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サーティーン

これもひとつのエンディング。


午前2時30分
プエルトリコ ハルモニア製薬 第13ラボラトリオ

「寝たふりはしなくていいから」 臨床検査技師の神経質な声が奏でる嫌味に内心舌をだしながら、テッドは半身を起こした。
 照明が深夜帯モードから変わっていない。ということは、タイムスケジュールではまだ就寝時間内ということだ。窓のないこの場所は、外の世界と完全に隔絶されている。昼とか夜という実感はなきに等しい。
 寝汗が気持ち悪い。ベッドにもぐりこむ前にシャワーを浴びたのに、もうびっしょりだ。パジャマの替えならいくらでもあるけれど、それを自分でやろうとするだけで咎められる。
 着替えも食事も洗面もすべて監視つき。
 許可なしでおこなってはいけない。
 ラボ内は最新鋭の空調システムでつねに適温適湿に保たれていた。減菌処理も厳しく行われている。だから発汗の原因はそれ以外のところにあるはずだった。
 生体計測装置の電極をびっしりとつけられて、熟睡しろというほうがまちがいだ。こればかりは慣れだけではどうにもならない。
 だめかもしれないと思いつつ、かなりの覚悟で眠る努力もしてみたのだ。だがおそらくは寝返りをくりかえしていた時間のほうが長いだろう。十五分おきに見回りに来る職員には狸よろしくやすらかな寝息を演じてみせたが、徒労であることはわかっていた。
「飲みなさい」
 あまり冷たくもない水を満たしたコップを渡されて、テッドは一気にそれを飲み干した。喉がからからだったのだ。
 ふう、と息をつく。
 頭の芯が疼くように痛む。日中はハード・スケジュールで、疲労だって蓄積しているはずだった。それなのに不眠の症状に苦しめられる。ここしばらく、ずっとそのような状態が続いていた。
「また中途覚醒が出ているね」と臨床検査技師はポリソムノグラムを見ながら言った。「原因がどのへんにあるのか、早急に調べなくちゃいけないな。一過性か、精神医学的なものか、それとも……」
 好きに判断してくれ、とテッドはなげやりに思った。
「これ以上カリキュラムに影響するのはまずい。薬を増量するか、変えてみるか」
 まずい、というのはすなわち13ラボラトリオの評価が下がるということである。けしてテッドを案じてのことではない。
 独り言のような技師のつぶやきは心に浸透してこなかった。テッドの不調を改善しようという試みは、人道的な理由ではないからだ。ラボにとって自分はただの検体である。サンプルとして保管されている血液や臓器と同類だ。患者はおろか、ヒトとも思われていない。
 過剰な薬剤投与による副作用への懸念よりも、つねに臨床結果が優先される。吐き気や異常な発汗に苦しもうが、その後のデータが良好ならばなにも問題にされない。ストレスを緩和させるための治療はいちどたりとも施されたことはない。
 テッドはベッドサイドのテーブルからピッチャーを勝手にとって、もう一度コップに注いだ。
 砂漠で迷った旅人のようだ。いくら流しこんでも、水に飢えた身体は満足しなかった。

午後3時

 一日のカリキュラムがわずかに変化したのは、比較的安全な睡眠改善薬をやめて中枢神経抑制の劇薬を経口摂取させられるようになった数日後のことであった。
 それまで午後の二時間を割り当てられていたウェクスラー=ウェイス知能検査が削除され、かわりに組みこまれたのが心理カウンセリング。引きあわせられた老医師は初期の痴呆のような顔をしていて、言うこともひどく支離滅裂だった。
 正直なところ、なにかの冗談だろうとテッドは嘲笑った。あるいはまたろくでもないことを試されているのか。いずれにせよ、悪意の匂いがぷんぷんした。
 老医師は時間いっぱいくだらない雑談をするばかりで、ちっとも核心に触れてこない。
 テッドは苛立った。いまさら過去の名前を蒸し返されようと、回顧をうながされようと、それらが取り戻せるわけではないのに。
 ラボ内のスタッフでただひとり、自分に個を認めるこの老人が、テッドにはいい迷惑でしかなかった。
 監視カメラは相変わらず自分に固定されている。見られながら昔の名を呼ばれ、なにを演じろというのだ。うっかり弱音を吐こうものなら、あとで必ずはね返ってくる。
 どんな態度をとれば評価があがるのか。わからない。
「こりゃ。顔をあげんかい、テッド」
 罠だ。騙されるな。
 スコアが下がれば処分される。せっかく積み重ねてきた努力が、泡となる。
 バリケードを固めるテッドを老医師は鼻で笑った。
「頑なだのう。まあよいわ。さて、と」
 ここから先もまったくわけがわからない。用意された巨大なステンレスのボウルと、かごいっぱいの生卵。
「今日は五十人前のスクランブル・エッグをつくってもらおうかのう」
「いつまで、こんなことをさせるつもり」
 テッドは苦々しく吐きだした。
「百人前の完全なサニーサイド・アップ・エッグ(目玉焼き)ができるようになるまでじゃ」
「……けっ」
「どうした、テッド。やる前から戦意喪失か」
「その名前で呼ぶな」
 老医師はなぜか含み笑いをして、皺に包まれたぎょろりとした目を向けてきた。
 友好的な態度を装ってはいるが、老医師とて13ラボラトリオの人間である。テッドを陥れるために、わざと挑発しているにちがいない。
 あまり余計なことをいうべきではない。
 テッドは黙って右手を伸ばし、乳白色の卵を一個とった。
 左手は使わないというのが唯一のルールだ。
 机に軽く叩きつけ、ひびをいれる。ここまでは問題ない。
 ボウルの上に持っていき、指に力をこめる。黄身を崩さないように、慎重に――。
 ぐしゃ。
 潰れてしまった。
「へたくそ」
「やかましい」
 ウォーミング・アップだろうが。テッドはにやにやする老医師をにらみつけ、卵だらけになった手をタオルでぬぐった。
 こんなカリキュラムになんの意味があるんだろう。ばからしい。
 もちろんすべてのプログラムがばからしいが、そのなかでも頂点に君臨するばからしさだ。
 次の卵をとる。
 失敗。
 次。
 いちおう潰さずにすんだが、殻が落ちた。
「むやみやたらにやっても永久にスクランブル・エッグしかできんぞ。理論を考えんかい」
「理論なんてわかってるよ。ヒビをいれるとき陥没させないことだろ、あと力のいれかたと、タイミングと」
「わかっているのなら実践してみせい」
 ちくしょう、むかつく。テッドは頬をぷっと膨らませた。
 何個めかに挑戦しているとき、手の甲がうっかりボウルに当たった。
「わあっ!」
 ボウルがひっくり返り、白身と黄身を床にぶちまけた。
「やっちゃった」
 本来なら職員のだれかが目をつりあげて、走ってくるところだ。だが老医師はどっかと座ったまま、顎をしゃくった。
「ぼーっとしてないで、ぞうきん持ってきて片づけんかい」
「ぞうきん?」
「自分の家なんだから、ぞうきんのありかぐらい知っておろう」
 どこまで逆なですれば気が済むのだろう。テッドに身の回りのことをする義務も権利もないことを、老医師は熟知しているはずだ。それなのに、わざとからかう。
 テッドは敗北を噛みしめて、無言で席を離れた。
 裸足でぺたぺたと床を踏む。
 中央ステーションに人影があった。
「どうしたの、サーティーン。もうおわった?」
 パソコンから顔をあげたのは、アルド・リンカーンウッド医師。
「……ぞうきん、かしてください」
 アルドは眉をひそめた。
「どうしたの」
「タマゴ、こぼしちゃった」
「まだ、あれをやっているのか」
 アルドはあからさまに不機嫌になった。腕組みをし、天井を仰ぐ。老医師への不信感はこの男もつのらせているらしい。
「いい、そのままにしておきなさい。あとで掃除させるから」
「だって、じいちゃんが」
 言いかけて、テッドはハッと口をつぐんだ。あぶない。
「……センセイが、片づけろって」
 深いため息が聞こえた。
 怒らせてしまったかもしれない。
 アルドは乱暴に回転椅子を蹴って、長い白衣をひるがえした。
「サーティーン。もういい。次のカリキュラムまでベッドで待機してなさい。わたしが話をつける」
 アルドはすたすたと去っていき、その数十秒後、激しい言い争いがきこえてきた。
 いったい、どういうことなのだろう。
 ラボ内で不協和音が起きている。けしてあってはならぬことだ。老医師がスタッフとしてやってきてから、ずっとこの調子。
 だがテッドにとっては悪い傾向ではなかった。冷酷非情なアルドが感情をむき出しにするなど、なかったことだから。ざまあみろ、という気がした。
 揉めて揉めて、みんな解雇されればいい。13ラボラトリオに協調など必要ない。いっそのことプロジェクトの存続自体が不可能になって、解散すればいいのだ。自分のことは処分するなりなんなり、好きにしてくれていい。
 テッドは右手で鼻をこすった。
 手首につけた識別タグがじゃらりと重い音をたてる。
 半導体チップの埋めこまれたそれには、シンプルな刻印があった。
 ”No.13”
 13匹めのマウスという意味だ。
 プエルトリコのストリート・キッズ、テッドは裏社会の組織につかまって、殺されてしまったらしい。だから、ここにいるのはテッドではない。たまたまその子と同じ記憶を共有しているだけの、ネズミだ。
 飼い主はちゃんとエサを与えてくれる。寝床も清潔にととのえてくれる。すばらしい幸運。不満などあるわけがない。
 そうだ。なにもかも世話役のアルドにまかせておけばよいのだ。
 そうしたら、いつだってやさしい言葉をかけてもらえる。
 あきらめなさい、サーティーン――――。
 なんと甘美な響きなのだろう。

午後4時30分

「カウンセリングは今日でおわりじゃ」
 ふいの言葉に、テッドは「えっ」と訊きかえした。
「もうこのカリキュラムは必要あるまい。おまえはもうだいじょうぶだ」
 なにがどう大丈夫なのか。テッドは意味をはかりかねた。
 片手連続生卵割りはだいぶ上達したものの、完璧な目玉焼きにはほど遠い。薬の量も減ってはいなかったし、それすらもかなり効きづらくなってきた。精神的には以前と同じか、むしろ悪くなっている感じがした。
 老医師の授業はずっと理解不能ではあったものの、わずかなりとも気を緩めることのできる大切な時間だった。いまそれを奪われたら、どこかにまた不調があらわれるかもしれない。
「なんでさ」
「あしたがデア・タグ(決行日)だからだ」
「はあっ?」
 老医師はボウルに浮かんだ百個の目玉をしげしげと見、「ずいぶんがんばったな」とうなずいた。
 まだいくつか不完全なものも混じるが、だいたいはきれいな形を保っている。
「そりゃあ、一生懸命やったし」
「そうだ、テッド。おまえの口からそれを聞きたかった」
「えっ」
「”一生懸命”というやつじゃ。惰性で片づけるのではなく、真剣に取り組む。それができる人間は、強い」
 おれは人間じゃないんだろ、と言いかけてテッドはやめた。
「じいちゃん」
「なんだ」
「辞めさせられたの」
「ふん。リンカーンウッドのしわざだとでも思っちょるのか。あんな若造になにができる」
「じゃあ」
「デア・タグだといっとろうが」
「わかんねーけど……もう、ここには来ないの」
 うつむき加減に訊ねるテッドを、老医師は柔和な目で見つめた。
「さて、どっちへころぶかのう。どうした、さびしいか」
「ばっ、ばかいえ! やっとその汚ねえツラ見なくてすむかと思や、せいせいすらぁ」
「ふははは、すなおじゃないのー」
「くそじじい」
「どうした、テッド」
「その名前で呼ぶなって。給料さがるぞ」
「きらいかね? 親御さんからもらった名前ではないか」
「親なんていない」
「まあ、そういうな。名前はおまえだけのものじゃぞ……」
 テッドはそっぽを向いた。そんなことを言われて、嬉しくないわけがなかった。老医師のいたわりは、残酷だ。
 これであしたからもっとつらい日々がはじまってしまうことを、認識してない。
 最高の大馬鹿医者だ。
 老医師はテッドの心中もおかまいなしに、なにも綴じられていない見せかけだけのファイルを持って立ちあがった。
「じいちゃん、またな。せいぜい長生きしろよ」
 ぶっきらぼうに挨拶するテッドに、老医師は告げた。
「あすの朝、もういちど来る。七時。ちゃんと、顔を洗っておけ」

午前7時

 だれが書いたシナリオなのだろう。
 自分は、なにも知らずに巻きこまれた。意志とは無関係に、勝手にサバイバル・ストーリーの登場人物にされていたのだ。
 13ラボラトリオのゲートは大きく開け放たれていた。完璧を誇るセキュリティ・システムも六十秒だけ沈黙するという。いったいだれの仕業で。
 いやだ。
 外にでるのは、怖い。
 そのゲートをくぐった瞬間、だれもマウスを守ろうとはしなくなるだろう。逃げたマウスは一匹残らず始末される。
 老医師は己が盾になるといってきかなかった。おそらく、彼は死ぬ。マシンガンで武装しても、さほど時間稼ぎはできまい。
「しあわせをつかめ、テッド」
 最後にそう絶叫して、老医師はマシンガンをぶっ放した。
 そこまでして、老人になんの得があるのか。たかが突然変異のマウスのために命を棄てるなんて、どういうつもりなのか。きちがいめ。
 一生懸命やればなんでもうまくいくと思っているのか。
 そんなものは過信だ。挫折を知らない愚か者の語る、夢物語だ。
 テッドは背を向けた。走った。
 13と大きく書かれたゲートが近づいてくる。
 足元がふらついた。
 吐き気がした。
 怖い。
 この先は地獄じゃないか。
 行きたくない。
 しあわせなんて、知らない。
 スピードが落ちた。急激に足が重くなる。ゲートの手前で、ついに歩みはとまった。
 テッドはしゃがみこみ、ネズミのように背中を丸めた。
「……たすけて」
 警報装置が息を吹き返し、けたたましいサイレンが鳴り響いた。まもなくゲートは前のようにかたく閉ざされるだろう。
 もう、いい。
 もうなにも考えたくない。
 背後から駆けてくる足音がきこえた。荒く呼吸をしている。
「サーティーン……よかった、ここにいたんだね」
 テッドは顔をあげなかった。
 憎むべきアルド・リンカーンウッドの声に、これほど安堵したことはなかった。
 背中からふわりと抱きすくめられる。
 硝煙と消毒薬の匂いがした。
「ラボ内部で、叛乱がおきた。プロジェクトに恐れをなした職員が結託して、マウスたちを抹殺しようとした。でも、もうだいじょうぶ。みんな、始末したからね」
 そうだったんだ。
 テッドの思考は、あきらかに嘘だとわかるそれすらもあっけなく受けいれた。
 じいちゃんも死んだのだ。自業自得だからしかたがないのだ。なにもかも、これですべて、もとのまま。
「怖かったね、サーティン。いい子だ」
「ドクトル……」
「ふるえてるじゃない。ベッドまでおんぶしてってあげよう。そのあとは落ち着けるように、薬をあげる。なにも心配しなくていいんだよ」
 テッドはアルドの背中にもたれ、そこに額を押しつけた。アルドはおかしそうにくすくすと笑って、子どもをあやすように持ちあげてくれた。
 悲しくもないのに、なぜか涙がとまらないのが不思議だった。
 そもそも、涙とはどういうときに分泌されるものだったのか。
 感情の脳科学の本にあったかもしれない。あとでもういちど確かめてみなくては。
「ドクトル」
「なあに、サーティーン」
 なんでもない。そう呼ばれたかっただけだ。安定し、心を乱すことのない、その名で。

end

インビジブル・ハンド番外編


2006-07-21