もうひとつのインビジブル・ハンド #2/アルド
「サーティーン」前提です
研究所から一歩も出ない毎日が、いつのまにかあたりまえのことになっていた。寝に帰ったところで期限切れのダイレクト・メールと、カンザスシティに住む母親の小言がいくつも記録された留守番電話が待っているだけである。どちらもいまの自分にとってはさほど重要な事項ではない。
アパートの管理人はこちらの勤務先を把握している。苦情がこないということは、目下のところもめごとは起きていないとみてもいいのだろう。
自炊をしないので留守宅にネズミが発生するとも考えづらいし、ブレーカーはすべて落としてある。新聞や牛乳はとっていない。
家賃と管理費さえ滞納しなければ、室内の管理を怠ろうともおとがめはなし。それもまた信頼の証。事実、アルドは信頼されるに値する肩書きを持っていた。
大企業の幹部職員という表向きの顔も、こういうときは役にたつものだ。ハルモニア・ファーマシューティカルといえばファイザーと並び称される世界的な製薬会社である。プエルトリコの首都サンフアンではそこに勤務しているというだけで、どこへ行っても最高の待遇を受けることができる。
アメリカ本土よりもはっきりとした格差社会。貧富の差や人種差別は解決の糸口すらも見えない永年の社会問題となっているが、大手製薬会社の進出はこの国を確実に豊かにしつつある。
居住場所をあきらかにすることは会社の勤務規定にも記載されていた。人権団体が知ったら激怒しかねない重大なコンプライアンス違反を犯しているハルモニア製薬も、外面は社会的規範を遵守する健全なアメリカ企業の一員だからである。
書類は融通がきかない。幹部待遇のアルドとて例外ではなかった。
だからといって独身寮におさまるのも別の理由で面倒に思われた。同期の妬みもまったくないわけではない。もとより、わずらわしい人間関係は好きではなかった。
話術はそこそこに長けていると自負しているが、人と話しているあいだ、つまらないことまで意識して緊張してしまうのだ。子どものころから神経質で、プライドも簡単に曲げられない。厳格な家庭で躾られたせいか、ふだんの会話でも気を抜くということができないのである。
人との会話を終えたあとはいつも、とてつもない疲労を覚える。こんな性格で開業医である親の後を継ぐだなど、無謀にすぎる。
悩みぬいた末に、アルドは研究者の道を選んだ。
結果として、両親の期待を真っ向から裏切ったかたちになる。
案の定、父親からは勘当を言い渡された。母親の恨み辛みから逃れるようにプエルトリコに来たのが四年前。まるで保身を計るように米国医師資格試験を三次試験まで合格してみせたが、考えをあらためて開業医になろうとはそれでも思わなかった。
現代医療に疑問を抱いていたことはたしかだ。ただ、理由はそれだけではない。口やかましい父親に反発し、過干渉とも呼べる庇護から遠ざかってほっとしたのも、まぎれもない事実なのである。
実家の病院に関する権利は、従兄弟に譲渡されることになった。もはや故郷のカンザスシティに帰る理由もない。そして、アルドの事情もまた、大きく様変わりした。
執行役員のひとりであるグレアム・クレイの下に配属された日から、アルドはこの仕事こそが天職であると実感するようになった。
すなわち、生命倫理を切りすて、医者としてけして犯してはならない禁断の領域に足を踏み入れるということ。その欲望の前では、身内の確執も色あせるしかなかった。
悪魔になる勇気はあるか、とクレイ博士は問うてきた。
アルドは躊躇することもなくうなずいた。
とても長いあいだわだかまってきた医学への煮えきらぬ思いが、クレイ博士によって解放されたのだ。
そうか。これこそが自分の、存在意義だったのだ。
医学は進歩しなければならない。倫理がその歩みを妨げるのならば、だれかが勇気をだして背かねばならない。そのだれかは、たとえば自分でもいい。
アルドに笑みが戻った。気品があって温和だと評判の、美しい笑みであった。浅はかな連中に対して彼のその表情が武器になることを、アルドは経験から知っていた。
クレイ博士はアルドが秘めるものをいち早く見抜いたのだろう。同期のだれよりも早い異例の出世は、クレイの力添えがあったからだ。ハルモニア製薬内部でもっとも重要で、秘密裏に遂行されるべきプロジェクトのナンバー2として抜擢したのも、アルド・リンカーンウッドが類い希なる優秀な医師だったからである。
そしてアルドの思想はクレイにとって、非常に都合が良いものだったのだ。
グレアム・クレイはプロジェクトの最高責任者であったが、執刀医としても多忙を極めていた。そのためアルドが執行役代行を担う場面も多く、一般の臨床研究セクションにいたころよりも仕事量は劇的に増加した。
だが、アルドにはそんなことは苦でもなかった。睡眠時間が削られることや、休暇が取りにくいことに以前の彼だったら眉をひそめたかもしれない。しかしいまのアルドには目的ができた。己に与えられた時間のすべてを”それ”に費やしても構わないとさえ、思った。
プロジェクトの名称はインビジブル・ハンド――神の手。
まさしく神の領域を侵犯すゴッド・プロジェクト。
神の手を貸与された幸運なマウスを飼育することが、アルドの仕事であった。
二十四時間、そして三百六十五日、外界から隔絶された無菌室。世界でもっとも強固な、十三番目のケージにいれられたオスのマウスを、アルドはことのほか可愛いと思った。このマウスはほかの二十六匹よりもはるかに優秀で、外見もしぐさも愛嬌があった。
やがてアルドは、十三番目の専任になることを申し出た。そのときすでにプロジェクトの主体は十三番目に移っていたので、クレイもすんなりとそれを受理した。このことがのちに、研究所内外で勃発したクーデターから貴重なマウスを守ることとなったのである。
マウスは開け放たれたケージの境界で、しゃがみこんでふるえていた。アルドが駆けつけたとき、扉はまだ完全には閉ざされていなかった。なのにマウスは安堵したようにアルドにしがみつき、そこから伸びる外通路には目もくれようとしなかった。
ころんで膝小僧をすりむいた子どもをそうするように、あやして背中におんぶした。白衣をしっかりと握る小さな手と、ぽかぽかと火照る体温がたまらなく愛おしいと思った。
たかが研究用のマウス。失敗と判定した時点で処分すべきものだから、愛情も、同情も、本来は無用なのである。いまだってなにもわざわざ、なだめすかせながら運搬することはない。身体拘束してストレッチャーで運べばよいだけのこと。
「ドクトル」
マウスがアルドの耳許で小さく言った。
「なあに、サーティーン」
その先はなかった。かわりに聞こえてきたのは、押し殺した嗚咽であった。
なにを泣くことがあろう。すべてを受け入れてさえいれば、そのような感情に苦しめられることもなかったろうに。だから忠告したのだ。おまえはヒトではない。マウスだ。ヒトの役に立つために存在し、ヒトのかわりに死ぬものだと。
だがアルドは、とがめなかった。ベッドに横たえるまでの短い距離を、監視カメラから隠すように、泣かせてあげた。
哀れなマウス。
己がヒトであると勘違いして、深く傷ついている。老医師と彼にたぶらかされたばかな医師どもも、残酷な置きみやげを残したものだ。
サーティーンに必要なものは、不安定の上に成りたつ自由ではなかった。安定という完全支配だけが、サーティーンを幸福にし得たのに。
しばらくのあいだ、サーティーンからは目を離せないだろう。感情がもとのとおりフラットになるまで、自分も13ラボラトリオから出ないほうがいい。スタッフにまかせているあいだにもしものことがあれば、クレイ博士の責任問題にまで発展しかねない。
プロジェクトの停滞は許し難い事態だ。サーティーンのためにも、いま自分が外されるわけにはいくまい。
己を納得させようとするそのそばから、アルドの内に青白い焔がゆらめきだした。
サーティーン。離れたくない。ぼくの可愛いマウス。だれの手にも委ねない。
ほんとうは、クレイ博士にも、ハルモニア製薬にも渡したくない。
ぼくの。ぼくのものだ。
ぼくだけを見て、サーティーン。
席を外したほんの十分ほどのあいだに、サーティーンの姿は定位置から消えていた。
アルドがいないときはいつもこうだ。動き回るスタッフの気配や監視カメラに怯えて巣にもぐりこんでしまう。
見知ったはずのスタッフでも、一対一では恐怖を覚えるらしい。そのくせもっとも嫌っていたはずのアルドだけは拒絶しないのだから、おかしな話である。
じょうずに身を隠したつもりでも、どこにいるかはだいたい想像がつく。死角がないに等しいラボに、隠れんぼのできるすきまなどほんのわずかしか考えられない。そこすらも監視カメラがまんべんなくとらえていることを、マウスごときが気づくかどうかだが。
アルドは演技じみたしぐさで超音波診断装置の陰を見た。思ったとおり、裸足がちょこんとそこからのぞいていた。
実験用のマウスはケージの隅っこに丸まる習性があるが、まさしくそれと同じ。だが暴動の前には見られなかった行動だ。
あれからサーティーンは、異常なまでに干渉を拒むようになった。
「おくすりの時間だよ」
装置をキャスターごと動かすと、病的な双眸が気怠そうにこちらを向いた。
学習能力に関するカリキュラムは依然としてハイスコアを維持しているが、それ以外のところ、おもに感情表現が一時期に比べて顕著に鈍っている。
対光反射が弱いのも気がかりだった。なんらかの要因でニューロンが脳幹のコントロールに難航している可能性もある。人工ニューロンを移植して二年が経つが、いまになって拒絶反応があらわれだしたとしても不思議ではない。
杞憂であればよいが。
なにはともあれ、いまはわずかな兆候でも見逃すわけにはいくまい。
小さなマウスが、ある日とつぜん体内の異質な支配者に抗えなくなって、狂うように死んでしまったら。
アルドはその瞬間を想像して、否定するように首を振った。
サーティーンはアルドの動揺を見透かすかのように、褐色の瞳を向けてきた。
「それ、気分悪くなるし。いらない」
「実際に吐くところまではいかないんだろう。念のため吐き気を抑える薬も添えたから。処方には従いなさい」
異を唱えるかわりに、サーティーンはそっぽを向いた。反抗しても徒労であることを認識はしているのである。
無言で水を満たしたコップと錠剤を受け取る。
嚥下するのを確かめて、アルドはマウスを立ちあがらせた。
じゃらり、と手首の認証タグが鳴る。
よくもまあ、こんな狭苦しいところでじっと息を殺しているものだ。
以前はラボのなかを裸足でちょこまかと駆け回り、スタッフの何人かには自分から愛嬌を振りまいていたが、暴動をきっかけに豹変してしまった。活動をいっさいしなくなり、背中を丸め、定位置にじっと縮こまっている。アルド以外の人間が話しかけても、視線すらあわせようとしない。
極めつけはここ数日とくに顕著になった異常行動だった。前触れもなく意味不明のことを口走ったり、暴れたりするのである。こうなったらもう手に負えないので、スタッフが総がかりでベッドにしばりつける。しばらくするとなにごともなかったかのようにおとなしくなるが、本人はそのあいだのことをまったく記憶していない。
抗鬱薬を強いものに変えてみたがほとんど効果はあらわれず、逆に依存による副作用が懸念された。慢性的な不眠は睡眠導入剤でコントロールしているが、これも結局は対症療法でしかない。
根本的原因は、暴動で受けたショックにある。それを払拭しないかぎりは、いつまでもこのような状態が続くだろう。13ラボラトリオのスコアも無慈悲に降下していく。チームにとっても、サーティーンにとっても喜ばしいことではない。
だが今日は、サーティーンにとって少しばかり刺激的なニュースをアルドは持ってきた。どのような反応を見せるかは予測しようがないが、おそらく興味を引くことはできる。
アルドはサーティーンをベッドに誘導して、それを切り出した。
白い天井に備えつけられた監視カメラがかすかな機械音をあげて追跡してくる。
「あのね、13ラボラトリオ、お引っ越しするかもしれないよ」
思ったとおり、サーティーンは驚いた顔をして「えっ」と言った。
「テキサス州のフォートワースというところ。わかるかな」
「ジョージ・ウォーカー・ブッシュのお膝元でしょ」
「ご名答……まあ、そのこととは関係ないけどね」
「なんで、また」とサーティーンは残った水を飲み干してから訊いた。
「ラボラトリオはぜんぶで27ある。それは知っているね」
「まあね」
「いままでは、ここ、プエルトリコに集約していたけれど、それを全米に分散させることにした」
「バラバラにするってわけ」
「うん、マウスの生命を守るためにね。前回起こったテロの教訓だよ。計画の第一段階として13ラボラトリオを移設することがほぼ決定した。新しいラボは、ここよりはるかに立派で、広くて、頑丈だそうだよ。たのしみだね」
「一番に?」
「当然。13ラボラトリオの評価が、群を抜いてトップだから。なにがなんでもここを優先させる。文句なんていうやつはいないさ」
サーティーンは奇妙な表情をして、急にそわそわと視線をそこかしこに彷徨わせはじめた。
寝具をたくしあげ、口元をそれで覆ってから、「いつ?」と訊いてくる。
「そうだね。まだ、もうすこし先だ。少なくとも、半年はかかるかもしれない」
「半年……そう」
首をわずかに傾ける。そのままアルドをちらりと見た。
「……ドクトルは」
「えっ」
「ドクトルは、ここに残る?」
不意の問いかけに、アルドは瞬いた。
サーティーンはふてくされたようにつぶやいた。
「だってドクトルは、監督かなんかじゃなかったっけ。テキサスまでついてくるってわけにいかないだろ。いくらなんでも、アイツ……にとやかくいわれるんじゃないの」
「あいつ?」
「医者」
「ああ」とアルドは笑った。「クレイ博士ね」
「……クレイ?」
サーティーンはその名前を舌先でころがして、寝具に顔をうずめた。
「クレイっていうのか、アイツ」
呻くように吐き出す。
アルドはハッとした。
そうか。
サーティーンの執刀医であるグレアム・クレイ医学博士。プロジェクトの最高責任者を、サーティーンは知らないのだ。
アルドとちがい、クレイ博士は13ラボラトリオだけに関わっているわけにはいかない。27例中、初期の4例と特異な最終ナンバーをのぞくすべての執刀を担当した、『神の手』の持ち主。サーティーンにとっては、地獄の水先案内人にも等しい。
「……う」
急に、サーティーンが背中を丸めた。寝具を握りしめた手がこわばる。
「サーティーン?」
異変に気づき、アルドは椅子を蹴って立ちあがった。空のコップが手から離れてころげおち、コルクタイルの床に跳ねた。プラスチックでなかったら砕け散っていただろう。
「吐きそう?」
答えるかわりに、サーティーンはこくんとうなずいた。アルドは処置棚からナビキャッチをひっつかむとサーティーンの膝に抱えさせ、背中に手をあててさすった。
「がまんしなくていいよ」
サーティーンは咳きこむと少しだけ嘔吐して、荒く呼吸をした。スタッフが二名、様子をうかがいにきたが、アルドは下がるようにと手ではらいのけた。
「落ち着いた?」
サーティーンはうなずくだけで返事はせず、丸まるようにベッドに横になった。
まだ不快感が残っているのだろう。目を閉じて、眉を寄せる。
「うん、少し休むといいよ。午後のカリキュラムは一時間遅らせて、様子を見てからにしようか。薬も、あわないみたいだから一段階弱いものに変えてみようね」
そこまで言ってからアルドは、栄養補給が必要であることに思い至った。副作用のためにまともに食事を摂れていないはずだ。弱っている胃に薬を流しこんでも、吐きもどすだけである。
点滴の準備をしようと立ちあがったが、ふいに白衣のすそが引っぱられた。
サーティーンの右手だった。
「サーティーン、いま、点滴を……」
「やだ」
こんどは左手が同じように白衣を握りしめた。
「いかないで」
「すぐに戻ってくるから」
「いや、いや! いや!」
「サーティーン」
サーティーンは半狂乱になって、アルドにすがりついてきた。アルドは驚いて、ベッドから落ちそうになったマウスを両腕で支えた。
こんなサーティーンは見たことがない。薬で混乱しているのかとも思ったが、マウスの興奮は尋常ではなかった。
チームのスタッフが泡を食って駆けつけてきた。数名が暴れるマウスをベッドマットに押さえつけ、「鎮静剤!」と叫んだ。
サーティーンはなおもアルドになにかを訴えようとしていた。四肢をベッドに拘束されて、それでも全身でそこから逃れようと暴れる。
「ドクトル、どこ、いや、ドクトル」
「ぼくはここにいるよ、サーティーン」
「いや、いかないで、ドクトル」
幾度も同じ懇願を繰り返しては絶叫する。アルドがなだめても認識しない。これまででもっとも激しい発作だ。
普通ではない。ショックを受けたことによる精神疾患とはちがう。脳内に不都合が生じているのだ。
順調そのものに思えたプロジェクトが、足元から崩されはじめたような気がした。
「ドクトル」
なおも自分を求めるサーティーンを、アルドは力いっぱい抱きしめた。拘束された腕が痙攣する。喘ぐ身体を必死でおさえつけ、何度も呼びかけた。
「ずっといっしょにいるから、サーティーン」
「いやあぁ!」
ひとりが静脈穿刺のための駆血帯を巻こうと試みたが、抵抗が強すぎてうまくいかない。ドクターチームは怒号を発して、拘束ベルトを乱暴に締め直した。
「クレイ博士に報告します」
アルドは「待って」と言って、顔色をさっと変えた。
様子がおかしい。
「インチュベーション(挿管)! 早く……!」
顎を上向かせ、気道を確保する。サーティーンの身体はなおもこわばっていたが、すぐにぐったりと力を抜いた。
呼吸停止していることはすぐにわかった。気道が閉塞しないように口に指を入れ、下顎を持ちあげる。
事態は一刻を争う。悠長に気管内チューブを待っているわけにはいかない。アルドはサーティーンに唇をかさね、己の呼気を肺に送りこんだ。
胸が上下する。
さらにもう一度。
こぽっと音をたてて、吐瀉物が口からあふれてきた。
横を向かせ、指で掻き出す。弱々しいが、自発呼吸が認められた。
「がんばって、サーティーン」
頬に、唇に、喉頸に口づける。ドクターチームが驚愕して動きを止めるのも、意に介さずに。
親鳥が雛をついばむように、アルドは何度もキスをおとした。
サーティーンの体内で活動している『セラフィム』を、サーティーン自身のプロモーター(塩基配列)が悪性化させたのかもしれない。だとしたら、セラフィムは癌のようなものだ。サーティーンを蝕み、死に追いやる。
喪いたくない。
アルドは戦慄した。
『セラフィム』はサーティーンにこそ相応しい熾天使だ。何百という検体を殺戮した熾天使をただひとり征服したこの子が、屈するわけがない。
13番目のセラフィム、ラ・ムエルトにも、親から見離された戸籍のない男の子にも価値があるわけではない。もっとも美しいものは、サーティーン。完成された芸術品。クレイ博士は、生命の概念をパラダイムシフトする存在と賞賛した。
アルドに言わせると、サーティーンはそれ以上のものだ。
愛している。狂おしいほどに。
仮につけられた八桁の数字から、彼がサーティーンへと呼称を変えたとき。
アルドは手術室で、執刀医の背後から彼を見ていた。
混濁する褐色の瞳。
勝算のほとんどゼロに近い戦いを耐えぬき、ふたたび目をあけたマウスの仔。
その幼い身体に侵入した熾天使は、戯れか本気かはわからないが、彼をことのほか気にいり、支配することにした。いや、支配したのは少年のほうだったかもしれない。その奇跡的な邂逅を、アルドはまのあたりにしたのだ。
どんなに苦しんでも得られなかった解答がそこにあった。
これこそが、ヒトが進化するべき生命の姿だ。
倫理だの、法律だの。
医学的論議はヒトを滅亡に導く。人類を地上から消そうとしているのは、核や生物兵器ではない。医者どもである。
自分はそんな愚か者になりたくない。
親と訣別する覚悟も、医学界から追放される覚悟もすでにできている。
ただ、サーティーンだけは手放さない。
サーティーン。それが、アルドの存在意義だからだ。
サーティーンが死ぬときは、自分もいっしょだ。
「ティ・アモ、トレセ」
アルドは告白した。
ふたつの吐息が甘やかにかさなり、はかない泡のように、静寂にのまれた。
「ハロー(もしもし)、私よ。あなたのことだから、どうせ、聞いちゃいないんだろうけど」
無人の部屋に母親の声がむなしくこだました。聞く者のいない独白はほんの三十秒ほどで終わり、機械的なアナウンスのあとに切断された。
はじめからベッドと専門書の本棚しかない殺風景な部屋だったが、いまは紐で縛られた雑誌がいくつかと、モジュラージャックがつながったままの固定電話機がぽつんと捨てられているだけであった。
電話もじきに契約が切れて通話不能になる運命だ。
住人だった青年の行方を追跡する手段は、残されていない。
鍵で閉ざされた室内は、やがて完全に時を止めるだろう。
end
2007-04-19
