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ワンス・イン・ア・デケイド【後編】

 鉄人はかなり意外だったらしく、ころりとした目をぱちぱちさせて訊いた。
「なんでって、なんで」
 こちらが訊ねているのに、オウム返しである。
 しかもいまいましいことに、邪気がない。
 切り出した遙兵のほうが困惑を隠せなかった。ハルモニア製薬は鉄人の人生をメチャクチャにした。まさかそのことを水に流したというつもりでもなかろうが。
 当時の経営陣は残っていないにしても、企業責任を問う裁判は継続中であるし、鉄人には被害を訴える権利がある。きちんと段取りを踏めば表向きの賠償金くらいは支払ってもらえるだろう。当然そうしているものと思っていた遙兵は、ハルモニア製薬の関係者を友人関係であると言ってのける鉄人に微かな憤りすら覚えてしまった。
 いったい鉄人にとって、ハルモニア製薬とは何なのだろう。
 これまでのこともあわせ、きちんと確認しておきたかった。
 気まずさを救済したのは、まもなく上り電車がホームにはいるというアナウンスだった。
「アスタルエゴ(またね)、テッド」
「ノス・エンコントラレモス・アルグン・ディア(また会おうね)」
「バレ(ああ)」
 ラマダはボストン・バッグを肩にかけると立ちあがった。頭ひとつ分低い鉄人をぎゅっと抱きしめる。
「テッド……エスタ・ビエン(だいじょうぶ)?」
「バ・ビエン(へいき)。ノ・セ・プレオクーペ・ポル・ミ(心配しなくてもいいから)、ラマダ。グラシアス(ありがと)」
 ラマダは鉄人の頬に親愛の情を示すキスをした。
 ふたりともさすがはラテン系の男である。もはやヨーロッパ映画『のような』ではない。ふたりの周囲だけそのまんま映画の世界だ。あまりのオープンさに息をするのも忘れた遙兵が、まわりの目に気づいて慌てふためいたのはコマーシャル一本分は時間がたってからであった。
 準急電車は駅に到着したかと思えばすぐに発車のベルが鳴り、ひときわ目立つスキンヘッドを乗せて出発してしまった。
 見えなくなるまでぶんぶんと手を振って、鉄人は言った。
「つきあわせて悪かったな。さんきゅ、ハー」
「いいって」
「さっきの答えだけど」
 鉄人がいきなり蒸し返したので、遙兵はびっくりした。
「ラマダ、いい人だよ。おれのことすっごく心配してくれてる」
「ああ、そうみたいだな」
「ハーさ、おれがハルモニアと和解したんじゃないかって思ってっだろ」
「えっ」
「顔に書いてる」
 遙兵は無意識に口元に手をやった。
「ぷっ……っはっはっは」
「笑うな」
「あ、ごめん」
 言い当てられた。その程度のことは”ブレイン”鉄人にはお見通しなのだ。
 遙兵は顔を紅潮させた。居心地が悪い。
 噛みつくように突き返してやる。
「もしそうだったら、張ッ倒す」
「えっ、どうしよう」
 どこまでが冗談なのか。長いあいだ会わないうちに、鉄人のタイミングを計れなくなっている。以前ならこの程度の駆け引きはなんとも思わなかったにちがいない。
 遙兵は焦った。
 歯車が噛みあわない。
「せっかく久しぶりに会ったのにいきなり張ッ倒されちゃマズイよなあ」
「………」
「安心してよ、ハー。おれそこまでお人好しじゃないよ」
 遙兵は鉄人を見た。
「ハルモニアなんてだいっきらいだ。いまだって裏でなにやってるかわかるもんか。行方不明のグレアム・クレイやドクトルだって、あいつらがこっそり逃がしたにきまってる」
「なにかつかんだのか、テツ」
「なんにもわかんないからよけい胡散臭いんだろ」
 鉄人は荒げた語気をまた落とした。
「……でもさ、べつに働いてる人間までみんな悪人ってわけじゃない……ラマダみたいなのだっている。ノエルもいる」
 遙兵は脱力してはあっと息を吐いた。
「言ってる意味はわかるけど……よく割り切れるな、おまえ」
 鉄人は笑った。しかし表情はさっきとはうってかわって、重く翳っていた。
「うーん、簡単に割り切れたらラクだろうな。ガマンしなくていいし、なんにも考えなくっていい。そうだったら、ほんとによかったな」
「ガマン? テツ、そんなにガマンしてハルモニアとつきあってどうすんだよ」
「このつながり、簡単に切るわけにいかねーんだ」
 鉄人はうつむき加減に言った。
「ハルモニアは解決のいちばんの近道なんだ。情報を持ってる」
「情報と引き替えにまた自分売る気かよ」
「そういうことになるかな」
「なるかな、って……ったく、どういう神経してやがんだよ」
 鉄人は少しだけ口をつぐんだが、すぐまたひらいた。
「遠回りしてチャンスを逃すのはいやだ。罠だったらまた戦う」
 遙兵はあっと思った。またもやよけいなことを言ってしまったかもしれない。
 どうして自分はこうも考え無しなのだろう。己の迂闊さに腹が立ってしょうがない。
 鉄人は二カッと笑った。
「よっしゃ、いこっか。難しい話はあとあと。マンション、こっから歩いてすぐなんだ。駅から徒歩三分。いいだろ」
 鉄人はさっきのようにスタスタと先に行ってしまいそうになった。遙兵はあわててあとを追いかけた。
 潮の香りがホームまで届いている。爽やかな五月の風に、鮮やかなブルーの半袖シャツがひるがえった。弓ノ間鉄人はポケットに両手を突っこんで、鼻歌でも歌いそうな上機嫌に戻っていった。
 盛度中央駅はこぢんまりとしていたが、駅前にはコンビニやら薬局やらバーガーショップやらがほどよく並んでいて、独り身が生活するには便利そうだった。
「ほうら、あれが徒歩三分」
 教えられるまでもなく、鉄人のマンションはすぐにわかった。二十階はゆうにありそうな高層建築である。
「買ったのかよ」
「買った」
「後学のためにいくらだったか訊いていいか」
「訊いたらぶったまげるから知らないほうが身のためだ」
「ンなに稼いでんのかよ、テツ」
「給料の相場わかんないけど、たぶん」
 鉄人はしゃあしゃあと言った。
 見かけは十五でも戸籍上は立派な成人である。選挙権も納税義務もある。三十男が貯蓄をしてマンションを購入したところでべつに不思議ではない。
「なあテツ、カノジョは」
「いたらぜってーにヤローなんか泊めねーよ」
 それを聞いて遙兵は妙にほっとした。そこだけはいちおう横並びのようだ。だがまだ自己申告の段階なので気は抜けない。
 正面玄関のセキュリティを抜けるとエレベータに乗り、ボタンを押す。
「たまげたな。最上階か」
 エントランスだけでも相当な面積である。これは百平米どころの騒ぎではあるまい。
 中に招かれてもっと驚いた。マンションの認識が音を立てて覆った。超高額というのもあながち嘘ではあるまい。
「第二銀町邸みたいだな」
「なんかテキトーにまかせてたら、こうなった」
 面倒くさがりの性分はいまだに改善されていないらしい。
 家具調度品がいちいち豪華なのに、どこか庶民っぽく雑然としているところが鉄人の部屋たる証であろう。
「タバコ、吸う? ハー」
「一日に一本か二本」
「控えめなんだな、よしよし。うち、タバコはテラス限定だからよろしく。灰皿はどっか探せばあっから」
「テツは」
「ああ? 未成年の喫煙はダメって箱に書いてあるでしょうが」
「だれが未成年よ」
 遙兵は勝手に冷蔵庫をあけた。
「オトナとして、未成年の缶ビールは没収でございますな」
 同じ銘柄ばかりたくさんある中から一本取りだして、プルタブを開ける。
「あー自分ばっか、ズルっ。とってくれたっていいじゃん」
「飲酒は二十歳になってからって書いてますが、ボクちゃん」
「年寄りきりたんぽはどうぞ無農薬完熟ケチャップでも飲んでてください」
「うおっ、でっかいサバが泳いでいるぜ!」
「だれがサバ読みだ、くそったれ、わはは」
 鉄人は結局セルフサービスで缶ビールをとった。
「んじゃ、ま、再会にカンパーイ」
 ふたつの缶が頭上に上がり、昔と同じ笑顔がようやくはじけた。

 銀町絵麗亜の躾の賜物か、きちんと自炊はしているらしかった。キッチンにひととおりの調味料がそろっているのを確認した遙兵はさっそく手料理を要求した。
 ここのところ帰宅時間がいつも不規則で、代わり映えのしないコンビニ弁当が続いていたのである。男の手料理だろうがなんだろうが、電子レンジでチンしただけではないものを食べられるのはありがたい。
「あーあ、東京のデパ地下料理を期待してたのに」
「逸品もってこいっていうから、いちばんの目玉商品をセレクトしてやったんだぜ」
「だからってクッキーはあんまりじゃんかよ」
「これだから庶民はわかっちゃいねえんだな。いいか、このパティスリー・フンギは並んでも買えないことがある幻のクッキーだぞ。ためにしに研究所の女のコにみやげだってもってってやんな。テツ、モっテモテだぁ」
「えっ、ほんと」
「ったぼうよ。だからうまいモンをたのむな」
 鉄人はいきなり上機嫌になった。簡単である。
「テキトーにつくるからそれまでこれで飢えしのいどけよ」
 そういって冷蔵庫から出してくれたのはタケノコの土佐煮。
「ずいぶんとまた渋いモン食ってんだな」
 遙兵は感心して、ひとつつまんでさらにうなった。
「スゲエ。これからは和食の鉄人と呼ばせてもらおう」
「あー? 素材がいいだけじゃねえの。堀りたてすぐならだれが煮たってそれなりにうまいんじゃ」
「……っていうか、それ以前に生のタケノコを料理するスキルに完敗ってカンジ」
 お世辞ではなく、本気で田舎のばあちゃんをこの席に招きたいと渇望したくなるうまさだった。
 独り暮らしで仕事も持っているのに、平行して日常的に家事をこなしているのだろう。
 ここに来てからずっと女の気配を探しているのだけれどまったくそれらしいものは見つからないし、身元保証人になった幕取帝雄という教授も奥さんを亡くして男やもめと聞いていた。
 独身の象徴のような小型の鍋をじょうずに使って、ふたり分のパスタを茹でる。見とれるほどの手際の良さに、遙兵は思わずカウンターから身を乗り出した。
「料理教室にでもかよった?」
「ンな面倒なトコわざわざ行くかよ。単にレシピを再現してるだけっしょ」
 そういえば、と遙兵は過去に似たようなことがあったのを思いだした。あのときはケーキのスポンジだったような気がする。
 そう、学園の地下で籠城を開始してすぐだ。クリスマス・パーティを計画して、そして。
 だれもケーキの焼きかたを知らなくてああだこうだと議論をしていたら、鉄人がちょっと待っていろと遮り、正しいレシピを脳内の記憶野から取りだしてみせたのだ。
 やんやの喝采に、「読みだしただけ」と照れた鉄人に、遙兵がある種の戦慄を覚えたことは否めない。
 そういったところも含めて十年以上たっても変わらない鉄人が、いまはなんだか少し逞しく感じる。
「テツ、ほんっと楽しそうに料理するんだな」
 鉄人はオリーブオイルを熱したフライパンにパスタを移しながら、ケラケラと笑った。
「そりゃ、いっしょに食ってくれるヤツがいると楽しいって」
「いつもはひとりで食べてるのか」
「まあ、うちにいるときはだいたい。研究所に詰めてるときはコンビニ。あ、そこらへんの棚からそれっぽい皿ふたつとって」
 鉄人の指示はいつだって適当で、脳内に浸透するまでに時間がかかる。そのかわり希望を違えたところでひとことの文句もない。
 香ばしいガーリックのかおりが鼻をくすぐり、空きっ腹がグウと鳴った。
 絶妙な茹で加減塩加減のアラビアータはぴりりと辛かったが、そのおかげで二本目のビールも抜群に旨かった。最近少しビール腹を気にしはじめていた遙兵は、相変わらずバランスのよい鉄人のスタイルがうらやましいとばかりに顔をしかめた。
「おれ、ハデに飲み食いしてもほとんど太らねーの」
 豪快におかわりをぱくつきながら、「そんかわり背も伸びねーんだよな……」と悔しげにつけ足す。
 いったいどのような身体的加療が鉄人をそのような体質にしたのか、原理が解明されたという話は未だ聞かない。だが、ある種の突然変異、あるいは病気ともいえるその異常をなんとか克服するために鉄人ががんばっていることはたしかなのだ。
 流されるままに惰性で社会にいる遙兵とはずいぶんちがう。
 置き去りにされていくのは鉄人ではなく、自分のほうなのかもしれない。
 窓の外はだいぶ薄暗くなってきて、水平線上に船のあかりが灯りだした。
「ベランダに出てみない」
 鉄人が誘ったので、遙兵も缶ビールを手に立ちあがった。
 窓を開けるとひんやりとした夜風が肌をなでた。耳をすませば打ちつける潮騒も聞こえてくる。
「あー、キモチいー」
「な。ここって海とのあいだに遮るもんがなんにもないだろ。だから思いきって買ったんだ。海、いいよな」
「あー、そういやテツ、カリビアンだったもんなあ。さすが海賊の血族。海がダイスキ。ワンピース」
「ばかいえ。ワンピースじゃなくてジャパニーズだっちゅーの」
「ははは。でも、マジうらやましい。おれも海のそばに引っ越そ」
「いいことばっかりじゃないぞ。洗濯物、潮でべたべたになるし、うっかり金気のモンを置いたひにゃ錆び錆びだ。けっこう忍耐いるぜ」
 ふたりがめいめいに腰掛けたガタパウト・チェアにもいちめんに錆が浮いている。
「そこ、燕の指定席」
 ふいに鉄人は遙兵のイスを指さした。
「へっ?」
「ここで暮れる海をながめながら自作のカクテルを傾けるのが至福なんだってさ。なもんで、帰れっていってもずーっと入り浸り」
 遙兵は言葉に詰まった。
 鉄人は燕霧流が事故に遭ったことを知らないのだろうか。
「しばらく来てないから、カクテルなんて忘れるくらいつくってもらったことないや。いたらいたで邪魔くさいけど、来なきゃ来ないでやっぱ、どっか寂しいな」
「テツ……燕は、その……」
「聞いてる」
 鉄人はチェアに座ったまま膝を曲げて、子供のように抱えこんだ。
 ベランダ用のサンダルがコロンと落ちる。
 そういえば、ベランダに並んでいたサンダルも二組。
「ヤクザのオヤジさんがいちど挨拶に来たから」
「あ、そう……」
「ドジだよなあいつ。さっさと帰ってくりゃいいのに」
 遺体が、とは口にしない。
 学生時代は天敵だったふたりが、自宅で酒を酌み交わす仲になっていたとは知らなかった。意外ではあったが、よく考えたらそれも当然のなりゆきなのかもしれなかった。
 ある意味燕は、同級生の誰よりも鉄人に好意を寄せていたのである。
 異常ともいえる執着も、彼なりの愛情のあらわしかただった。
 だれもが忙しさで疎遠になっていく中、燕だけが変わらずにそばにいたのかもしれない。
 この部屋で、ふたりきりで笑いながら食事をしただろう。話し疲れて眠ったこともあったにちがいない。
 鉄人の部屋に存在する、燕霧流の場所。遙兵でさえ、このイスのあるじにはなれないのだ。
 ふたりになったかと思ったら、またひとり。
 鉄人はどんなに悲しんだろうか。
 大切なものは、いつでも鉄人の手からすり抜けていく。
 燕霧流は鬱陶しいヤツだった。頭がイカれていた。ヤクザの息子だ。
 そんな見せかけの評価は鉄人にとっておそらくはまったく無意味なのだ。
 ひとりで済ますのではない夕食のあたたかみを、鉄人は心から感謝していたにちがいないから。
 胸が痛んだ。
 自分はそのかん、なにをやっていたのだろう。
「テツ、ごめんな」
 いきなり頭を下げられたので、鉄人はさすがにびっくりしたらしい。
「な、なんだよ」
「忙しいからなんて、ぜんぶ口実じゃんか。ホントはいつだって来れたのに。けっきょく十年も……十年だぞ、おまえのこと見ないフリして、ほっといた」
「もう酔っぱらっちまったのか、ハー?」
 ずっと音沙汰のなかった遙兵が突然やってきた理由を、鉄人も考えていたにちがいない。話があるならすべて聞くつもりで、無理に休暇を合わせたのだろう。
 申し分けなさすぎて、涙がでそうだった。
 友だちとはいっても、実際に過ごした期間はほんのわずかだ。鉄人とルームメイトだったのは一年にも満たず、しかもその前半はとりわけ仲がよかったわけでもない。
 信頼の深さは、つきあいの長短ではけして語られない。
 大きな事件を乗り越えたところに、固く結ばれた絆があったのだ。
 弓ノ間鉄人の驚くべき正体は、亀裂にはなり得なかった。それどころかむしろ、秘密を共有したことで友情はいっそう深まったようにも思う。
 たとえ各々がまったくちがう人生を歩もうとも、出逢えばいつでも肩を叩いて笑いあえる。
 ”がんばってるか。おれもがんばってるぞ”と。
 遙兵はそう信じていた。
 そして時ばかりがさらさらと過ぎた。
 気がつくと二十代も後半戦になっていた。
 そして、突然の発熱のように遙兵は意識しはじめた。鉄人には周囲と同じスピードで時は訪れないということを。
 考えまいとしていたか、それともほんとうに忘却していたのか。
 いずれにせよ、鉄人の問題から目をそむけたのはたしかなのである。
 鉄人のことを思うたび、遙兵は自分の不甲斐なさに腹を立てなくてはならなかった。
 こうなる前にどうしてもっと連絡を密にしなかったのか。あれほど案じた鉄人のことが、もはやどうでもよくなったということではあるまいに。
 事件がひとまずの決着を見せても、鉄人には克服しなければならない大きな課題が残された。
 それは個人の問題とはいえ、ひとりで対処するにはあまりにも過酷であった。力になれなくとも、支えることくらい遙兵にもできたはず。
 ともにハルモニア製薬と戦ってそして勝ち取った、あの自信と誇りさえ揺るぎないのなら、どんな十年でも支えあって生きていくことができただろう。それから、今日からはじまる次の十年もまた。
 十年。失われた日々は弁解するには少しばかり長すぎる。
 明るい表情で将来の夢を口にした鉄人に安堵して、もう平気だろうと―――遙兵は関わりを、断った。
 鉄人が精神的に脆い人間だということをいちばんよく知っていたのは遙兵だったのに。
 ならば、なぜ。
「ごめんな」
 遙兵はまたもや謝罪を繰り返した。
 鉄人はさらに戸惑って、おずおずと口をひらいた。
「よく、わかんねーけど……ハーが謝ることなんて、なんにもないんじゃないか?」
 鉄人はやさしい。それが遙兵には痛いほどよくわかっている。やさしさは弱さと背中あわせ。身を滅ぼしかねない、諸刃の剣だ。
 支え続けてやらねばならなかった。信頼は、放置することと同義語ではない。あの変態人間・燕でさえ、最後まで鉄人のそばから離れなかったのだ。
「おれって、サイテーだな、テツ」
 鉄人はイスから立ちあがって、「寒くなってきたから、中にはいろう」と言った。
 明るい屋内で情けない顔を見られるのは勘弁して欲しかったが、なんだか鉄人にはなにを隠してもバレそうな気がした。遙兵はあきらめて、あかりの煌々と灯るリビングに戻った。
 つけっぱなしのテレビをリモコンで消し、鉄人はキッチンの隅にある小さなバーカウンターに立った。
 なんのボタンを操作したのやら、照明も自動的に落ち着いた光へと変わっていく。
「カクテル、つくってやろうか」
「えっ」
「いつもつくってもらうほうだったから、うまくできるかわかんねーけど……レシピは覚えてるから。あー、たぶん。マトモなモンが生まれる確率、ごじゅっパー」
 言うなり、棚のボトルをあれこれと物色しはじめた。
「五分五分か」
 遙兵はつぶやいて、ぼんやりと鉄人の手の動きを見ていた。
 クラッシュド・アイスを大雑把にかち割って、ころりとしたグラスに詰めていく。シェーカーにも氷を取り、きちんとメジャー・カップで量ったラムとパイナップル・ジュース、それからココナッツ・ミルクを次々に入れてストレーナーをかぶせ、大胆にシェイクした。
 バーテンダーではないからいまいち恰好は決まらなかったが、フルーツ牛乳のような白っぽいカクテルはけっこううまそうに見えた。
「ほんとは生の果物がはいるんだけど、ないから素で勘弁」
「なんての、これ」
「ピニャ・カラーダ。カリブ海のカクテル」
 目の前に置かれたそれに、遙兵は口をつけた。
 爽やかな口当たりで、ほんのりと甘かった。
「おいしい」
「よかった」
 鉄人は満足そうにほほえんで、メジャー・カップを洗った。
「そいつが気に入ったなら、とっときのやつをもういっこつくってやるよ」
「おお。どんどんつくってくれ。絶品だ」
「オーライ」
 ほんとうはけっこう自信があったのか、グラスの足を持ってくるりと回してみせる。そのうち図に乗ってトム・クルーズのように酒瓶を放り投げはじめるんじゃないだろうか。
 どうでもいいが床掃除はごめんだ。できるだけ慎重かつ冷静であることを願いたい。
 こんどはペパーミントのリキュールを棚から取りだした。シェーカーは使わず、かわりにビルド・グラスに材料を入れていく。
 バースプーンでステアし、細目のタンブラーに注いだ。
 海の色のカクテル。
「どーぞ。燕霧流オリジナル、弓ノ間鉄人アレンジ、”ワンス・イン・ア・デケイド(十年に、いちど)”」

 あ、やばい。
 いまのはおもいきり不意打ちを食らった。  燕の名前がでたとたん、涙腺が緩みかけたのである。
 遙兵はこぼれ落ちようとするものを必死にこらえた。
 鼻持ちならない人間だったが、鉄人のために一生懸命だった燕。
 海色のカクテルはおそらく、熱愛する鉄人をイメージして創作したにちがいない。
 青に近いエメラルド・グリーンと、乳白色をあわせたよう。清冽ですがすがしい南の海そのものだ。
 彼は鉄人のとなりで、なにを思い、なにを語ったのだろうか。
 もう訊ねるすべすらもない。
 鉄人は自分のためにもうひとつ同じものをつくり、「やっぱり燕のようにはいかないな」と言った。
「ンなこたあない。これも、うまい」
「そう? へへへ、やるじゃん、おれ」
 ごしごしと鼻の頭を掻き、グラスを傾ける。しかたのないことだが、やはり似合ってはいない。飲酒に憧れる年頃の少年が、精いっぱい背伸びをしているようにしか見えない。
 周囲に気を遣いながら、自分の金でマンションを買い、社会人としてのわずらわしい義務を果たし、誰の力も借りずに生活しているのだろう。その苦労は計り知れない。
 ほんとうに、よくやってきたものだと思う。鉄人の十年に敬意を表して乾杯してもいいくらいだ。
 バースツールに腰掛けて、鉄人は自分の話をはじめた。
「じつはさ、あっちに行かないかって話があるんだ。ラマダが来てたのも、真の狙いはおれの説得のためなんだ」
「あっちって、プエルトリコ」
「そ。もうひとつつっこむなら、ハルモニア製薬」
 遙兵は絶句した。
「正直いって、京東大学じゃメカニズムの解明どころか、基本となるところですでにお手上げな感じでさ。矛盾点ばかりがあきれるくらいでてくる。もういっそのこと、ハルモニアにこれまでの研究成果を譲渡してこっちは手をひいたほうがって話にまでなっちゃってるんだ。でもそうするとおれ、日本にいる意味、なくなるしなあ」
「なんだよ、それ。お手上げだからテツはもういらないってか。ンなの銀町先生にチクって説教してもらえばいい」
「いや、それはいいんだ。いままで面倒みてもらっただけでも、スゴイことだから。これ以上は無理はいえない。結果を出せなかったおれも悪い」
「でもよ、ハルモニアに譲渡って、それってひょっとしてテツも含め……ってことか」
「あ、まーた人のこと”マウス”呼ばわりして」
 鉄人は頬をぷっとふくらませた。
「優秀な研究員が惜しくないわけねっだろ。いなくならないでくれって泣きつかれて困ってるとこなんだから。幕取教授なんてぜってー手放すものかってそりゃもう鬼の形相で」
「だったら!」
「ダメなんだな。おれ、自分のこと以外に興味ないみたい」
 グラスをくるくる回す。氷がカラカラと音をたてた。
「京東だってハルモニアだって、ほんとはどこでもいいんだ。このまんま、続けることができるなら……」
「……テツ」
「続けたいな……」
 ぼんやりと、天井のライトを見あげる。
 沈黙。
 やがて鉄人は、かすかに口をひらいた。
「ずっと迷ってたんだ。あっちに行ったら、もう日本に帰ってこられないような気がするし」
「えっ」
「だって相手は、あのハルモニアだぜ?」
 あの、というくだりに力をこめて、鉄人は苦笑いをした。
 たくさんの罪もない人間を実験目的で不当監禁し、消費するようにその命を奪ってきたハルモニア製薬という企業。
「ノエルとも最近、急に話がしづらくなった。おれを確保することを見越して、よけいなことを漏らされちゃマズイから、接触させないようにしてるにちがいない。もしかしたら……ああ、あくまでも憶測だけどさ、グレアム・クレイとも取引してるかもしれない」
「なっ……」
「可能性って意味だよ。そうだとはいってない」
「行くなよ」と遙兵は怒ったように言った。「あちらさんに手を貸す義理なんて、これっぽっちもねえぞ」
 鉄人は「そうなんだけど」と濁してあさっての方向を見た。
「危険な匂いがするってのは、チャンスの可能性もあるってことだろ。このまま京東大学にとどまっても、ただ待つってのは性分じゃないから、いつかキレっだろうなあ……あっちならノエルもいるし、自分の件に専念してもいいっていわれた」
「ラマダってやつにか。甘いコトいって、引っかける気だ。騙されんな」
「ま、そのへんはビジネスだからね。甘い汁をちらつかせてあたりまえ。分散した研究成果を取り戻せるんだ。必死にもなるよ」
「行くのか」
「どうしたらいいと思う、ハー」
 鉄人は意地悪く訊いた。
「おれは、イヤだ」
 遙兵は即答した。
「だよな」
 予想された答えに目を細めて、鉄人はグラスの中味を一気にあけた。
「どうしてもっていったのは、ラマダなんだ」
 視線をわずかに反らす。
「もちろんビジネスは抜きだ。おれさ、フラフラしたり、昼夜おかまいなしに国際電話かけて愚痴ったりしたもんだからラマダ、心配しちゃってさ。で、なんとかしなきゃって躍起になってハルモニアにはっぱかけたってのも、少しあるんじゃないのか。実際おれもかなりヤバかったから、ラマダが動いてくれたって知って、すっげえ、うれしかった」
 遙兵はふと疑惑が頭をもたげてきて、訊ねた。
「なにかあったのか、テツ」
「なにかってほどでもねーけど。カウンセリングのお世話になったり、なんかいっぱい薬飲んだり。人に迷惑かけたりもちょっと、したかもしんない」
 思ってもみなかった経緯に、遙兵は息を呑んだ。
 鉄人は鉄人で、深く傷ついていたのだ。
『おれの力だ。なんだってできる』と拳を握ってみせた鉄人。
 やさしさは、弱さだ。きらめきは、脆さだ。
 屈託のない笑顔は――痛みだ。
 相談する者もなくひとりで苦しんできたのだろう。
 胸の内を語ることができたであろう燕が去り、ほんとうのひとりぼっちになってから、このだだっぴろいマンションで毎夜、膝をかかえて座っていたのだろう。
 遙兵には、その姿は見えなかった。
 なんとか、失う前に気がついた。
「行くな、テツ」と遙兵は言った。「行くな。おれ、これからちょくちょくここに来るから……様子見に来るから。だから……」
 語尾が尻すぼむ。
 鉄人は白い歯を見せてにっこりと笑った。
「いかねえよ。バーカ」
「……え」
「行かない。ラマダにも、もう伝えた。プエルトリコには帰らない」
「なっ、なんでそ、それをもっと先に……っ」
「納豆と味噌汁の存在しない国は、ダメだ!」
 鉄人は悪戯っ子っぽく宣言し、ニイッとVサインした。
 遙兵の拳が躍った。
 星が散る。
「っ……てェ!」
「るせえ!」
「ハルモニアと和解したら張ッ倒すってゆってたくせに、これじゃ逆じゃんかよ! あーっ! あーっ! 口ン中、切れた!」
「スピリタスでうがいしとけ、ガキ!」
「あーったまきた! クソ、もうひとつ地獄のカクテルをつくってやる。ブラッディ・メアリー恐怖ヴァージョンだ。ウォッカのかわりにスピリタス、トマトジュースのかわりにトマトケチャップとピューレのねちゃねちゃ混合体でいくぞ。黒コショウは大サービスで山盛りにしてやらあ。飲んで死ね!」
「ブラッディはテツだぜ、鏡見ろ、アホ。いいからいっぺんうがいしろ、うがい!」

「ホントはさ、おれ、日本が大好きだから」
 バーカウンターに突っ伏しながら、鉄人がぼそりと言った。
 聞かなくても想像はできた。遙兵だってわかっていた。
 日本には、友人たちがいる。燕だっていつかなにごともなかったかのように、ふらりとやってくるかもしれない。
 二度と帰られないと知りながら、離れることはできないのだ。
 潮騒がきこえる。
「ハーだって、こうして来てくれた」
 いまにも寝入ってしまいそうな、小さな、小さな声。
 断言しよう。鉄人は、日本と同じくらい酒も好きなようだ。だが、弱い。
「がんばれよな」
 なんの迷いもなく、自然に激励のことばがでた。
「ハーもな」
「まかしとけ」
 規則的な呼吸が、すぐに寝息となる。
 もう少しこのまま寝させてから、ベッドに運んでさしあげよう。
 カクテル二杯分の礼は尽くさねば。
 欲を言わせてもらえば、俺様は貴様とちがって大人であるから、もう少し飲みたい。しからば思う存分、セルフサービスでいただくこととする。
 あどけない寝顔を好き勝手にながめながら、遙兵はクスクスと笑った。
 来てよかった。
 この広い世界で、弓ノ間鉄人という人間に出逢ったことを、カミサマに感謝。
 それから、弓ノ間鉄人という友を失わずに済んだことも――感謝。
 グラスの底に残った”十年にいちど”のしずくを、遙兵は飲み干した。

ワンス・イン・ア・デケイド end


2006-05-08~2006-05-10初出 2006-06-13大幅加筆訂正