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汚染―13ラボラトリオ

もうひとつのインビジブル・ハンド #3/アルド
「サーティーン」前提・「泡沫―13ラボラトリオ」つづきです
ブログ掲載作を大幅改稿

 空調機のブーンという単調なうなりが、ただでさえ疲労の蓄積している神経をとどめとばかりに逆撫でする。アルド・リンカーンウッドはミネラル・ウォーターを口に流しこんだあと、いらいらと舌を鳴らした。
 まったく気にくわない。なにが『外気と設定環境との差がこの時期はかなり大きくなるので、負荷が高まるのはしかたがないんです。すみませんね』だ。この程度の負荷で悲鳴をあげるようなちゃちなシステムのどこが最新鋭だって? 工事の騒がしさには目を瞑ってやったが、稼働して二日もしないのにこんなありさまだ。本格的な夏がやってきたらネジが焼き切れるにちがいない。
 めまいがした。あの凡庸でヒスパニック嫌いの設備担当は、悪びれもせずに弁明するのだろう。『テキサスの気候は想定外でした』
 機械が無能なら技術者も似たようなもの。適当に苦笑いしておけばごまかせると思っているのだからたちが悪い。プロフェッショナルのくせに、人並み以上なのはプライドだけ。アルドに言わせればただの盆暗だ。天井知らずの予算を与えられて天狗になって。いまいましい。
 ”最新鋭”の装置はたしかにリスクは少なそうに見えた。データ上のスペックは申し分ない。そのかわり費用も桁外れだったために、認可の下りるまでが多少なりともわずらわしかった。功績をあげたのが13ラボラトリオ設備担当責任者のバスク・ユリウス狸侯爵で、会議の席で彼はその有能ぶりを演技じみたしぐさでアピールしてみせた。どんなくだらない人間にも何かしら取り柄があるもので、彼の場合は製薬会社で地味な日陰の仕事に就くよりも、表舞台に身を置いてシェイクスピアでも演じるほうがよっぽど性にあっていた。口八丁を駆使して莫大な予算を本社からもぎ取ったところまでは、けして悪くないのだが。
 13ラボラトリオが余所よりも優遇されるのは当然だとアルドも思っている。数値換算されるスコア云々をさておいても、プロジェクトに深く関わってきたアルド自身がサーティーンナンバーに特別の手応えを感じているからだ。
 13ラボラトリオのスコアは数値上では安定しているほうだが、常勤のスタッフらは厳しい現実に手を焼いている。マウスが精神を病んでいるのだ。現在はおおむね順調に推移しているものの、一時はラボの存続も危ぶまれたほど、目に見えぬ浮き沈みが激しい。
 しかしアルドは一度たりともやり直しを提言しなかった。13番めのマウスが扱いづらいのは、それがとびぬけて優秀な証拠。これ以上の検体はどこを探してもおるまい。最年少、しかもアジア系という劣性遺伝子を持ったオス。まったく期待をしていなかったナンバー13は貸与されたセラフィムとみごとに融合した。奇蹟と称してもよいくらいにだ。
 気が狂おうが、カリキュラムを拒絶しようが、処分する理由には足りぬ。あのマウスに価値はある――ありすぎるほどである。
 体内に埋めこんだニューロンは、正常なシグナルを発し続ける。トラブルはどれも表面上のもので、投薬と加療で容易に抑えこむことができる。
 精神病は放置してもまったく問題などない。プロジェクトの妨げとなる主たる要因、たとえばマウスの自我といったものは、へたに温存するよりも積極的に潰すのがあきらかに手っ取り早いからだ。だがそれでは自殺のリスクも高まる。完遂こそしていないが、ナンバー27がいい例である。同じことをナンバー13に試みられたら、一部の短絡的な連中がなにをしでかすかわからない。
 なかでも危険なのが臨床検査部門部長、完全主義を武器に上級幹部にのし上がった男、イスカス。アルドとは同期入社ではじめは交流もそこそこあったが、なにを考えているのかわからない親しみにくさはいかんともしがたかった。言葉巧みで仕事もでき、上司にも女性職員にも人気がある。だがアルドには「人を見下している」ように感じられてならないのだ。
 友人をよそおって接してくる甘い仮面の下、そこからにじみ出る狡猾な本性は、はなからアルドをライバル視していなかった。彼が本社付になったとき、昇進を越されたという悔しさよりも、これで距離をおけるとほっとするほうが勝った。
 そのイスカスが13ラボラトリオに興味をもったのはいやな兆候だった。
 冷静沈着な人間ほど激怒させたら恐ろしいことになる。不要と判断したものに致死薬をインジェクションすることくらい、イスカスは平然とやってのける。あるいは最初からそれが目的ではるばるテキサスくんだりまでやってきたのかもしれない。
 なかなか行動をおこさないイスカス部長の真意をさぐりつつ、サーティーンの安定を図る。副作用のオンパレードに苦しむサーティーンをイスカスに目撃されたのは痛恨だった。限界に近い多剤併用(カクテル)の実態を一瞥して、イスカスは侮辱ぎみに笑っただけだった。
 単なる監視か、それとも抹殺が視野に含まれているのか。マウスが健康体でないのは上とて百も承知のはず。クリーンルームの事故をとやかくいうのなら、あんなものは外野の落ち度だ。しかも損害を最小限に食いとめたのは、医療スタッフの機転で急きょビニールカーテンを張ったからだ。運悪く肺炎を発症したマウスも、すでに回復傾向にある。前回のカンファレンスよりも悲観的な材料はどこをさがしても見あたらない。
 わずかなミスでも、たとえそれが門外の失態であったとしても、責任をとるのは13ラボラトリオというわけか。
 理由もなく特定のラボラトリオだけに幹部が派遣されてくるわけがない。しかしグレアム・クレイ博士に経緯を訊ねるのは躊躇された。それこそ出過ぎた真似だ。
 忍耐を試されているような気がする。幸い、イスカス部長は別棟に設けられた自室にいることがほとんどで、用がなければラボには姿を現さない。もっとも、マウスの様子を見るだけならば監視カメラで事足りる。
 連日のデスクワーク。特別な指示を下すでもなく、アルドの定時報告にもきちんと目を通す。彼らしくない静けさが、いっそ不気味だった。
 何を企んでいる、イスカス。
 思考を遮るように、視界の端をバスクが横切った。薄汚い作業着でラボをうろつくなとあれほど言ったのに、人の話を聞かない男だ。エアシャワーも規定どおりに浴びているのかどうか。
 いっそのこと、外にある生体認証からやつのデータを末梢してやろうか。その程度の権力行使なら胸も痛まない。
 事故が起きたのは十日ほど前だった。実験体のケージに雑菌が混入したのだ。
 テキサス州フォートワースに移設した13ラボラトリオは、ハルモニア製薬フォートワース研究所の広大な敷地のちょうど中央に位置する一見なんの変哲もない一棟であるが、内部は奇妙な密室構造となっていた。すなわち、マウスの檻だ。その実態は外界と隔絶されたスーパークリーンルーム。清浄度、温度、湿度、気圧、電磁波、浮遊微生物――考えうるすべての環境が徹底した管理のもとに置かれ、それらを制御するコンピュータは万が一に備え、複数準備された。13ラボラトリオに、回線を利用した外部からのアクセスはいっさいできない。プエルトリコ研究所がハッカーに侵害された過去の経験をもとに、抜本策を講じたためである。
 セキュリティと同等のレベルで、環境設計も万全のはずだった。少なくともプロジェクトに直接影響するほどの事故は暴動をのぞけば今回がはじめてで、調査班が設計段階でのミスと結論づけてようやく、13ラボラトリオの室長であるアルドは肩身の狭い思いから脱却できたのだ。
 失態を犯した空調設備はエアフィルタだけでなく、装置そのものも交換する必要があった。13ラボラトリオの内気圧は外よりも若干高めの陽圧状態に維持されるはずが、それも大幅に狂っていた。
 設備のすみやかな改善という本社からの指示に従い、フォートワース中央管理センターは急激に忙しくなった。工事のあいだ、マウスを別の場所に移すことはできない。細心の注意を払って細菌感染から守るのはドクターチームの仕事だ。
 しかし、悪い予感は往々にして現実となる。
 一度めの事故は設計ミスとしても、二度めのそれはあきらかに人為的ミスであった。念のためにと用意された簡易の無菌テントを、技術畑の連中はこともあろうに過信してしまったのだ。
 設備はアルドの責任の範疇ではない。研究員は成果をあげさえすればよく、施設の管理、警備、福利厚生など間接的な業務のいっさいがっさいは専門のセクションがその役割を担う体制になっている。
 プロジェクトはいついかなる場合でも最重要事項であるから、異なるセクションへの配慮は免除されているも同然。ラボラトリオの医療スタッフは全米に数万人いるハルモニア製薬社員のなかから厳選されたエリートたちで、恐るべき守秘義務とひきかえに、桁はずれの給与と特別の待遇を手に入れる。アルドもキャリアのひとりだ。その気になれば意にそぐわないノンキャリア、たとえば無能な設備担当のひとりやふたり、後腐れなく更迭できる。
 見逃してやっているのは、単純に時間の無駄だから。イスカスにとっての自分もそうなのだろうか、と思うとやりきれない気持ちになった。
 プロジェクトを終わらせたくない。イスカスが無駄だからもう手を退けと口にしても、はいと頷くことなどできるわけがない。たとえヒクサク会長の意向でもだ。生命倫理を唱える愚か者どもに秘密を暴かれて責められるならばまだしも、内部の決定で不本意な中断を余儀なくされるなどと、いかに冗談でも笑えない。そんなことは容認できない。
 守秘義務はなんのためにあるのか。ハルモニア製薬のアキレス腱(脆弱な部分)を公にしないためだ。いまはまだ神の手の足がかりをつかんだにすぎなくとも、いずれ世界はまちがいなく、ハルモニア製薬を賞賛するようになる。その日のために。
 単純明快だ。プロジェクトは、滅びゆく人類を救う最後のチャンスではないか。少なくともアルドはその理論を微塵も疑っていない。
 イスカスが無駄だというのなら、アルドがドクトル・クレイを説得するまでのこと。クレイ博士はナンバー13に好意的である。振り向かせる自信はある。
 いずれにせよ、ナンバー13に関して結論を出すにはまだ時期尚早なのだ。いかにイスカスといえども、マウスの生殺与奪までは権を持つまい。プレッシャーを与えるくらいが関の山。あいにくだがこちらも忍ぶことには慣れている。
 イスカス。あの男は、どこかに亀裂が生じるのを待っている。そういう気がした。
 あわてて乗せられては向こうの思う壺である。まずはいまいましい設備部門も含め、すべてのセクションを監視することが急務となるだろう。とるに足らぬ小さなほころびを見つけたら最後、悪魔は歓喜の咆哮とともにそれを引き裂くだろうから。彼はインビジブル・ハンド・プロジェクトを失敗させたくてしかたがないのだ。他人の創造したものをことごとく破壊したいのだ。
 プエルトリコに集約する二十七個のラボが全米に分散されたので、イスカスはおそらく、もっとも潰し甲斐のある13ラボラトリオに最初の照準をあわせたのだ。あるいはアルドが室長を務めていたからかもしれない。同期の男に対する嗜虐心にほくそ笑む――まったく彼の考えそうなことだ。
 アルド・リンカーンウッド医師は、13ラボラトリオ研究チームの若きリーダーであった。チーム内においては最年少。ほかのラボと比較しても異例の大抜擢といってよかった。
 この人事はイスカスにとってどんなにか不快であったろう。出し抜いたと思った男が、いつのまにか後ろにぴったりとついてくる。しかも最高責任者であるグレアム・クレイまでが背後の男を称賛する始末。13ラボラトリオのスコアが加速度的に伸びていくにつれ、アルドの位置は確固たるものになり、憎しみは頂点に達したにちがいない。イスカスでさえ所有権のないマウスを、アルドは手に入れたも同然で、ひどい嫉妬心を燃やしたのは想像に難くない。
 断末魔の扇風機よろしく、ファンが引きつった音をたてた。わずかに、機械油の揮発した臭いが鼻をつく。
「暑い」
 わざと聞こえるようにアルドは吐き捨てた。フロア環境は季節に関係なくつねに一定を保っているはずなのに、ふだんにもまして不快感を覚えるのは気のせいではない。気温か、湿度か、あるいはその両方が規定の範囲内ではないのは明白だ。
 この期に及んで不具合が発覚しようものなら、設備担当は無条件更迭をまぬがれまい。三度めはさすがに訓戒で済まされるはずもなく、さしものアルドも弁護できかねる。ラボラトリオ内部に深く関わった者をハルモニアが安易に放逐するとも考えられない。口封じの手段を想像しただけでアルドは胸が悪くなった。
 処断するのはクレイ博士ら最高幹部であって、自分が直接関与する必要はない。だからよけいなことは考えずともよいのだと己に言い聞かせるのだが、中間にイスカスが居ることを思うと、際限なく滅入ってくる。上に送られる彼の報告書に、自分はどのように書かれているのだろう。余計なお世話だと笑って引き裂いてやれたらどんなに胸のすくことか。
 バスクはどこかに消えて戻ってこない。中央管理センターで油を売っているのなら怒鳴りこみにいってやろうかと席を立ちかけたが、そのとたんに眠っているサーティーンがわずかに身じろいだ。
 時計を見る。そろそろ三時間。いいかげん目を覚ますころだろう。保護者がいないことがわかるとこの子はパニックをおこす。
 アルドは神経をとがらせて、腹いせに、シュレッダーにかけられる予定のゴミ袋を蹴っ飛ばした。
 なぜ自分が、中央管理センターの尻ぬぐいまでしなければならないのか。どれだけ怠慢を指摘してやればあの阿呆どもは自覚するのだ。バスクのしでかしたミスは、不手際などではない。マウスの生命を脅かしたのだ。まさしく粛正に値する致命的失態。
 ハルモニア製薬はマフィアとつながっている。バスクにもうすこし認識力があったら、とうに尻尾を丸めて命乞いをしているころだ。よっぽどの大物か、大馬鹿者か。
「……う、ん……」
 寝ぼけた声はあげるが、まだ目はひらかない。薬が完全に切れていないのだろう。ひさしぶりのまどろみのなかで、どんな夢を見ていることやら。
 忘れもしない。悪夢とはああいうことをいうのだ。ソファで仮眠しているところをたたき起こされ、三十九度の熱をだしたマウスを目の前にしてアルドは動転してしまった。いくら免疫力が弱まっているとはいえ、まさか簡易無菌室の中で細菌感染するとは思わなかったのだ。
 聴診器をあてると胸に異音を感知した。上気道が炎症を起こしている。肺炎になったら厄介だ。
 アルドは額にじっとりとにじむ汗を袖でぬぐった。空調がおかしいと気づいたのは、まさしくその時だ。
 音声通話をフルオープンで接続するやいなや、アルドは怒鳴った。
「だれが空気浄化をストップしていいといった!」
「あー申し訳ありません。夜間工事の旨はお伝えしたはずですが。お騒がせしてすみませんねえ」
 間の抜けたバスクの声が返ってきた。アルドは指をきつく握りしめて、わなわなと震えた。
 二の句が継げないでいるうちに、サーティーンが激しく咳きこんだ。
「苦しいか。気づかずにすまなかった。すぐに楽にしてやるから……」
 ヘボの叱咤は後回しだ。アルドはその日からかかりきりで治療を試みたが、発症を抑えることはできなかった。
 胸部X線で映しだされた肺は真っ白のもやでおおわれ、咳は日に日に激しさを増した。眠らせることも食事をさせることもできない。痰を吸引すると痛むらしく、身をよじって嫌がり、終いには躯を猫のように丸めて接触されるのを拒否しはじめた。
 輸液の針をわめきながら引っこ抜くので、そのたびにルートを取りなおす。熱で錯乱しているのかもしれなかった。
 バスクは神妙な顔で二度ほど様子をうかがいに来たが、アルドは無視した。弁解に構っている暇などない。
 体力があまり保たないと判断したアルドは、迷わずに酸素吸入を指示した。それまでよっぽど苦しかったのか、装着後は少しおとなしくなって、上を向いてほんの一時間ほど眠った。
 問題は薬である。抗生物質を投与するためには常用している薬を一時中断する必要がある。だがその選択はためらわれた。一度やめてしまったら薬は耐性ができて効きづらくなるからだ。
 精神的な病は改善傾向を見せていたけれど、それも投薬に支えられてのこと。一方を優先すれば、もう一方が後退する。せっかく会話ができるところまで回復していたのに、これを代償にしたら次に打つ手を断たれることになる。
 イスカスは助言しないばかりか、アルドの手腕を拝ませてもらうとでも言いたげなそぶりで傍観に徹した。いつだったか、イスカスとバスクがコーヒーを手に談笑するのを目撃したことがある。グルじゃないのか、と訝しむほどの衝撃的な光景だった。
 後手に回る肺炎治療と、アルドのなかにむくむくとわき起こった疑惑。周囲がすべて敵に思えてしかたがなかった。
 大統領がウェストナイル熱に冒されても、アメリカではニュースにもならない。けれど、サーティーンは特別。合衆国の至宝たるマウスの生命を、ハルモニア製薬は社運を賭けて守るはずだ。アルドはそう信じていた。だが――足元が大きく揺らぎはじめる。
 脳症を起こす危険性があるのに、本社はなにも言ってこない。そういえば、カリキュラムの遅延も以前に比べてとやかく言われなくなっていた。すべての投資が灰燼に帰することを、アルドが恐れるほどには本社は重要視していないのかもしれなかった。
 なにかがおかしい。二十七個のラボラトリオを全米に分散したのも、ひょっとしたらなにか別の理由があるのではないか。
 ひとつの仮定はあったが、アルドはそれを認めたくなかった。サーティーンは世界をパラダイムシフトする。クレイが断言した未来を、否定したくはなかった。
 あどけない寝顔をそっとのぞきこむ。もう平熱といってもいいくらいで、呼吸も苦しそうな感じではない。輸液の管につながれ、安定したリズムで静かにいびきをかいている。
「ごめんね」
 やわらかい髪の毛に指をつっこんで、くしゃっとかきまわす。
 すでに幾たびも死の淵で足をすべらせながら、闇の王に愛されなかった命。彼の王、ムエルト(死神)の名を承けた、小さな小さな、マウスの仔。
 生と死の瀬戸際で、この子は発狂するほど怖い思いをしたのだ。生々しい記憶も癒えぬうちに、肺炎などで苦しませたくなかった。
 免疫力のないサーティーンが責められるべきではない。すべてが管理を怠った側の落ち度だ。
「ぼくは負けはしない。だけど……守ってあげられなかったら……ごめんね」
 ほとんどささやきに近い声で、アルドは語りかけた。
 わかっている。いつまでもラッキーは続かない。サーティーンが神の仔と称賛されたのはほんの二年のあいだだけ。現在、ハルモニア内部には、サーティーンの存在を疎ましく思うグループがある。イスカスもそこに属していることは明白だ。
 過去にいちど、サーティーンの廃棄処分がほぼ決定的になったことがある。フォートワースのラボがまだ建築中だったときの話だ。
 きっかけはプエルトリコの暴動だった。銃撃戦を間近で目撃したことで精神に異常をきたしはじめ、数ヶ月後には13ラボラトリオのスコアがカウント不可能なまでに落ちこんだ。まさに天国から地獄への墜落。サーティーン自身もすっかり変わってしまった。
 あれほど聡明だった子なのに、話すことがまず支離滅裂になった。黙りこくっていたかと思えば、堰を切ったように喋りはじめる。しかし内容は曖昧で、意味不明。おまけにろれつも回っていない。会話が成りたたない、ラボラトリオのだれもがそう思った。
 スタッフが相手にしなくなると、やがてストレスからか食事をもどすようになり、そのうち食べ物は一切受けつけなくなった。そのころからサーティーンは他人との接触をことごとく拒絶しはじめた。
 顕著になったのが自傷行為。あまりにも頻繁なために、やむなく身体拘束の措置がとられた。己を傷つけられるものならばグラスの破片でもなんでも手にいれようとするからだ。
 手足の自由を奪われても、マウスは暴れるのをやめない。それどころかますます酷くなる一方。拘束帯がきつく食いこみ、シーツを血だらけにしようとも意に介さない。
 ストレスにしては、度が過ぎていた。根治不可能な病巣をアルドも確信せざるをえなくなった。
 それからは日々が絶望との闘いであった。魂を引き裂くような絶叫が、昼夜を問わず13ラボラトリオに響きわたっていた。
 舌を噛みきらせないために、発声を制御する器具を口に入れた。マウスは声にならない声をあげて泣いた。睡眠導入剤で可能な限り眠らせる。睡眠中でもちょっとした物音に過敏に反応し、全身をガクガクと痙攣させ、過呼吸に陥る。
 抜きんでて優秀なマウスだっただけに、サーティーンの豹変ぶりは研究者たちを落胆させた。
 ナンバー”13”の処遇について、深刻なカンファレンスが繰り返された。悲観論が声高に語られる席上で、執刀医であるグレアム・クレイだけは寡黙を貫いていたが、アルドはその口から擁護の弁を引き出すことに成功しなかった。
 暴動の直後、ナンバー12が突如として離脱した。セラフィムに異変が起こったのだ。拒絶反応と思われるが、原因は不明である。
 定着したセラフィムでも気まぐれを起こすことはある。13も同じなのではないかという見解が圧倒的多数を占めた。
 ナンバー12の脳組織は摘出されて、現在もラボで生き長らえている。次の検体が見つかれば再移植もおそらく可能だ。人工ニューロン『セラフィム』は凍結状態でも問題なく保管できることが12番めのケースで証明されている。なので13も――という展開ははじめから予想されたことだった。
 アルドはサーティーンが別のだれかに変わることなど認めたくなかったので、統括責任者のクレイ博士が最後に発したひと言に思わず涙をこぼしそうになった。
「僻目かもしれないが、あれ以上の検体はいないと、わたしは思うね」
 だが執刀医の私見はあえなく聞き流された。このときはじめて、組織という巨大悪の恐ろしさをアルドはまのあたりにしたのだ。
「発言はもちろん結構ですが、研究員の本分をわきまえてくれることを期待していますよ。リンカーンウッドくん」
 席を同じくしてからアルドに視線を向けていた男の、驕慢な薄ら笑い。イスカス・オリヴィエ。
 会議のイニシアチブを取るのはグレアム・クレイと踏んでいたら、あながちそうでもない。クレイ派が第一勢力であるのはアルドの認識どおりだが、リーダー不在の第二勢力が意外なほど拮抗している。いずれにも属さない第三勢力――キャスティングポートを握っているのはおそらくはイスカスだ。
 背筋が寒くなった。ラボラトリオでサーティーンにかまけているあいだに、この企業はどうなってしまったのだ?
「13ラボラトリオの室長から意見が聞かれないようですので、わたしから。マウスの知的財産権は当社にある、これはみなさんご承知のことと思います。当然のことながら、判断には私情を交えない、客観性が問われます。非常に残念なことですが、報告を聞く限りでは13ラボラトリオにこれ以上の成果を期待することは過酷に過ぎるかと。ナンバー13が現在のままで妥当かどうか、早急な検査を実施することを、ここに提案します」
 満場一致。異論を唱えるかわりにアルドはイスカスをにらみつけた。
 ”13”の移植をシミュレートするために、治療及びカリキュラムを全中断して、検査スケジュールを組みこむ。あまりにも迅速な審判に、作為を感じずにいられない。
 後日、検査内容を確認したアルドは想像を絶する暴挙にしばし言葉を失った。
 いったい連中は、サーティーンを生かそうとしているのか、殺そうとしているのか。これでは客観的を免罪符に拷問を加えるようなものではないか。
 哀れなサーティーンは、つまらない派閥争いの犠牲になるのだろうか。だれもサーティーンの本当の価値を認めようとしない。サーティーンは世界をパラダイムシフトする――いまは通過地点にすぎない。見守ることが重要なのだ。クレイ博士は知っている。なのになぜ、なにも言わない?
 アルドはなにもできない無力感に唇を噛んだ。
 検査とはだれが見ても体裁で、開頭剖検はそのまま摘出に移行することが目に見えていた。反(アンチ)クレイで固められている手術室にサーティーンの味方がいるはずもない。これでは実質的な死刑宣告である。
 決定は覆らない。顔も知らない医師団が13ラボラトリオに乗りこんでくるのを、指をくわえて見ているしかない。
 賢いサーティーンは、研究者たちが自分を見限ろうとしていることをすぐに察した。
 サーティーンは泣きわめいた。『なんでもいうことをきくから殺さないで』 子どものように、マウスは叫んだ。
 痛ましくて、アルドは目を伏せた。
 サーティーン。
 マウスといえども、高度の思考能力を持った、ヒト以上の生き物。耳もとで決定事項を冷酷に告げられて、恐怖を覚えないわけがなかろう。
「いやだ、いやだ! たすけて」
 ぼくにはもうどうすることもできない。慈しんだマウス。手を伸ばせばまだ救えるかもしれない。けれど、身体が動かない。思考がさだまらない。
「たすけて、ドクトル、死にたくない、ころさないで」
 耐えられなかった。後悔することはわかっていたのに、耳をふさいだ。
 催眠導入の薬液が注入される。
 ごめんなさい。ごめんなさい。サーティーンはうわごとのように繰り返し、アルドの名を呼んで、最後になるかもしれない眠りにおちた。
 だが彼はこんな土壇場で――またもや闇の王に見離されてしまった。
 執刀の手が止まった。医師たちは絶句して、その信じられぬ光景に見とれた。
「組織剥離は中止して、すみやかに縫合に移る――」
 立っていられず、壁にもたれたアルドの背をだれかが叩いた。
「驚いたね。”ムエルト”はその子以外を認めないと、そういうことか。ハハハ」
「イスカス部長……」
「どうやら、飼育するしか手はなさそうだ。あれを見たか。まるで癌細胞だな。熾天使さまの趣味はわからんよ。神経症の死に損ないの、どこがいいんだろうね」
「言葉を選んでください」
「ああ、悪かった。きみにとっては愛すべきマウスだったな。……ふむ、顔色が悪い。リンカーンウッドくん、少し休むといいよ。ああ、寝ていたところで13ラボラトリオを追い出したりはしないから」
「ぼくをバカにしているのか、イスカス」
「とんでもない。友だちじゃないか、アルド」
 腕に回された手を振り払って、アルドは手術室を出た。横たわるサーティーンを見ることはできなかった。
 摘出は不可能だった。セラフィムは『まるで癌細胞のように』サーティーンの脳内に癒着して、一部は末端組織まで完全に支配していた。
 分離できない。すなわちそれは、サーティーンの生を保証する朗報であった。だが、とアルドは思う。彼自身にとってはどうなのだろう。死にたくない、生きたいとサーティーンは願ったけれど、老化することなく生かされるのは地獄ではないのか。
 ハルモニア製薬はサーティーンを決して手放すまい。セラフィムはわずかに二十七。発見者亡きいまとなっては、ひとつひとつが貴重なサンプルだ。サーティーンも他の例にもれず、ラボラトリオに隔離されて生涯を終える。
「……終えられるならな」
 アルドは己のつぶやきに苦笑した。終えさせてあげたかった――ふいに頭をよぎった思いは、すぐに忘れた。
 イスカスが言ったとおり、人事異動の内示でアルドの名はフォートワースの欄に記載された。13ラボラトリオの専属は変わりなしで、室長の肩書きも引き継いだ。少し上に、イスカスの名があった。
「サーティーンにはきみへの強い依存が認められるね。じつに興味深い」
「……そうでしょうか」
「ぼくもフォートワースで仕事ができて嬉しいよ」
 狐の顔。適当にあしらわないと反吐がでる。下世話な噂でも聞いたのだろう。
 アルドはスタッフの目の前で、公然とサーティーンにキスをしたことがある。ふざけたわけでも、気まぐれでもない。サーティーンを愛している自分を自覚したからだ。
 公私混同なら責められても構わない。事実そうなのだから。セックスをしたいと思ったことも、いまならば恥じらわない。行動に移していないだけで、願いはいつでも揺らがない。他人に隠すつもりもない。
 クレイ博士は咎めなかった。サーティーンを連れて合衆国へ帰るとき、アルドはクレイに己の抱く切なる想いを告白したのだ。
「知っていた」
 意外すぎる反応に、アルドは少しだけ我に返って顔を赤らめた。
 クレイは回転椅子に深く腰を下ろして、顎髭を撫でながらクッと笑った。けして嫌味な笑いではなかった。
「こうなることは、すべて予測の上だよ。メディコ・アルド」
「では、博士はすべて知って……その、サーティーンのことも」
「サーティーンのことで、わたしの知らないことがあるはずがない。連中に一泡吹かせるのは、じつに愉快だった。サーティーンは痛い思いをしたが……これで少しはおとなしくなってくれれば、一石二鳥というわけだな」
「人の悪い。心臓が止まるかと思いましたよ、ぼくは」
「お陰でフォートワース行きのチケットを渡せたじゃないか。サーティーンのことはきみにまかせる。根に持っている連中がマウスに危害を加えようとするかもしれん。くれぐれも気を緩めるな」
 暗にイスカスのことを指しているのか、と思ったが口にはしなかった。
「はい。ありがとうございました、ミスター・クレイ。それから……すみませんでした」
「なにがだね」
 色素の薄い銀色の瞳が、アルドを向いた。
「その……サーティーンによけいな感情を抱いてしまったことです」
「どうして謝るのだ。きみの感情には、ひとつもおかしいところなどないではないか」
「おかしいですよ」とアルドは口をとがらせた。「だって、マウスですよ。しかも……オスです」
「きみの倫理では、オスはオスに恋愛してはいけないのかね」
 アルドは今度こそ真剣に赤くなった。こちらはいたって真面目なのだが、どうもからかわれているような気がする。
「同性間で恋愛感情があるわけがないでしょう」
「では、きみのそれは恋愛感情ではないと? まあ、発情という選択肢もあるにはあるが……」
「ストップ、そういう話をしているのではありません」
「やれやれ。きみは、否定してばかりだな。ひょっとして、さっきの暴露も疑ってあげたほうが親切だったかね?」
「ドクトル・クレイ! あなたって人は」
 クレイは笑った。その柔和な表情はまるで父親のようだった。
 クレイ博士は理解者だ――アルドは確信した。いっしょになって笑ったことで、胸のつかえがスッと抜け落ちたような気がした。
 13ラボラトリオの引っ越しはひと仕事だった。最大の難関は、サーティーンを移送する手段、それに尽きた。
 サーティーンがまだそれなりに元気だったころは、自由に歩かせることはできないが、座席に座らせてちょっとした旅行気分を体験させてやるのもよかろうとアルドは考えていた。眼下に雄大な景色でも見たら気持ちも少しは晴れるだろうと。しかしあんなことがあっただけに、サーティーンはひどく混乱していた。食事もまだ受けつけないし、触れられることを異様に怖がる。無理もない。殺されかけたのだ。
 結局、サーティーンは眠らせてテキサスに運んだ。もちろん同意の上であったので、目を覚ましたサーティーンは大きなパニックをおこすでもなく、ぼんやりと新しいベッドにもぐりこんだ。
 本社からカリキュラム再開の指示はなく、しばらくのあいだは経過観察に費やしていればよかった。結果を出せと急かされる生活に慣れていただけに、少々気抜けした。衰弱したサーティーンを酷使するのはしのびないので、ありがたい配慮ではある。それとも13ラボラトリオの重要度が一気に格下げになったか。それだったら皮肉なことだが、生かすことさえできればなにも優等生である必要はないのだとアルドは割り切ることにした。
 ひと月ほど遅れてイスカス部長が赴任してくる。実質的にはアルドの上司になるので、その後はマイペースにというわけにもいくまい。監視の手薄なうちにサーティーンの状態を少しでもよくしようと、投薬スケジュールの見なおしに没頭した。
 過剰投与は致し方ない。薬漬けと一笑されてもたかがそこまでのこと。プラシーボ効果(小麦粉も薬と信じて飲めば効くというあの理屈)も期待できそうだったが、どんな形でもサーティーンを騙すのは卑怯なように思われた。
 サーティーンのベッドが見える位置にデスクを置き、ひとときも目を離さぬようにする。スタッフはプエルトリコ時代とほぼ同じ気心の知れたメンバーだったので、よけいな気を遣うこともなかった。監視カメラの映像は本社にも送られているけれど、眺めているほどみな暇でもあるまい。
 席を離れるのは食事の時だけ。ラボ内での飲食は厳禁なので、こればかりはしかたがない。それでもサーティーンの眠っている時間以外は自戒する。いかなる理由をもってしても、アルドがいないとサーティーンはだめなのだ。暴れ、自傷行動をおこし、手がつけられなくなる。そうなったらもとの黙阿弥である。
 ソファで寝起きするのも苦とは思わない。うとうとして足元の温かさに気がつくと、サーティーンがそこにからみついてすやすやと眠っているのだからなおさらだ。まるで甘えん坊の猫。
 可愛い。アルドは微笑った。髪の生え際をそっと撫でる。ガーゼのパジャマに鼻から下がもぐりこんで口元は見えない。まるで自分の匂いに安堵するようなやわらかな表情。
 手術室で無惨に切られた髪もまた伸びてきた。不思議なもので、ある一定の長さになるとそこから先は成長しないのだ。猫っ毛で放っておくとぼさぼさになるので、揃える程度にときどきカットしてやる。切り落とした髪の一本一本も貴重なサンプルになる。サーティーンのものは、たとえ汚物であろうとそのまま捨てることは禁じている。
 大切なマウス。失敗作だなんて、だれがそんな無粋なことを言いだしたのだろう。あれだけヒートアップしていたくせに、ちょっと弱音を吐いただけで不適格だの処分だのと。これほど美しいマウスの、いったいどこを見ているのだ?
 イスカスが来るまで、13ラボラトリオは平穏だった。サーティーンはアルドがそばを離れないことを知ると、以前のように暴れることはなくなった。
 アルドはサーティーンに、『自由』を与えはじめた。もちろん制限つきではあるが、それでもマウスはこのプレゼントに夢中になった。一時期に比べると格段に落ちていた学習意欲も、それ以上の鮮烈な刺激に触発されたようで、じょじょに上向きになってきた。
 好きな本を読む自由、DVDを観る自由、コンピュータ・ゲームで遊ぶ自由、洗面や入浴など身のまわりのことをさせてもらえる自由、食事を選択する自由――どれもこれも子どもだましではあるけれど、サーティーンにとってはじゅうぶんすぎるくらい。それは彼がハルモニア製薬の所有物になってから、はじめて許された自由だったのだから。
 サーティーンは少しずつ笑顔を見せるようになった。ラボのスタッフとのあいだにはあいかわらず見えない壁を築いているようだったけれど、アルドだけは特別で、はにかみながらもよく笑った。話しかけられても表情ひとつ変えなかった子が、イスカス部長がやってきた日に自分から握手を求めたのだから驚きだった。
「どんな魔法をつかったんだい、アルド」
 あのイスカスが苦笑していた。それからかの上司はメディスン・ケースに小分けされている大量の向精神薬を見て嘲笑い、サーティーンの頭をぽんぽんと叩いた。
「わたしはきみに期待しているよ? サーティーン」
 どこか含みのある口調。いやな感じだった。
 いまになって思うと、イスカスの干渉はやはりよくない兆候だったのだ。ハルモニア製薬本社はサーティーンと13ラボラトリオをイスカスに一任し、急激に数値が突出しはじめた大アルカナ――コネチカット州スタンフォード、19ラボラトリオで行なわれている研究を『もっとも優先すべきプロジェクト』に変えた。イスカスの役割は単なる監視・報告のみにとどまらず、場合によっては13ラボラトリオ存続の是非をも彼は独断で決めることができる――そういうものだった。しかしそのときのアルドはそんな裏事情があることなど知るよしもなかったのである。

 13ラボラトリオにイスカスの影がちらつくようになって、わずかばかり先のこと。空調機が事故を起こす四日前だ。
 その日、アルドも予測していなかった驚くべき変化をサーティーンは示しはじめた。
 明け方。アルドは机に向かっていて、マウスの周囲に人はいなかった。ここのところタイムスケジュールどおりに眠ってくれるので、深夜もスタッフのだれかがつきっきりといったことはなくなっていた。
 プエルトリコのように、ポリソムノグラムも取っていない。現在は生活記録よりも生体サンプルのほうが重要なので、嫌がるのをむりやり計測器に縛りつけたりはしない。いずれ本社からの指示があれば再開はするが、脳波監視にあまりメリットがないのも事実だ。
 寝苦しいのか、サーティーンはしきりに寝返りをうった。
 腰を上げてベッドに近づき、そっと首筋に触れてみたが、熱はないし汗もそれほどかいていない。怖い夢でも見ているのかもしれない。
 それからサーティーンはたっぷり十分間もうなされつづけた。
「サーティーン、どうしたの」
 見かねたアルドはマウスを揺り起こした。
「ぎゃあああ!」
 びっくりしたのはアルドのほうだった。この世のものとも思われない悲鳴が喉からほとばしり、サーティーンはがっと目をあけた。
 触れたのがアルドであると認識するまで、マウスの眼球移動は異常だった。焦点がなかなかさだまらない。
「はっ、はっ、はっ……」
 胸が苦しいのか、胸元をわしづかみにして荒く呼吸した。少しして落ち着いてきたのだろう、枕がわりのタオルに顔を伏せて、背中を丸めた。
 小さな肩が哀れなほど震えていた。まるで冷凍庫に閉じこめられた仔鼠のようだった。
「だいじょうぶだよ」
 背中からそっと抱きしめる。サーティーンはびくりと硬直した。
「ドク、トル……」
「ぼくはちゃんといるよ。どこにもいかないから……」
 言いながらアルドの胸を罪悪感がよぎる。あのとき、13ラボラトリオの手術室で、アルドはサーティーンの悲鳴を受けとめなかった。目をそむけ、耳をふさいで、マウスの存在を己から追い出した。
『たすけて、ドクトル、死にたくない、ころさないで』
 振り切ったはずの、あの声がきこえる。見殺しにしたはずの――
「ドクトル、ドクトル……」
 嗚咽。泣いているのは現実のサーティーンだ。しっかりと形のある、腕のなかの熱。
 せわしない足音がした。異変を感じた夜勤のスタッフがふたり、様子を見にきたのである。
「リンカーンウッド先生、なにか……」
「夢を見てすこし怯えているだけだ。下がってくれていいよ」
「睡眠薬が必要ですか」
「だいじょうぶだろう。ああ……イスカス部長には報告しないでくれ。些細なことだから」
 去っていく気配に、サーティーンはようやく顔をあげた。目の周囲が真っ赤だ。
「水、飲むかな」
「……うん」
 ベッドに座らせて、水差しを手にする。プラスチックのコップに水を満たして手渡してやると、サーティーンはごくごくと飲みほした。
「夢でも見ていた?」
「……いいえ」
「うなされていたよ」
「わからない。忘れました」
「泣いたのは?」
「……わからない。わかりません」
 他人行儀なやりとりのあいだに、サーティーンの緊張が少しずつ緩んでいった。
 下からにらみつけるような褐色の眼は、あまり渇いてもいなかった。泣いたのを自覚しているから、気まずいのだろう。この子はあんがい負けず嫌いなところがある。しかし意地を張るのは、精神が健全な証拠だ。
「さて、まだ四時を過ぎたばかりなんだが……もう少し、眠れるかな」
 サーティーンは答えず、うつむいた。小さく首を横に振る。
「ひとりじゃいやです」
 蚊の鳴くような声で訴える。
「ぼくはデスクで仕事をしているよ。いなくなったりしないから、心配しないで」
「そういうことじゃなくて」
 口調に苛だちが混じった。
「いっしょに……いてください」
 胸が疼いた。アルドは無意識にサーティーンの手を握っていた。
「サーティーン?」
「さびしい」 言葉は小さくこぼれた。びくびくと震えながら、アルドの手に。
 あたたかい。涙の粒だ。
 次の瞬間、アルドは思わぬサーティーンの行動に驚愕した。
 抱きしめられた。自分よりずっと小さい、痩せこけたマウスに。
 消毒薬に混じった甘い匂いに、アルドの脳が痺れた。
 ベッドに並んで腰掛けながら、サーティーンは発情期の猫がそうするように、白衣にぎゅうぎゅうと顔を擦りつけてきた。
 力はそれほど強くもないのだが、押し倒される。嬉しさよりも戸惑いが先にたって、不本意ではあったが、アルドは会話に逃げることにした。
「サーティーン、甘えん坊だね。添い寝をしてほしいの?」
 監視カメラがこちらを凝視している。あまり下手な行動には移せない。自分でもおかしくなるくらい意識が醒めていた。
 サーティーンにとっての『いっしょ』は、本能的な甘えの欲求である。マウスが恋愛感情を理解するのはもっと先の話。オスとメスを自然の摂理に基づいて交配させることはなかろうから、サーティーンは永久に恋愛など知ることはないかもしれない。
 愛していると告白しても、混乱させるだけ。サーティーンは可愛い。可愛いけれど――引き出しを持たないこの子に、ヒト特有の持ち物を収納することなどどだい無理なのである。
 寂しいのは、ぼくのほうだ。この愛は成就しない。はじめからわかっていたことだ。サーティーンはハルモニア製薬の所有物であって、自分の恋人ではない。
 キスは甘いけれど、虚しい。愛するほどに無益を思い知る。
「ドクトル」
 はっとした。サーティーンの顔がすぐそばにあった。
 あっと思ったときには唇が重なっていた。
 サーティーンはベッドに膝立ちして、アルドの頭を両手で挟みこんだ。
 さらにもういちど、噛みつくようなキス。
 唇に、頬に、首筋に、鼻の頭に。
 ハイ・スクールの生徒のような、ぎこちないキス。
 チュッと音がして、湿り気をおびた吐息が、耳朶をかすめる。
 首筋の毛がぞわりと逆立った。
 股間が熱くなり、アルドはあわてて腰の位置を変えた。
 監視カメラが見ている。もしかしたらイスカスが。しかしサーティーンはやめようとしない。まるで邪魔者に見せつけようとでもするように、担当医師にむしゃぶりつく。
 唇をのせるだけで奥を舐らないキスはじれったく、アルドを不安定にさせた。舌をからめて口蓋をつつくのを想像しただけで、体内に熱がこもってくる。
「ドクトル、気持ちいい?」
 ふいにサーティーンが訊いてきたので、アルドはあわてた。
「おれは、こうすると気持ちいい。ドクトルが前にしてくれたときも、気持ちよかった」
 キス? 訝って、アルドはふいに思い至った。
 参ったな。
 あれは、サーティーンが呼吸をやめようとしたからだ。アルドが手助けしてやらなければ、サーティーンは生きることをあきらめていたにちがいないから。
 人工呼吸による蘇生を施したあと、生きろ、生きてくれ、そう願いつつ口づけた。
 喪いたくなかった。その一心で、戻ってくれと懇願した。
 血の気のひいた唇、痙攣する喉、血管の浮き出た頸に。
 自分の命をくれてもいいから、生きろ。そして口づけた。
 彼は憶えていたのだ。死に瀕したその意識の下で――アルドが必死の思いで救命したことを、記憶していたのだ。
 腕の中のマウスが切ないほどに愛しくなり、アルドは華奢な身体をきつく抱きしめた。
 狂ったようにキスをする。
 舌を絡める。粘膜を味わう。どうにでもなれと思う。いますぐ飛んできてお前のくだらない理想をわめきちらすがいい、イスカス。
 サーティーンは抱擁をせがんできた。マウスが求めているものは容易に推測できる。疑似親子のハグ。両親の愛情も知らないサーティーンに、人の愛がわかるわけもないのだ。彼は肌が触れているだけで安心する。よしよしと抱かれ、その腕のなかで眠ることを渇望する。
 肌と肌はこんなにも密着しているのに、決定的な温度差がアルドを苦しめる。
 セックスしたい。いますぐ、パジャマを剥いで、全裸にして、いじらしいその下腹部に己を埋めたい。アルドの雄はもう張りつめている。ほんのわずかの刺激で爆発してしまいそうなくらいに。
 サーティーンにはアルドの考えていることなど想像もつかないだろう。キスと恋愛を結びつけることができないのと同様にだ。彼にとってセックスはオスとメスの生殖であって、それ以上の意味があるはずもない。マスターベーションは体液採取と同義語。感情がともなわなくてもできる。
 性知識は豊富なのに、肝心のところをまったく理解しない。それはサーティーンがヒトではなくてマウスだから。
 褐色の虹彩、年齢よりも幼く見える東洋的な顔立ち、小柄だが均整のとれた体躯。そして桁外れの頭脳。老化することのないニューロン、生かされる組織、神の手のつくりあげた奇蹟――
 アルドはサーティーンの男性性器を布越しに握ってみた。ゆるくではあるが、反応している。天使ではないのだからあたりまえだ。
 ぴしりと拒絶された。どうして、という顔をしている。
 陰茎や陰嚢に手で直接刺激を与えると、射精衝動が起きる。サーティーンも知っている事実。放出された精子は空気に触れるとすぐに死んでしまうが、液体窒素のなかで凍結し、遺伝子資源として保存することもできる。凍結精子を長期間保存するのにはリスクがともなうので、定期的に採取する。
 アルドがそこに触れるのは、検査スケジュールに組みこまれているときだけだ。監視カメラの見ている前で、強制的に射精させる。サーティーンはこの処置がなによりも嫌いで、終わったあとはいつも目にいっぱい悔し涙をためている。気持ちがいいくせに、意地を張って声もあげない。オーガズムの最中も、アルドのほうを見もしない。
 ペニスに触られるのは、サーティーンにとって陵辱と同じだ。愛しているから触れたい、その熱をたしかめたいとアルドが願っても、いままでがそうではなかったのだから、納得させるまでには相当な時間がかかるだろう。
 オス同士で生殖は、ふつう、しない。生物学的に不可能である。ゆえに哺乳類の本能は、その行為を異常と認識する。
 少年を犯したいと願う自分は狂っている。わかっているのに、たかぶった感情は言うことをきかない。もうどうにもならない。オスの本能が倫理を否定する。
 パジャマの下、白く引き締まった肌に触れたい。舌を這わせたい。指で愛撫したい。喘ぐ声にひたりながら、繊細な花芯を愛でたい。口腔に、含みたい。その奥に、己を入れたい。ひとつになりたい。そして――
 だが。
 粘膜は細菌の温床だ。体液から感染する危険も高い。
 唾液の交換だけでもハイリスクなのに、その体内に侵入するなどという行為がはたして許されるのか。
 無菌空間での隔離生活が長いサーティーンは、免疫力が極端に弱まっている。インフルエンザの蔓延するスクールにでも放りこんだら、まっ先に倒れるかもしれない。
 よもや自分はHIVに感染してはいないと思うが、検査をしたことがないのでリスクはゼロではない。いかなる考察をめぐらしても、セックスは危険すぎた。
「サーティーン」
 呼びかけると、マウスはにこりとした。局部に触ったことを咎めるつもりはないらしい。
「サーティーン、ぼくは……」
 アルドは逡巡して、ごくりと唾を呑みこんだ。そして、言う。「セックスしたい」
「えっ?」
 思ったとおり、サーティーンはぎょっとして身をすくませた。
 引っ込めようとした手は、一瞬のうちに囚らえられる。
「セックスしたい。だめかな」
「でも……」
「からかってるわけじゃない。本気で……きみとセックスしたい」
「なにをいってるんですか」
「わからない。自分でもわからないんだ。だけど、本心だ。……いやか」
 サーティーンの目はうろうろと泳いで、アルドの視線を巧みにかわした。
「同性愛者のセックスがどういうものか本で読んだことがあるだろう。いやか、いいのか、はっきりと答えてくれ」
 なんという言いぐさか。卑怯だ、ぼくは。
 アルドの自嘲にマウスは気づかない。
 責任転嫁されたとも知らず、サーティーンは困ったように拳を握りしめた。
 唇がかすかに動いた。『いやだ』――その言葉が紡がれるのを、アルドは待った。
 わずかな沈黙の、そのあと。
「……わかりません。おれも……ごめんなさい、わかりません」
 どんぐりのような色をした両の眼からぽたぽたとしずくが落ちた。やっと渇いたと思ったのに。降りやまない涙の雨。
 考えた。悩んだ。そして、それが精いっぱいだったのだろう。
 アルドはぼんやりとマウスを見た。重ねる手のぬくもりも、どこか遠い世界にあった。

 ベッド上安静の指示が解かれたとたん、マウスは待ってましたと言わんばかりに本棚の前を陣取った。ここはサーティーンの”書斎”だ。折り目ひとつない真新しい本や雑誌が整然と並べられている。
 カリキュラム用の書物ではない。ぜんぶサーティーン個人の持ち物だ。
 ざっと見渡しただけでは、オーナーの嗜好や趣味の傾向を推測することは容易でない。コレクションはあまりにも雑多で、一貫性がないように見えるのである。アートや写真集が若干多いかもしれない、と思う程度で。
 小説も好きだ。外の世界の絵空事を、夢中になって読みふけっている。
 マウスが檻の中からインターネットで本を注文する時代になってしまったよ、とアルドはことあるごとに苦笑した。アルドのアカウントを好き勝手に利用して、買い放題だからである。
 インターネットは情報漏洩の危険と切り離せないのでラボ内では慎重論も聞こえてくるが、個人所有のを単独で使用するぶんには問題はないとアルドは断言する。無線LANを傍受されても、重要なネットワークに侵入されるおそれは万に一つもない。アルドのパソコンがだめになるだけだ。
 それに、インターネットがないと本の補充が追いつかない。速読とまではいかないまでも、サーティーンの読書量はものすごいのだ。活字だらけの専門書でも、小一時間もあればひととおり読破してしまう。小説のほうが何度も読み返すので、比較的長持ちするらしい。
 届いた本を、梱包をといてはいというわけにはいかない。クリーンルームに物を持ち込むには、それはそれは面倒な手続きと処置が必要なのだ。思わぬところでアルドの仕事がひとつ増えてしまったが、サーティーンが喜ぶのを見るのはまんざらでもない気分だったのでよしとする。
 意外なところではイスカスが、プレゼントと称し、毎回十冊単位でマウスに本を買い与えるのだ。さすがに「who moved cheese?」は皮肉なんじゃないのかと思ったが、アルドの苛立ちをよそに、サーティーンはイスカスに対するバリアを少しずつ減らしていって、日常会話も交わすくらい仲が良くなってしまった。
 それにしても、とアルドは首をかしげる。
 知識のつめこみがそんなに面白いのだろうか。二年間のカリキュラムだけでじゅうぶんに足りているはずなのに。ゲームや映画にくらべたら、読書の比率が圧倒的に多いのが不思議だった。テレビはニュース以外ほとんど見向きもしない。
 なんのための知識なのだ? ラボがまだカリブの島国にあったとき、一日の休みもなく課される厳しいカリキュラムを『意味などないし、バカらしいもの』とサーティーンは断言していた。
 時を経て、考えが変わったとも思えない。その証拠に、読書中のサーティーンは不気味なほど無表情で、楽しんでいるという雰囲気はかけらもない。まるで記憶媒体がデータをコピーするように、ただ黙々と文字を目で追っている。
 なんのために。彼に答えなどあるのだろうか。そもそもその問いは正当なのだろうか。議論そのものが無意味なような、そんな気がしてくる。
 アルドは子どものとき、本の中の世界は絵空事だと信じて疑わなかった。部屋にある本はすべて、母が選んでわが子に買い与えたものだった。アルドはそのどれも好きではなかったし、面白くもないのに読むことを強要されるのも苦痛だった。しかしフリだけでも大事にしないと叱られる。これ以上うっとうしいものがあるだろうかと子ども心に思った。
 アルドはサーティーンに、ふと昔の自分を投影した。
 母が与えてくれるものには、意味がない。体裁は立派だけれども、薄っぺらで、バカらしい。ならばなんのために受けいれるのか。答えは簡単。単純明快。期待に応えるためだ。親の理想に近づくためだ。
 医者は学力だけでなく、人格もまた尊ばれる。すばらしい人格を形成するためには子どものころから本をたくさん読むのがいい。単純な母はそう考えた。彼女なりに一生懸命だった母をだれが責められよう。
 正しいか正しくないか、そんなことはどうでもいい。少なくともアルドの保護者にとってそれは真理だった。まちがっていないのだから、イヤだと断る理由もない。
 サーティーンにとって、知識とはなんだろう。どれだけ得ようとなんの役にもたちはしない。しかし我々は、サーティーンがヒトの能力の限界を超えて知識を吸収することを期待している。期待に応えられなければ、サーティーンは殺される。それが嘘や脅しではないことを、彼は肝に銘じている。
 ”なんでもいうことをきくから殺さないで”
 血を吐くような悲痛な叫びだった――あの子は死にたくなかったのだ。
 ”死にたくない、ころさないで”
 どんなに不幸でも、夢や希望が断たれても、それでも彼は生きたかったのだ。
(生きるためならば、なんでもする……か)
 マウスの気持ちが理解できるなどと口をすべらせたら、ここでは仕事がしづらくなる。自分にできるのはサーティーンの望むままに書物を買い与え、見守ることだ。
 そして、イスカスや反クレイ派が彼を傷つけようとするのを、阻止する。
 イスカスは味方をよそおってマウスの心に侵入し、サーティーンを無防備な状態にひん剥くつもりだ。そして手酷く裏切って、あの子の脆弱な精神を地に貶め、不要の烙印を押すにちがいない。
「……?」
 かすかにきこえた音のほうに、アルドは耳を傾けた。
 それは声だった。サーティーンの歌声だった。
 フォートワースに移ってから、サーティーンはときどき、歌を口ずさむようになった。それは賛美歌であったり、子ども向けアニメのテーマ曲であったり、その時によってまちまちだ。
 DVDの観賞を許可したことも関係しているかもしれない。サーティーンの両親も日曜礼拝にはかよっていただろうが、熱心な信者であるはずもなかった。そんな親が、わが子を金で売る親が――愛情すらも与えなかった親が、神を賛美する歌を教えるだろうか。考えられない。
 アルドは机に肘鉄をついて黙って聴いていたが、やがてこらえきれなくなり、ぷっとふきだした。よりにもよって、結婚式の歌だったからだ。
 祝福の歌なのに、歌声はちっとも楽しそうでない。言っては悪いが、凶暴なまでに辛気くさい。雰囲気はもののみごとにお葬式。
 ひょっとして機嫌が悪いのだろうか?と訝しむ。
 いよいよ読書に飽きたか、それとも歌うことで情緒の安定をはかっているか。そういえばこのまえのセサミストリートも強烈だった……とふたたび笑いがこみあげてきたその時。
 声がぷつりと途絶えた。
 サーティーンははじかれたように立ちあがった。足元にばさりと本が落ちる。
 そのまま微動だにしない。
「どうしたの?」
 返事はなかった。サーティーンはふたつ呼吸をしてから、ゆっくりとアルドを向いた。
 その唇から言葉らしきものがこぼれおちる。
「どうしたの?」
「……えっ」
 様子がおかしい。彼の顔は無表情で、その目はアルドを見ているようで見ていなかった。
「どうしたの、が、なに?」
「なにって、急に立ちあがるから」
「急に立ちあがるからが、なに?」
「……サーティーン」
「はい」
 返事はしたが、そこにも違和感があった。サーティーンはこんな幼稚な喋りかたはしない。まるで機械仕掛けの人形のような――
 精神病の兆候。ここのところ安定していると思っていたら。
 動悸で息苦しくなり、アルドは眉を寄せた。
 異変ははじめてではないが、これまでのいかなるケースともちがう感じだった。
 アルドは駆け寄って、マウスの腕をとった。細い腕は、小枝のように硬直していた。
「ひとりで歩けるか」
「ひとりで歩けるか……はい」
「ベッドに戻ろう」
「ベッドに戻ろう……」
 反芻して、サーティーンは「いや」と言った。
「どうして」
「ころすから」
 アルドはギクリとした。褐色の瞳が、鋭く動いた。
 射すくめられて、その意外な冷たさに戦慄する。
「ベッドで、殺す。くすり。あいつが」
「あいつ?」
「クレイ」と名を告げ、「みどりいろの」とつけ加える。
「みどり、緑色の医者、殺す。おやすみ」
 言っていることが支離滅裂だ。論理的思考ができていない。しかも気がつけば薄笑いを浮かべている。
「とにかく、少し落ちつこう」
「とにかく、少し落ちつこう、はわからない」
「サーティーン! なにを寝ぼけている」
「はい。サー、ティーン? なにを寝ぼけている」
 アルドは無視して、いちばん近くにいたスタッフを呼んだ。鎮静剤投与の指示をすると、非協力的な身体を長椅子までひきずって、座らせた。
「ぼくがわかるか」
 ゆっくりと確認するように、訊いてみる。
「ぼくがわかるか。わかるかは、ぼく」
「そうじゃなくて、ぼくの名前を言ってごらん」
「ぼくの名前は、ドクトル」
「そうだ。ぼくは、クレイ博士じゃない。だからきみを殺したりしないって、わかるだろう? ちょっと混乱しているだけだ。少し眠ったら、よくなるから……」
「クレイは、殺す」
「どうして、そう思うんだ?」
「どうしてそう思う、かは、イスカス先生がわかる」
 イスカス。
 何をした。サーティーンに近づいて、なにを吹き込んだ?
 スタッフがステンレスのトレイを手に走ってくる。その背後からイスカス。
 サーティーンの表情がスッと硬くなった。
 まずい、とアルドは直感的に思った。
 次に起こったできごとは一瞬だった。
 サーティーンの右手が鋭く飛んでトレイをはじき、注射器がコルクタイルの床に散らばった。
 電流が走ったように、医師はその場に倒れてうめき声をあげた。サーティーンは彼に触れていない。なのに見えない触手でひっぱたかれたように、ダメージを食らったのだ。
 呆然としていると、マウスの右手は隙だらけのアルドを捕らえた。その手はひやりと冷たく、どこか異質な感触があった。
 けして強くはない力で、だがあきらかな意思をもってサーティーンはアルドを引き寄せた。
 彼がなにをしようとしているのかを、アルドは察した。
 唇が重なってくる。
 やめろ。やめるんだ。イスカスが見ている。
 ドクン、と胸が鳴った。
 つかまれた手がおかしい。
 重力にも似た圧迫。そして苦痛。視界がぐらりと揺れる。
 呼吸が浅く、速くなる。
「そこまでだ。ラ・ムエルト」
 はるか遠くでイスカスの声がきこえたような気がした。

「ドクトル」
 唾液を絡ませながら、サーティーンは言った。
 マウスはなにひとつ身に纏っていなかった。白く、ほっそりとした肢体。
 クリーンルームの白い壁にとてもよく映える。
 清浄度、温度、湿度、気圧、電磁波、浮遊微生物――ありとあらゆる環境を徹底管理するのと同時に、内部の秘密を外に漏らさない、静かなる檻。
 ”バイオハザード”
 知らなかったのは13ラボラトリオのチームだけだ。グレアム・クレイ博士はアルドになにも言わなかった。体外の事象に危険な影響を及ぼす外因子、セラフィムの正体。
 世界を、生の概念そのものをパラダイムシフトするかもしれない、サーティーンの可能性と危険性を。
 13ラボラトリオはスケープゴートだった。グレアム・クレイはこれを待っていたのだ。
「パジャマを着なさい。もう済んだ。いくら暖かくても、そのままではまずい」
 サーティーンは華麗に無視して、一方的にキスをした。
「ドクトルは、殺さない?」
「そうだな」
「ドクトルは、ずっといっしょに、いる?」
「……ああ」
「どこにもいかない?」
 耳許でささやかれる問いかけにうなずく。アルドは恋人のように抱きしめられた。
 右手が触れてくる。意識野をさぐられる感じがした。
 あの子はいつ戻ってくるのだろう。これはサーティーンであって、サーティーンではない。
「ぼくは、どこにもいかない。どこにもいけないんだ」
 サーティーンの笑みが疎ましかった。あの子を返せと叫びたかった。
「ドクトル、愛してる。泣かないで」
 ずっと欲しかった言葉が、からみつく。
 キスも、セックスも、狂おしく、そして虚しい。
 愛している。だけどぼくはきみを憎む。ムエルト。
「歌を」とアルドは言った。「歌ってくれ」
「うた?」
「そうだ。賛美歌がいい。何番でも……知っているのでいい」
 サーティーンはわずかに勘違いしたらしく、子守歌、とつぶやいた。
 アルドは目を閉じた。
 眠りに、夢に沈ませてくれるならそれでもいい。最後にどうぞ、祝福の歌を。

end

インビジブル・ハンド番外編


初出 2007-08-07 改稿 2007-08-29