※シリーズ番外編です
コルクタイルの床材を踏むと、ほんのわずかではあるが沈みこむような感触が足裏に伝わってきた。歩行をソフトに受けとめ、衝撃を吸収しているのである。
中央のスタッフステーションをぐるりと囲むように回廊状になっている通路は、ほんの少しの時間があれば容易に一周できる。散歩するには物足りなさすぎる距離だ。だからといって五周もするとさすがに飽きてくる。
勝手に歩きまわっても咎められることはないが、いい顔をされるはずもない。運動を含めたすべての行動予定は厳密に決められていたから。イレギュラーは嫌われるのだ。
スキのないカリキュラムが一日の休みもなく課される生活に、テッドは百年先のタイムスケジュールまですでに作成されているのではないかと疑ったほどだった。
フロアの一角はフィットネスジムになっている。テッド専用の施設である。とはいえ、もちろん健康増進のためなどではない。臨床的な負荷検査が主たる目的だ。
たまの運動まで循環器医師の監視つきなのである。
超絶的ともいえる監視体勢はそれだけにとどまらない。エネルギー代謝量は精密なレベルで測定され、一日のカロリー摂取、休息代謝など細分化されながら記録されるシステムがラボでは稼働していた。
トイレに流れてったヤツも検査されてるんだろうな。
ふとおかしくなったが、たぶんそれも現実だろうと思う。
「サーティーン? なにをしている」
さっそく呼び止められた。スタッフの中でも際だって神経質な臨床検査技師である。
「さんぽ」
「部屋に戻りなさい。就寝時間内だ。眠れなかったら薬を用意してやるから」
テッドは顔をしかめた。医師の言葉は心遣いなどではない。睡眠評価が悪化しないために強制的に薬を投与するという意味である。
こういう場合はおとなしく従っていたほうが身のためだ。
狸寝入りは効かない。脳波監視ですぐバレる。また今日もおかしな薬を使われるのか、と思うと暗澹たる気分となった。
ものも言わずぺたぺたと歩きだす。妙な床だ。音がしない。
遮音性に優れたフロア全体が、永久に変質しない静かな檻のようだった。
フロアは完全に独立した空調管理がなされており、内部にはいかなるウィルスも持ち込むことはできない。温度と湿度は常に一定を保たれている。
窓のひとつもあるわけでもなく。
ここは外界とは完全に遮断された社会だ。
このフロアはナンバー13と呼ばれている。そこで行われている研究を端的に示しただけの機械的なナンバリングである。ナンバー13のスタッフはすべてここだけの専属で、高度医療に精通するエリートたちだ。
常勤する二十名と数人の幹部職員以外、ナンバー13に立ち入ることは禁じられている。ひとつだけある外部とのゲートを通過するには、幾重ものバイオメトリクスによる厳しい個体認証をパスしなければならない。
非常識なまでのセキュリティレベルは、内部で行われているプロジェクトの重大な秘密を漏らさないためであった。
テッドはフロア内でただひとり、ゲート通過のためのIDを持たなかった。すなわち、フロアから一歩たりとも外へ出ることを許されていなかったのである。彼こそがプロジェクトの主体となるナンバー13そのものであったからだ。
サーティーン。
血のかよわないそのコードで呼ばれてもう何ヶ月になるだろう。
うつむいた視線の先に見える足は裸足。マウスには靴など必要ないから。
右手首にからまるネームタグだけが、現実的な装備品だった。
ただし着脱は想定されていない。手首を切り落としでもしない限り、取り去ることは不可能だ。
まったくいまいましい。
起きたと思えば徹底管理された食事。いやになるほど繰り返される臨床検査、追跡調査と監視、カリキュラムと称した専門的知識の詰めこみ、学習能力診断検査のバッテリー、評価とコントロール。酷使にもほどというものがある。
期待された評価以上のものを叩きだしてやると、連中はさらにヒートアップする。
上級幹部がナンバー13に頻繁に出入りするようになったのも、チームの獲得スコアが群を抜いて高いからだ。
だが、『あの声』の主は姿を見せなかった。
監視カメラが冷たい眼を向けてくる。モニターの向こうで、見ているかもしれない。
間接的に干渉しているに決まってる。
くそ。出てこい。
人に触れるときは礼を尽くして素手をだしやだれ。箱の外から、冷たい鉗子で弄ぶのはやめろ。
完全バリアフリーのフロアは柱のみで壁がなく、テッドが睡眠をとるスペースはただカーテンで仕切られただけだった。近づくと、馬の尻尾のように髪を結ったスタッフが待機しているのが見えた。
ドクター・リンカーンウッド。
この男も苦手だ。柔和な表情と、蛇のように冷たい瞳を持っている。
「オイガ、トレセ(やあ、13)。どうしたの、怖い顔をして」
「べつに」
枕元にモニターが並ぶベッドにもぐりこみ、寝具を頭からかぶる。もう少ししたら注射器を持ったスタッフがやってきて、電極を身体中に貼りつけていくにちがいない。
「ふてくされているね、サーティーン」
「ほっといて」
「そうはいかない。収集するデータは優秀である必要があるからね。ストレススコアは見逃せないよ。どうしてもイライラして、がまんができないようだったら……」
「クスリで抑えこむ?」
テッドは皮肉をこめて続く言葉を放り投げた。
どうせ連中は、結果が欲しいだけである。やり場のないテッドの憤りをケアしようなんて気はさらさらないのだ。
「察しがいいじゃないか。薬がいやだったら、そろそろ自分のことは諦めたらいいんじゃないかな。これ、忠告」
やわらかい口調には、冷笑とぞっとするような毒が含まれていた。
テッドはかすかな絶望を覚えて、気怠げに訊いた。
「なあ、あんた、『ヒポクラテスの誓詞』ってしってる?」
「もちろん。『ひとつ、医の実践を許されたわたしは、全生涯を人道に捧げます』」
「……おもしろい冗談だと、思わねえ?」
「ふふふ。『ひとつ、いかなる強圧にあおうとも人道に反した目的のために、我が知識を悪用しません』……医学の父らしい、崇高な言葉だと思うよ」
テッドは目を瞑った。醜悪すぎて、反吐が出そうだった。
研修生にすぎないノエル・ポラリスがナンバー27のスタッフに迎えられたのは、ラボの管理責任者でもある父親に推薦されたからだった。
ノエルはまだ十五歳であったが知能レベルが高く、通常ならエレメンタリースクールにいるはずの年齢でコミュニティカレッジに入学した。飛び級制度を利用したのである。
だが大学での受講は退屈だった。ハルモニア製薬で研究者として働く父を手伝ううちに、この仕事こそが天職と思えるようになった。
「大学を辞めたい」と申し出た息子を父は戒めなかった。それどころかむしろ歓んで、ノエルを人事部長に引きあわせた。医科学を専攻していたノエルは率先力になると踏んだのだろう。
二十四時間体勢のラボに父は詰めっぱなしだったが、ノエルに夜勤が命じられるのは週に一、二度だ。夜勤がない日も検体のメカニズム解析に熱中して、ラボに泊まりこみになることが多い。
間仕切りのないフロアは間接照明が消えることはなく、いつでもスタッフの誰かが忙しなく動きまわっていた。
フロア内での飲食と喫煙は厳禁だったので、食事のたびにセキュリティゲートを抜けるわずらわしさがあったが、数日前から完璧なはずの指紋認証システムの調子が悪く、ノエルは出入りのたびにエラーを招き寄せて警備員に無駄な仕事を与えてしまった。
「ソフトがやられちゃったのかなあ。うちみたいな最下層にはどうせ予算を使う気なんかないんだから、修理も遅れるにきまってるよ、きっと」
報告書の束をチェックしながらぶつぶつと文句を言うのは、スタッフのひとりであるスノウだ。ノエルよりは年上だが、ナンバー27内ではもっとも年齢が近い。
ことあるごとに先輩風を吹かせる威張りん坊だけれど、ノエルは好意を抱いていた。失敗をかばってもらったことも何度かある。潔癖性で少しだけ気の弱い、けれど、プライドだけは誰よりも高い人間であった。
スノウが最下層と皮肉ったのにはわけがある。ナンバー27はプロジェクト全体の履歴からすればもっとも最新のナンバリングであるが、その研究対象が27ナンバー中もっとも不確実なものであった。
そもそも検体が成功例なのだという確信すらなかったし、計画が第二段階に移行してからのデータ収集も成果があがっていなかった。その上、すでに検体『27』は何度も代替わりをしている。
セラフィムを万が一にもスタッフに寄生させないように、身代わりとなるマウスを選ぶ面倒な作業が加わった。マウスたちのための隔離室も必要だった。しかしなによりの障害は、歴代から現在に至るまでのトゥエンティセブンがみな非協力的だったことだ。
ナンバー27は他のどのラボよりも問題が山積みだったのだ。
「また自殺をはかったんだって?」
「ああ、次から次によく方法を考えつくもんだよ。それだけは感心しちゃうなあ。ノエルきのう非番だったっけ。もうヤバいよ彼女。見た? マトモな眼をしてないから。データ収集どころじゃない。とっとと次のに寄生してくれないかなって、みんな話してるよ」
ノエルは大きくカーテンの開けられた向こう側を見た。成人した女性が全身をベッドに拘束されて昏々と眠っている。彼女がラボの研究テーマ、トゥエンティセブンだ。
いつ見ても美しい。まるで、『眠りの森の美女』である。
こんなにやさしそうで、儚げなのに、なんて不幸なんだろう。
マウスとなるには条件が要る。三十歳未満であること、健康体であること、国民の義務を果たしていないこと。マウスとなるためだけに幼少時から飼育される子どももいる。情けをかけるな、というのがラボの鉄則であった。
ここではマウスは人間ではないからだ。
検体。
人体から排出された臓器や血液と同義語である。
「ノエル、わかってるよね」
スノウが心の底を見透かすようにじっとこちらを見たので、ノエルはあわてた。
「もちろんわかってるよ、スノウ」
「……はじめは誰だって、疑問に思うものさ。そのうち慣れるって。だけど気をつけてよ。ここじゃうっかり寄生されたやつは、自己責任ってことで片づけられちゃうんだからね」
ノエルはごくりと唾を呑んだ。
ナンバー27の事例は、プロジェクト全体には刺激を与える結果となった。
セラフィムを人体に埋め込むことで、もともと存在した脳マクロファージがさまざまに変質し、異常に活性化したり、本来の性質と異なる働きをすることが確認できている。
マクロファージは体内に侵入してきた異物を攻撃し食らいつくす役割を担う細胞であるが、計画の初期段階ではまったく意図しなかったこの作用こそが、研究者たちを『神の手』のとりことさせる要因になったのだ。
すべての事例で顕著に見られた老化の停止は作用の最たるものだったが、最後の27例目がそれを根底から覆した。
マウスを痛めつけ、急速に死に追いやるマクロファージ。
さらには、未知の感染経路をたどり次なる獲物に自らセラフィムを『埋め込む』。
トゥエンティセブンは危険すぎた。
ラボの研究者たちはこのセラフィムを『ラ・ダムネイション(劫罰)』と呼んで恐れた。
変化したマクロファージを培養する試みはどのラボでも未だ成功していない。ましてやナンバー27ではその採取段階で手をこまねいていた。
「ナンバー13の噂、聞いた?」
報告書の整理に飽きたらしく、スノウが身を乗りだしてきた。
「えらくスコアをあげてるらしいよ。なんかね、最年少のマウスらしいんだけど。ドクター・リンカーンウッドがご執心なんだってさ。チェッ、ぼくたち貧乏くじ引いちゃったかなあ」
「よそのラボに競争意識持ってもしかたないじゃない。そうそう同じようにはいくわけないよ。それに、トゥエンティセブンってすごく変わってて、ぼくはおもしろいと思うけどな。探求のしがいがあるっていうか」
「変わってるのはきみだよ」
スノウは呆れたように笑った。その表情が急になにかを思いだしたような顔になって、口調がまた変わった。
「そういえば、人事異動があるんだって」
「へえ、めずらしいね」
「ナンバー13さまさまだよ。ええと、なんていったっけ。あの年くったドクター……ほら、うちにいたじゃないか。なんか影の薄い爺さん」
「そんな人、いたかな。ぼく、あんまりほかのスタッフと話したこと、ないし」
「ここじゃみんないっしょさ。同じ部署でも他人のようなものだから。でね、ナンバー13に移されるらしいんだよ。なんと、心療内科医としてだって。驚くだろ」
「心療内科? 必要あるの、カウンセリングなんていまさら」
「だからスコアが高けりゃなんでもありなんだよ。わかるか」
ノエルは興味のないように軽く返事をした。
ラボの中に、心の専門医がいたのか。ならばどうして、自殺未遂を何度も繰り返すトゥエンティセブンを救ってやらないのだろう。
これがラボという世界の現実だ。納得しているつもりなのに、小さなトゲはいつまでもノエルの胸に突き刺さったままだった。
2006-01-25
