己の判断に未練がましく疑問を投げかける行為を加藤理名はやめることにした。あれこれ迷っている無駄な時間などない。警視庁をクビになる覚悟もすでにできている。
職権剥奪を通達される前に、利用できる駒は使い倒すに限る。
加藤の率いるSAT突入部隊は三班に分かれて展開していた。九六九大学を上と下から挟み撃ちする精鋭の前線チーム、屋上ヘリポートで待機し銀町絵麗亜の私設部隊をサポートする班、蟻の子一匹逃さぬようビルを包囲しながら全体指揮をとる班。
加藤は警察無線と双眼鏡を手に、エントランスアプローチに仮設置した司令部からはるか上階の窓を見あげていた。
ブラインドが下ろされた、なんの変哲もない窓である。
内部でうごめく者たちの気配はまったく見てとれない。
「現在の時刻、六時三十分。まもなく日の出です。二度目の発光のあとは、異常は確認されません」
六十九階の展望ラウンジにいる武暗凝沌への定時報告だ。ラウンジには牡鈴学園の生徒たちも待機している。双方とも次の行動を指示されないまま、すでに一時間半が経過していた。
「あれは、発光弾でしょうか」
「いや、そうではなかろうよ」と武暗は否定した。
「奇妙な光でした。一度目の発光にくらべて二度目はさほどでもなかったんですが、どちらも暗視カメラにはまったくとらえられていないんです。肉眼でははっきりと確認できたのに」
「そもそも、理屈で証明しようったって無理な話ですからのお。ああそうか、失礼。SATの諸君は梁山泊の外にいたから、あのときは見ていないのだね。ふむ……なんと説明すればよいものか。まあ、おいおいわかる」
武暗の謎めいた言葉に加藤は怪訝な顔をした。
「加藤くん、内部で異変が起こっているのは確実なのだ。いまは静穏に見えるが、先ほどの光は嵐の前触れだと思ってくれたまえ。くれぐれも気を抜かないでいただきたい」
「はい。引き続き警戒します」
加藤は東の空を見あげてブルッとふるえた。
明け方と言えども空はまだ夜の領域だ。天候が下り坂に向かっているせいでもある。今年は例年にないほど雪の日が多く、今日も崩れはじめたら平野部でも積雪が予想されるという。
加藤は防寒着の襟元をつかんだ。ビルからの吹き下ろしの突風が冷たい。
泣いても笑ってもこれがおそらくSAT中隊長としての最後の仕事だ。気を引き締めてかかろう。
国際刑事警察機構ICPOへの捜査協力にはじまった産業スパイ事件は真相発覚を機に大きく裏返り、合衆国と日本の経済緊張という前代未聞の展開となってしまった。米ドルがこれ以上暴落すれば、世界経済のバランスそのものが崩れる。
それだけでも十分すぎるのだが、加藤が心を痛めたのは容疑者と呼ばれた少年たちがじつは被害者であったという事実だった。
いまこのビルの中で、人としてけして許されぬ恐るべき犯罪が行われている。
誘拐された少年一名と救出に向かった少年一名は、東京の警視庁本部から保護観察命令が出されている例の”容疑者”たちであった。先の事件に深く関わった当事者を守ることができなかったばかりか、あろうことか当人に裏をかかれるとは、SATもつくづく未熟な部隊だ。
十五歳の少年ふたり。何故そこまでして、世界は争奪合戦に熱狂するのか。最先端のテクノロジーに酔いしれた人類は技術を得る代償に人の心を見失ってしまったのだ。国際企業ハルモニアには、無機質な機械の血が流れているのだ。
銀町絵麗亜が加藤にそっと語った言葉が胸にしみる。
「ハルモニアでね、あの子は人として扱われなかったんだよ。そんな場所でたったひとりで二年も我慢したんだ。それだけじゃない。あの子は親に見捨てられてから、誰からも愛されたことがなかったんだろう。ここに来て、ようやく抱きしめられる嬉しさってやつを思いだしたっていうのにね。こんなことになっちまうなんて」
牡鈴学園の冷えきった廊下にぽつんと座っていた少年の姿を、加藤は思い出した。
疲れきった顔。刺々しい拒絶。そして、救いを求める寂しい瞳。
”ハルモニア製薬に造られた超天才少年”
弓ノ間鉄人。
あの子は駆けていってしまった。
制止する手を振り切って。
人に愛されたことのない少年が、人のためにみずからの命を賭ける。
ありえない。
人はどんなに正義感が強くとも、他人を己と引き替えにはできない。
はじめてできた友だったからか。親しい友とて、所詮は他人。だが少年にとってはそうではないとでもいうのか。
ようやく解放された地獄に、その足で戻っていったひたむきすぎる想いに加藤は絶句するしかなかった。
なんという子だろう。
与えられなかった愛を、彼はあの小さな躯のいったいどこから生みだすのか。
そして銀町絵麗亜と梁山泊の仲間も、なんと豪傑な人たちなのだ。
”いっておいで、おまえの信じるがままに”と少年の背を押す。
信頼は惜しみない愛の形だ。送りだしたあとは、援護ももちろん怠らない。
それに比べ、警察はとてつもなく無力だ。
上からの命令がなければなにもできない。上層部もしかり、国からの命令を待つばかりである。国家は、大国アメリカの指示を仰ぐ。アメリカは手を出すなと嗤う。これこそ無為の連鎖だ。
梁山泊があざやかに動けるのは、仲間がみな個々の信念で行動することを許されているからである。
命令系統は存在するにしても、最終判断はいつだって己の意志だ。
銀町絵麗亜が理想とした、世界最強にして孤高の軍隊なのかもしれない。
そう、迷うことはないのよ。加藤は清々しく笑った。
わたしだって梁山泊に迎えられたひとりだから。胸を張ればいいんだわ。
SATの指揮をとる役目は自分にしかできない。銀町の指令はただひとつ、”自分にできることをしろ”。
あの少年にふたたび会ったなら、こんどこそ語りかけよう。あなたはこんなにも愛されているじゃないの、と。
命令にない作戦を強行するのも、部下を手駒として使うのも、すべては弓ノ間鉄人の笑顔を見るためだ。
それこそが唯一無二の理由。
人にもそれぞれの理由がある。自分は、これでよい。
無線を握りなおす。
「非常階段からの突入は現段階では不可能であることが判明しました。外部から五十八階の非常口を調査しましたが、内部はまるで要塞でした」
「予想はついていたがね。ああ、まさしくあそこは摩天楼に組みこまれた要塞だよ。二十一世紀のアルカトラズともいえる、ね」
「アルカトラズなら通気口から脱出できるのではないですか。映画、観ていませんけど」
「映画のようにはいくまい。出口は完璧なまでに封鎖されておるよ」
「いいえ、出口なら必ずどこかにあるはずです」
加藤が自信たっぷりに断言したので、武暗は聞き返した。
「確信ありという口調だな。その根拠は」
「包囲される事態も考慮して、脱出ルートは確保しておくのがセオリーです。アウェイチームは敵国での籠城戦をよしとしないでしょう。考えられるとすれば、おそらく、ヘリポートですね。エレベータを九六九大学側で任意に操作できると仮定すれば、どうですか」
「フム、そういえばヘリポートを利用するためのエレベータは一般用と区別されとったな。なるほど、あり得る」
「ハルモニア製薬は合衆国と軍事協力しています。電話一本でタクシーのように来てくれるんでしょうよ、VIP用の特別機が」
武暗はクックッと愉快そうに笑った。
「中隊長どのも冗談がお上手なのだな」
「あらやだ。あたしとしたことが」
「そうこうしているあいだに、大隊長のおでましだ。おお、生徒も騒ぎだしたよ。だいぶ退屈しとったところだからね。ほっほう、こりゃ壮観だわ」
爆音が接近してきた。ロビンソンR44機という小型ヘリだ。銀町財閥が所有している機体である。
サーチライトが闇を切り裂く。ヘリは見事な操縦でファーイースト・フィナンシャルビルの周囲をホバリングしはじめた。
「銀町先生の挑発にグレアム・クレイがうまく乗るかどうかですな。あまり手荒なことはせんとよいのですが……どうもその、なんですか、先輩はむかしから我慢の限界をこえるととんでもないことをやらかす女性でしてな……それでわたしの母校が全焼したことも。まあ、大昔の話ですがね。はっはっはっ」
加藤は急に鼻がムズムズして、くしゅっ、と不穏なクシャミをした。
鉄人が俯せになっていたベッドには白いブランケットだけが用を無くして放置された。グレアム・クレイは無気力な視線をそこに向けたまま、回転椅子に足を組んで座っていた。
革張りの一カ所にひっかき傷がある。苦しみから逃れようと必死で爪をたてたのだろう。
トゥエンティセブンが現れなかったら、すみやかに救命措置にかかるはずだった。気管内挿管くらい単独でもできる。パニックに陥り手順を誤るような自分ではない。
だが如何せん、異変を察知するのが遅すぎた。アルドのことを考えていてサーティーンへの注意がおろそかになっていたのだ。ベッドを引っ掻いているのすらも気づいてやれず、救命に重要な二分間を逃してしまった。
酸素が供給されなければ脳細胞が破壊され、人は急激に死に至る。仮に命を取り留めても、破壊された細胞を再生することはいかなる場合でも不可能だ。
ラ・ムエルトは植物状態のサーティーンに宿る限り、この先二度と活性化すまい。
希望はすべて断たれた。トゥエンティセブンは医師よりも確実な手段でサーティーンの命をこの世につなぎとめたが、奇蹟はそこまでだった。
サーティーンのあどけない顔から苦悶の表情が消え、褐色の澄んだ瞳がふたたびあいた。
脳細胞が破壊されつくしていない証拠に、正常な呼吸活動が再開される。
だが彼の瞳はまばたきすら忘れたかのように、そよりとも揺らがなかった。
アルドが口づけ、やさしい言葉をささやいても、なんの反応も示さない。
どうして神はサーティーンから心だけを連れ去ってしまったのか。
命をもぎ盗るよりも残酷ではないか。
遺されたものは、サーティーンの姿をした生きた亡骸だ。悔いることも許されぬ。それだけの罪を我々は犯したのだ。
それでもかまわない、欲しい、と哀れなアルド・リンカーンウッドは請う。
もはや好きにするがいい。
インビジブル・ハンド・プロジェクトは終了したのだから。
ラ・ムエルト以外のセラフィムに興味などない。
その子を連れて、どこへなりと往くがよい。
生涯を賭けた大きな夢は、脆くもついえた。だが、自分は悲観してなどおらぬ。
しがらみから解放され、安堵すらしているのだ。
アルド、きみは泣き叫びながら、愛を口にすることができる。
それで……よいのだよ。
このわたしと訣別しなさい。なにも運命まで共にすることはない。
サーティーンは抱き起こされ、アルドの腕に身を委ねた。驚いたことに、その手は保護を求める幼子のようにアルドにしっかりとからみついた。
誰と勘違いしてるのサーティーン、とアルドはおかしそうにささやいた。もっともかわいらしい答えなど得られるはずもなかったが。
ふたりが処置室を去るのといれかわりに、なつかしい罵声がおもてから轟いてきた。
なにもこんな目立つ場所で拡声器を使ってまで人の名前を連呼せずともよいだろうに。
あいかわらず血も涙もないお人だ、とクレイは苦笑した。
銀町絵麗亜はひとりで勝手に言いたい放題がなりたてて、最後に彼女らしい喝を叫んだ。
あんたの生きかたは、あんただけで決めな。ほかの人間を犠牲にするんじゃない。
「ええ、わかりました……エレノア先生」
グレアム・クレイは椅子に腰掛けたまま、デスクの引き出しに手を伸ばした。そこに置いてあった小型の拳銃を取り出すと、穏やかな表情で己の顎にあてがった。
バーソロミューに言われなければ、上階で炸裂した風船を割るような音が銃の発射音であると遙兵は気づかなかっただろう。音は一度だけだったが、皆を緊張させるに余りあった。
それと呼応するように内線で職員の悲鳴が届けられた。
「五十六階を武装した警官隊に突破されました! 下に取り残された者はいませんが、システムトラブルが起きているらしくてエレベータが使用不能でして、我々も動けません。上階への侵入はいまのところ阻止していますが、いつまでもつか」
バーソロミューが応えた。
「無茶はするな。危険を感じたら投降しろ。ただしラボのことはいっさいしゃべるな。ハルモニアの指示に従っただけだと言やぁ済む」
ロジェはいらついたように言った。
「アルド室長、まさかトゥエンティセブンを撃っちまったんじゃねえだろうな。あの人、サーティーンのこととなると見境ねえしよ、ジャマをするヤツはなんぴとたりとも容赦しないって感じだったし」
「縁起でもねえこと、いうな!」と遙兵。
「そうだよ、魁くんは無事だ」
霧流がぽろりと言った。「だって、ほら。そこに」
遙兵の眼がでんぐりがえった。
ガラスケースのあった場所に、へたりこんでいる人影がある。すこし前まではたしかにいなかった。
衣服を身につけていない。
「ノッ、ノエルー!」
大声をあげてどたばたと駆け寄った遙兵をノエルはキッとにらんだ。
「じゃまをするな! 鉄人の気配が途切れる」
遙兵はぴたりと足を止めた。
ノエルはスッと立ちあがった。粉となったケースの破片が砂のようにサラサラと降る。
無駄な贅肉の一片もない均整のとれた身体は、衣をまとわなくとも淫猥さを微塵も感じさせなかった。陽に焼けていない臍のまわりに両の手を祈るように組み、眼を閉じる。
「いま、上に行った」
静かにつぶやく。ロジェはエレベータの電光表示がひとつ上階へスライドするのを確認した。
「六十四階か。あそこは実質的な最上階だ。六十五階はフロアまるごとトラップで、我々すら立ち入ることはできない。上から侵入しようとするやつを一瞬で焼き殺す」
バーソロミューが説明した。
「なにがあるんですか、六十四階は」
「なにもないよ。エレベータがあるだけさ」
「じゃあ行き止まりってことですか」
「いや、その逆だ。ヘリポートに出られる唯一の階だからな」
「それだ!」と霧流。「ヘリで弓ノ間くんをどこかに運ぼうとしているんじゃ」
「なんのために?」とロジェはうなった。「邪魔者がやってきたからってそうそう簡単に13ラボを放棄すっかい。どんだけ金かけたと思ってるんだ。リスクのほうが大きすぎらあ」
「だ、か、ら!」
霧流は怒鳴った。
「だからおかしいんでしょ! 弓ノ間くんになにかあったのは、理事長が来る前だったじゃないか。内部の人たちまでシャットして、どこかへ運ぼうとするなんて異常だ。いまの銃声もぜったいヘンだ。こうしちゃいられない。ヘリポートにいこう」
「行こうったって、どうやって。エレベータは動かない」
霧流は頭を掻きむしって、携帯を発信した。
「銀町先生、弓ノ間くんはヘリポートに向かおうとしています。誰かに先回りさせてください」
「了解。屋上はすでにSATの連中が張っとるよ」
それまでじっとなにかに耳をすませていたノエルがふるえながら口を開いた。
「ダメだ。やっぱりコンタクトはできない。鉄人、すっかり遮断しちゃったんだ。……ううん、ちがう。そうじゃない……」
ノエルは信じられないというように首を振った。
「ぼく、ぼく、間にあわなかったんだ……たしかに、手はつないだのに……ぼくが救ったと思ったのは、鉄人じゃなかったんだ。ラ・ムエルトだったんだ」
「なにをいってるんだ、ノエル」
「遙兵」とノエルは顔をあげた。瞳が濡れていた。
「鉄人、死んだ」
遙兵は氷の塊を胃袋に突っこまれたような気がした。
絞りだした声が引きつって、うわずる。
「ま、まさか。う、ウソだろ? 冗談キツイぜ」
ノエルの蒼みがかった瞳から新たな涙がぱたぱたとこぼれ落ちた。
「ごめん、遙兵」
遙兵は息を止めて、数秒して吐きだした。苦しい呼吸とともに声が漏れた。
「ウソ……だ」
ノエルが唇を噛みしめてうつむく。
「ウソだ……テツ……」
”ハー、いままであんがとな”
”ばいばい”
”心配なんていらねーよ”
最後に交わした言葉が、バカでアホでおまけにドチビの笑顔にかさなった。
「テツ―――ッ!」
絶叫が13ラボラトリオに響きわたる。
霧流はぼんやりとした表情でノエルに訊いた。
「いま、上にいる弓ノ間くんは……魁くん」
ノエルも表情を顕わにせずに、それに答えた。
「剥きだしのラ・ムエルトだよ。鉄人の制御を受けてないからとんでもないことをしてもおかしくない。あれは危険すぎる。ぼくもどうやって止めていいかわからない」
「ラ・ムエルト? セラフィムが自由意志で動いてるっていいたいわけ」
「だから、わからないってば。ムエルトのたくらんでることなんて」
「きみだってラ・ダムネイションだろ!」
霧流の抗議をノエルはきっぱりと拒絶した。
「ぼくは人間だ! 鉄人だって人間だ。熾天使なんかじゃない」
「くっ……」
ノエルはなにかを決心したように、霧流に言った。
「燕、携帯持ってるんでしょ。ビルにいるみんなに、すぐに遠くへ避難するように伝えて。ラ・ムエルトが暴走しかけてるって、臨界間際の核爆弾ですってそう言えば銀町先生はわかってくれるから。燕も遙兵も、なんとかして逃げて」
「きみは?」
「ぼくは、ラ・ムエルトを追ってみる」
「ひとりで」
「あたりまえだ。ラ・ムエルトと会話できるのはぼくの中にいるラ・ダムネイションだけだから。それに、ムエルトが暴走したらダムネイションも引きずられてしまうかもしれない。だったらぼくはここにいたほうがいい」
「追ってどうするの」
ノエルは小さな声で簡潔に、だが迷いもなく言ってのけた。
「葬る」
「……そう」
霧流は物わかりのよい子どものようににっこりと笑った。
「相打ちって、いわないよね?」
ノエルは図星をつかれたらしく、不満げに黙りこんだ。
「立会人がいるじゃない。だったらぼくもここにいたほうがいいな」
「……」
「弓ノ間くんのかたきをとろうよ、魁くん」
「……やめとけよ、つばく……」
「死神だかなんだか知らないけど、ぜったいに復讐してやるんだから。それに失敗したってあの世で弓ノ間くんに会えるじゃない。だったらこっちのほうがいい」
「パパが、泣くよ」
「うん、そうだね」
「親泣かすのは、ダメだ」
「魁くん、人のこといえないじゃん」
ノエルは言葉につまって、やがて諦めたようにため息をついた。
「ラ・ムエルトは鉄人の姿をしているよ。それでも耐えられるっていうの」
霧流はうなずいた。
膝をついていた遙兵がよろめきながら立ちあがった。
「おい、オレをおいてくなよ。テツを苦しめたヤツなんだろ? 引導をわたしてやんなきゃ、な」
霧流は両手を差しだした。
右手でノエルの左手をとり、左手で遙兵の右手をとった。
「いこうよ」と力強く言う。「ラ・ムエルトのところに」
バーソロミューとロジェは少年たちの悲壮な決意に言葉を失って立ちすくんだ。
キャンプ座間に軍用ヘリを要請したアルドは、機能本位の六十四階フロアに置かれた簡素なベンチに鉄人を横たえた。
着替えさせようとでも思ったのだろう。身につけていたパーカーは脱がされていた。ブランケットはアルドの手には余って持ちだせなかった。
風邪をひかせてはかわいそうだ。自らの背広と白衣を脱いで、羽織ってあげる。
「ああ、小さいお医者さんみたい。とてもよく似あう。かわいいよ」
鉄人はぼんやりとした視線をなにもない空間にただよわせたまま、右手の親指を幼児のように噛んだ。
意識が阻害されることで発達段階を逆に遡っているのかもしれない。邪気のないしぐさに保護欲をかきたてられて、思わずその頭を撫でた。
外部刺激に驚いたのか、肩がピクンと跳ねた。
アルドにはほんのわずかではあるが希望が見えた。
反応を返す。まだすべてを失ったわけじゃない。
惜しみない愛情を与えれば、いつか必ずこの子は帰ってくる。
その日を待つために、どこかだれも追ってこられないところへ行こう。うるさい銀町絵麗亜もハルモニアもいないところへ。
「ぼくがずっときみのそばにいるから。もうなにも怖がらなくていいんだよ」
切ない気持ちがあふれてきて、アルドは鉄人をもういちど抱き起こした。
平素よりいくぶん高い熱が手のひらから伝わってくる。
背中のガーゼにそっと触れてみた。
むずかるように漏れる吐息は彼なりの抗議のしかただった。
「痛むよね。ごめんね。……博士はひどい人だよ、手加減もしなかった。きみが苦しんでるのを見て、嗤ってた」
わざと痛みを感じるようにコントロールして、神経を切断するなんて。そんなことで快楽を得ようだなんて、醜悪の極致だ。
「そういやぼくも、おなじようなことをしてたっけ、な……でももう、あんなことは二度としないから。誓うよ。約束する。きみをいじめたりなんかしない」
胸に耳を押しあてる。心臓が奏でる規則正しいリズムがきこえる。
「がんばったね。いい子だね、サーティーン……だいすきだよ」
鼓動を賛美するかのごとく、キスを落とす。チュッと音をたてて、小鳥が餌をついばむように、何度も何度も口づけた。鉄人はされるがままにおとなしく腕のなかにいたが、やがて上体を支えきれなくなったのかかくんと後ろに仰け反った。
ふたたびベンチへ寝かせると、痛めた背中に苦痛を与えないようにアルドは覆い被さった。
胸の上から首筋に舌を這わす。汗の味がしたが、ちっともいやではなかった。
褐色の瞳を存分にながめてから、こんどは唇を奪った。舌をからめ、口内を丹念にさぐる。
いつもこうしたいと願っていた。許されない行為だとわかっていたから、及ぶことができなかったのだ。監視カメラがじっと見つめていたのはサーティーンばかりではない。
ぼくのかわいいマウス。
もうどこにも行かないよね。
胸にあてていた手を下へすべらせ、腹のあたりを数回撫でてからカーゴパンツの中に入れる。サイズが大きめのウェスト部分は容易に侵入を受けいれた。
腿に触れてみる。
「さわっているの、わかる? ああ、かなり無茶したからもう、だめかな。まだショックも脱してないのに」
脊髄ショックに陥っているうちは絶対安静であるとクレイ博士から指示があったが、抑えきれなかった。いたわりながら抱きしめるだけなんてできそうにない。
ずっと我慢してきた欲望が張り裂ける寸前なのだ。
「ごめんね」
アルドはまた謝って、スルリとカーゴパンツを下ろした。
「やさしくするから……だから、きみも」
下着も引き下ろす。
「やっぱりきれいだ。ぼく、こんなきれいな男の子を見たことがない」
生まれたばかりの姿で横たわる鉄人はまた口の中に親指をいれようとした。アルドをそれをやさしくとめ、かわりに何度目かわからない口づけをプレゼントした。
手のひらもやさしく下腹部を愛撫する。
刺激を与えても、どの程度伝わるのかわからない。わずかな表情の変化も見逃すまいとアルドは鉄人の顔を見つめた。
焦点のあわない瞳がアルドを見ている。
不規則に唇を、胸の突起を、鎖骨の上をついばみ、そしてまた瞳に目をやる。
壊されていないサーティーンなら必死になって抵抗したであろう。
いまのこの子はそれすらもできない。
心は黄泉の国へ逝ってしまったのだ。
美しさを失わない身体だけをこの世に遺して。
腰のあたりが重く疼いた。熱を帯びて痛いくらいに張りつめている。
「ぼく、もう、ダメみたい。していい? サーティーン」
返事など返ってくるわけもないが。
アルドは手早くシャツのボタンをはずし、もどかしいようにベルトも取った。
さっきまで手のひらに包まれていたサーティーンをふたたび握ると、激しくはないが硬くなっている。
「感じてるの?」
ユルユルと扱いてから、先端を強めにこすってみる。
なんの意思表示もなかった鉄人の喉から、空気のかたまりがこぼれた。
「よかった。感じてるんだね。もっと気持ちよくしてあげる」
アルドは流れるように上体を移動させると、屹立しはじめたペニスを己の口中に迎えいれた。
閉じられた脚を手でゆっくり押し広げる。神経回路を裂断されて下肢の運動能力を失いはしたが、痛みをはじめとした知覚はかろうじて引きとめているらしい。それすらもいつまで持続できるかわからない。
頭をゆるく動かして、筋にそって舐めしゃぶる。口中の粘膜と密着させ、喉の奥まで呑みこんでは、離す。それを繰り返す。
顔を埋めこんだ下腹部がひくひくと痙攣しだした。くわえたまま表情をうかがうと、頬を紅潮させている。指はダメといってもすでに口の中。
赤ちゃんみたいだ、とアルドはほほえんだ。
ペニスから口を完全に離し、ちゅっと頬にキスをする。
「きみのイク顔、すごくかわいかった。また見せてくれるよね」
休むひまも与えずに手を使って追い詰めていく。唾液で滑りがよくなったそこは、濡れた音をたてながら熱く脈打った。
「キモチいい……?」
自分もとっくに理性が跳ねとんでいて、これ以上我慢していたらおかしくなりそうだった。このうえ痴態の片鱗でも見せられたら、犯す前にのぼりつめてしまいそうだ。
アルドは身体を起こして鉄人をだっこするように膝の上に乗せた。無理矢理組み敷いたほうがらくなのだが、それでは痛めた背中に負担がかかりすぎてしまう。
鉄人はまたカクンと上半身を弛緩させてアルドにもたれた。口を半開きにし、トロンとした眼に若き医師を映す。
脚を大きく開かせて、前から手を這わせた。熱く猛った自分のものが当たる切ない感触に、アルドはうっとりと息を吐いた。
「ちょっと苦しいかもしれないけど、ごめんね」
ペニスを二三度愛撫してから、その後ろの締まりに指をすべらせる。
細く長い指がおずおずと入り口を押し広げ、奥へと侵入していく。
鉄人の身体が明確に強張った。
緊張をやわらげようと、目の前にあった耳朶を甘噛みする。
「ふ……ッん」
はじめて声らしき声を鉄人は発した。愛嬌に満ちた、子猫のようなかわいらしい声。アルドの背筋がぞくりとし、首筋の毛が逆立った。
内襞にからみつかせるように指を動かす。それを二本に増やして、壁をつまみながら前立腺を刺激してやった。
びくんびくんと身体が跳ねた。
力をこめることのできない脚をだらりとあずけて、こんどは途切れることのない呻きを長々と発する。自我があったら泣いていたかもしれない。抵抗するこの子もかわいいのに、と思いながらそれが無いものねだりであることをアルドは寂しく自覚した。
「いれるよ」
指をすばやく抜き、そこが拒否をしないうちに自分の熱をかわりに押しこめた。一気に奥を突く。
「ひゃっ」
苦痛とも快楽とも判断できかねる悲鳴があがった。カチカチと歯のぶつかる音がきこえる。
「息をしなさい。ゆっくりと、身体の力を抜いて……そう」
ことばが通じないのは承知の上で、やさしく上半身を抱いた。結合した部分が灼けそうに熱い。ドクンドクンと蠢き、まるでそこに心臓がもうひとつあるようだ。
つながったまま熱を味わうのもたしかにいい。ずっとこうして抱きしめていたい。ぼくのかわいいマウスを。
永遠に。
永遠、に―――
だがアルドは襲い来る疼きに耐えきれずに腰を揺らしはじめた。ずっと抑圧されてきた欲望が、もっと激しく穿ちたいと絶叫した。
抵抗できない脚をつかんで、揺らして、ねじこんだ。下半身を暴力的に打ちつける。壊れるかもしれない、と理性がささやき、いまさら、と悪魔がほほえんだ。
サーティーンの内部に自分の精液をぶちまけたい。美しい遺伝子に自分の印を組みこみたい。それができたら、すっといっしょだ。ぼくのものだ。ぼくの。
「きみも……イッて……」
片手を脚からはずし、己の律動は緩めることなく鉄人のペニスを扱いて射精をうながした。突きあげるたびにカクカクと頭が前後に揺れる。
腹筋が痙攣した。
手のひらに熱い迸りを感じた瞬間、自分もきつく締めつけられた。
「あ、イイ……、ぼくも、イク……」
瞼の裏側に白い閃光を見るのと同時に、アルドは鉄人の肩口に歯を立てた。
「ひっ……ああ、ああっ……」
想いのすべてを、サーティーンにそそぎこむ。
余韻にうすく涙を流しながら、小さい躯を抱きしめる。
「ティ・アモ、トレセ」
そっと告白したそのとき、目前のエレベータがふいに作動した。
屋上ヘリポートに向かうだけの目的で設置された小型のエレベータは、上階から降下してきて六十四階をいったん通り過ぎたあと、十階ほどさらに下りて停止した。
はるか遠いところで異様な金属音がきこえる。
破壊工作の音だ。
これがラボと外部とをつなぐ唯一の経路であることを見抜かれたのだろうか。
だとしたら、工作隊がここへ到達するのも時間の問題だろう。扉は六十四階にしかない。
「フフフ、どこまでじゃまをすれば気が済むんだろう。ね、サーティーン」
アルドは呆れたように笑った。
スッと表情が曇る。
「ぼく、もう、疲れたよ。どうせここを出ても、ハルモニアなんかに戻る気はないし。ねえ、どうしたらいいかな、サーティーン。きみはどう思う」
困ったように耳許に口を寄せて、訊いてみる。
「そう。やっぱり、そうだよね。それがいちばんいい方法なのか……な」
アルドの手が鉄人の頚に伸びた。
喉に指をまわして、じんわりと絞める。
「ぼくもすぐにいくから……待っていてね、サーティーン」
眼を閉じて、渾身の力をこめた。
囚われた身体はそこから逃れようとわずかに傾いた。
ぽたり、と鉄人の背中に熱いしずくが落ちる。
それは鉄人の腕をつたい、右手に垂れた。
発光がはじまった。
アルドは網膜にまばゆい光を感じて眼をあけ、驚いて鉄人を見た。
褐色の瞳が――そこに意志などはなかったが――アルドをまっすぐに見ていた。
その瞬間、アルドは自分の魂が暴力的に蹂躙されるのを感じた。
激痛による苦悶よりも先に口からでたものは、愛する者の名を呼ぶ声であった。
「サーティーン」
ぼくを、取りこんでくれるの。
きみの中に。
きみは往くんだね。無間の煉獄に。
ぼくもそこに、連れていって、くれるんだ……ね……。
ありがとう――――
意識を失う直前、鉄人がふわりとやさしく笑んでヒトの言葉をつむいだ。
「ドク、ト、ル」
アルドがその生涯において最初で最後に出逢った、サーティーンのほほえみであった。
実際には笑ったのは鉄人ではなく、獲物を手中にしたラ・ムエルトであった。そのことに気づかせなかったのは、神の与えたせめてもの慈悲であったにちがいない。
アルド・リンカーンウッドは彼の愛したサーティーンの右手に抱かれ、その美しかった瞳を永遠に閉じた。
2006-04-01
