西日のぽかぽかとあたたかい物理準備室で国語教師の遠藤璃乃と向かいあいながら、孤隼樹花は手の中でマグデブルグの半球を愛しそうに撫でつけていた。
実験机に頬杖をつき、璃乃はぼんやりと訊いてみる。
「便所のカッポンか」
「……理系方面はおバカだね、あんたは」
「んじゃ、小さなバイキングビッケの兜」
「ちゃんと中学校で理科を習ったのかい、遠藤センセイ」
「おお、聞くも涙の青春物語よ。理科の先公がとんでもねえ野郎でな、腹にすえかねちまって結局、クラスで一斉ボイコットくらわしてやった。ヤツは泣きべそかきながら左遷されたさ。中坊ナメんなってんだ、へへへっ」
樹花は呆れたように笑った。
「あんたが教師してるんだから、世の中まちがってるね」
「そういう樹花も、バスケの実業団入るって言ってたじゃねーか。あん? どっから教師になった」
「いろいろあんだよ。事情ってモンが」
樹花はふたたび半球に目を落とした。ふっと疲れたようにため息をつく。
「生徒にコケにされる前に、教えといてやろう。これはね、大気圧を実感する装置、ってとこ」
大気圧云々は璃乃にとってどうでもよかったのだが、元気のない樹花の様子が気になった。
「いろいろあんだな」
「ああ、いろいろね」
樹花の担当するクラスでは、委員長とその取り巻き連中が3組の超天才、弓ノ間鉄人をなにかにつけて目の敵にし、意図的に悪い噂を流していた。それも樹花にとっては悩みの種であった。
委員長の燕霧流は、悪名高い指定暴力団燕組の組長、燕魚太のひとり息子である。いわゆる恐怖政治のような形で1年1組を牛耳っていた。頭はよい、見かけもよい、だがやっていることは父親と同じ。説教しても馬耳東風。
なるべくなら特殊な事情のある弓ノ間に注意を向けさせたくはないのだが、弓ノ間も弓ノ間だ。偏差値の帝王を不動とされては如何ともしがたい。ただでさえ金持ちエリートの集う牡鈴学園においては、偏差値という単語に生徒も親もひどく敏感になっているというのに。
一触即発のピリピリとした緊張状態に降って湧いたように、突然の転校生である。しかも例によって例のごとく、曰くつきの。
弓ノ間ひとりだけでも仰天の事態なのに、倍になったらどうなるのか。理事長の考えはまったく理解できない。学校という非武装の象徴のような場所に、二個の核爆弾を保持するようなものである。
りじちょうせんせーい。
がっこうは、受験戦争をたたかうところであって、暴力団抗争とか、ましてや国際紛争をたたかうところではありませーん。
「……こうなったらもう、逃げちゃおうか」
樹花の提案は冗談じみていたが、一ミリの狂いもなく本心であることは璃乃には痛いほどわかった。
「いまおれもちょうどそいつを考えていたところだ」
璃乃も追随する。国語教師になったのは金八先生に憧れたからであって、けして人類史20万年の興亡を賭けて異世界の敵と闘うためではない。
「某国営放送の少年ドラマシリーズじゃねえんだから(そいつぁちいと古いぜ、璃乃)、もう超天才は勘弁だ。三人目が来ちまうまえにとんずらしようではないか。離島で温厚な一般人相手に、ともに教鞭をとろう、我が戦友、孤隼樹花先生」
「ああ、愛しのマグデブルグ、答えておくれ。わたくしが教職を選んだことは過ちであったのか」
「ならばおれも訊こう、清少納言よ、日入りはてて風の音、虫のねなど、この闘いはどこへ行く」
「マグデブルグ~」
「清少納言~」
聖職者二名の憂いを知ることもなく、問題の生徒は校門を急ぎ足で駆け抜けていった。
少し逡巡して携帯電話を取り出すと、銀町に宛てて短いメールを打った。
送信 Eleanor 17:33 Re: 用事があるから少し遅れる。ごめん テツ
送信して折りたたむが、一呼吸おいてふたたび開く。
時雨努と経夢人にも伝えておこうか。
いや。燕の背後にはヤバい組織がついている。自力で解決するつもりなら、ふたりには連絡しないほうがいい。
鉄人は携帯の電源をオフにして、ポケットに戻した。
私鉄の駅は学校から歩いて十分ほどの距離にあり、途中の道は並木通りと呼ばれる市のメインストリートであった。バスやトラックの吐き出す排気ガスに顔をしかめて、カリブ海の空気は薬品臭かったけれどもう少しマシだったよなと鉄人は思った。
遙兵としょっちゅう立ち寄るマクドナルドも今日は素通り。帰宅ラッシュの始まっている駅前は人通りが多い。鉄人は鞄を小脇にかかえて人波を器用にすり抜けた。
並木に群がる椋鳥がギャアギャアと不吉な声で啼く。歩道は絨毯爆撃の嵐である。白くこびりついたものを踏まないように気をつけて、バスロータリーまでたどりついた。
いつもならここから山手行きの市バスに乗るのだが、今日向かうのは反対方向。アーケード街のその向こう。ここも人であふれている。だが、学生たちがたむろするのは屋根つきの部分までだ。
裏通りに一本道を違えると、とたんに雰囲気ががらりと変わる。薄暗いビルやコイン駐車場、照明を落としているバーや喫茶店。特別な用事のあるとき以外、足を踏み入れる必要のまったくないエリアである。
カフェバー『ラプソディア』の看板が見えてくると、鉄人はごくりと唾を呑みこんだ。
一見なんの変哲もない店のようだが、地元の人間はみな警戒して近づかない。悪名高きぼったくりバーである。
もちろん高校生が学生服のままで入店してよいはずはない。
洒落た照明がひかえめに足元を照らす階段をそっと下り、目を瞑って呼吸をととのえてからドアを押した。
カラン。
ドアにつけられたカウベルが不気味に鳴る。
おもむろに白いピアノがあり、通路を半分塞いでいた。人の気配がする。
すぐ横に。
「……いらっしゃい」
横目でうかがうと、いかにもという雰囲気の黒ずくめだった。威圧感を感じる高そうなブラックレザーを着崩し、メタルフレームの眼鏡をかけた男。
「ユミノマくん?」
火のついていないシガーをくわえたまま短く訊ねる。鉄人は無言でうなずいた。
「若なら、奥。どうぞ」
「……どうも」
いまのが、逃がさないように見張り役をする担当だろう。ご苦労なことだ。
ピアノを回りこむと、シンプルなカウンターが並んでいた。背後にはいくつかのボックス席もある。席は半分ほど埋まっていて、その中に私服に着替えた瀬音香と編駝麓の姿を認めた。
「こんばんはー、弓ノ間くん。駆けつけ、なんか飲む?」
瀬音香がバースツールをくるりと回して、足を組み替えながら言った。ビビットカラーのニットにスマートなジャケット。やたら派手なネックレスをじゃらじゃらと首から下げている。おまけに下半身は露出度、比較的高め。
「いらない。おれ、財布持ってきてねーから」
ぶっきらぼうに返答する鉄人に、瀬音香はクスクスと笑った。
「あたしたちが誘ったんだもの、おごるわよ」
「いらねー。なんか、よけい高くつきそう」
平静を装って周囲を観察する。遙兵と燕の姿はない。他の人間はみなヤクザと思っていいだろう。意地悪そうな笑みをうかべてこっちを見ている。
「忙しいから、さっさと用件済ませたいんだけど」
ボックス席の編駝麓に目を向ける。こちらはぴっちりと身体にはりついた白のスウェード。背が高いので、同級生だという認識がなければ、ホストと間違えそうだ。
「銀町家のお坊っちゃんは、門限も厳しいわけかしら?」
「ただの居候だ。カン違いすんな」
「いっしょじゃん。勉強デキるから面倒見てくれちゃってんでしょ? ラッキーよね」
「どんな噂がたってんのかしらないけど、勝手にあれこれ言われるの、迷惑だ」
「だって勝手にあれこれ言われるような人なんだもん、あんた」
鉄人はカチンときて、声を荒げた。
「遙兵、いるんだろ。おかしな芝居してないで、出せよ」
「さっきからそこにいるじゃないの」
ギクリとして鉄人は瀬音香の視線を追った。編駝麓の座るボックス席の床。
「……ハー」
男のひとりが足を乗せている物体は、オットマンではなかった。うずくまるように丸まって、ぴくりともしない。
「遙兵、おい!」
駆け寄ろうとした鉄人を、ふたりの男が止めた。肩をきつくつかまれ、上腕を確保される。
「触ンな!」
「そろそろ、いいかな」
瀬音香はカウンターに置いていたピンクシルバーの携帯をとると、耳にあてた。
「……霧流? お客さま、いらしてるわよ」
少しして、奥の階段を下りてくる複数の足音がした。
先に姿を現したのは背広姿の中年男性である。見た感じ平凡なサラリーマンという雰囲気ではあるが、こんなろくでもない場所にいるのだから真っ当な商売をしている者ではあるまい。
気のせいか、目つきも鋭い。
「それでは灰逗(はいんず)さま、ありがとうございました」
「ああ、お父上に、よろしく」
後ろから来た少年がにこやかに男を見送った。燕霧流である。
店内のヤクザたちも立ちあがり、中年男性に向かって一斉にお辞儀をした。横を通り抜ける瞬間、一瞬鉄人と目があった。男はにたりと笑ったように見えた。
男が店を出て行くと、霧流は鉄人にほほえみかけた。
「ご苦労さん、弓ノ間くん」
瀬音香の隣に腰掛ける。深紅のテーラードが異様な雰囲気を醸し出していた。
鉄人は腕をとった男たちにむりやりボックス席に座らせられた。両脇を固められ、逃げるに逃げられない。
足元の遙兵は動かないが、安定した呼吸が伝わってくる。眠らされているだけか。
「……どういうつもり」
鉄人は顎を突きあげて霧流をにらんだ。クラスの違う霧流とはこれまで話をしたこともなかったが、むこうは鉄人にえらくご執心と聞いている。
童顔で小柄、まるで中等部の生徒のようだ。鉄人自身も結構な童顔であることは否定しないが、その上を行って幼い感じがする。
だが見かけとは裏腹に、落ち着きはらった態度と場に馴染む雰囲気は、霧流がふつうの高校生ではないことを否応なしに語っていた。
「あれ、瀬音香から聞かなかった?」
隣の少女に軽く目をやる。瀬音香は大きめの瞳をきょろりと天井に向けた。
「まあ、いいか。弓ノ間くんと、取引しようと思ってさ。卑怯な手だとは思ったけど、お友だちに協力してもらっちゃった」
「卑怯だってわかってんだな、一応」
「うん。どんな手段を使ってもいいなって思えるくらいに、ワクワクするお話だったから」
透きとおる朗々とした声で自信たっぷりに言われ、鉄人のほうが圧倒されて退いてしまう。
「あのな……おまえ、どんな手段でもって……そんなにおおごとかよ。たかがテストの点数だろ」
呆れ気味に言う鉄人に、霧流はきょとんとした。
「テスト……え?」
絹のようにつやのあるサラサラの髪が、ふわりと空調で流れた。微妙な間のあと、霧流は笑いはじめた。
「……ああ、そっか……あ、あははははは」
次は鉄人がきょとんとする番だった。
「なにがおかしいんだよ。取引ってつまり、そういうことじゃないのか」
瀬音香と編駝麓も腹をかかえて笑っている。鉄人は苛ついた。
霧流はようやく呼吸をととのえると、「あんがい、バカだな」と言った。
「ンだと、この!」
立ちあがりかけて、男たちに拘束される。そればかりか、一方の男がおもむろにファイティングナイフをぴたりとあてがってきた。
「ケガ、したくないよね」
向かいの席に座る編駝麓が牽制した。
もはやお話や取引といったレベルではない。これはもうあきらかに監禁と脅迫だ。
鉄人はナイフを気にするそぶりも見せず、霧流をじろりとにらみつけた。
「あらら、度胸はあるじゃん」と瀬音香。
バーテンダーらしき男がカウンターから出てきて、鉄人の前に綺麗な紫色の液体のはいったグラスを置いた。わずかに気泡が含まれている。まさかジュースではあるまい。
「ま、それでも飲みながらお話ししようか」
男は霧流の前にもグラスを置くと、うやうやしく頭を下げた。
優雅なしぐさで口をつけてから、霧流は話しはじめた。
「単刀直入に言うね。弓ノ間くん、ずいぶんふつうに学生生活楽しんでるようだけど、ほんとに無事ですむと思ってんの……?」
鉄人は息を呑んだ。
「……は?」
動揺は隠したつもりだったが、絞り出した声はかすれ、わずかに震えた。
「だからさ。理事長に匿われているくらいで、逃げきれると思ってんのかって訊いてんの」
血液が逆流した。霧流の声がひどく遠い。
唾を呑みこもうと必死になっても、喉を伝っていかない。
「ああ、そんなに固くなんないでいいよ。べつにいますぐどうこうしようってわけじゃないからさ。この件についてじっくり話をして、お互いにその気があれば取引しないかってこと。それが、今日の用件。了解?」
鉄人は唇を結んだ。
鉄人に返答の意志がないことを悟ると、霧流はボックス席の男に命令した。
「猛地くんをそろそろ起こしてやってくれる?」
男は遙兵から足を下ろすと、詰襟をつかんで引き起こした。遙兵は呻いて薄目をあけた。
「ハー」
「鉄……」
頭痛をこらえるかのような、苦悶の表情を見せる。その身体が無理矢理、ソファに押しつけられた。
「どうせもう切れる時間だったし、睡眠薬。おはよう、猛地くん」
「燕……てめぇ、なにを……イテテテテ」
「そのうちおさまるからガマンしなよ。で、弓ノ間くん。せっかくだからね、猛地くんに立会人になってもらおうか。証人っていってもいいのかな。こっちも、保険が欲しいしさ」
「……遙兵は関係ない」
低く威嚇するように、それだけをつぶやく。
「ほんっとバッカだな。関係ないから、抑止力になるんじゃないか。こんくらいの事前準備をしておかなきゃ、とても恐ろしくて対等に話なんかできないもん」
「これのどこが対等だ」
「うん。もちろんきみとぼくは対等じゃない」
霧流の瞳が妖しく輝いた。鉄人の首筋にチリチリとした違和感が奔る。
「ぼくは出資者。きみはマウス。すっごくわかりやすいよね」
瞬時にその意味を察して、鉄人はテーブルをバンと叩いた。グラスの液体が跳ねてこぼれる。
まだ朦朧としていた遙兵がその剣幕にびくりと跳ねた。
「どういうつもりだ、きさま……!」
「へえ……弓ノ間くんでも怒るんだ。図書室でぼーっとしてるだけかと思ってた。ハハハ」
「茶化すのはいいかげんにしろ。なにを知っている、燕」
「ぜんぶ知ってる」
霧流はすっと目を細めた。
「インビジブル・ハンド・プロジェクトは将来的な資金源なんだよ? 出資している組織は多いよ。きみ、そのぜんぶに追っかけられてる自覚、ほんとにあんの? 暢気だなあ。よくそれでいままで無事でいられたよな。お見事」
言い返せない。たしかに迂闊だ。本来ならば、ヤクザの息子の理不尽な呼び出しなんて無視するべきだったのだ。
人質にとられて困るような人間関係も、築くべきではなかった。
保護されて安心しきっていたツケが回ってきた。
霧流はバースツールから立ちあがり、ゆっくりと鉄人の前に立った。指がすっと延び、髪の毛に触れる。
「ちょっと……ドキドキするよ。まさか、貴重な成功例がこんな近くにいたなんてね。すごいや」
髪からすべった指は額を撫で、目尻を通って頬に下りていく。
最後に顎を上向かせる。
「きみまでに、何百倍の数のマウスで失敗したかわかってる? ねえ、きみ、自分はラッキーだと思う? それとも、悲観してる? 黙ってあそこにいたらちやほやしてもらえたのに。誰かにたぶらかされたの? 隠滅命令出てるの、気づいてた? いま、どんな感じ?」
霧流のひと言ひと言が、ムカムカした。こみがえる怒りで握った手が痙攣する。
「ぼくんちが出資した額なんて、たかがコンマ以下のパーセントだけどね。でも、それがきみに使われたのかもしれないじゃん。これってすごい縁だよね」
遙兵の視線が自分に注がれるのをを感じ、鉄人は顎をとられたまま目をそむけた。
「ねえ、弓ノ間くん、教えてよ。興味あるんだ。どんなことされたの……? 薬? 遺伝子操作? それとも、脳外科手術でも受けた?」
「……るさい!」
堤防が決壊して、鉄人はプッツンした。霧流の手が引っこめられる。
「黙って聞いてりゃなんだよ! おかしな三文小説でも読んで夢みてんじゃねーのか、ああ? くっだらねえ! おいハー、こんな胸くそのわるいとこ、とっとと出るぞ!」
「あ? ……お、おお」
遙兵はぼんやりと立ちあがって、ふらついた。まだ睡眠薬が完全に切れていないらしい。いまの話も夢うつつで聞いていてくれ、と鉄人は祈った。
「あーららら、決裂ってことか。ざんねーん」
意地の悪い瀬音香の台詞と同時に、今度は複数のナイフが四方から遙兵に向けられた。
「な、なっ!」
目前に刃先を自覚して、ようやくシャッキリと覚醒したようである。
「『お話』のうちに、おとなしくなってくれればよかったのに」
編駝麓がわざとらしくため息をつく。
霧流も残念そうに言った。
「しょうがないな。こういうこともあろうかと灰逗さんに頼んでおいてよかった。アレ、持ってきて」
男のひとりが二階へ上がっていき、少ししていかついキャリーケースを手に戻ってきた。テーブルの上にそっと置き、パチンと留め金を開ける。
中にあるものを確かめて、鉄人はぎょっとした。
「こういうの、あんまり使いたくなかったんだけど。ごめんね猛地くん、恨むなら弓ノ間くんを恨んでね」
「……ばっ、ばかやろー!」
ヤクザの息子であっても、燕も一応高校生だ。まさかそんなものにまで精通しているとは、鉄人は想像もしていなかった。
「へえ、これがなにかわかるんだ、弓ノ間くん」
男が手慣れた様子で薬品を注射針からシリンダに移すのを見て、遙兵の顔色が青ざめていった。
「これはね、スノーバーズ。弓ノ間くんもよく知ってるアルカロイド」
「オマエ……ムチャクチャだよ、燕」
鉄人は愕然としてうなだれた。薬品の正体はコカイン。しかもシリンダの目盛は許容量をはるかに超えている。こんなものを投与したら、オーバードゥーズどころの話ではない。
数十秒もしないうちに、ほぼ間違いなくショック死だろう。
「……なにが目的だ、言ってみろ」
降参ではない、取引である。遙兵の命を交換条件に示されては、話しあいの場に移るしかあるまい。
霧流はふわりとやさしそうにほほえんだ。悪魔もかくやと思われる美しく、高貴な笑みだ。
形の良い唇が恐ろしい要求を紡ぎだす。
「弓ノ間くん、ぼくのものになってよ」
消毒薬を含んだ脱脂綿が、袖をむりやりたくしあげられた前腕部に当てられる。
遙兵が引きつって、声にならない声で救いを求めるのがわかった。
「……いいだろ? 黙っててやるからさ。せっかくつくったのに、壊すなんて、もったいないもん」
「……くっ」
「怖いの? だいじょうぶ、ぼくが匿ってあげる。そのかわりわかるよね、ぼくがきみのオーナーだから。上下関係は、はっきりさせときたいんだ。ま、最初は奴隷のつもりでいてくれたらいいよ」
「……変態」
「さっそくだけど、次の中間考査。ぼくよりいい点とったら、承知しないよ?」
「やっぱ行き着く先は点数じゃんかよ!」
自分の絶叫に鉄人は貧血を起こしそうになった。だが次の瞬間、さらに仰天するできごとが勃発した。
「猛毒きりたんぽ食わすぞ、てめぇら!」
18:47、遙兵、破局的噴火。
燕組は、おそらく人質を甘く見すぎていたのである。
1年3組出席番号13番、美化委員(クジ引き)、猛地遥兵の情報をもう少し丁寧に収集しておくべきであった。
消毒されて清潔になった腕で三本のファイティングナイフを跳ねあげ、テーブルを蹴った勢いでガラス製の注射器ごとカクテルグラスを木っ端微塵にした。
男のひとりがダークスーツの懐に手を突っこむ。拳銃を隠し持っていることをいち早く察した鉄人が、こちらもまた両脇の男の眉間を両の拳でいちどきに突くと、仕上げに股間を蹴りあげて、拳銃男ごと押し倒した。
その後は店内大乱闘。
土足でテーブルに飛び乗った遙兵のポケットで、携帯電話が『犬神家の一族/愛のバラード』を高らかに奏でた。
「もしもしもしもし? おー、時雨努、おまえほんっとにタイミングのいいやつだな! いま駅前の『ラプソディア』って店で……おっと!(蹴り)……ああ、めんごめんご、とにかくとんでもねーことになってるからすぐ来て加勢しろ! 鉄人? ああ、ここだここだ。はあ? 理事長が捜してる? ンなら迎えに来いよ! なんだかしんねーけどテツ、貞操奪われそうになってからよ! そうだ、経夢人も連れてこい。警察のオヤジにもデンワしとけ。おっもしれーぜ、はははのはあ!」
あの、バカ。
鉄人はなんだか目頭が熱くなって、あたふたとした。
瀬音香はちゃっかりカウンターの向こう側に避難して、わなわなと震えている。編駝麓はといえば、遙兵の後足蹴りを後頭部に食らってソファで悶絶中だ。半分はずれた眼鏡にはひびがはいっていた。
「弓ノ間!」
叫ぶ霧流に鉄人は手を振ってみせた。
「あー、悪いな燕。おれ、まだウンって言ってなかったよな。てなわけで次のテストは自力でなんとかしやがれ」
「パパにいいつけてやる!」
「……あのなー」
こんなのに首を振らなくて良かった。鉄人はほっとしたあと、むらむらと可笑しくなった。
ナイフも拳銃も違法ドラッグも、ほんとうに恐ろしい連中に比べたらガキのオモチャのようなものだ。妬み嫉みを埋めるために、振りまわすだけのシロモノ。燕なんて恐れることはない。そこにはただ、子供じみた欲望があるだけなのだから。
「蹴散らしちまおうぜ、ハー!」
「行くか、テツ!」
黒ずくめの山が累々と築かれはじめたころ、鉄人はピアノの横に立つ蒼みを帯びた視線に気がついた。
「はあ、はあ、はあ……いつから、そこにいた、ノエル」
「ついいましがた。経緯はずっと外で聞いてたけど」
「人の悪いヤツだな……」
「鉄人くんがバスに乗らなかったから、おかしいなと思ってさ。今日から銀町先生のところでいっしょに暮らすことになったんだ、よろしくね」
「ああ……そういうこと」
スッと右手を差しだすノエルに、鉄人は笑った。
「握手? いまそれどころじゃないの、わかってる? 場所と状況、ちいとはわきまえろよ」
「ははは、ぼくが来なくても、だいじょうぶだったみたい」
「ったりめーだ」
「うん、だいじょうぶそうだ。きみはひとりじゃないし。心配して損した」
「なにいってんだか。どいつもこいつも、バカばっか」
「よろしく」
「ああ……よろしく」
ノエルの掌は、思ったよりも大きくて力強かった。
触れた瞬間、鉄人の脳内でアナロジーの認識が起こった。そうか、そうなんだ。この人は敵じゃない。
嘘をつかない掌を、自分は知っている。
それは、翻弄される人生でもけして失われることのない、大切な知覚であった。
「はい、牡鈴学園高等部です……はい? 警察? いつもお世話になっております」
お世話になっているはずはないのだが動揺を隠せず、つい社交辞令で口にしてしまう。
「……ああ、武暗くんのお父様! ええ、はい、はい……え?」
璃乃が校舎の施錠を確認に回って戻ってみると、職員室で樹花が受話器を手に呆然と立ち尽くしていた。
「はい、お手数おかけします……すぐ各保護者に連絡をとり、引き取りにうかがわせますから……いえ、いえ、そんな。ありがとうございます。はい、失礼……します……」
ガチャン。
「……どした?」
樹花は縦線の刻まれた額を長い前髪ですだれのように隠しながら、わなわなと震えた。
「……遠藤先生。セキュリティシステムはまだ作動させないでいいよ。どうやら残業になりそうですから」
「はあ?」
「駅前のカフェバー『ラプソディア』店内において、当校の1年生徒数名が試験勉強中に些細なことで大乱闘。うち一名が携帯電話で警察に通報。事件性がないとのことで全員、署内でカツ丼をいただいているところだそうです。先生、バカどもの顔ぶれを聞きたいで、す、よ、ね?」
璃乃はぼりぼりと後頭部を掻いて、「聞きたくねえなあ」とうそぶいた。
2006-01-17
