ほんの数階を移動したいだけなのに、これほど多くの困難が待ち受けているとは想像もしていなかった。内部に協力者がいなければ、なるほどこの非常識な厳戒態勢をくぐり抜けるなど百パーセント不可能だ。
霧流と遙兵はエレノア・ギンマチの配下に属する牡鈴学園関係者という立場でラボに迎えいれられた。人質に取った(のかどうかは微妙だが)バーソロミュー・アガメムノンという名の受付男が予想に反してけっこうな権限を持っているらしく、銀町側に寝返ったかと疑うばかりに通せるはずもないチェックをごり押ししたのだ。職員のほとんどが難色を示したにもかかわらず、である。
相手はたかが素人の少年ふたり。形勢を逆転することもバーソロミューにとって朝飯前だろう。小型拳銃を確保した霧流はともかく、武器を持たない遙兵は隙だらけだ。そのつもりがあれば他愛なく倒せる。
迷惑千万の客人を鄭重に扱う理由はひとつしか考えられない。すなわち、鬱陶しい銀町財閥を黙らせる材料になる、という思惑だ。
ふたりが銀町絵麗亜の了解をとって乗りこんできたのではないことをバーソロミューは早い段階で察知したはずだ。学生の命を危険にさらして勝ち目のない戦いを仕掛ける軍師ではない。
遅かれ早かれ13ラボの存在を嗅ぎつけられることは、計算のうちという感がある。だがこれほど迅速に、しかも正面玄関からためらいもなくやってきた霧流と遙兵の行動には、さすがのハルモニア製薬もさぞや面食らったであろう。
銀町の指示をはなから無視したか、あるいは子どもたちが完全なる独断で行ったと確信したバーソロミューは、迂闊な二人組を逆に利用することに思い至ったにちがいない。
ミイラ取りがミイラになったという気がしないでもなかった。
遙兵は頭を振ってどんどんと薄ら寒くなる考えを追いはらった。いざとなれば捨て身のオフサイド・トラップを仕掛ける気概くらい自分にもある。だからせめて霧流程度には泰然自若としてみせなければ。
六十一階通過のための複雑な認証を終えるとまたエレベータを乗り換えた。常識はずれともいえるわずらわしさに、遙兵は閉口するしかなかった。これもすべて鉄人を外に逃がさないための手口だというのだろうか。
ハルモニアが求める鉄人の価値を思い知らされる気分だ。
遙兵にとって鉄人は心を許しあった友だちなのに、連中の目にはまったくちがう色に映っている。一般人には理解しがたい桁数の資金を動かして超高層ビルの上階を一挙取得し、最先端のセキュリティシステムを惜しげもなく導入して完全武装するという三流映画のようなストーリーを、ハルモニア製薬は鉄人ひとりのために実際に行ったのだ。友人はそれに値するだけの存在ということになる。
アホ面のテツがいったい何様だって?
頭がおかしいんじゃねえのか。
理解したくもない。テツもほとほと気の毒なヤローだ。
「いよいよこの上が、きみたちの求めているメイン・フロアだ」
バーソロミューは認証パネルに手のひらをあてながら言った。「13ラボラトリオ。部外者を迎えいれるのは最初で最後だろうから、よく見ておくといいよ。思い残すことのないように、な」
言葉尻に含まれる恐ろしい意味に遙兵が気づかなかったのは幸運であった。
エレベータが止まり、音もなく開いた。
新築したばかりの病院を連想させる、清潔で明るい白色の照明に安堵したのもつかの間、内部の異様な光景に霧流も遙兵も顔をひきつらせた。
透明でそれ自体に威圧感はないにしろ、執拗に重ねられた堅牢な檻が窓側に到達する可能性を絶望的なまでに阻んでいた。人が行き来できる空間はフロアの五分の一もありはしまい。残るエリアは脱走防止のための罠が張り巡らされた、ここの持ち主でさえもけして立ちいることをしない、足を踏みいれたら瞬時に死がおとずれるであろう恐怖の回廊であった。
遙兵は招かれるままにふらりとエレベータから出た。目前の光景があまりにも非日常的すぎて事実が頭に浸透してこない。
もっとも近くにある一角は多種多様の小型解析装置とそれをサポートする機器が所狭しと配置され、監視カメラがのんびりと動きながら周囲を見張っていた。何台あるのか数えきれないほどのカメラはすべてばらばらに作動している。死角など一ミリもないにちがいない。
超音波画像診断装置を備えた処置台がひとつ。ここだけは病院の診察室を連想させなくもない。ただし囚人の行動を封じるベルトがこれ見よがしについていなければの話である。
反対側に目を転じるとそこはひととおりの臨床検査をこなせそうなエリアに思われた。けして広くはない面積を有効利用して、高度医療をこの階だけで実現させているのである。
「MRIまである」
霧流が愕然としてつぶやいた。気を緩めると超高層ビルの一フロアにいることを忘れてしまいそうになる。
医薬品の匂いが気持ちを高ぶらせる。空気清浄が絶え間なく行われていても、雰囲気だけで息がつまりそうだ。こんなところに小一時間もいたらもう出してくれと叫びたくなるだろう。
遙兵の視線が小机の上にとまった。
ペン立てとセロハンテープに挟まれて、小さな写真立てがあった。
遙兵の注意をひいたのは、中に飾られている写真が鉄人だったからだ。
いつの頃に撮ったものだろう。いまとさほど変わらない年齢に見える。だが、笑っていない。カメラを向けた人物を横向き加減に見ているが、死んだ魚のような、虚ろな眼だ。
鎖骨が見えるくらいに襟元を大きく開けた無地のTシャツのようなものを着ている。背景は白く潰れていてよくわからない。
プエルトリコで囚われていたときの鉄人だ、と遙兵は確信した。
なにもかも諦めたような眼。
いつか銀町絵麗亜がそうつぶやいた、遙兵の知らない鉄人だ。
遙兵はどきんとした。いまの鉄人がこれと同じような表情で現れたら、自分はどんな言葉をかければよいのだろう。
”たすけにきたぞ”か。それとも”がんばれ”か?
「バーソロミュー。なんだそいつらは」
目つきの悪い白衣の青年が足音を荒げて近づいてきた。だらしなく襟元をあけたその下はラフな長袖Tシャツ。スマイルのバッジがかわいらしくくっついている。
「案内してくれとうるさいから連れてきてやった」
「ああ? 気でも違ったか」
ロジェはいらいらと少年たちを観察し、ふと目を丸くした。
「こっちのやつ、どっかで……」
霧流はスッと目を細めて愛想笑いを返した。
「はじめまして、とつぜんおじゃましてすみません。ぼくは燕霧流と申します」
「燕……はあん。燕んとこのボンか、道理で」
「知っているのか、ロジェ」
「おいおい、わかって連れてきたんじゃねえのかよ、おまえ」
ロジェは不機嫌を隠さなかった。ただでさえプロジェクトの準備で忙しいときなのに、いらぬ面倒を担ぎこむのは御免である。
銀町財閥の狗に成り下がった燕魚太の息子ならば、人道だのなんだのと口やかましくさえずる輩の主義主張に毒されていて当然だろう。くだらない正義をかざしながらトゥエンティセブンとサーティーンを連れ戻しに来たことは明白である。
「ずいぶんとまぁ、怖いもの知らずのぼっちゃんたちだな」
「お褒めくださって、どうも」
霧流が言い終わらないうちに遙兵が大声をあげた。
「おい、あれ、テツのクツ!」
放り投げてある泥まみれのコンバースを指さす。
「本人どこやったよ! クツだけあるってことねーだろ」
ロジェはちっと舌打ちをして、コンバースをわきに蹴って除けた。
「遙兵? 遙兵なのか」
奇妙に遠い場所から知っている声がした。音声機器をとおしてやっと届いたような感じであった。
遙兵はびっくりしてきょろきょろとあたりを見回した。いまの声は、ノエルだ。
あまりにも論外な場所に閉じこめられていたので、気がつかなかったのだ。霧流が先にその姿を認めて息を呑んだ。遙兵が叫んだのは、そのすぐあとだった。
「ノッ……ノエルー!」
制止する間もなく、遙兵は10メートルほどの距離を一気に駆けてガラスケースにへばりついた。ロジェがやれやれとため息を吐く。
どんなに叩いてもぺしぺしという虚しい音しかしない。ケースは完全に密封されているようだった。ノエルの瞳は、遙兵がここにいることへの驚きでいっぱいに見開かれていた。
遙兵は怒りに満ちた顔をロジェに向けた。
「おいあんた! ノエルをいったいなんだと思ってやがるんだ。こんな恰好でハリツケにして、まさかながめて愉しんでたってんじゃねーだろうな。変態」
「ノエル、だって? おたく、なんか勘違いしてんじゃねーの。あいにくそいつはうちで飼ってる実験動物なんだ。名前はトゥエンティセブン」
「ぐだぐだぬかしてンじゃねーよ!」
遙兵の破局的噴火が炸裂した。
「ホドホドにしやがれよ。友だち数字で呼ばれてよ、黙ってられっかっての。おいノエル、帰るぞ。こんな胸くそ悪ィとこ一秒だっていられっか」
ぎろりとロジェをにらむ。
「ノエルの服、よこせ。それからテツもよこしな。おたくらのいうサーティーン」
ロジェは首をパキパキと回して天井を仰いだ。
「ちゃんと責任とれよ、バーソロミュー」
「そういわれてもなあ。あんただって同じ立場になったら面白がってこうしたんじゃないのか」
「バカいえ。クレイ博士の小言を考えただけでぞっとすらぁ。ヘタしたらこっちが粛正されちまうぜ」
「災いを転じて福と成せばいいんだろう」
バーソロミューはエラの張った頬をぼりぼりと掻きながら言った。
「銀町絵麗亜がどう出てくるかまだ未知数だと、博士も認めておられた。手元に捕虜を置いておく価値はかなりあると思うんだがな。こいつらもその程度は一人前に覚悟しているみたいだぜ」
「ふん……ハルモニアもずいぶん甘く見られたものだよなあ。命まではとるまいという希望的観測かな、ボクちゃんたち」
黙って会話を聞いていた霧流が低い声で脅した。
「で、サーティーン返す気、あんの? ないの?」
ロジェはかっとなって怒鳴った。
「ンなわかりきった答えをいちいち言えっていうのかよ、チビ!」
「下っ端と話していても埒があかない」
霧流はひどく大人びた口調を突きつけた。「グレアム・クレイとじかに話をしたい。ここに潜伏してるってことはわかってるんだ。呼んでこいよ」
「はん? おまえ、クレイ博士と対等に話ができる身分だとでも思ってんのか」
「あのおじさんがどれほどのお偉いさんかしらないけど、ぼくたちには関係ないね。関係ないんだから対等も立場もへったくれもない。サーティーンを手にいれたい者同士として、きちんと決着をつけたいだけさ。知的な方法で、ね。ねえ、知性のかけらもなさそうなお兄さん」
ロジェの口がへの字に歪んでぴくぴくと痙攣した。
「これだからガキはでえっきれえなんだ」
ガラスケースのなかからノエルが必死で訴えた。
「そいつ挑発しちゃあぶない。海神先生を撃った人だ。鉄人はクレイ博士のところだ。たぶん、ひどい目に遭っている。鉄人をたすけて、燕」
霧流の端正な顔がひきつった。
「弓ノ間くんになにをした」
「歩けないようにしてやるって、連れていかれたんだ。でも、もう、きっと遅い」
「ばかだなあ、遅いなんて言ったら負けでしょ、魁くん。弓ノ間くんをたすければいいんだね。まかせて」
大きな眼がぎらぎらと輝いてロジェに向けられる。激怒しているのだ。霧流が本気で怒ると眼光だけで相手を簡単に威圧してしまう。
「ごめん、おねがい……燕」
「おれも行くぜ、燕」と遙兵。
「ううん、ぼくひとりでいい。猛地くんは魁くんから離れないで。四人でいっしょにここから出よ」
遙兵は「あ、うん」とうなずいてノエルを見た。目を離したすきに別の場所へ移動されるという危険も考えなくてはいけない。鉄人が心配だが、霧流にまかせるしかない。
「おれ、もう、しらねえ。クレイ博士に会いたかったら自分らで室長に交渉しな」
ロジェはぶつくさと文句をたれてマイクに向かった。音声スイッチに手をかける。
「アルド室長、悪ィ、すぐ戻ってくれよ。ちっとばっか、ややこしいことになった」
どこか別の部屋との会話を漏らすまいと聞いているうちに、音声に混じって鉄人の声がすることに遙兵は気づいた。
「テェェェエエエェツゥゥウウウゥウ!」
呼びかけると、スピーカーから驚きとともに元気な声が返ってきた。
あンの野郎。
遙兵は顔をくしゃくしゃにした。間にあったのだ。鉄人は罵声もきちんとかわせるくらいに元気だ。いつもの鉄人だ。
「心配させやがって、ばかやろう」
遙兵は顔をごしごしとこすった。眼の奥が熱い。
「すぐにたすけてやるからな」
少しでも勇気づけようと、力強く言う。鉄人に届いたかどうかはわからない。
ノエルの緊張した声が遙兵を現実に引き戻した。
「燕、遙兵。アルド・リンカーンウッドにも気をつけて。ラボのナンバー2だ。なにを企んでるかわかったもんじゃない。へたをしたら、交渉じゃすまされないかも」
霧流も唇をきっとむすんで遙兵の横についた。ノエルの横たわるケースをふたりで守るように立ちはだかる。
「ドクター・アルドはクレイ博士よりたちが悪いかもしれない。ぜったいに、見た感じに騙されちゃだめ。それにあいつ……たぶん、鉄人のこと……」
憶測にすぎない。だが、旧27ラボに勤務していたときから噂はあったのだ。
ドクター・リンカーンウッドの、ナンバー13に対する執着心は尋常ではないらしいという、下世話な噂。臨床的な雑用なら下の者にまかせておけばよいのに、アルドは完璧に自分の手でこなそうとする。まるで13のそばに邪魔な医師を寄せつけさせまいとするみたいに。
それは気晴らしに飢えていた多忙なスタッフたちの恰好の標的となった。
ずいぶんこだわってるんだってね。あんがい、ホレてるんだったりして。禁断の恋、ってやつか。報われないなあ、リンカーンウッド先生。
声をひそめて、冗談だからねと念をおしながらほくそ笑んだスノウの顔が思いだされる。
もはや冗談だなどと到底思えなかった。アルド・リンカーンウッドはこの上もなく危険な存在だ。鉄人に対して仄暗い感情を抱いているのはまちがいない。
ノエルは言いよどんだ。そこから先はたとえ遙兵に対してでも口にできなかった。
遙兵はごくりと唾を呑んだ。エレベータが降下してきたのだ。
扉が開き、きちんとネクタイを締めて白衣を上品にまとった青年がおりてきた。
「ムーチョ・グスト、ビエンベニド(はじめまして、ようこそ)」
身長180は堅いだろう。遙兵でも自然と見あげる体勢となる。よく締まった身体はまったく無駄というものがない。バレーボールの国際選手のようだ。
馬の尻尾のようにひとくくりにした髪の毛は肩まで余裕で届く。ノエルの評価を疑いたくはないが、人好きがする温和な表情に悪意を見いだせというほうが困難というものである。
「鼻炎がなんだって?」
余裕のアルドに呑まれないようにと、遙兵は先手を打った。「あんた、ニホンゴわかる? お話なら日本語でしてくんないとこっちだって困るんだよなあ」
「ああ、ごめんなさい。サーティーンと同じレベルではだめでしたね。うっかりしていました」
アルドは微妙に皮肉をこめてほほえんだ。友好的に握手を求めるが、もちろん演技であろう。心のなかには好意のかけらも存在しないにちがいない。
遙兵も霧流も手を差しださなかった。
「ところで」とアルドは首をかしげた。「今日、お客さまがいらっしゃる予定ははいっていなかったと思うのですが。突然来られても、このとおりこちらは忙しいところでしてね。所定の手続きをふんでいただかないと、いろいろと困るのです」
「茶番はやめましょうよ」と霧流。「お忙しそうですから用件だけぱっぱといわせてもらいます。そんなら文句ありませんよね」
霧流は一歩だけ前へ踏みだした。
「ハルモニア製薬に要望があるんです。サーティーンとトゥエンティセブンを勝手にどうこうしようっていう、その考えをあらためていただけませんかね。いまはふたりとも二重国籍になってるようだけど、ちゃんと弓ノ間鉄人、魁ノエルっていう日本の名前を持ってるんだから。所定の手続きをふまなきゃいけないのはむしろあなたたちなんじゃないですか」
「名前を与えたのは日本国の勝手な判断でしょう。プエルトリコ政府は産業スパイ容疑のかかっている犯罪者の亡命を容認してはいないようですけれど」
「だからうざったい日本を脅してでも両名を強制送還させるのが正当だってのがあなたたちの言い分ですよね。そういうやりかたは、大人げないっていうんです。アンワーズィー。わかりますか」
「ええ、わかりますとも。子どもが大人に対して使う言葉ではないけれどね」
「ほら、また都合の悪いことに耳を塞いだ。そんなだから総理大臣は陥とせても、銀町絵麗亜はウンといわせられなかったんだ。ハルモニア・ファーマシューティカルなら銀町財団のレベルくらい当然、認識してらっしゃったはずですよね。日本でだれがもっとも強大な権力を持っているのか、まさか知らなかったわけではないでしょ。グレアム・クレイさんなら、なおさらね」
アルドの表情があきらかに変化した。一筋縄ではいかない子どもみたいだね、と切れ長の涼しい目許がほくそ笑む。見る者の背筋を一瞬で凍りつかせる、冷たい色を隠しもせずに。
「サーティーンがハルモニアのものではないというのなら、テッド・ユミノマもエレノア・ギンマチのものではないと、そういう理論になるね。ならば彼の罪を裁くのは、いったい誰が担えばよいのですかね」
「罪ってなんだよ、そのいいかた。まるでテツが悪いことをしたみたいだ」と遙兵が吠えた。
「あの子の背負っている罪ですか。ご希望とあらばそんなものはいくらでも列挙できます。まずは彼の両親はプエルトリコ国民としての義務を果たしていませんでした。サーティーン自身の出生届すら怠っていたのです」
「そんなの、テツはなんも悪くねえじゃんか」
「そうですね。たしかに彼は不幸でした。しかしそのようなケースはけしてめずらしいことではありません。それが途上国のみならず、合衆国においても社会問題化しているのです。我が国でも不法滞在者が退去強制を逃れるために、生まれる子どもの人権擁護をないがしろにしてきました。彼がプエルトリコで大人になって家庭を持つとき、また同じことをするでしょう。罪が生みだすものはけっきょく罪でしかないのです」
「それも、机上の理論だ。格差を生みだすほうがずっと悪い」
「サーティーンの両親は国による生活保障と引き替えに彼をハルモニア製薬に売却しました」
遙兵はぐっと息を呑みこんだ。
「事実はきみたちが思うよりはるかに汚く、救いがないのですよ。サーティーンを二重国籍というきみたちの認識は過ちです。彼はもともと無国籍、存在しないはずの人間だった。エレノア・ギンマチが彼に貸与した日本国籍も、金を動かして用意したものにすぎない。美談などどこにもありはしない。だから我々はサーティーンをマウスと呼ぶのです。ヒトとして、ありとあらゆる意味で不完全だから」
「ふうん」と霧流は納得したような顔をした。「だからあんたたちは、弓ノ間くんがおいたをしないように見張っててあげます、ってことなんだ。思いあがりもここまでくると滑稽ですね。ま、それだけ弓ノ間くんが魅力的な人であることはぼくだって認めるけどさ」
ぎらぎらとした怒りはなりを潜めたが、霧流の深淵で静かにゆらめく青白い炎は破壊者の気を含みはじめていた。
「要するにハルモニアも銀町理事長も、自由奔放で何にも束縛されたがらない弓ノ間くんに恋をしたってわけですね」と霧流は言った。「持っていたって意味のない国籍なんて弓ノ間くんはいらない。愛情のないご両親ならそんな人たちはいなくたってかまわない。テストで満点とったってただの一度も張りだされた名前を見にこない。あの子はそんなことどうだっていいんですよ。それをなんだい、ハルモニアも理事長もさ、セコいことばっかり。どんなことをしてでも手にいれたいだ? 欲しいならどうして、弓ノ間くんからあのすごくきれいな自由を奪おうとするのさ」
「その自由とは、不自然な理論の上に成り立っていますね。得る権利を放棄することがサーティーンの自由ですか。そんな行為のどこがきれいなのですか。理解できません。ひどく矛盾しています。自由というのは、若いきみたちには魅力的なことばなのでしょうが……けれど、覚えておくといいです。自由には必ず義務がつきまといます。きみももう少しおとなになりなさい」
だが霧流は退かなかった。
「放棄することのほうが、取得することよりよっぽどむずかしいじゃん。あんたたちは弓ノ間くんのためにこんな途方もない施設を用意した。銀町理事長は私財をなげうって、日本を巻きこんだ一世一代の賭けにでた。梁山泊は人の心を得るための道具だし、13ラボラトリオは弓ノ間くんを得るための道具だ。金と地位さえあれば誰だってできるじゃない、そんなこと。弓ノ間くんは弓ノ間くんだからそんな道具で閉じこめるのはまちがってると言ってもきかない。どっちも手を退かないから、日本とプエルトリコ……ううん、合衆国が戦争寸前までいっちゃったじゃないか。それこそ狂気だ。狂ったやつらのいう義務なんて、守ってやる必要なんて、ない」
霧流の朗々とした独演に遙兵もノエルも割りこむことができなかった。口を挟んだ瞬間にギリギリで保たれている均衡が崩れそうな気がして、恐ろしかったのだ。
アルドは霧流に訊いた。
「きみがそこまで断言する、その根拠があるはずですよね。なんですか」
霧流は顔をあげて力強く宣言した。
「ぼくが、この世の誰よりも弓ノ間鉄人を愛しているから、ではいけない?」
遙兵の頭からサーっと音をたてて血の気が退いた。
「ぼくは道具なんかで彼の心を得ようとは思わない。ううん、はじめは同じことをしようとしてたのかもしれない。けどね、あの子のすべてをぼくに向けるためには、それではだめなんだって思い知っちゃったんだ。手足を縛ってキスをしたって、むなしいだけだ。あのきれいな身体が悦ぶようにやさしく触れて、舐めて、噛んで、感じさせて……そう、弓ノ間くんのほうからぼくを求めてくれるまで。魁くんが、それを教えてくれた」
げふっ、とノエルの喉が鳴った。
「どんなに愛したって、愛されなければぼくのものにはならない。弓ノ間くんを犯したい。ぼくのすべてと融合させたい。ぼくだけのものにしたい。だからぼくは、弓ノ間くんの心がほしい」
「きみは」とアルドがかすれた声でつぶやいた。「サーティーンとセックスがしたいだけ……か?」
「あれだけマウスだマウスだってばかにしながら、交尾って言わないんですね。そうです。それのどこがいけないんですか」
オス対オスだからじゃねえの、と遙兵は一瞬だけアルドの気持ちを代弁してしまった。霧流の異常な性癖はほんの数十分ほど前に身をもって体験しかけたばかりである。
それでなくとも鉄人は無防備なノエルの唇を奪うという前科があるので、よけい現実味が高まった。
行き場のない奔放な性欲をほんの一時、あられもない方向へ向けているだけだ、と遙兵は思いこもうとした。まさか本気で同性の鉄人を犯そうなどと思ってはおるまい。
霧流が本気であると知ったなら、創業百年目にして猛地家の未来はついえるであろう。きりたんぽを焼くたびにその微妙な形状に世をはかなんで身悶える若旦那など、企業間競争の厳しい時代に生き残れるはずがない。
ノエルもノエルで、自分だけ服を脱がされていることが急に恥ずかしくなってきた。臆面もなく舌を突きいれてきた鉄人がちらちらと脳裏をよぎる。あれはふざけただけだ、鉄人なりのなぐさめなのだ、ラテンアメリカじゃしょっちゅうあることじゃないか、と自分にあれこれ言い聞かせてみるが、頬が勝手に紅潮する。
このとき、アルドの変貌に気づいた者はいなかった。遙兵とノエルはもとより、霧流ですらも。
新たな狂気がアルド・リンカーンウッドを虜にする。
グレアム・クレイに追随し、博士の信念をただ忠実に支えていくことだけを遵守してここまでやってきた。
尊敬は嘘ではなかった。医学を志したときから微熱のようにアルドを苦しめてきたひとつの矛盾を、グレアム・クレイがぬぐい去ったからだ。
わたしとともに来るか、とクレイは手招いてくれた。実家の病院を継ぐ権利はそれを執拗に欲しがっていた従兄弟に譲った。父からは絶縁を言い渡されたが、もともと疎遠だったためにさほど苦には思わなかった。
ハルモニア製薬の研究室でアルドは自分がまちがっていないことを確信した。
医の道は立ち止まってはいけない。
ある日、ナンバー13が期待など求めない口調で訊いてきた。なあ、あんた。『ヒポクラテスの誓詞』を知っているか。
もちろん知っているとも。呪いのように唱和することが医学生たちの常であったから。
それは外科のありかたを根底から拒絶し、進化を認めない停滞の論理。
ばかげている。そのような過去のことばに束縛されて、形だけの奉仕を行うのが医者だというのか。医療現場を取り巻く状況も世界の流れも日々移り変わっていくというのに、医者だけがぽつんと取り残され、枯れ果てた人道を唱えつづける。
人類は永遠に死の恐怖から逃れることはできまい。人はみな、にこにことほほえみながら、ほんとうは死なずにすむ人生を終えるのだ。そんな世界では医者の存在意義などどこにもない。宗教者のほうがまだ人を救える。
悪魔になる勇気はあるか、とクレイ博士は言った。
もちろんです。
人類を救う一歩を踏みだせるのなら、ナンバー13が見せる悲しい顔すらもわたしの歓びです。
バイオエシックス(生命倫理)に心を痛める必要は、ここにはありません。クレイ博士、あなたの英断がそれを可能にさせたのです。真理を追究することがすなわち禁忌であり、悪魔の所業だというのなら、自分は生涯をラボに捧げてもかまわない。歳を重ねることのないナンバー13を見守りながら、この地で朽ちてみせます。
宣言したことがらに、嘘偽りや心変わりなどは、ない。むしろ以前よりも強く、余暇すらも惜しんでサーティーンに関わりたいと思うようになっていた。
二十七例中もっとも期待すべき結果をはじきだしたナンバー13は、幼い外見を持った少年であった。東洋の島国の血をひくという褐色の瞳にアルドは心奪われた。絶望を受けいれたがらないその勝ち気な瞳が、なによりも可愛かった。
からかうとすぐに寝具を頭からかぶって拗ねる。ちぎった新聞紙に潜るマウスと同じしぐさだ。
回廊状のラボ内を裸足でくるくると歩く姿も回転輪で遊ぶマウスそのものだ。
なによりも、小さい。いつも一匹だけぽつんと背中を丸めている。日に日に奪われていく瞳の光を完全に失うのが惜しくて、写真を頻繁に撮ってあげた。
また気まぐれに、内出血して青くなった内肘を注射針でわざと抉ってもみた。必要とも思えないプライドを必死に守りとおそうとする。平気なふりをして痛みをこらえているその表情も好きだった。
だが、もっとも自分の心を抑えようがなくなったのは、あのときだ。
研究で使用するためにナンバー13の精子が要る。採取手段はさまざまだが、もっとも原始的な方法をアルドは選択した。
経験がなかったのだろう。サーティーンは驚愕し、全身で激しく抵抗した。それこそこちらの思う壺であることも気づかずに。ベッドの柵に右手と左手を括りつけ、両足も同じ方法で固定し、恐怖で見開く褐色の瞳ににこりと微笑んで絶望を与えてやった。
歯がカチカチと鳴る。
美しい瞳が透明な水で湿っていく。
その唇を自分の身体で塞いでやりたいと、どれだけ思ったか。
医療用のラテックス手袋をはめて、年齢相応に小ぶりでかわいらしいペニスをそっととりだした。
身体が硬直する。やめて、と幾度も繰り返す。アルドを睨んでくれればよいのに、それすらもできぬほどにパニックを起こしている。反らされた瞳はかたく閉じられ、頬を涙の筋が伝う。蛍光灯にキラリと輝いた粒は思わず息を呑むほど美しかった。
恥ずかしがる必要などない。自然な反応なのだから怖がらずに身体をまかせればいい。
そう忠告しながら、頭の中でそっと語りかける。もっと泣いて。泣きわめいて。羞恥に頬をそめて、怯えた瞳をぼくに見せて。
快感を与えてやるだけだ。我慢しなくていいのだからね。
心にもないことをまた口にする。誘えば誘うほど、サーティーンは嫌悪で歯を食いしばるだろう。射精感に必死で耐えるサーティーンの顔をもっとずっと見ていたい。嗚咽にふるえる彼の顔を自分だけが知っていたい。
喉が痙攣し、空気が漏れる。
声を聴きたい。なのにサーティーンはきゅっと口を噛み結び、せっかくのそれを殺そうとする。
切ない思いがアルドにわきおこる。手のひらのなかで熱く、次第に硬く張りつめていく欲望を、サーティーンはけしてアルドに見せまいとして抵抗する。断固たる拒絶。どんなに暴れても無駄なのに。
唇の端に血がうすくにじみだしたが、それでもなお自傷することで意識を集中させまいとする。アルドはそっと空いているほうの指で唇に触れた。小刻みにふるえている。
汗と血と唾液をすくいとり、自らの唇に塗りこめてみる。
カメラ越しに見ているかもしれないクレイ博士に咎められるだろうか。
すでに博士は気づいているかもしれない。アルドの想いを知っていて、放置しているのだ。どうせなにもできやしないと。
サーティーンの表情がいっそう苦しげになった。噛ませられたガーゼの奥から、悲鳴にならない悲鳴があがる。限界がもはや耐えきれぬほどのレベルにあることを、アルドは察知した。採取用のコンドームを手早く装着して、マッサージを施す速度をあげる。
クレイの視線がなかったら。
愛しくてたまらないサーティーンを、自分だけのものにしただろう。
そうだ。グレアム・クレイ。彼さえいなかったら。
光を失った瞳、力を失った両脚、感情を殺したうつろな心、もっとも魅力的なサーティーンのすべてが手にはいる。
ひとりでは生きていくことすらできないあの子を永遠に自分の手元に置こう。小さく丸まってふるえる背中を抱きながら、やさしくささやきかけよう。
”愛しているよ”
自分こそが真実の愛。この世の誰よりもというならば、賞賛されるべきは自分であるべきなのだ。ぼくはサーティーンに尽きることのない愛を与えられる。彼がズタズタに傷ついてそれを拒絶しても、逃げる場所などないのだ。あの子の瞳はなにも映さない。歩く脚もない。そうだ、たすけてと叫ぶ声も奪ってあげようか。
霧流がふたたびクレイとの接触を要求した。言いたいことはすべて吐きだしたらしく、あとは話しあいがしたいとの一点張り。
「できれば弓ノ間くんも同席させて、彼の意志もきちんと確認したいんだけど。本人の気持ちを無視して進めるわけにはいかないでしょ」
アルドは腕を組んで首を振った。
「サーティーンは現在、動かすことのできる状態にはない」
「どういう意味だ。まさかもうテツになんかしてんじゃねえだろうな」
再噴火寸前なのは遙兵である。遅いかもしれないというノエルの危惧が気にかかった。
「ああ、もう遅い。無理をして明るい声を出していたみたいだが、ざんねんながら面会させるわけにいかない。それにぼくがここへ来る前に睡眠導入薬を投与したから、いまごろもう眠っているはずだ。いまはとにかく安静が必要でね」
「グレアム、クレイ……か?」
霧流が低くうなった。「あいつが、やったのか。弓ノ間くんにまたメスを入れたんだろう。あいつは弓ノ間くんの価値をわかってない。美しいものに手を加えるなんて。そんなことが許されていいはずがない」
「そうだね」とアルドは目を伏せた。「ぼくもきみを支持しよう。たしかにサーティーンは人間ごときが壊してよい生命体ではない」
霧流は瞬いた。
「そう思うんなら、どうして止めない。なんで弓ノ間くんが暴力を受けるのをだまって見ていた」
「13ラボの最高責任者はクレイ博士だ。ここではあの方が絶対だからだ。少なくとも……」
アルドの唇がうっすらと笑った。「さっきまでは、そうだった」
「え?」
アルドは首筋に手をあてて襟足を軽くさすった。なにかを考えているようなしぐさだ。
「ロジェ、バーソロミュー、このふたりを見張っておいてくれ。いうことをきかないようだったら縛ってもいい。ああ、痛めつけるんじゃないよ。面倒なことになるからね。携帯電話はお預かりしておこう。どうせ気づいたエレノア・銀町がそろそろ手を打ってくる頃だろうが」
アルドは檻のむこうに目をやった。窓から見える外は暗いが、夜明けは着実に近づいている。
「夜明けが来たら、ここも変わる」
アルドはふと謎の言葉を漏らした。
霧流は不満をぶつけた。
「返事をもらってないよ。クレイ博士と会わせてくれってお願いしてるのに、ひょっとして無視?」
「いや。ただきみたちのやりかたは、少しばかりまずかった。ご心配なく。多少、お待ちいただくだけのことだ」
霧流はようやく内ポケットから小型拳銃を出した。バーソロミューから奪ったものだ。
バーソロミューは鼻から息を少し吐いて、言った。
「まだ気づいていなかったのか。それ、ちゃんとよく見てみろ」
遙兵が叫んだ。「さっき、オモチャじゃないって言ったじゃん」
「ああ、オモチャじゃないよ、本物だ。ただし……」
霧流は動揺もせずに、静かにバーソロミューをさえぎった。拳銃には目もくれずに放り投げる。
「気づいてないわけないじゃない。弾がはいってないなんて、一瞬でわかったよ。約束どおり、それ、返します。どうもありがとう」
遙兵はあんぐりと口をあけた。
「さすがだな」とバーソロミューは感心した。「そっちは囮だ。実際に使うのはこっち」
スラックスの裾をめくりあげる。ハンドガンが粘着テープで止められていた。
「燕、知ってたのか」
「うん、ごめんね」
「ごめんね……じゃ、ねえだろう……ったく、おまえはよぉ。ハッタリで生きるのもいい加減にしろよ」
「こういうやりかたをしなけりゃ生きてこれなかったんだ。組長の息子なんてさ、損なだけだよ。いいことばっかりじゃない」
最後のほうはよく聞き取れなかった。
痛めつけるつもりがないことを宣言してもらったので、こちらも抵抗するのはよくない策だと割り切ることにした。ノエルの様子を確認できるだけでもましである。ただ、鉄人の安否がどうしても気になった。
どの程度の容態なのだろうか。
これ以上危害を加えることはあり得るのだろうか。
「待っていなさい」
アルドはそう言い残して、エレベータに消えた。赤いランプがひとつ上がって、停止する。
「このすぐ上にいるんだね」と霧流。
ロジェが補足した。
「上には処置室と、クレイ博士の居室がある。お楽しみに興じるとしたら、そのどちらかだろうぜ」
遙兵は焦りを隠しきれずに霧流を見た。大きい瞳はじっと一点を見つめていた。エレベータである。
鉄人を奪還するならやはりこのルートしか考えられない、と策を練っているのだろう。
アルドに博士の説得を期待できそうになかったが、待てというならばいまは待つのが正しい。だがいったい、彼はなにをするつもりなのだろうか。
アルドの内に危険な炎を感じることができた者はだれもいなかった。
まさかグレアム・クレイを排除して権力を自分に移行するために、隠し持った刃を剥こうとしているとは、この時推測できるはずもなかったのだ。
アルドは暗い通路にひとり立って、その一歩を笑いながら踏みだした。
イエスに背いたイスカリオテのユダのように、裏切り者として地獄の最下層へ堕とされるだろう。だがもはや迷いはない。
愛しいマウスを独占することだけが、アルドの願いのすべてであった。
サーティーンとともに堕ちるなら、煉獄の劫火も恐ろしくなど、ない。
2006-03-26
