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熾天使共振-摩天楼のインビジブル・ハンド3

 夜の明けきらぬ中途半端な時間のせいで、一般用エレベータは各階から操作されている形跡がない。霧流と遙兵を乗せてドアを閉じると、途中の階に立ち寄ることもせずにまっすぐに上へのぼっていった。
 先にホールの案内板で九六九大学医科学研究所を調べておいた。五十六階と簡潔に示されているだけであった。銀町がインターネットで検索した情報によると六十階代の半ばまで大学の名義になっているが、それ以上のことはなにもわからない。
 もともと客人を想定していない施設なのだろうが、内情を知っているこちらとしては寒気を禁じ得ない。
 エレベータの操作パネルを見てさらに驚いた。表玄関であろう五十六階をのぞくすべての階に停止することのできない構造になっている。
「入り口とせいぜいそのひとつ上あたりはダミーっていうところかもな。胡散臭っさ。九六九大学ってもうちょっとちゃんとした学校だと思ってた。こんだけハルモニアに深く関わっていたんじゃ、ロクなもんじゃないよ、きっとね」
 五十六階が近づいてくる。独り言のような解説を終えた霧流はふいに大きな目をぱちぱちさせて、「えっ」と声をあげた。
「なんだよ」
 急に落ち着きがなくなった霧流を見て遙兵は不安になった。
「いまの、きいた」
「はあ?」
「叫び声」
「……へ?」
「弓ノ間くんだった。まちがいない」
 ただでさえ極度の緊張状態にあるときに笑えない冗談は勘弁してほしい。遙兵の耳にはなにも聞こえはしなかった。どうせ霧流の空耳だろう。鉄人のことばかりモヤモヤと妄想しているからついに幻覚があらわれだしたのだ。
「どうしよう、すごくいやな予感がする。ほらさわってみて、こんなに胸がどきどきしてる」
「わあっ!」
 油断していた遙兵の手はがっしりとつかまれ、襟のボタンをゆるめたシャツからするりと中に引きこまれた。胸だかなんだかしらないが、素肌がじかに手のひらに触れる。
「あにすんだ、ヘンタ……」
「しっ。合わせて」
 なおもわめこうとする口を塞ぐように霧流が下から唇を重ねてきて、遙兵は今度こそ本格的に絶句した。とろりと香る妖艶なフレグランスに気が遠くなる。カチンと凍りついた背中を霧流は誘うように華奢な指でツッと撫でた。
 こういうときは比内地鶏よろしくトリハダをぶつぶつ立てながらニワトリキックに至るのが本筋だろうが、不意打ちのショックと幼稚園以来かもしれないディープキスは凄まじいまでの精神的打撃を遙兵に与えたらしく、抵抗らしい抵抗も見せずになすがままにされてしまった。
 頭上でチンという旧式の電子レンジによく似た音がした。
 背後の扉が開く気配がする。
 遙兵は唇を奪われたまま後ろ向きにトコトコと押し出され、半回転してすぐ横の壁に背中をついた。
 霧流はなおも執拗に抱擁を与えてくる。合わせてといわれても頭の中が真っ白で、どうしていいやらまったくわからない。つやつやした霧流の髪の毛越しに、受付の男があっけにとられてこちらを凝視しているのがちらりと見えた。
 敵陣まっただ中でいきなりこの状況。最悪である。だがこうなってしまった以上、出直しがきくわけがない。
 霧流がどんなろくでもないことを企んでいるのか知らないが、ここはひとまず調子を合わせて――
「ひっ」
 脳内で十字を切って腹をくくった瞬間、いきなり情けない声が漏れた。舌をねっとりと甘噛みされたうえ、無防備な股間に手を伸ばされたのだからどうしようもない。
 ひきつけを起こしそうな頭のすみっこに本来の目的がひっかかっていなかったら、この段階で霧流はまっ先にあの世からのお迎え確定のはずだ。しかしいまやお迎えが近いのは遙兵のほうである。
 もちろん煽られたからとはいえ股間のそれが即座に反応するはずもない。むしろうっかり反応を見せてしまったらあとでこのエロ野郎にどれだけからかわれるか知れないので、意識を一点に集中させないようにぐっとこらえて、霧流混じりの唾を呑んでみた。
 腰を退けさせないようにと足が絡んできた。
 布越しに撫でつけていた手が器用にジッパーを下ろすのがわかる。
 気のせいだろうか。やけに手慣れている。
 おい受付の男、そうだそこの四角い顔のおまえ、ぼやっと見物してないではやくこいつの暴走を止めてくれ。
 遙兵は必死に懇願した。どうにも視線がさだまらない。遠くに反らそうとすると受付男がこっちを見ていて恥ずかしいわ、近くにあわすと紅潮した霧流の顔がやたら艶めかしいわで、目のやり場がないのだ。
 鉄人とノエルを救出することが最大目的なのはわかっているが、その前に緊急事案として自分が救出される権利を論じていただきたい。
 受付の男は危機管理能力がいくぶん劣っているらしく、ぽかんとした表情でエラの張った頬にボールペンをあてていた。遙兵はグレアム・クレイよりも誰よりもこの無能なフロント男を縊り殺したくなってきた。
 指が下着をめくって下腹部にすべりこみ、急所をじかに揉み出した。
 ブリザードとパニックのブレンドされた強烈な刺激が背筋を奔り抜ける。
 喉の奥から断末魔のカエルの声がした。
 指は敏感な部分を扱いたり、ふいにそれて内股を這ったりと忙しなく蠢く。そこがどのような状態になっているかもはや考えたくはなかった。認識したそのとたんに離脱必須なのはわかりきっていた。
 膝ががくがくとふるえだす。
 小柄な霧流のどこにそのような能力があるのか、壁の支えをうまく利用して逃れられないようにじわりじわりと追いこんでいく。
 ようやく見咎めた男が重い腰をあげた。
「ええと……あなたたち、なんなんですか」
 いまごろおざなりに声をかけられても、アンタが救世主などと崇めるつもり皆無。なんなんですか、じゃないだろう。日本国社会を担う大人として暴走する若い血潮を諫めるのは当然の義務ではないのか、そこなる男。
 憤りでもして気をまぎらわさなくては即刻イキそうなのであった。
 よいのか悪いのか倫理はともかく、身体は至極健康的な高校一年生なのである。
 霧流ははあぁと大袈裟に吐息を漏らして、たっぷりどっぷりわざとらしく振り返った。
「ジャマ、しないでよぉ……おじさん」
 最後の”ん”のあたりでふたたび遙兵に口づける。
「はあ。で、ですけどここはちょっと、デートする場所じゃないんで、その……」
 霧流は顔をきゅっと美しくしかめて、鬱陶しげに男をにらんだ。少年の発する妖艶な気に相手はたじたじとなる。
 退いてはいるが、格闘したら手強そうな巨漢だ。
「て、展望ラウンジにご用でしたらこのエレベータは途中止まりですので、四十五階の中継地点かもしくは一階までいったん下りていただいて、乗り換える必要がございまして」
「そんなこと、わかってるもん。あいにくぼくたちがご用のあるのは九六九大学なの」
「……はい?」
 男が攻撃レンジまで近づいたのを見計らって、それまで遙兵に絡まっていたほうの足が鋭くうしろに飛んだ。
「ふご!」
 みぞおちに踵の直撃を埋めこまれて男は前屈みに崩れた。つるつるの床に吐瀉物がぽたぽたと散る。
 かがんだ胸元からごとりと小型拳銃が落ちた。
 遙兵はぎょっとして「げっ」と声をあげた。だが霧流はすでに見抜いていたのか、男があわてて手を伸ばす前にさっと横から奪い取った。手慣れた様子で安全弁をはずすと、男の後頭部に押しつける。
 まともに戦ったら体格差がありすぎてこちらが絶対的に不利だったろう。だが霧流はうまいぐあいに背後をとった。
 慣れているというレベルではない。訓練された動きだ。
 燕組、どこまでデンジャラスなのやら。
「ごめんねえ。害のなさそうな受付さんだったら話しあいで穏便に通してもらおうと思ったんだけどさ、おじさん立ちあがるとき引き出しからコレ出したでしょ。ニッポンじゃこういうの所持している人、あんまいないよねえ? てなわけで必然的におじさん悪党認定」
「げほっ……やっ、やめなさい。そ、そ、それはオモチャじゃないんだから……」
「あれれえ、オモチャじゃないコレを持ってるほうがどうかと思うんだけど。ふうん、受付までこんな物騒な人が担当してるとはね。ってことは、この先にあるものが容易に想像できるって感じじゃん。ねえ、猛地くん」
 話題を振られて遙兵は夢から覚めたようにこくんこくんと頭を縦に振った。ご開帳のジッパーをもとどおりに上げることも忘却している。熱の溜まった股間以上に頭のほうがもっとむんむん熱い。
「さあて、ちょっと案内してもらっちゃおっかな、おじさん」
 霧流は銃口で男の頭部をコンコンと小突いた。こちらが有利とはいえ、プロの荒仕事屋にちがいない人物をなめているのではないだろうか。勇気があるのか無謀なだけなのか、大胆すぎる霧流の行動に遙兵は一抹の不安を抱いた。
「どこへだ」
「ああもう、いちいちめんどくさいなあ。きまってるじゃない。”ナンバー13”と”ナンバー27”のところだよ」
 男はぐっと唸った。その表情から意味がわかっていることはバレバレなのだが、あくまでもしらを切るつもりなのだろう。低く否定する。
「なんのことをおっしゃっているのかわかりませんね」
「ああそう、ふーん。あのさ、どうせここのことはモニタしてるんでしょ。監視カメラいっぱいあるようだし。グレアム・クレイさんに見せたら一発でお通ししなさいって言うハズなんだけどな。どうする?」
「博士、が……」
 漏らしてから男はハッと口を押さえた。だがもう遅い。
 霧流はにっこりとほほえんだ。
「ほおら、やっぱりつながってた。ビーンゴ。それに見た感じ、ここってホントに見せかけの研究所なんだね。夜だからかもしんないけど、もともとスタッフそんなに多くないでしょ。さっきからこんなにドタバタしてんのにだれも飛んでくる様子、ないみたいだし。まっすます、胡散臭いや。それとも正面から来るまいとでも思ってるのかな」
 霧流の観察眼に遙兵も舌をまいた。言われてみるとそうだ。このフロアさえもほかに人のいる気配はまったくない。
「親玉組織の最重要機密だもんね、ナンバー13は。ぜったいに漏らさないためにまずは裏切る可能性のある内部を整理したってわけだよね。プエルトリコの叛乱も身内の仕業だったしねえ」
 男はわなわなとふるえた。先ほどまでの対外的な腰の低さはかけらもない。前線警備として単独配置されるからにはそれなりに強烈なくせ者なのだろう。
「エレノア・ギンマチの仲間か?」
 もはや隠すことはないと察知したようだ。急に口調が凄みを帯びる。
「うーん、どうかな。ビミョーだな。銀町先生ならぼくの学校の理事長サンにはちがいないけどさ。関係あるようなないようなってとこですよ。それよかおたくらのクレイさんが、ぼくらの友だちにひどいことしようとするから、文句いいに来たんだよね。どこかにいるんでしょ、ナンバー13とナンバー27」
「テツとノエルだよ。知ってんだろ」と遙兵も威しをかける。
 男は開き直ったようにため息をついて言った。
「案内してもよいが……忠告は聞いておけ。ここでいますぐ引き返したほうがきみたちのためだぞ。博士に目をつけられたら、おそらく二度と外には戻れまいからな」
「ふーん……見逃してくれるつもりはあるんですね。ならばこっちもそれなりに礼を尽くさなきゃいけないのかな」
 霧流は銃を下げた。スルリとジャケットの内ポケットに入れる。
「これ、お借りしときます。ちゃんと帰りがけにお返ししますから。夜分すいませんけど、お客さんとして通してください」
「命知らずのガキだ。知らんぞ、どうなっても」
 どうやら霧流は気に入られたらしい。驚くべきことに、これこそが燕霧流の交渉術だったのだ。
 男は笑みすら浮かべ、ついてくるようにうながすと、カウンター内側のパネルを操作した。背後でシャッターが静かに下り、エレベータとのあいだを完全に閉ざした。霧流たちの逃走防止というよりも、これ以上無用の侵入を防ぐためだろう。
 点々と照明灯の並ぶ無機質な通路を三人は言葉も交わさず通り抜けた。乱れっぱなしの下半身を思い出した遙兵は慌ててようやくジッパーをあげた。甘い香りがまだまとわりついているような気がする。
 最奥まで来るとそこにもうひとつのエレベータが隠してあった。男がパネルに手のひらをあてると、電子音が軽やかにひびいてドアが開いた。

 どろどろとした暗い眠りから覚めて重い瞼をあけたノエルの瞳に、最初に飛びこんできたものはアルド・リンカーンウッド医師の顔であった。その瞬間、己がロジェによって拉致されたことをあざやかに思いだした。
 飛び起きようとした身体は当然のように固定されていてぴくりとも動かなかった。状況が見えてくるうちに、全裸にされ奇妙な形状をした寝台にくくりつけられていることがわかった。
 身体の周りは透明なガラスのようなもので完全に覆われている。寝かせられて、上から長方体のガラス箱をかぶせられたような感じだ。
 標本箱に磔にされた蝶。
 屈辱がふつふつとわきおこる。
 そのうち外部の音がまったく届かないことに気づいた。この箱自体が完全な防音になっているのかもしれない。
 ガラス越しに見えるアルドの顔がにこりとほほえんだ。おはよう、とその唇が動く。もちろん声は聞こえない。
 アルドの指が傍らのパネルを軽く弾いた。プツリと音がして、スピーカーを経由したような声が耳もとに聞こえた。
「ぐっすり眠ったね、トゥエンティセブン」
「ここは……」
「プエルトリコじゃないよ。まだ日本にいるから安心しなさい」
 ノエルの眉間に怪訝な皺が寄った。友人たちをダシに誘い出し、海神先生の口を封じて、なにをしようというのか。
「ラ・ダムネイションを回収する気だね」
 鉄人のラ・ムエルトとちがい、ラ・ダムネイションは気まぐれすぎる。だからクレイ博士から最終指示が出たのだろう。
 自分が鉄人に想像以上の影響を与えることも自覚できていた。ハルモニアにしてみれば災いの芽は摘んでおくに越したことはない。
 こういうこともあろうかと想像はしていたが、ついに解体されるのか、と思ったらため息が出た。
 アルドは打ち込んでいたらしい携帯電話をたたむと、ことりと傍らの小机に置いた。見覚えのある機種だと思いきや、それはノエルのものであった。
「いまね、サーティーンがすぐ近くまで来ているよ。そろそろお迎えにでようと思っていたところなんだ。きみの目が覚めてちょうどよかった」
「鉄人が……?」
 ノエルは精いっぱい首をもたげて叫んだ。
「まさか、ぼくを囮にしたってわけ? 鉄人が心配するとふんで、つけこんで……」
「ごめんね、説明している時間がない。あとで、またね」
 アルドは音声スイッチを切ってしまった。ふたたび無音の空間に戻る。自分の声だけが虚しくガラスに跳ね返った。
 心臓がばくばくと跳ねあがった。アルドの姿が視界から消えると、かわりにあの男が興味津々という顔でのぞきこんだ。たしか名前はロジェ・ウィンドブラトといった。
 白衣を着ている。医者だというのはほんとうなのだろう。
 海神瀞偉を眉ひとつ動かさずに撃った男。
 ノエルは怒りに頬を紅潮させて視線を反らした。
 こんな人間のクズに裸体をさらしているのがひどく屈辱でもあった。
 卑怯。
 ハルモニア製薬の医師たちは目的のためなら手段を選ばない。
 せめて鉄人が卑劣な罠にかからないでくれたらよいのだが、あの鉄人のことだ。ノエルが危ないとなれば我が身を省みず乗りこんでくるのだろう。
 歯噛みしてもすでに遅すぎた。
 願い虚しく鉄人の姿を認めたノエルは、我慢しきれずにぽろりと涙を流した。
 ごめん、鉄人。ぼくが迂闊だった。
 アルドが連れてきたのは、たくさんの拘束帯でがんじがらめにされ、必死に叫んでいる鉄人だった。
 名を呼ぶ。
「鉄人」
 鉄人の唇もひとつの名を刻んだ。何度も、何度も繰り返した。
 ノエル、ノエル、ノエル!
「テッ……鉄人……鉄人! 鉄人ぉ!」
 ラ・ダムネイションに請願する。このガラスを粉々に砕いてくれ、と。
 声が届かない。叫びが届かない。願いが届かない。ラ・ムエルトに届かない。
 ぼくたちの自由は何者にも阻まれないのではなかったか。そうだ、あのときのように、手と手が触れあうことができるならば。
 それがかなわぬならせめて皮膚のごく一部でもいい。鉄人の熱をそこから感じることができるばらば。
 鼓動と鼓動を重ねられるのに。
 すべてを浄化することができるのに。
 鉄人を独占するアルド・リンカーンウッドが美しくほほえんだ。無駄だよトゥエンティセブン、と。
 鉄人はアルドと激しい口論をはじめた。会話の内容はわからないが、冷静沈着な態度のアルドに対し鉄人は興奮してぽろぽろと悔し涙を流している。ノエルは胸が締めつけられた。プライドの高い鉄人が泣いている。
「鉄人におかしなことをしてみろ、ぼくは、許さないからな」
 独り言に終わってしまうのを承知でノエルは吐き出す。
 きっと鉄人も同じことをアルドに言っているのだろう。聞こえなくてもわかる。
 アルドが屈んで、鉄人のスニーカーを片方ずつ脱がせた。黒ずんだ泥水をたっぷり吸ったコンバースが床にころがる。
 裸足の鉄人を守ったスニーカーなのに、まるでごみのように扱われる。泥まみれになった姿がここまでの長い長い道のりをノエルに教えてくれた。
 靴下をはくのも忘れ、無我夢中で追ってきたのだ。ノエルをたすけようと。
 引き裂かれた川。チグリスがきみ。ユーフラテスがぼく。
 もうじゅうぶん苦しんだ。ひとつになりたい。ひとつになって、ぼくたちは海になりたい。なのにどうして許してもらえないのか。
 アルドの顔が挑発するように鉄人に近づく。
 首筋に口づける。耳のうしろに唇を埋める。なにごとか囁いているようにも見える。
 鉄人が動けないのをいいことに、好き勝手なことばかり。ベールのように覆う薄ら笑いは内包する毒を隠そうとしても隠しきれない。
 ととのった知的な顔立ちは、仮面だ。その下にある醜悪な顔を見せぬための。
「やめろ、鉄人はおまえのモノじゃない。薄汚い手でさわるな……」
 救うことのできぬ悔しさに濡れた瞳にロジェの姿が映る。小さな注射器を手に鉄人に近づいてくる。
「なにをする気だ、まさか」
 自分ではなく鉄人を解体するというのか。
 手に負えなくなったラ・ムエルトを制御するために、鉄人の身体を見限るつもりなのだろうか。
「よせ……そんなこと、やめろ! 鉄人!」
 アルドはちらりとノエルを見て、車椅子を押して鉄人を連れて行ってしまった。最後に目と目があった鉄人はくしゃくしゃの顔をしていた。陽気な彼にはとても似つかわしくない、深い絶望を浮かべて。
 アルド・リンカーンウッドの行為はまさか、別れの口づけだったのか。
 これが最後というのであれば、ラ・ダムネイションに命じてもいい。
 強欲なるおまえの意志で、ここにいる全員を呪い殺せ。
 後悔するひまも与えぬように。辛辣に。天の裁きを下したまえ。
 ―――神様。
 愉しそうな表情のロジェがまたガラスをのぞきこむ。アルドが消えたのを見計らって、音声のスイッチをオンにした。
「やれやれ、マウスのおトモダチはしょせんマウスだよなー。まさかこんな子どもだましの手にひっかかるとはおれもちょっとびっくり」
「やっぱりぼくを囮に使ったんだね」
「おたくら、天才なんだかアホなんだかほんっと、わかんねーな。なあ、なんでそんなに単純明快なんだ。一般人のおれにもわかるように説明してくれよ。じゃねえとおれ、インビジブル・ハンド・プロジェクトそのものを疑っちまうぜ。マジでよ」
「人の心がわからないやつになにを説明しろっての」
 ロジェは舌打ちした。
「ああわかんねえよ。マウスの心なんてよ。わかりたくもありませんヨ。でもま、おかげで退屈な飼育がちいとは面白くなったかもな。あいつ、二度と歩けないようにしちまうんだってよ。こんど逃げたらクレイ博士、気が短いからぶちキレて、殺しちまえって言いかねねーしよ。見張りをつけとく手間も省けて一石二鳥」
 ノエルは絶句した。
「二度と歩けないようにって……いま、それで、鉄人は」
「さあてね。クレイ博士に拷問されてんとちゃう」
 ロジェはいまにも舌なめずりをしそうな顔でクスリと笑った。
「泣き叫ぶほどイタいお仕置きをしてあげるってきいたような気がするけど?」
 左手がずきんと痛んだ。中枢を駆けめぐった怒りがそこに集約しようとしている。脈拍を数えることができるくらいに頭ががんがんと鳴る。
 拷問する?
 鉄人から脚を奪うって?
 そんなことはさせるもんか。
 第一、ラ・ムエルトが容認するわけがない。
「ナンバー13もよ、完璧に近い仕上がりだと思ってたらけっこうそうでもねーんだってな」
 ロジェがからかうように言った。「なんでもかんでもセラフィム使っていい思いするかと思いきや、あいつ、やりかたわかってやってるわけじゃねーのな。あっちのラボから逃げたときも、博士がおたくらの学校に乗りこんだときも偶然ムエルトにスイッチはいったって感じだったっていうじゃん。博士いわく、制御してんのはサーティーンじゃなくってムエルトじゃねえか、だってよ。おたくだってそうだろ? 意図してやったつもりはねえんだろ、こないだの、あれ」
 ノエルの瞳が困惑して泳いだ。父の命を奪った、ラ・ダムネイションの暴走のことだ。
「……だったら、セラフィムを麻酔かなんかでおとなしくさせときゃ、ってのが博士たちの考えね。あぶねえ本体さえ黙らせちまえばイレモノを煮ようが焼こうがムエルトさんは知らんぷり。な、理にかなってるだろ? さっきのあれ、単なる神経遮断薬だけどよ、あんなんでもちゃんと効果あんのな。意外や、意外。おたくらとおんなじくらい、単純明快」
 ノエルはごくりと唾を呑んだ。ちがう。それでは辻褄があわない。
 左手がこらえきれないほどきつく脈打ちはじめていた。疼きが尋常ではない。鉄人のセラフィムに強く反応しているからだ。
 ラ・ムエルトは眠ってなどいない。
 鉄人がいま受けている痛みや屈辱をすべて怒りのエネルギーに変えて、ラ・ダムネイションに伝えようと試みている。
 いちど互いを認めたセラフィムは、愚かしい人間とちがってけして相手を裏切らないのだ。
 ロジェを見ると疑いのかけらもなくへらへらと笑っている。少なくともノエルの異変には気づいていない。
 とある仮定に思い至って、ノエルは訊ねた。
「あのさ、このセンスないガラス箱。これいったいどういう意味があるの」
 ロジェはきょとんとして、そのあとおかしそうに言った。
「やっぱ、恥ずかしいか。晒しモンじゃな。ガラスじゃねえよ、そいつぁー特殊強化樹脂。防弾防音で外因的破壊力にめっぽう強いってハナシだぜ。水族館の大水槽なみの厚みがあるってきいたぞ」
「なんのために」
「あー? きまってんじゃねーか。おたくとサーティーンを隔離しとかねえと、やばいことになるってわかってっからよ。ダムちゃんによけいなまねされてここのラボまで吹き飛ばされるわけにゃいかねえや。接触干渉しなけりゃどうってことねえんだろ」
 仮定は立証された。セラフィム相互の干渉は直接の接触によるものと思いこんでいるのだ。たしかにそれは完全なまちがいではない。皮膚の一部が触れることで交感を劇的に容易にし、未知なるエネルギーを創造することが可能となるのは事実だ。
 質量をともなうものが障壁を抜けることはけしてらくではない。しかし量子力学の世界では脳波でも素粒子でもそれをやってやれないことはない。セラフィムが単なる人工ニューロンならまだしも、医学の想像を超えた存在である以上、どのような物理的障害もおそらくは意味を成さないであろう。
 ”やってやれないことはない”
 漠然とした言葉だが、それを信じるしか道はない。
 だいじょうぶ。チャンスはまだ残されている。
 あと少し。あともう少しだから。耐えてくれ鉄人。けしてあきらめないで。
 左手に襲いくる断続的な痛みは、鉄人の受けている痛みだ。
 共振しているのだ。
 代わってやることができなくとも、悲鳴を受けとめるくらいならやってみせる。
 少しでも、意識を――鉄人に向けなくては。
「ちなみにその箱。瞬時になかを真空にもできるんだぜ。物証隠滅もボタンひとつだ。便利だろ」
 ロジェの嘲笑もノエルの耳にはすでに届かなかった。
 ただじっと鉄人を想い、左手が宣戦布告するのを待った。

 むきだしの神経に灼けた杭を突き刺されたようなものである。鉄人の身体が跳ね、括りつけられた両手に引っ張られて押し戻される際に、額をしたたかに枠に打った。
 脊椎麻酔が完全に効いていないこともクレイは承知の上なのだろう。わざと投与量を減らしたということもあり得る。むごい仕打ちを加えることで誰が飼い主かを徹底的に叩きこむつもりなのだ。人を人とも思わない、クレイらしい残酷なやりかただ。
 鉄人は歯を食いしばって耐えようとしたが、痛みは限界をはるかに超えていた。苦しみを持続させるように計算されたクレイの技術に痛覚が研ぎ澄まされ、気を失うことすらもできない。
「やっ……アアッ!」
 治療と思えばまだあきらめもつく。だがクレイは鉄人の神経組織を意図的に破壊しているのだ。どこの世に、患者を救済しない医師がいるというのか。
 このまま殺してくれたほうがまだマシに思えるような激痛はあとからあとから鉄人を襲った。身体が勝手に抵抗してもがき、ベッドが軋む。
 ベルトで固定された手首がすり切れて血がにじみだした。
 肩口を強く押さえられて鉄人は喘いだ。アルド・リンカーンウッドだ。
 じっとりと汗ばんだ手を握られるが鉄人はそれを払いのける。
 誰がそんな汚らわしい手にすがるか。
 おまえの手は必要ない。バラバラにされようが、死を突きつけられようが。アルド・リンカーンウッドに助けは請わない。
 最後のプライドを、鉄人はほとんど無意識で守りとおした、
 クレイは血だらけの器具をトレイに置き、アルドに後処置と持続点滴の挿入を命じた。
「脊髄ショックを脱するまでぜったいに動かすな。マルティプルインナーベーションの臨床実験はそのあとでよい。脱水症状と発熱、それと、このマウスにかぎってまさかとは思うが自殺は警戒しておくように。トゥエンティセブンと会話をさせるくらいは構わないだろう」
「はい、ドクトル。おつかれさまでした」
 クレイは後頭部から鉄人の髪をいっそやさしげに撫でた。
「これで少しは懲りたかねサーティーン。お仕置きはとりあえずおしまいだ。しばらく眠りなさい。落ち着けるように薬を選んであげよう。おとなしくしていれば、これ以上痛めつけることなどたぶん、あり得ない」
 だが、最後の威しとばかりにつけ加える。
「ああそうだ、リンカーンウッド室長のいうことをよくきいて無茶はしないほうがいいな。多少の知覚を残してあげるようにはしたつもりだが、少しでも動いたら保証はできかねる。完全麻痺という結果になったら頑固なきみのことだからさぞや屈辱と思うが。歩行と運動はとりあえずあきらめなさい。セラフィムの力を借りると言い張るのならまたべつだがね」
 痛いことはしないというそばから、アルドが左肩に点滴針を固定する作業は強い痛みをともなった。だが鉄人はうつぶせになったままされるがままにまかせた。動く気力などさすがに微塵も残っていない。
 肋骨から下はひどい熱をともなって、不快の塊のようだった。血が全身をガンガンと脈打って流れるのがわかる。笑いごとではなくほんとうにこのまま二度と立ちあがることはできそうにないような気がした。
「とりあえずラボにもどろうか、サーティーン」
 言いながらアルドは鉄人の手を括っていたベルトをていねいにはずした。消毒綿で手首にこびりついた血をぬぐい、包帯まで巻いてくれる。
「動けるようになったらこの服も着替えようね」
 ベッドからの落下防止に脇の下あたりを軽くぐるりと固定されたが、鉄人でもすぐに解くことができそうな簡単さだった。この部屋に連れてこられるときの大袈裟な拘束が嘘のようだ。
 この状態で抵抗できるものならやってみろ、ということなのだろう。
 鉄人は自由になった右手を口元にあて、左手でそれをかばうように顔を覆った。嗚咽をアルドに悟られたくなかった。
 寝かせられていたベッドはストレッチャーも兼ねていて、アルドは脚部のロックを解除してクレイに一礼すると、通路に押し出した。完全バリアフリーなので振動はほとんど心配ないが、細心の注意をはらってエレベータに向かう。
 鉄人がかなりの精神的打撃を受けていたので、アルドはめずらしく気を遣ったのか終始無言を押しとおした。
 エレベータの生体認証システムに手をかけようとしたとき、天井に設置されたスピーカーから引きつった声がころがり落ちてきた。ロジェである。
「アルド室長、悪ィ、すぐ戻ってくれよ。ちっとばっか、ややこしいことになった」
 アルドも上を向いて声をかける。
「どうした」
「どうもこうもねえよ。ギンマチ軍団のお仲間がふたりほど、マウスの奪還とかでお越しなんだよ。バーソロミューのヤロウが通しちまったんだ。ひとりは燕組のボンだぜ。あいつら、トゥエンティセブンをみつけやがって……とにかく、こういった事態は想定外だからよ、アンタ、仲裁してくれよ」
 鉄人はびっくりして頭をもたげた。
「燕? なんで」
 その声が向こうにも届いたのだろう。激しく聞き覚えのある頓狂な秋田訛りがスピーカーをびんびんに震わせた。
「テェェェエエエェツゥゥウウウゥウ!」
「……ハー? なんでおまえまで……って、おい、こら、まさかてめぇ!」
 上半身を動かそうとした瞬間、凄い力で押さえつけられた。アルドである。
「まずいな。いちど処置室に戻るよ。きみはクレイ博士とそこを動かないように。ぼくがまず様子を見に下りる」
「テツ! 無事か、そこにいるんだな、無事だったら大声だせ!」
「ったりめーだ、心配なんていらねーよ。こンの単細胞、バカ、アホ、ドアホ」
「バカアホドアホドチビはテツだろーが!」
「やかましい! ドチビはよけいだ」
「きみを下品な世俗に貶めた張本人かい、彼」
 アルドはストレッチャーを反転させ、急ぎ足で処置室に戻った。こちらのスピーカーからも同じ音声が流れていたのであろう。緑色の術着を脱いだクレイがマスクをはずしながら、クックッと引きつり笑いをしていた。
「まったく、エレノア・ギンマチの集める人間どもは何故こうも、そろいもそろって……」
「アンタも銀町先生の教え子ってきいたけど?」
 遙兵の罵声を聞いて少しだけ気がらくになったのか、鉄人は毅然と言った。
「ああ、まさしくそのとおりだよ。もっともできの悪い生徒とでも嘆いておられたかい」
「あ、いや、あんがいおれとどっこいかもしんねーし、そのへんは……あとが怖いから、ちょっと」
 言い淀みながら、鉄人はおかしくなった。遙兵の声を聞いただけでこんなにも元気を取り戻す自分が単純すぎて。グレアム・クレイにセラフィムごと捕らえられていることすらも忘れてしまいそうになる。
「ドクトル、わたしは下に行ってきます」
「任せる」
 鉄人はわざと明るく威嚇した。
「おいドクター、おれのダチなんだから鄭重にもてなせよ。ちょっとでも妙なマネしたらまっ先にてめぇのテロメア捕食してやっからな。銀町先生のおっかない爆弾だって空から降ってくっぞ。おれ、知ーらね」
「エレノア・ギンマチの爆弾は現実味があるね」と真顔のクレイ。
 アルドは仰天して目を瞬かせた。堅物の博士が冗談につきあったのを見たのははじめてだったのだ。
 スピーカーから泣きべそがきこえた。
「おーい、アルドちゃーん」
「いま行く」
「テツも連れてこねーと爆弾に電話かけるぞ!」
 アルドは音声を遮断した。これ以上、サーティーンと侵入者の会話を容認するつもりはない。
 アルドの後ろ姿を見送りながら、鉄人は心のなかで謝罪した。遙兵が一世一代の無茶をしたのはわかりきっているのだ。どうか自分がそちらに行くまで無事でいてくれ。
 点滴されている薬のせいか、身体中がだるい。眠ることなど考えもしないのに、瞼が抗えなくなっていく。眠ってはだめだ。遙兵が自分を救出するためにこんなところまで来たのに。
 意識が奪われていく。
 なにもかも重い。
 暗い闇に飲みこまれる直前に鉄人は思った。
 もしものことがあれば、遙兵と燕をこんな事態に巻きこんだ自分はこんどこそ立ち直れない。そんな最悪の結末などは、考えたくなかったが。
 だが――もしも。
 友人たちを失うようなことになったら、ラ・ムエルトを葬ろう。
 ”死神”を抹殺できるのは、死神と呼ばれる自分だけだ。
 方法などはいくらでも考えつく。
 あとは勇気さえだせばいい。


2006-03-23