。しっかり見るんだ。いいか、気持ちをしっかり持っていればだいじょうぶ。きみならちゃんと制御できる。怖がるな。相手はただの頭のいかれた医者だ」
 怯える鉄人を支えるように、上半身をかき抱く。
 歯がカチカチと鳴るのが聞こえるくらいに顔を寄せてささやいた。
「鉄人、わかるよね、この人に負けたらきみはお終いだ」
 鉄人の肩がびくりと跳ねた。
「戦いもしないうちに諦めるっての? そんなの、鉄人らしくないよ。意地っ張りで、プライドが高くて、人は人自分は自分って顔してるのが鉄人だろ。危ないところを何度も生き抜いてきたすごい人間だろ。こんなケチな医者に負けてどーすんのさ。自信、持てよ。胸、張れよ」
「おれだっているんだぞ、鉄人!」と遙兵。「なんだなんだ、まさかこんなおっちゃんが敵か? かーっ、笑っちまうぜ! こんなのぼっこり尻けっ飛ばして海の向こうに送り返しちまおうぜ。ついでにテツをいじめたお礼を熨斗と関税つけて渡してやらあ! いいなあ、顔の見える関係ってのは。へへへ、ボコンボコンにしてくれる。なあ、シグ、ヘルム!」
「はいはい、つきあいますよ」
「父さんの仕事、返してもらわなきゃ。武暗家のあしたのために」
 遙兵は胸を叩いた。
「ようし、そうと決まったら、おいテツ! 立てよ。腹減った。メシ食って、気分転換に麻雀大会するぜ。今日はノエルと組んでふたり勝ち逃げはナシだぞ。さっきの罰として、おれとテツがペアだ。メンタンピンなんて優等生なクソ手使ったら猛毒タンポ喰わすかんな。男ならドカンと一発国士無双だ、いいな!」
 時雨努がテレビのスイッチを切ったので、鉄人はようやく視線を画面から遙兵へ移した。
 唇は色を失って震えていたが、意識はしっかりしているように見えた。
 ノエルが手を取って、立ちあがらせた。時雨努と経夢人も背中をぽんと叩く。遙兵は鼻をこすって、「じゃあ、行くぜ」と言った。
 談話室のドアを開けた。
 そこにあったのは、ダンボの耳の人だかり。
 息を殺し、中のようすをうかがっていた生徒たちだった。
 群衆から一斉に声援がわき起こった。
「弓ノ間、みんなついてるからな!」
「魁、負けるな!」
「かっこいいぞ、猛地!」
 折り重なる声は怒濤の波となって五人を包み、いつまでも止まなかった。


2006-01-29