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インビジブル・ハンドの日曜日

 巨大な窓ガラスは、一枚板のように床から天井までまったく継ぎ目が見あたらない。むこうとこちらを隔てる無機質な壁という意味では13ラボラトリオと変わりないけれど、開放感が設定されているその点だけはあきらかに異なっていた。
 そこから見下ろすスクランブル交差点は、映像や幻ではなく現実のものだ。
 自分がそこにいることを、不思議に思う。
 けれども、夢ではない。
 信号が赤から青に変わる。人の波が洪水のように押し寄せ、交わり、拡散していく。
 みんなとてつもなく早足だ。どうしてだろう。
 今日は日曜日で、急ぐ用事などなにもないはずなのに。
 東京の人間はせかせか動きすぎだ。
 いや、東京に限ったことではない。日本じゅうが似たようなものだ。
 親に手を引っ張られて、引きずられていく子ども。あの幼さは就学前だろう。なんてことだ、泣いているじゃないか。ああ、ぶった。それも横断歩道のまんなかで。
 なんでほかのやつらは関心を示さないんだ。幼児虐待が公然と行われているんだぞ。
 信号機が点滅をはじめる。けれども横断する足はとまらない。
 例の親子も波にのまれてしまった。
 鉄人はふうと息を吐いた。
 呼吸しろ、呼吸。次に信号が変わるまで待てばいいだけの話なのに。
 ほんの一分。たったそれだけだ。
 一分という時間は貴重だけれど、立ち止まって深呼吸するのも重要だろうが。
 ましてや、今日は日曜日なんだから―――。
 真っ白いテーブルクロスに頬杖をつき、鉄人は目だけで足元の忙しない光景を追っていた。
 となりの席にはノエル。先週編入したばかりの、新しいクラスメイトだ。ついでといってはなんだが、その日から鉄人と同居している。すなわち、銀町豪邸の居候第二弾。
 鉄人と同じ、わけありの身柄だからである。
 向かいの席にはふたりの身元保証人であり保護者代理でもある銀町絵麗亜が、あまり上品とはいえない格好で座っていた。
 黒を基調としたベルベットのパンツスーツ。五十も半ばなのに少女のような底上げブーツ。化粧のしかたもまとわりつく空気も、実年齢より十は若い。
 年相応なのは目尻や口元に刻まれた年輪くらいなものだ。
 彼女はもともと豪邸に独り暮らしで、子どもがいるという話は聞かない。家庭を持たず、仕事一筋にやってきたからだろうか。初老のおばさんといった雰囲気はかけらもない。
 銀町絵麗亜。有名進学校、私立牡鈴学園の理事長をつとめているその人は、世界を股に掛ける銀町財閥の父系血縁である。膨大な財産はその名ばかりにとどまらない。各界に及ぼす彼女の影響力たるや、アメリカ大統領すらもうかつに手出しできない大きさなのだ。
 たとえばいま昼食をとるために立ち寄った、銀座のど真ん中に立地するこの高級百貨店。
「お子様ランチをふたつ。あたしには大奥御膳をもってきてちょうだい」
 革張りのメニューを手で退けて、即決。席に案内されてから十秒もたっていない。
 独断にもほどというものがある。
 代金を支払うのは絵麗亜だが、鉄人もせめてメニューを確認したかった。
 大正浪漫ただようエプロンを身につけた上品なウェイトレスが、吹き出しそうになるのを必死でこらえているのがわかった。
「もうしわけございません。お子様ランチは小学生までのお子様に限らせていただいております」
 立場上、口出しが許されない鉄人とノエルは耳まで真っ赤になった。
 横の席からもくすくすという忍び笑いがきこえてくる。
 穴があったらはいりたい。
「この子たちは小学校も卒業していないから、べつに問題ないんじゃないのかい」
「……かしこまりました」
 さすがに市井のファミレスとは格がちがう。絵麗亜が一筋縄ではいかない厄介な客と見るや、臨機応変に態度をあらためた。社員教育が徹底しているのだろう。しかし、目前の女性が当該百貨店の筆頭株主だということに気づいた様子はまったくない。
 ウェイトレスが去ると、絵麗亜は苦々しげにこぼした。
「ふん、くだらないルールをつくりやがって。こんどの支配人はあんがいつまらない男だね」
 鉄人とノエルは肩をすくめた。
 逆らってはいけない。逆らっては。
 お子様ランチなんぞまっぴらごめんでも、ぐぐっと耐えねばならぬのだ。
 銀町理事長いわく、お子様ランチは日本の子どもたちの通過儀礼であるという。
 日本橋三越にて発案されたというそれ。ワンディッシュに栄養バランスを考慮した多種多様のおかずをそろえ、かつ心躍らせる楽しい演出で提供しなくてはならない。単に大人サイズの半分というわけにはいかないのである。
 レストランにとって、手間暇がかかるもっとも難しいメニューのひとつ。そのひと品で店のレベルもシェフの腕もわかってしまう。
 これもまた失われつつある日本文化。
 日本の子どもたちが幼児期に体験すべきことを、後追いではあるが鉄人に教えておこうという絵麗亜の気持ちはよくわかる。
 だが、しかし。
「おまたせいたしました」
 うやうやしく差しだされたランチプレートを目前にして、鉄人はため息をつきたくなった。
 これを、食え、と。
 それはラボにおけるどんな過酷なカリキュラムよりも遠慮に値するような気がした。
 ちらりとノエルを見る。
 死んだ魚の眼に、最低、と書いてあった。
「いただきます」
 事ここに至っては逃げ道なし。けろけろけろっぴのスプーンを手にとる。
 やけくそだ。もうどうにでもなれ。
 セルビア・モンテネグロ(旧ユーゴスラビア)の国旗に爪楊枝のついた物体ごと、チキンライスをほじくってみる。
 ノエルのそれはカナダだった。きっとさまざまなバージョンがあるのだろう。
 グリーンピースがころころとこぼれて、仕切られたエリアにあるプリンにひっついた。
 泣きたい。
 この場から解放されたらノエルを誘ってマクドナルドを食いにいこう。
 そもそも、本日の受難は大相撲に端を発していた。
 歴史ある伝統文化だかなんだか知らないが、「日本人として恥ずかしくないようにきちんと理解しておかなければいけまいよ」という鶴の一声で、はるばる両国国技館まで観戦をしに来るはめになったのである。しかも千秋楽。
 正気の沙汰とは思えないお茶屋さんシステムをとくと説明されたのち、正面桟敷席を陣取るマナーを叩きこまれるというおまけつきであった。
 知るか、ンなモン。
 くそ。どっちかっつーとスター・ウォーズ・エピソード3を観に行きたかったのに。
 タルタルソースつきのエビフライをけろっぴフォークで串刺しにしながら、鉄人は愛想笑いを試みた。
 大相撲を正しく理解している日本の高校生がどれだけいるかという、その真偽を突いてはならない。銀町絵麗亜はエイリアンだ。正しい日本人ではないのだ。ゆえに下手な刺激は御法度なのだ。
 このあと都営地下鉄大江戸線に乗って両国へ赴き、大相撲なる国技を観戦したらお役御免となる。
 がまん、我慢。
「墨田川の納涼船も予約しているからね」
 こらえるのだ弓ノ間鉄人。
 エビのシッポが歯にはさまった。
 クリーム・ソーダでむりやり流しこむ。
 後輩にあたるノエルがなにか言いたげにしているのを、ぎろりとにらんで封じることも怠らない。
 余計な反論をしたら最後、おそらくこのばかげたツアーは泊まりとなる。
 あしたは一般的に月曜日で、六時間の退屈な授業があるのだが、そんなものは絵麗亜にとって優先すべき事項ではないということなのだ。
 銀町邸に世話になるからには、それなりの礼は尽くすべし。
 少なくとも、プエルトリコのころよりは格段にましなのだから。
 呼吸しろ、呼吸。鉄人は自分に言い聞かせた。
 身元保証人が満足するのを待てばいいだけの話だ。日曜日の、ほんの一日を犠牲にしたところで、なんの苦があろうか。
「なんて顔をしてるんだい、まったく」
 鉄人はびっくりして顔をあげた。
 言葉よりも怒った口調ではなく、絵麗亜はやさしげに話しかけてきた。
「つまらない。くだらない。しかたない。そういう顔だね」
「いえ、たのしいです。つまらないなんて、そんな……」
「人の顔色をいちいちうかがわなくてもよろしい」
 絵麗亜はぴしゃりとたしなめた。
 鉄人は図星をつかれて、口をつぐんでしまった。
「がまんすることなど、もう必要ないんだ。まだ、わからないのかい」
 そんなことを急に言われても、鉄人は困惑するしかない。我慢はたしかにしているかもしれないけれど、それはラボにいたときの我慢とは質がちがう。まったくの別物だ。
 以前の我慢は、諦めと同義語だった。だが、いまはそうではない。
 どこがどうちがうのか頭では理解できない。が、別なのだ。
 世界を顎で動かす女性、銀町絵麗亜に、試されている。自分が保護されるべき人物かどうか。あらゆるケースを想定して、自分にとってもっとも有利な結論を導かなくてはなるまい。個体間コミュニケーションについての知識を引っ張り出さなくては。スキーマの同調を試みるのだ。早急に。
「ばーか」
 ぱちぱちと放電する鉄人がよっぽどおかしかったのか、絵麗亜はくっくと笑ってふんぞりかえった。
「……はい?」
「すぐそうやって、頭で考える。あんたのIQがどれだけあるかなんてのは、どうでもいい。あたしにしてみりゃ、あんたらは幼稚園児以下だね。いちばん肝心なところが、ちっとも育ってない」
 鉄人はぽかんとして、ノエルに助け船を求めた。
 だがお隣さんも同じ顔。
 役にたちそうにもない。
 ヒステリーをおこしながら引っ張られていったあの子どもにすら劣るという、そういうことだろうか。だとしたら理解不能だ。いっそ暴言である。
 どういう反応をしていいのかわからず、とりあえず星形ニンジンの乗ったハンバーグを口につっこんでみた。
 気まずい。どうにもこうにも居心地がよろしくない。
 絵麗亜は日常生活のことで口うるさい以外、人格否定につながる発言はしない人だと思っていた。鉄人のこともきちんと認めているはずだった。銀町邸で自由に暮らせるのも、その信頼あってのことだ。
 ばかだの、幼稚園児以下だの。
 そういうふうに平気で嘲るようなけちな大人ではないのに。
 なんだか急に、お子様ランチの味がわからなくなった。紙粘土かなにかを噛んでいるような感じだ。
 とりあえず消化しないとえんえんとこの場に縛りつけられそうなので、義務的に胃袋へ押し込む。
 絵麗亜はまたしても小首をかしげた。
「そいつは、親の仇をにらむときの目さね」
 スプーンがぴたりと止まった。
「お子様ランチが怯えているじゃあないか」
 挽肉のかたまりをごくりと呑みこみ、「だって」と言ってみる。
「だって、なんだい」
「だって、先生があれこれへんなことをいうから」
 絵麗亜はぷっとふきだして、箸を置いた。自分の御膳にはほとんど手をつけていない。
「あたしは、おまえたちが喜ぶ顔を見たかっただけなんだけどねえ」
「え? あ……はい、すみません」
「鉄人、そこは謝る場面じゃないよ。おとなしい、いい子を演じる必要なんて、ないじゃないか。あんたはね、来たときにくらべたらだいぶましになったけれど、まだまだ感情表現がヘタだね。ノエル、あんたもだよ。いろいろむこうに未練もあるだろうけど、大事なのはいままでじゃなく、これからなんだよ」
 絵麗亜はふわりと笑い、また箸を手にした。お新香を一枚つまんで口にいれる。
「まあ、いいか。頭で考えさせて悪かった。気にしないどくれ」
 絵麗亜の言いたいことは、少しわかるような気がした。
 お子様ランチをだされて、無邪気にげらげらと笑う鉄人とノエルを望んでいたのだろう。
 ごめんなさい、と鉄人はまた胸の内で謝った。
 謝る場面ではないと言われても、鉄人はそうする方法しか知らないのだ。
 泣き叫び、必死に抵抗するすべさえ教わっていない自分。幼稚園児以下という評価もそれならば納得できる。
 色とりどりの万国旗に感嘆すらできない、醒めた瞳の弓ノ間鉄人。
 次なる時代のホモ・サピエンスと賞されながら、子どもとしては欠陥品だ。教育者たる絵麗亜にはすべてお見通しにちがいない。人より劣っているという自覚は鉄人にはないが、絵麗亜が危惧するのだからたぶんそのとおりなのだろう。
 もうしわけないが、急には変われない。
 けれど、少しずつなら。
 日曜日はこの先、何回でもやってくるのだから。
 悩んだら、立ち止まって深呼吸。そして、笑え。自分。
「食事が済んだら屋上遊園地に行ってみようかね。一時からマジレンジャーショーをやるそうだよ」
 追い打ちをかけるかのごとく発せられた絵麗亜の情け容赦ない提案に、せっかくポジティブになりかけた鉄人の頬がふたたびぴくぴくとひきつった。

end

インビジブル・ハンド番外編


2006-08-03