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エヴァンヘーリオ―福音

 薬師伽里(やくし きゃりー)が勤務する京東大学付属病院では、この時期の配置転換はとてもめずらしいハプニングというべきであった。その規模はささやかだったが、いつになく大あわてで行われたという感があった。
 伽里自身もAクラス閉鎖病棟への転属を命じられ、急激に多忙になった数少ないひとりである。引き継ぎから身の回りのことまでばたばたとこなした伽里は、一日の休みをもらうこともなく閉鎖病棟の認証パスをうんざりとした顔で受け取った。
 あとでわかったことだが、この人事には重大な守秘義務がおまけとしてついていたのである。
 看護学校を出て二年目の春を迎える、わずかに前のことであった。
 以前から救急部を希望していたのに、大きな組織の中ではなかなか思い通りにはいかない。これも経験だからと看護部長が激励してくれても、よりによって実態の知れない閉鎖病棟にまわされるとは、運が悪いにもほどがある。
 伽里は看護師として優秀であった。しかも独身で家庭に縛られていない。それが仇となった。
 閉鎖病棟は表向きには精神神経科の管轄である。だが京東大学の中においては特殊な位置づけがなされている。患者は心を病んだ者ばかりとは限らない。
 内部規定に、極秘事項は遵守すべしとあった。なにを知っても他言するなという意味であろう。
 呆れるほどの枚数の誓約書に判を押し、せっかく馴染んできた寮も出た。
 しかたがないのである。新米看護師の分際で組織に逆らっては立場をなくす。自分は実力を認められたのだ。自信を持つしかない。
 同期の友人たちが同情してたくさんのメールを送ってきたが、当たり障りのない返事で話を濁した。具体的な内容をあげて愚痴をこぼすことはしない。そんなばかげたことまで誓約書に記されていたからである。
 伽里はため息をついた。手元に届いたばかりの絵文字の躍るメールには、たまにはカラオケでストレスを発散しようよと書いてあった。心遣いは涙が出るほど嬉しいのだけれど、いまはそういうはじけた気分になれない。
 閉鎖病棟に隠された『極秘事項』は、予想をはるかに絶して深刻だった。
 いや、これを深刻で片づけてよいものかどうか。
 わずか四床のフロアにそれほど多くの仕事があるわけではない。やることの八割は監視じみたことである。
 伽里の心を沈ませているのは、あまりにも衝撃的な現実であった。
 できることならこういうことは知らないままでいられたらよかった。
 子どもの頃から憧れていた看護師という夢を手に入れ、有頂天になっていた去年のいまごろがすでになつかしい。
 体力のあるうちはばりばりと働き、患者さんたちに希望と笑顔をふりまき、やがて祝福されながら人並みに結婚もしよう。育児があるならそれに専念したい。その後は復職するもいいし、別の道を選ぶのも楽しいかもしれない。
 なんとなく抱いていた順風満帆ご都合主義てんこもりの人生設計だったが、これほど早いステップでつまづくと微妙に惜しくもなる。
 もうあとには退けないだろう。喪失感にも近い、諦めに似た感覚であった。
 後悔してもはじまらない。賽はすでに投げられた。
 自分は黙って自分の仕事をするだけ。
 与えられた課題をこなすことも経験のうちなのだから。
 伽里はもっとも奥まった病室のドアを開けた。
 このフロアの個室はどこも同じ構造である。はじめはその物々しい雰囲気に怯えたが、慣れとは恐ろしいものだ。
 まず担当医師の待機する前室がある。十名程度のミーティングもできる広さと設備がととのっている。窓はなく、外とは完全に隔絶されている。照明とセキュリティシステムは二十四時間稼働だ。
 患者のいる隔離室はさらにその奥、強化ガラスで隔てられた向こうにある。
 このような二重構造になっているのは、患者の逃走防止と関係者以外の侵入防止であることは言うまでもない。だがもっとも重要なのは、機密保持という第三の理由であると精神神経科部長に解説された。
 京東大学病院が政府から委託されている、表沙汰にできない医療部門がこの場所だという。
 スタッフの一員としてそこに関わっている伽里は、個々の内情を知る権利と義務があった。逆を返せばそれを口外することは、法を犯すことと同等なのである。
 それにしても、と伽里は思う。
 もし自分が隔離されている患者たちの立場になったとしたら、おそらく三日とまともな精神ではいられまい。末期医療の現場である緩和ケア病棟のほうが千倍はましに思える。
 だが看護師として、どうしようもない事情を抱えている患者に気の毒そうな眼をむけることはできない。
 重い気分で隔離室の生体認証ロックを解除すると、伽里はつとめて明るく声をはりあげた。
「おはよ!」
 前室に姿が見えないと思ったら、やはりこちらであったか。医師であることを示すカードを首からぶら下げた魁ノエルは、眠そうな顔をのろのろとあげた。
「あー……もうそんな時間?」
 患者に添い寝をしたまま、深く眠ってしまったらしい。ここのところ毎日がこのパターンである。
 ノエルの眼の下にはくっきりと隈ができていた。
「ゆうべも発作、おこしたの」
「えーと、ウン、まあ……ちょっとね。消灯であかりが落ちるとはじまるみたい」
 不安定な体勢で眠りこんで肩がこったのか、ノエルは首を何度も振った。そのたびにざんばらに切ったつやつやの髪がサラサラと揺れた。
「どうしようか。もし、たいへんだったら……ノエルくんのベッドをここに運んでもかまわないんだけど」
「うーん、そうしてもらったほうがいいかもしんない」
 だるそうに言いながら、ノエルは連続して大あくびを放った。
 ノエルは医師として働いているが、医師免許は持っていない。それどころか、ついこのあいだまで現役の高校生だったという。
 魁ノエルこそがもっとも担当医として適任であると国家が推薦したらしい。
 紛うことなく違法である。仮に特例中の特例だとしても、公にはできない話だ。
 常識では考えられないことだが、現にここではまかり通っている。
 ノエルの特殊な事情はそれだけでは終わらない。
 彼自身もまた、閉鎖病棟に隔離される患者でもあるのだ。
 レベルBという、こことは階がひとつ違うフロアにノエルの個室はある。だが少年はふだんそこには滅多にいない。
 レベルBの収容患者でレベルAフロアとを自由に行き来できるのは、ノエルただひとりだ。
 レベルB閉鎖病棟は精神科の色合いが強く、一般の面会も条件つきで認められている。その中にあってノエルは異色の存在だ。少年はどこからどう見ても、病んでいる患者には見えなかった。
 いたって普通の少年である。会えばきちんと挨拶をするし、部屋には漫画雑誌が積んである。看護師たちと冗談も交わす。
 投薬は必要としないし、治療すべき箇所も見あたらない。
 中退したという高等学校に戻してやってもかまわないのではないか。そういう意見もたしかにあった。
 だがほかの誰でもない、ノエル自身がそれを危惧したのである。
「むりだよ。ぼくはいま鉄人と離れたら、たぶんぼくじゃなくなってしまう」
 その言葉にどんな深い病巣が根づいているのか、伽里は想像すらできない。
 レベルAフロアのもっとも難しい患者であるひとりの少年に対するノエルの執着は、異常とも呼べるほどであった。
 偏愛、あるいはパラノイア。伽里はノエルが少年に口づけるところを何度も目撃した。さらにはその先の行為に及ぶところも。人の眼など気にするふうでもなく、時もまた選ばなかった。
 咎めたり、関わったりしてはならない。ただ監視を継続せよ。伽里に与えられた任務は、それだけである。それだけのことが伽里の心を大きく乱している。
 少年ふたりの正体を明かされたとき、伽里は我が耳を疑った。
 世界を震撼とさせた牡鈴学園籠城事件を知らぬ者はいない。その騒ぎの中心にいた例の高校生たちであるという。
 じつは両名はクローン人間なのだとか、アメリカの軍事機密を持ち逃げしたとか、嘘か本当かさだかではない無責任な憶測ばかりが記憶に残っている。最後は企業と国家の抗争という難しい話に発展し、数名の犠牲者まで出したのだ。少年たちの身柄は保護され、医療少年院に送られたというのが世間に伝わる情報のすべてである。
 なにが医療少年院か。事実隠匿するほうも、ニュースをでっちあげるほうも、程度というものを心にとめてほしいものだ。
 自分の眼で見たことだけが真実なのだと、いやが上にも学習せざるをえない事態であった。
 そう、伽里は驚愕の事実を知った。
 もはや無関係ではいられない。
 ほんとうの犠牲者はここに隔離されたふたりの少年。とりわけ弓ノ間鉄人は、よくぞ生きていてくれたという賞賛が大袈裟とは思えぬほどの修羅をかいくぐってきた。
 保護されるべきなのである。彼にはなにも罪はないのだから。
 ベッドに横たわる鉄人の脇の下に電子体温計を押しこみ、左手首をとって脈をはかる。
「おはよ、テツくん」
 反応はない。おそらく、この先も。
 だが伽里は看護師として患者に呼びかける努力だけは怠らないことにした。
 無駄だとわかっていても、言葉をかける。相手はモノではなく人間だからである。
 すぐにピピッと電子音がひびいた。七度二分。微熱がある。
 検温のデータを記録して、昼勤の担当に申し送りしなくてはいけない。
 ほかに異常はないかと伽里はブランケットをめくってチェックした。
 ノエルがまめに体位交換をしてやっているのだろう。床ずれは思ったほどひどくはない。だがやはり、右手を拘束するベルトが負担になっているらしい。クッションがわりの包帯や保護パッドにも血がにじんで痛々しい。
 発熱もそのためかもしれない。知覚がなくとも身体は不満を訴えたいだろうから。
 痛みや不快感を口にすることができたなら、どんなによかっただろう。
 わずかな意思表示すらも、鉄人にはできないようであった。飲食や排泄ばかりではなく、身じろぐことや呻くこと、それすらも放棄してしまったように思われた。ふつうに息をしてまばたきすることが、むしろ不思議なくらいである。
 なんのためにこの子は生きているんだろう。ふと、そんな不埒なことを考える。
 回復の見込みはゼロパーセント。下肢と右手は機能を完全に失い、ほかの部位も生きているというだけで似たような状態である。心はすでに失っているように見えた。
 伽里は鉄人の褐色の瞳をのぞきこんだ。
 焦点はぼやけている。だが澄んでいて、汚れがない。
 規則的に呼吸をしているのが近づくとわかる。
 なんのために、などというのは無粋な問いかけだ。生きたいのだ。この子は。
「がんばろうね、テツくん」
 がんばってもどうもならないことがわかっていても、伽里は最後にかならずそれを付け加える。病気を治すのが医者なら、看護師は必ず治ると願うことが仕事だ。
 匙を投げる順番はいちばん最後であるべきだ。
 少なくともノエルよりはあとでなくてはならない。
 延命措置の中止を示唆されたとき、しっかりと顔をあげて首を横に振ったノエルの姿を、伽里はけして忘れない。
 そして誓ったのだ。ノエルが諦めないうちは、自分もけしてこの牢獄から逃げたりしないことを。

 消灯の時刻になると、照明が眩しさを感じない程度にまで落とされる。
 鉄人に変化がおとずれるのは、いつもこの時間だ。
 なにがきっかけでそうなったのか、わからない。なんの感情も示さなかった鉄人がぽろぽろと涙をこぼす。
 うめいたり、しゃくりあげたりはしない。だからずっと見ていないと気づかない。
 だがそういう状態になったら注意しなくてはいけない。呼吸をやめたり、自由な左手で己を傷つけようとするからだ。
 いわば衝動的な自傷、いや、自殺願望である。
 数日前からとくに顕著になってきた。これ以上悪くなったら、薬で眠らせるしかないだろう。だが日中でもこれがあらわれるようになったら、手の打ちようがない。
 ふるえる唇に自分の唇を合わす。
 そしてささやく。
 鉄人、だいじょうぶだよ。ぼくがいっしょにいるよ。
 ずっとずっと、どこまでもいっしょにいるよ。
 息を吹き込む。
 呼吸して、鉄人。そうだ、いっしょに呼吸しよう。
 拘束ベルトの上から、右手をにぎる。
 鉄人の身体を住処にしている人工ニューロン、ラ・ムエルトが、もっとも活動できる器官であるレセプターだ。知覚と運動機能をなくしても、この右手はちゃんと生きている。
 ノエルの意志もここから鉄人に伝わる。
 左手と右手が何度も触れあう。
 それがふたりの、魂の交感のやり方だ。
 伝わっていると感じるのは、ノエルの思い過ごしなのかもしれない。
 あのときたしかに、かすかにただよっていた鉄人の残留思念は粉々に霧散した。ノエルは全感覚でそれを感じ、絶叫した。いかないでくれと。
 ひとりになるのはいやだと。
 だが突きつけられたものは、自分のしでかしたとてつもなく大きな過ち。
 鉄人は終わりにしたかったのだ。自分の肉体を自らの手で壊すことが唯一の方法で、鉄人は躊躇することなくそれを選んだのに。
 鉄人に身体を貸していた数十分の記憶がノエルにはない。そのわずかの時間に、鉄人がどんな悲壮な思いで作戦を遂行しようとしたか。知りたくても、知るすべはない。
 知るのが、怖い。
 ただひとつだけ、たしかなことがある。
 天国へ往けたはずの鉄人を、寂しいからという理由で永遠の煉獄に閉じこめたのが、自分。
 それをしたのがノエル。劫罰という名の呪われた少年。
 赤子のように指しゃぶりをする鉄人を診断した精神科医が、この行動がこの子に残された最後の自我なんだねと言った。
 そのいたわりに満ちた言葉にすらも、ノエルは傷つけられた。
 残された? そうじゃない。
 鉄人に望まぬ自我を強要したのはぼくだ。
 取り返しのつかないことをしてしまったのだ。土壇場になって、ぼくはやっぱり鉄人が欲しかった。
 あかりが落ちる。あのときととてもよく似た暗闇。
 寒い。
 風の音。ヘリの音。銀町先生が叫んでいる。
 だれが歌っているの? 賛美歌第103番。
 鉄人が泣く。
 その手を離せと、泣く。
 ノエルには鉄人の悲鳴がきこえる。もうたくさんだろう。約束なんて時間切れだ。ハリセンボンでもなんでも呑んでやるから、眠らせろ。
 罪ならひとりで償えばいいじゃないか。解放してくれ、ラ・ダムネイション。お願いだから。
 ノエルはやさしくほほえんで――首を横に振る。
「いやだ」
 鉄人の顔が絶望に歪む。
 ああ、その表情だ。
 ぼくがほんとうに欲しかったのは。
 ようやく、わかった。
 きみにとっての救済は、死ではない。
 だけど、どうやったらそのことを伝えられるのだろう。鉄人。きみに。
「もう泣かないで」
 口づける。呼吸を交わす。右手に、肌に、身体のすべてに触れる。熱を帯びている。そうだ、それこそが生きている証というやつだ。捨てるだなんて、許さない。
 鉄人の身体がぴくりと硬直する。
 抵抗はわずかであったが、ノエルは懲らしめるように歯をたてた。言葉が通じないのだから、こうするのがもっとも手っ取り早い。
 声帯から吐き出されるのはかすれた息ばかり。頬を伝った涙は顎のあたりから首筋までを濡らしている。
 耳のうしろによく見なければわからないほどの傷がある。ノエルは哀しげに眉を寄せた。
 ドクトル・クレイが無情にメスを突き立てた痕だ。
 この傷痕が鉄人を苦しめた。
 そこにも軽くキスをする。
 鉄人はもともと小柄ではあったが、少しのあいだにまた痩せた。鎖骨にそっと唇を這わし、肉づきを確かめるように甘噛みする。
 こうすると鉄人はびっくりしたような反応を見せる。点滴の針を刺しそこねて出血しても眉ひとつ動かさないのに。
 ノエルだけが知っている、鉄人が戻ってきたように錯覚できる唯一の方法だ。
「先にイかせてあげるね。いつもみたいに。そしたら、落ちついて眠れるよね」
 鉄人とノエルがそういう関係であることに、チームの医師も看護師たちも気づいているはずだ。知っていて、なにも言わない。
 それならば上等である。
 他人に倫理をどうこう言われる筋あいではない。保護者の銀町絵麗亜には報告されているだろうが、構うものか。
 パジャマの下を簡単にずり下ろすと、鉄人の敏感な部分に指をからめた。強い刺激を与えないと鉄人は反応してくれない。耳許で呼びかけることも怠ってはだめだ。相手がノエルであることをわからせないと、逆にパニックを起こすからである。
 乱暴ともいえる動作で上下に扱く。トロンとした表情はうつろなまま変化はなくとも、手の中のそれは急激に頭をもたげ主張を開始する。時折リズムを変えたり先端に爪を立ててやったりすると、いまにも爆発しそうなほど熱を持ち、硬く屹立した。
「がまんしてないで、吐き出しちゃっていいんだよ?」
 がまんなどと、いまの鉄人にはあり得ない言葉だ。だがノエルがわざとそれを口にするのは、自分が満足したいがためだ。自慰となんら変わりはない。
 苛めるようなセリフを口にすることで、ノエル自身も疼きだす。
 正直なところ、抵抗できない親友をそういう目的で使うことは犯罪だと思う。最初のころは行為に至ったあと、後悔ばかりしていた。いまは麻痺したのか、それとも正当化するすべを覚えたのか、自分でもよくわからない。罪の意識は、まったく、ない。
 だらりと伸ばされた右足に自身を擦りつけて、一心不乱に鉄人のものを扱いた。顔を近づけて何度もキスを落とす。
「鉄人、ぼくだよ」
 鉄人がわずかに吐息をこぼした。
「いいよ、イって」
 額から汗がポタリと落ちた。ノエルが手の動きをさらに早めた瞬間、上体で押さえつけていた身体が仰け反って跳ねた。熱い迸りを手のひらに感じる。
 ただのひとことも叫ばず、わずかな声すらもあげず、親友は達し、全身の力を抜いた。
「キモチよかった? 鉄人」
 鉄人の瞳はぼんやりとノエルを向いていた。身をよじると視線もついていくる。気のせいなどではない。ノエルを、眼で追っているのだ。
「ぼくだってわかるんだ」
 ほかのだれにもこのようなしぐさは見せない。ノエルも報告する気はさらさらない。ノエルだけを個体として識別する、それは同じ運命に翻弄された者同士当然のことであって、その権利を人に譲るつもりはないからだ。
 ノエルは鉄人の澄んだ褐色の瞳を見つめたまま、限界まで膨張した己に精液で濡れた手をあてがった。
 以前、どうしようもない衝動に駆られて鉄人の後孔に入れてみたことがある。本来はそのためにあるわけではない部分に肥大したものを強引に突っ込んだものだから、裂けておびただしい血が流れた。しかしなにより恐ろしかったのは、激痛を感じているはずの鉄人がうめき声ひとつあげなかったことである。
 訴えることができないのだ、と気づいたのはそのときだ。
 だからその一度きりで、無茶をするのはやめた。
 鉄人がそばにいてくれるのなら、自慰行為も後ろめたくなどない。相手が女の子ではないことを考えると不健全と呼ばれてもしかたがないけれど、欲望というものは理性よりも素直だ。愛情なんて、どこから生みだそうが個人の自由である。
 ぐちゃぐちゃと湿った音が下半身からきこえてくる。鉄人の吐き出したものと自分が混ざりあっているのだ。弛緩した鉄人のものが目にとまる。ノエルはふいに、それを口腔に招きたくなり、夢中で前屈みになった。
 男のものをくわえるだなんて、どうにかしてる。自分は頭がおかしくなってしまったにちがいない。そう思いながらも、口中でふたたび質量を増していくそれに切ないほどの愛撫を与えた。自身を慰める手の動きも休めない。
 なにかがノエルの髪の毛をつかんで、ひっぱった。
 それは鉄人の左手だった。自分の意志で、動かしたのだ。
 頬は紅潮し、潤んだ瞳でじっとノエルを見ている。
 その表情がなんだかかわいくて、ノエルはくすりと笑い、からかった。
「そうだよ鉄人。自分のキモチいいように動かしてごらん」
「……の……」
 ノエルはビクッとして、鉄人を凝視した。
「いま、なんていったの」
「……」
「ねえ、もういちどいってみて。そうだよ、それがぼくの名前だ。おっきな声でいってみて」
「の、……る……」
「ウン」
 ノエルは顔をくしゃくしゃに歪めた。なおも名前をつむごうとする唇に噛みつくように、キスをする。
「える」
「もっと呼んで。もっと、もっと」
「の、え、る」
 蒼い瞳からついにしずくがこぼれた。
 やがてそれは嗚咽になる。
 どうして、こんなにも残酷なのだろう。
 これだけ罰を下しても、まだ試したりないというのか。
 ノエルは流れおちる涙をぬぐおうともせずに、やさしい声で、言った。

「鉄人のふりをして、こんどはぼくを支配するつもりなんだ。そうはさせないよ……ムエルト」

end


2006-06-07

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