孤隼先生の憔悴ぶりは傍目にも痛々しく、誰の提案というわけでもなかったが「そっとしておいてやろう」という雰囲気ができあがっていた。
「先週の物理、自習だったのはそういうわけだったのか」
おそらくひと足お先に拉致されて連れてこられたにちがいない。結婚適齢期を少し逃した感のある微妙なお年頃なのに山岡のようなヤクザ者に脅されて、さぞかしすくみあがったことだろう。
と同情した矢先、樹花が大声で山岡を叱りとばした。
「ヤマ! こんどこそコンテナは積んできたんだろうね。ったく、間違えて父島に下ろしましただぁ? 生活物資が別のハコだったからよかったようなものの、逆だったらアンタが泳いで取ってこなきゃなんなかったよ」
「へい、申し開きもございません。すいませんでした、姐さん」
鉄人は仰天して目を丸くした。もちろん鉄人だけではない。
霧流でさえも唖然として担任の女教師を凝視している。
絵に描いたようなチンピラ、山岡大治をヤマ呼ばわり。
二十四時間の船旅のあいだ、美人物理教師と強面暴力団組員のあいだになにがあったのだろうか。
山岡はまだ青ざめている橋本さんに命じてキャディラックを移動させると、小ぶりのコンテナを下ろして手慣れた様子で台車に積んだ。
「これ、なにがはいってるんですか」
好奇心旺盛な霧流が訊く。
「あたしの着替えと化粧道具とマグデブルグの半球、それからあんたたちのプリントがごっそりね。三学期のぶんまるごと」
「「「「……はあ?」」」」
高校生四名の声がハモった。
「ちょっとマテ、おれは計算外だろ」
「安心しなさい猛地、こんなこともあろうかと理事長が十名分用意してくれてるのよ」
「ンなアホな! ちからいっぱい巻き添えじゃんかよ。おれなんにも聞いてねーっちゅーの!」
樹花はフッと鼻で笑った。
いやーな笑い方だった。
遙兵はぞくりとして口をつぐんだ。
声のトーンを落として、遠慮がちに訊いてみる。
「三学期だけなんですね? ワールドカップまでには帰れるんですよね?」
「そういやあサッカー部だったね、猛地。そうか、来年はドイツ大会か……」
樹花はひどく意地の悪い顔でにたりとした。
いかにもご愁傷様でしたテイストな声を絞りだす。とっても楽しそうに。
「気の毒だけど、長引く長引かないは、理事長先生次第だからねえ。あたしに訊かれても、どうにもこうにも。ハッ」
両の手のひらを天に向ける。
遙兵の顔がひきつった。
気持ちはわかる。たしかに樹花にも言い分があるのだろう。彼氏がいなくてもそれなりに楽しみにしていたにちがいないクリスマスを奪われ、気がついたら無人島送致。おせち料理もバレンタインチョコもひなあられもこの島で食えと命令されて、プッツンしたのかもしれない。ひょっとしたら、最初の犠牲者になったのがヤクザ山岡か。
「姐さん、クリスマスですから、豪勢にというわけには参りませんが……ヤギパーティなんかいかがでしょう」
「おお、いいねえ、ヤギ。日本中がニワトリの足にかぶりついている時に、そういう変わったのもおつだよね」
こっそりと後ずさりをはじめた鉄人の襟首を山岡はわっしとつかんだ。
「では、さっそくジャリどもに手伝わせてヤギ狩りをしてきます」
「スペシャルなヤギをたのむよ。燕、魁、弓ノ間、猛地、ヤマのいうことをよく聞いてひとっ働きしてきなさい」
孤隼樹花は女王の教室よろしく高飛車に言いはなった。
「よっしゃ、まずは着替えろ。学ランでヤギ狩りっちゅーのもイケてねえしよ」
霧流に向き直り、口調をがらりと変える。
「若、お召し物はもうひとつのコンテナに用意しております。長旅でお疲れでしょうからどうぞおくつろぎになっていてください。飲み物は橋本に」
「山岡さん、ぼくもつきあうよ、ヤギ狩り」
霧流はけろっとして言った。
予想だにしなかった若頭の発言に、山岡はあわてた。
「で、ですがジャングルは人の手がはいっていませんから危険ですし、もしお怪我でもされましたら」
「ぼくの友だちだったら危険でもかまわないの?」
山岡はぐっと声を呑んだ。
「……甘いなあ、山岡さん。リゾートにきたんじゃなくって生活するんだから、働くのはあたりまえじゃない。働かざる者食うべからず。パパだっていつもそういってるよね。あくまでも特別扱いするってんなら、パパにチクっちゃうよ」
「わ、若! オヤっさんは、しかし……」
「息子は上げ膳据え膳しろっていってた? なわけないでしょ。むかし来たときだって、ぼくだけカニの入り江に三日も置き去りにされたのに」
「カニの入り江……東海岸にある、陸の孤島のあすこですかい」
「アオウミガメを捕獲するまでって条件だった」
「アオウミガメ……」
霧流は眉を寄せて、ぼそりと言った。「微妙な味だった」
「食ったんかい!」と遙兵。
だが霧流はそれには答えず、ふうとため息をついた。
「まっ、とにかくパパはそーいう人なの。悪いけど、山岡さんや弓ノ間くんたちが先にへたばってもぼくは生きのびさせてもらうからね。ああそれから、カニはうかつに食べない方がいいよ。スベスベマンジュウガニなんかシャレになんない。マジ、死ぬから」
「それで生物図鑑が鍋のなかにあったのか」
感心したようにつぶやいたのは樹花だった。ひとつうなずいて、山岡に言う。
「働かざる者食うべからず。教育理念としてはすばらしいね。よし、それでいこう。ヤマ、あたしにもモリかなんか貸してくれ。リーフで魚を突いてみる」
サバイバー素質S級の瞳がきらきらと輝いていた。イッた、ともいうのかもしれない。
道具を受け取ると樹花は颯爽と軽トラックに飛び乗り、いまにも煙を噴きそうなエンジン音をひびかせて道なき道をガタゴトと下っていってしまった。
「格好いいですねえ」
見送る山岡がぼそりとつぶやいた。黒めがねを通しても尊敬の色を浮かべているのがありありとわかる。
「いつもはもっとこう、気怠いような、眠たいような先生なんですよ」
丁寧に解説するノエル。山岡はうなずいた。
「最初はな。大丈夫かこの先生、っておれも思った。豹変しやがったのは、あれよ、アオチュウよ」
「アオチュー?」
「八丈にある青ヶ島ってとこの焼酎なんだけどよ。こいつがクセがあってよ、臭いっていうのか……とにかくシロートにゃあちいとキツいシロモノなんだ。船でえらくしょげかえってるもんだからよ、イッパイやらねえかってすすめたら、涼しい顔して三本もひとりで倒しやがってよ……つきあったこっちがやられちまったんだわ。したらよ、キカ姐……うへへへ、だいじょうぶですか~なんて、こう、ポカリスウェットなんか買ってきてくれちゃってよ。飲み過ぎには水分をどんどんとりゃいいんだって、水はくんできてくれるわタオルは冷やしてくれるわ……ふへへへへへ」
「じゃっ行こうか、ヤギ狩り」
鉄人はもう聞いていなかった。
遙兵もなんとなく同意した。
勝手にコンテナを開けると、衣服がぎっしりと畳まれていた。気のせいか迷彩模様ばかりである。ずっと着替えないわけにはいかないから、このさい文句は言うまい。
「ヤギ、どうやってつかまえんの」
楽しい妄想から帰ってきた山岡が咳払いをしながら縄を手にした。
「手順は単純だ。まず四方から追いつめる。ヤギはチキンハートだから、崖なんかに追いつめたら飛び込み自殺をはかる。なるべく草原に追いこむんだ。近づいたら、この縄を首にかける」
「弓だの鉄砲だの使うんじゃねえのか」と鉄人。
「武器なんざいらねえ。ヤギくれえ素手でつかまえろ」
「うへえ」
「ノヤギはごろごろいる。なるべく若いのを狙わねえと、年寄りは身が臭ぇからな。ありゃ食えたもんじゃねえ」
「マズかったら孤隼先生、口もきいてくれなくなちゃうよ。エンちゃんに聞いたんだけど給料日にはフレンチとか寿司とか食べにいってるみたいだし、きっと舌だって肥えてると思うし」
山岡は「ヤギをナメんな」としかめっつらで言った。
「うまいヤギはうまいんだ。ありゃ滋養強壮に最高なんだぜ。肉のバイアグラいうくれえだ。スッポンなんざメじゃねえ。キンタマを刺身で食ったら三日は天国さ」
どういうタイプの天国ですか、と聞きかけて鉄人は押しとどめた。
さっきから島のあちこちで、めへへへええという間の抜けた鳴き声がする。あれがきっとヤギだろう。姿は見えないが、自然繁殖してごろごろいるという。
各自で縄を持ち、首にひっかけるための輪をつくった。
「バケーロ(カウボーイのこと)みたいだな。わくわく」
「鉄人がはりきりすぎて崖から飛び降りないか心配だ」
ヤギ狩り会場は獲物の運搬を考慮して、あずまやのすぐ裏手に決めた。個体数は島の南側にある低木地帯が圧倒的に多いそうだが、一台しかない軽トラックを樹花が持っていってしまったために移動が厳しい。
「まあいい、ヤギはどこにでもいる」
そう言って山岡はジャングルに分け入った。
手つかずの原生林はうっそうとしていて、とても歩きづらい。足元は腰ほどの大きなシダがたくさん生えていて、時に視界を遮る。根の張ったくぼみに足をとられて鉄人は何度も転んだ。
「ちょ、ちょいっとペースはやいんじゃねえの」
「鍛え方が足んねえだけだ、チビ」
そんなことを言われても、鉄人は本格的な山歩きをしたのはこれがはじめてである。良くも悪くもハコ入りで育てられてきたのだ。運動部にも所属していない。
息があがって、見るも無惨な状態だ。山岡は大袈裟にため息をついて、速度をゆるめた。
「はあ、はあ、はあ」
ボタボタと汗がおちる。こんなしんどい思いはしたことがない。ノエルも遙兵も、よくついていくものだ。いちばん負けたくない霧流も、息は荒いがしっかりとした足取りでシダをかき分けている。
もーだめ、休憩、と思った瞬間、すぐそばでテキの鳴き声がした。
めへへええええ。
「よし、申し分ないヤギだ。そいつをつかまえるぞ。一気に囲え」
情け容赦ない鬼軍曹の声。
こちらはヤギより先に酸欠でくたばりそうなのに。
「テツ、スキマつくんなよー!」
遙兵は楽しくてしょうがないという様子で縄をぶん回した。曾祖父がマタギだという大風呂敷はじつは本当だったのかもしれない。
「めへ、めへ、めへへへえええ!」
「それーっ、一気に攻めろ!」
「弓ノ間くんのほうにいったよ!」
いちばんの突破口だとヤギも踏んだのであろう。猛烈な勢いで鉄人に突進してきた。
その形相がイメージにある『ヤギさん』とあからさまにかけ離れていて、鉄人は縄をしっかりと握ったまま硬直してしまった。
「鉄人、身体で止めろ!」
無責任に叫んだのはノエルだった。
一瞬で我に返り、「うりょぉぉおおおっ!」というわけのわからない叫び声とともに鉄人は両手を広げた。
野生ヤギとの抱擁など、当然ではあるが、これまたはじめての体験である。
未知との遭遇に無我夢中で、危険すらも眼中にない。
「いいぞ、そのまんまおさえてろ、死んでも離すな!」
叫びながら山岡は駆け寄り、ヤギめがけて縄を投げた。
縄は一発で首にからまり、驚いたヤギはムチャクチャに暴れた。
後頭部を一撃された鉄人はそのまま昏倒し、シダの布団にぶっ倒れた。
意識が遠のいていく。
誰かの叫び声に混じって、小鳥の声がたくさん聞こえた。
ああ、気持ちいい、と鉄人は思った。なんて気持ちいいんだろう。なんて楽しいんだろう。こんなことは、はじめてだ。
ほほえんだまま、鉄人はゆっくりと目を閉じた。
2006-06-29
