もっと、生きたかった。
もとの身体に戻ったノエルは声帯のすべてを使って絶叫した。
「鉄人、いやだ! いかないで、テッド、テッド、テッド!」
手を伸ばす。
霧流が渾身の力をこめてとめた。
「いやだ―――ッ!」
右手と左手が、ほんの一瞬だけ触れあった。
その瞬間、重く垂れこめた雲のすきまから一条の光が差しこんだ。
六十九階の展望ラウンジでその神々しいばかりの光を目撃した時雨努や経夢人は、天のつくりだした信じがたい奇蹟に息を呑んだ。
ファーイースト・フィナンシャルビルが発光する。
圧倒的な光は質量をまったく持たなかったが、地上のすべてを洗い流すほど豊かで、清冽であった。
祝福と歓喜のベールであらゆるものをあたたかく包みながら。
天使の光だ、と思った者もいた。
ふたりの天使が純白の翼をひろげ、摩天楼の空を躍ったような気がしたのだ。
すべての悪しきものを浄化するために、神の使わした熾天使たちであった。
「……テツ……?」
遙兵は大切な友の名を、呼んだ。
うっすらと眼をあける。
ンだよ、という笑い顔がそこにあるような気がして。
笑い顔ではなかったけれど、鉄人がいた。ノエルの横に、たしかに鉄人がいた。
ふたりは右手と左手をとって、狭いテラスで眠るように倒れていた。
夢ではなかった。
真っ白い粉雪がふたりの髪の毛に降り積もっていく。
灰色の空からやってくるそれは、きらきらとまぶしく輝いて鉄人とノエルに寄り添った。
まるで、散った羽の一枚一枚が舞いおちるようだった。
ばかやろう、と思ったらなんだか大声で叫びたくなった。
けれども、声になんてならなかった。
銀町絵麗亜は事の一部始終をその老いた眼におさめた。
少年たちの起こした奇蹟を、生涯忘れ得ぬためだ。
ノエルも鉄人も、あんな小さな身体で、苦しんだ。悲壮な決意で屋上へのぼったのだろう。その心を思うと、胸が激しく痛んだ。
ひょっとして、崖っぷちにふたりを追い詰めたのは自分自身ではなかろうか。
銀町はいま視たものをすべて心に焼きつけた。
わたしは無力だ。
これほど近くにいながら、やめろと叫ぶことしかできなかったなんて。
だが、弁解はあの子たちをさらに蔑む行為だろう。いまは己の保身など、どうでもよい。
鉄人。
ノエル。
わたしの愛した子どもたち。
生きていてくれてありがとう。
神よ、あの子らの魂が救われますように。どうぞ、神よ。
わたしはどのような罰を受けてもよい。
どうぞあの子たちからかわいい笑みを奪わないでください。
どうぞあの子たちにしあわせをお与えください。
――慈悲深き神よ、なにとぞ。
銀町の祈りは、はたして天に届いたのだろうか。
ひそかに神は、ほほえんだように思った。
El purgatorio―”煉獄”
会わないほうがよい、というのが銀町絵麗亜の一貫した言葉だった。
それ以上のことはまったく説明してもらえない。京東大学病院に運ばれた鉄人と、それにつき添ったノエルの様子がわからなくなってどれくらいの時が流れたのだろうか。
もはや我慢も頂点に達していた。
遙兵は霧流とともに理事長室へ直談判に乗りこんだが、徒労に終わった。頑固な銀町は鉄人に会わせてやるとはぜったいに言わなかった。
「おまえたちの気持ちはわかりすぎるほど、わかる。けどね、頼むよ……耐えてくれ。できることならば、あの子たちのことは忘れて欲しい。ああ、こんなことを願うのは、酷だね……」
ほんのわずかのあいだに焦燥の色を濃くし、十歳は老けこんだ理事長に霧流は怒りの眼を向けることしかできなかった。
状況の予測はついていた。生活力を失った鉄人の、人としての尊厳を銀町は尊重したいのだろう。だが霧流と遙兵にとってはそんな段階はすでに越えている。
誰かの力を借りなければ生きられぬというのなら、微力ではあるが自分たちでもできることはある。その覚悟ならすでにできていた。
どんな鉄人と会っても昔のように笑える。それなのに、なぜ会ってはいけないのか。
訴えても、銀町は答えてくれなかった。
ただ、頼む、を繰り返すだけ。
息から酒の匂いがした。
業を煮やして京東大学病院にも押しかけてみたが、もちろん返答など得られなかった。
季節は一日一日、春へと近づいているのに。
鉄人とノエルは梁山泊に戻ってこない。
奇蹟が起きたのではなかったのか。ラ・ムエルトは暴走することなく眠りに落ち、遙兵の前で鉄人は穏やかな表情と安らかな呼吸を取り戻していた。友を救ったラ・ダムネイションもまた、ノエルの体内に封印された。
なにもかも以前のまま。
消えてしまったのは、あのときたしかにノエルの傍らにあった鉄人の魂だけだ。
こんどこそ、ちゃんとした場所へ逝ってしまったのかもしれない。
いつまでもノエルの身体は借りられないから。
けれども鉄人の肉体は現世にとどまっている。それを隠そうとするなんて。ぜんぶなかったことにするなんて、傲慢な人間の考えることだ。なぜ事実を事実として認めてやらないのか。
「テツは生きてるのに、死んだものと思えって、いってるようなもんだ」
遙兵は苦々しく吐きだした。
「おれ、理事長尊敬してた。でもいまは、キライだ。サイテーの女だ」
霧流はつぼみがふくらみはじめた桜の木を見あげながら言った。
「ぼく、この春で退学しようと思う。リアに会いたくなったってのもあるけど。あっちで二、三年適当な学校にかよって、気が向いたらまた帰ってくる」
遙兵はじろりと霧流をにらんだ。
「やけに悲観してンだな。らしくねえ」
「悲観じゃないよ。長くなりそうだな、って思っただけ」
おぼろに霞んだ春の空に、ぼんやりと飛行機雲がにじんでいた。
窓すらもない、外部と厳重に隔離した特別室で、ノエルはリンゴの皮を剥いていた。慣れぬ手つきが危なっかしい。こういった手先仕事はどちらかというと鉄人のほうが上手だ。
一口大をまた半分に欠いて、さらに歯で噛んで柔らかくする。
「あーん、して」
言っても声が届くわけではない。ノエルが意識的に会話をするのは、自分自身が納得したいためだ。
指で唇を押しあけて、リンゴの破片を含ませてやる。咀嚼することも、呑みこむことも鉄人はできない。舐めさせて、少し時間を置いたらぜんぶ綺麗に掻きだしてやる。経口摂取が不可能なことくらい、担当医の自分がいちばんよく知っている。
拘束衣の負担を少なくするために三十分おきに体位を変えてやる。患者ならこれほど手のかかる症例はないだろう。だがノエルは自分の時間をすべて鉄人に費やすことをまったく苦とも思わなかった。
しっかりと身体に固定された右手はグレアム・クレイと同じ方法で、運動と知覚の機能を奪った。それを選択したのはノエルだ。殺すこともできぬならせめて、ラ・ムエルトは非情なまでのやりかたで監視しなくてはいけない。この先もずっとだ。
ずっと、という単語を実感するとき、わずかな動揺が襲ってくる。
止めなければよかったのだろうか。
ノエルはかぶりを振った。
これで、いいんだ。
寝癖のついた柔らかい髪の毛を撫でる。二度と微笑まない顔にそっと口づける。そろそろリンゴをとってやらなきゃ。その場所にちゅっと吸いつき、甘い香りのする果実をついばむ。
「約束だったよね。ずっといっしょにいるよ。鉄人」
ここは永遠の煉獄。
ムエルトを葬ることができなかったノエルに下された、終わることのない罰(ダムネイション)なのだ。
それでも――ノエルはしあわせだった。
これまで得たなかで最高の安らぎをノエルは感じていた。
左手がそっと触れる。
もう、どこへもやらない。ぼくの鉄人。
止まった時間のなかで、ぼくたちはこんどこそ、ずっといっしょにいよう。
Cross my heart and hope to die, stick a needle in my eye.
”ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます”
生命と生命のないしょ話。
ふたりの熾天使にのみ許された、それは破棄されることのけしてない契約だった。
ダイバージェンス・インビジブル・ハンド end
2006-04-04
