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カテゴリー: ターミナル/末期回路

長編「 ターミナル/末期回路」

罪と罰と

 人の声にまくらをそばだて、テッドはわずかに身じろいだ。やや土臭みのある練り香は麻酔の作用も併せ持つのだろう。痛みはなかったが、肩口がやけに引きつった。気を失っている間に焼かれたのかもしれない。
 瞼を持ちあげるのも億劫なので、そのまま寝たふりを決めこむ。身体の上にはやわらかい掛け物の感触がある。頬に感じるのは、焚き火のあたたかさだろう。大丈夫、どこかはわからないが、厚遇されている。当面の危険はなさそうだ。
「しかしぶったまげた。よもやあんたが、訪ねてくるとはね」
 抑揚のない声が耳に届く。喉で無理に発声しているような、病に冒された老人を思わせる。男である。
「驚いたのはわたくしもおなじです。いえ、いまでも信じられません。まさかあなた様ほどのお方が、砂漠の盗賊団の頭領だなんて」
「落ちぶれたものだ、と」
「そんな、ペトルーシャ殿」
 温和な声の男はうろたえたようだった。
「フフ。あいかわらず、疑うということを知らぬ男だ。まったくよ、おれがいなかったら、どう切り抜ける気だった?」
「申し開きもできません。己の甘さはじゅうじゅう反省しております」
「反省ね。そういや、しょちゅう反省会をやってたな。おたくらが得意な机上の理論ってやつがおれは嫌いでね。反省で済むならあんたはよかろうがよ。女房が悪党に輪姦されて、そのガキが退屈しのぎにブッ殺されても、甘かったって口にできるのかい。だったらほんまもんのおしあわせってやつだが」
「……もうしわけございません」
 ひやり、と額に冷たいものが触れた。誰かが絞った布を乗せてくれたのだろう。テッドは自分が発熱していることに気づいた。
 テッドの傍らにつき添ったサーシャは、当惑した瞳で盗賊とあるじをかわるがわる見た。盗賊団の頭領、ペトルーシャは同じ寺で修行した過去の同士であった。派閥に属さない僧侶のひとりで、仏道にそぐわないやさぐれ者。多々の罪で囚獄生活を送ったあと、遠方の地に謫居を命じられたはずであった。永久追放された男が、盗賊に身をやつしたのだろうか。
「まあ、いい。あんたみたいなのもいるから、この世は動く」
 言葉遣いは穏やかなのだが、ペトルーシャの声には血がかよっていなかった。接触しようとする者を容赦なく切り刻む、琥珀色の眼。サーシャをとり囲んだ野蛮な男たちのほうが、まだまともに思えた。この眼に射竦められたときの恐怖を忘れられない。一刻も早く、ここを立ち去りたい。
 お気づきになりませんか。この者は狂った眼をしております、イシュトバーン様。
 サーシャは必死に念じた。
「それよりイシュトバーン。次はあんたの理由を訊かせてもらおうか。温室育ちが砂漠なんぞをうろついている理由をな。しかも女房連れたぁ、どういうこった」
「わたくしも、流罪を賜りましたもので」
「なに?」
「議会に逆らって、職を追われたのです。居場所をなくしてしまいました。サーシャとは気ままな旅の道往きです」
 ペトルーシャはクックッと引きつったように笑い、「なるほど、なるほど」としきりにうなずいた。ギラギラと光る双眸でイシュトバーンを捕らえる。
「座主め、”夜の紋章”の奪還にあんたを隠密裡に遣わしたな」
 テッドは緊張した。夜の紋章、という聞き慣れない単語に第六感が反応したのだ。
「よく、おわかりで」
「フン。いつ切りだすかと待ってやったのに。おれはな、こう見えても気が短いんだ。あんたがあんまりのらりくらりなもんでしびれがきれちまった」
「あなた様が夜の紋章を持ちだされたことは聞き及んでおります」
 サーシャは口を掌で覆い、驚愕を呑みこんだ。
「持ちだした? 馬鹿を言え。おれはたぶらかされたんだ」
「では、あなたの御意志ではなかった、と」
「星辰剣の野郎が、穴蔵から連れだせと脅迫してきやがったのさ。あのイカレ紋章め、まんまとおれを『運び手』にしやがった。適当に甘い汁を吸わせてな。あいつの手口は巧みだぜ? だてに世界を統べてねえ。あんたも喰われんようにせいぜい気をつけるこった。どうせ次の継承権が、あんたにあるって筋だろ。見え見えなんだよ」
「わたくしが継承者であることは、座主様のみがご存じです。それから、門の紋章をお守りするレックナート様と、妻のサーシャと」
 門の紋章? レックナート?
 なにかとても、重大な話に思える。真の紋章が集いはじめているのだろうか。夜の紋章。門の紋章。どうも引っかかる。自分が砂漠に招かれたのも真の紋章の指図だったとしたら。ソウルイーターが制御を失ったのも必然で、戦乱を起こすためにわざと仕組んだのだったとしたら。
 ぞくり、とテッドは震えた。
「北の街を、あんたは見たか」
 前触れもなく、ペトルーシャは切りだした。
「はい。目を覆うような光景でございました。あれを虐殺と申しあげるにはあまりにも理不尽。絶大なる悪意をひしひしと感じました」
「虐殺? 生ぬるいね。ありゃな、破壊というんだ。殺したつもりなんかこれっぽっちもねえんだろうよ。鬱陶しいから、プチッと潰しちまっただけだ。蚊を叩くのといっしょさ」
「それも、真の紋章がおこなったのでしょうか」
「それ以外に誰ができる。ひょっとして星辰剣の野郎、仲間の匂いを嗅ぎつけてフラリと遊びに出たくなっちまったのかもしれねえぜ。いつも息苦しい堂内じゃ、真の紋章サマもストレスが溜まるんじゃねえの」
 仲間に、会いに。
 こいつか?
 テッドの右手がぴくりと動いた。そこに住まう、あまりにも危険な相棒に疑惑の問いを投げかける。
 そうなのか。あれはただ友の眼を惹きつけるようとする、おまえの子供じみた無邪気さだったのか?
 ところが相棒は腹がいっぱいで眠りこけているのか、うんともすんとも言ってこなかった。
 不意に視線を感じた。誰かがテッドを見ている。
 感情のない眼で。
 じっと見ている。
 ……だれだ?
「わたくしは、夜の紋章を追います。ペトルーシャ殿、わたくしは温情にすがることしかできませぬが、それでも……感謝しておるのです」
「盗人に感謝、ねえ。人を信じるのもたいがいにしねえと、あしたはあんたが屍になるぜ」
「お恥ずかしながら、わたくしはこうでもしないと成長できない愚か者のようです。夜の紋章に辿りつくことが、わたくしに課せられた試練であると思っております。あす死ぬかもしれない危険を知らずして、紋章だけ継承しようなどと、おこがましいことです。あるいは夜の紋章にためされているのかもしれません」
「”リーパー”は必ずあんたを狙ってくるぞ。どうせあいつらに星辰剣をいいようにできる価値などない。あんたを従わせて命令させるくらいが関の山だ」
「ご忠告、ありがたく承ります」
「ククク、笑わせやがるぜ。かっさらったはいいが、星辰剣がとんでもなく厄介な大我が儘だと気づいてあいつら、オタオタしてやがるだろうな。愉快、愉快。ま、おれもあんな口の悪い紋章とおさらばできてせいせいしたってところだし」
「痛み入ります」
「……夜の紋章もよ、あんなふざけた持ち運びのきく姿じゃなく、身体に寄生するシロモノだったらよかったかもしれねえ。取りあいを迂闊にさせねえように、よ」
 ペトルーシャはやけにまじめくさって言った。
 サーシャが訊ねる。
「イシュトバーン様、この子は」
「いま動かすのは無謀だぜ。おれが面倒を見てやる」とペトルーシャ。
 サーシャの顔が曇った。いくら助けるためとはいえ、このような気味の悪い男に預けてよいものだろうか。
 サーシャの不安を察したイシュトバーンが、やさしくほほえみながら言った。
「サーシャ、心配には及びません。どのような道を歩むもこの子の気持ち次第です。それに、これしか方法はないでしょう。見とどける時間はないのですから。わたくしたちはこの子が笑顔をとり戻すことを信じて、前へ進まないと」
「はい……イシュトバーン様」
 間もなく、男と女の気配が静かに消えた。重い帆布の揺れる音を聴き、ここが砂漠に設えたテントの中であることにテッドは勘づいた。
 また、あの視線だ。ねばりとまとわりつく執拗な、冷たい視線。
「狸寝入りがじょうずだな」
 抑揚がない。ペトルーシャと呼ばれていた男の声だ。テッドは目をあけた。
「さいしょっから聞いてたんだろう? ああ、無理に動かねえほうが身のためだぜ。ちいとばかり、おまえにとっちゃキツいものを使ったからな」
 動こうにも全身が不気味に気怠く、力がまったくはいらない。熱や麻酔薬のためだけではないのかもしれない。
「ククク、あのなまっちょろいボンボンには感謝しなくちゃいけねえな。こんな、おもしろい手みやげをわざわざ拾ってきてくれて、よ」
 声から想像していた年齢より、ずっと若い。歴戦の痕を刻みつけた濃褐色の肌に、利刃一閃を狙う琥珀色の瞳。
 瞳の奥に、常闇が口をあけている。狂おしいほどに、他者の”色”を欲している。
 もらった。けして逃さぬぞ。
 ハンティングだ───魂の。
 そうか、ずっと感じていたのはこの視線だったのだ。なにか別のものと混同しかけてはうやむやになることを繰り返していたが、いまようやくはっきりとした。
 相棒と同じ眼。
 禁断の共時性。成立してはならないシンクロニシティ。
 それはテッドにとって、呪いと絶望を招きよせるものを意味していた。
 勘違いするな。こんなのは単なるトラウマだ。怯えるあまり、過去の恐怖に重ねているだけだ。
「怖いのか。”力”を持っているくせに」
 相棒と同じことを呟く。
 ヤバイ。テッドは呻いた。心からの恐怖を誤魔化しきれない。
「北の生き残り、ね。そこで髪の毛一本分も疑わないのがさすがイシュトバーンだな。最後に生き残ったやつが真犯人、そこに思い至らねえようじゃあいつも長くねえ」
 先の黒ずんだ、ごつい指がのびてきてテッドの右手に触れた。覆うものをすべて奪い取られ、あらわになった異形の痣を、ペトルーシャは慈しむように撫でた。乾いた、岩石のように硬い指だった。
「絶大なる悪意、とはうまく言ったもんだな。北の惨状を見てよ、惚れちまったよ。夜の紋章がいなくなって、ほっとしたけどよ、つまらねえ毎日はもううんざりなんだよ。なあ、おまえのほうからやってきたってのは、運命ってやつか?」
 指が撫でる。ぞわぞわする。テッドは思うようにならない声帯を駆使して、拒絶をひねりだした。
「……死にたくなかったら、失せろ」
 ペトルーシャは、咳きこむように嗤った。
「おまえは、”教育”のし甲斐がありそうだな」
 舌舐めずりをする。そこに悪魔がいた。

 バー『クリプト』は滅多に使用することのない準備中の看板を掲げ、入口を鍵で閉ざした。治安部隊は中に人がいないか、あるいは経営者の家族のみであろうと素通りしていくだろう。まさかこの奥でハッシュの首脳陣が会議をしているとは思うまい。
 割方饒舌なドラムヘッドが今日に限ってぶすりと黙りこくっている以外は、活発な議論が交わされていた。プラグ、ドラムヘッド、シルバ、アンテセブテックの中核に加え、テッドを匿ったアパートの大家であるロドリーゴ『ストロー(麦藁)』、中央区の情報に通じている掃除夫レオナルド『イーヴスドロップ(雨だれ)』、質屋の地下で武器や防具の闇市場を運営するアンリ『レッドヘリング(燻製鰊)』の初期メンバー三名も同席していた。
 イーヴスドロップは市から委託された中央広場のゴミ拾いの最中に目撃した”リーパー”と見られる一行をよく記憶していた。集団は七、八名ほどだったろうか。異様な姿はとにかく目だった。イーヴスドロップはぽかんとして、ゴミ袋から意識を反らした。
 法衣を目深にかぶっていてもすぐ女性とわかる小柄な美人が、イーヴスドロップの視線に気づき、佳麗にほほえんだ。彼の頬はみるみる赤く染まり、そのおかげで女性を警護するように歩いていた屈強そうな男たちの会話を聞き逃した。
「情報屋として減点十だな」
 プラグの判決が下る。掃除夫はがりがりとみすぼらしい頭を掻いた。
「けど、日をうかがっていたことは確かでさあ。市長を殺るのはともかく、たまたま官邸に国の要人がいるとこを狙ってますし。メンバーを見たら腰を抜かしますぜ」
「イーヴス、もったいぶるな。誰が人質にとられたって?」
 イーヴスドロップは灰色の虹彩をぎょろりと回して、浮かれるように言った。
「大法官のアーネスト・トムキンス。この国じゃあ元首の次にお偉い人ですわ。それから側近が、何人だったかな、とにかくいっぱい。側近っていっても、きちんとした身分の高官ばっかりですぜ。大法官は市長とは懇ろだったご様子でね。なんのご用事でこんな辺鄙ないなかに、しかも偉い人ぞろぞろ引き連れて来られたのかあたしは存じませんがね」
「トムキンスって知ってるわ。ハリーをしょっぴいてった憲兵が偉そうにかざしてた逮捕令状に、でかでかと名前が書いてあったもの」とシルバ。
「へいへい、ドロンドロンに胡散臭いねェ。ところでシルバ、国家元首の名前は知ってるか」
「まっさか。選挙権もくれないような業突張りは知らないよ」
「ようし、それでこそおれの女房だ」
 プラグの言葉が終わらぬうちに、がたん、と椅子を蹴る音がした。小山のような男が立ちあがった。ドラムヘッドである。
「悪りい。やっぱり、捜しにいってくる」
「いま出ると逮捕されるぞ、ドラムヘッド」
「じゃあなんでひとりで行かせた。なんでとめなかった、プラグ」
「理由ならすべて説明したはずだが? 座れよ、ヨゼフ」
 拳をきつく握りしめて、ドラムヘッドは耐えた。プラグがあんな薄ら寒い冗談を吐く男ではないことはもちろんわかっていた。アンテセブテックという証人もいる。それでもなお、こみあげる怒りは制御できなかった。テッドの正体がなんであっても、相談もなしに勝手に袂を分ったのは我慢ならない。
「あいつを拾ったのはおれだ。おまえじゃない。そうだなプラグ」
「たしかに。悪魔だってことを見抜けもしないで、な」
「テッドは悪魔じゃねえ。ふざけるな……なんにも知らないくせに。外に出たら命の保証はないって叫んでたろうが。そんなさなかに追いだしたてめぇのほうが、よっぽど悪魔だろうが」
「声を落とせ。外にひびく」
「ドラムヘッド、あの子はぼくたちのために自分から姿を消したんですよ」
 弱々しく言ったのはアンテセブテックだった。
「やさしい子です。でも、やさしすぎるから、あんなにボロボロになるまで傷ついたんです。ぼくもあのとき、あの子がすごく怖かった。膝が笑いました。あの子は、賢いから、すぐそれに気づきました。悪魔を見るような目を向けられるたびに、ああやって身を引いてきたんでしょうよ。プラグだって、ちゃんと知っています。そうでしょう、プラグ」
 プラグは気まずそうにそっぽを向いた。不機嫌に言う。
「事実から逃げないで、認めなきゃいけねえ。北をめちゃめちゃにしたテッドと、おれたちの知っているテッドがざんねんながら同一人物だってことをよ。けどな、あいつの中には、二人のあいつがいるんだろうな。そう思うだろ。アンテセブテックの言ったとおりだ。歯がゆいけど、あいつが自分自身で解決することなんだ。おれたちが手だしのできる筋あいじゃねえ。問題のレベルがちがいすぎらあ。テッドはおれたちなんかより、はるかにでっけえ敵と戦わなきゃいけねえんだよ……」
 ドラムヘッドは、ぼんやりとテッドの顔を思い浮かべた。ひと月のあいだ同じ屋根の下で暮らしてきた。擦れっ枯らしで、大人を小馬鹿にした態度。妙に物知りで、すぐに人の揚げ足をとる。攻撃性を保つことによって、弱いほんとうの自分を匿っているように見えた。ダウン・タウンで粋がっていた、もっと若い頃の自分とよく似ていた。
 ソウルイーターという渾名をつけてやったとき、テッドは愉快そうにけらけらと笑った。なんだ、ちゃんと笑えるじゃないかとほっとした記憶がある。迂闊であった。それが自嘲であることに気づかぬとは。綻びを必死で隠そうとしたのだ。そして笑った。愉しげに。激痛をこらえながら。
 もうイヤだ、こんなの。夢にうなされながら吐きだした。ドラムヘッド───おまえが追いつめたんだぜ。
 後悔、悲しみ、喪失感。これはおれへの罰だ。
 テッド。戦いに行ったのか。ちっこいのに、ひとりでどんどん先に行っちまうのか。おい、置いてくなよ。ちいとは立ち止まれ。こっちを向けよ。嘘はおれがぜんぶ預かってやる。だからおまえは心から笑え。
「あの子はぼくたちに、戦えと言いましたよ。いまはそれに応えるしかないんじゃないですか? ドラムヘッド」
 ああ、戦ってやる。剛胆な大男の眼に光が宿った。テッド、聞こえるか。おまえは『ハッシュ』を破門されたわけじゃない。忘れるな。おれたちは仲間だ、ソウルイーター。
「官邸の見取り図を入手できるか」
 ドラムヘッドは力強く訊いた。レッドヘリングがにやりと笑い、「まかしとけ」と胸をたたいた。

 ダウン・タウンと中央区をつなぐ地下道の存在は概要だけ聞いていたが、テッドはあえてそこを避けて地上の闇に紛れた。地理を頭に叩きこんでいる住人ならまだしも、右も左もわからないはじめてのような土地で、地下を過信しても意味がない。方向感覚を失うだけである。
 おあつらえ向きに日も暮れた。入りくんだ路地を逃げまわることには慣れている。ひょっとして泥棒の素質があるんじゃないかと思うくらいに。
 いちばんの問題は、足がついていかないことだ。摂食中枢がバカになっていたのは事実なので、しかたがないといえばたしかにそうなのだが、医者の忠告をもう少し聞いておけばよかった。まさかこれほど自分の身体が弱っていたなんて。自己認識が甘い。こういう小さなうっかりが、いつか命取りになるのかもしれないのに。
 歩哨の姿を認めるたびにテッドは物陰に隠れ、呼吸をととのえた。イシュトバーンをさがすと言って飛びだしてきたが、あてがあるわけではなかった。むしろ目的は、ドラムヘッドから離れることにあった。半ば衝動的である。
 ギリギリでうまく拒絶していたつもりだったが、失策であった。ドラムヘッドの本心をはかりそこねた。お節介な野郎め。
 これ以上、一秒たりとも傍にいることは危険だった。ソウルイーターの餌食にされてしまう。時がすでに遅くないことを祈るばかりだ。
 抱きすくめられたとき、すさまじい恐怖が電撃のように貫いた。ひとり喰ってしまえば、おそらくまた歯止めがきかなくなる。次はたぶん無差別に。北の市と同じことをしてしまうという確信にも近い予感に襲われて、咄嗟に思いついたのが、ドラムヘッドを喰う前にできるかもしれない唯一の方法だった。
 幸運にも手段は手元にあった。準備がいいな、ドラムヘッド。右手が胸ポケットを探り、ナイフを握る。刃の食いこむ感触は、不思議と甘美なものであった。
 苦しむかもしれないとか、怖いという感情はついてこられなかった。無意識の心理コントロール。そのことでは恩のあるペトルーシャの魂を盗んだときも、おかげで後悔や自己嫌悪とは無縁でいられた。そういえば、あのころからだろうか? 昼の自分と夜の自分とが、赤の他人に分かれてしまったような空虚な感じになったのは。
 ドラムヘッドは寸前でナイフを弾きとばし、テッドを殴った。救ったつもりなのだろうが、その代価として確実に天寿を全うできなくなったことには気づいていまい。
 いや、まだ間にあうかも。ソウルイーターを欺くことができれば。
 もうドラムヘッドのことは考えない。思考から排除する。それより次の策を考えろ。
 イシュトバーン・スンダクとリーパーは、それぞれが追う者であり、追われる者同士だ。官邸を占拠したリーパーがわざわざ犯行声明を用意しなくても、イシュトバーンは必ず現れる。リーパーが派手に動き回っていたのは、おそらくは事前段階として敵の目を向けるためだ。すでに双方が接触している可能性もある。数の上から見ると、圧倒的にリーパーが有利に思える。
 イシュトバーンはどう出る気だろうか。官邸には容易に近づけまい。中央区は厳戒態勢をとっている。ネズミの子一匹、入りこむスキはないだろう。さっき歩哨たちのひそひそ話をこっそり聞いたが、人質の中に国家のナンバー2が含まれている。
 リーパーはやはりイシュトバーンの名を挙げて、身柄交換を要求するだろうか。あるいはもう治安部隊が血眼でイシュトバーンを捜しまわっているかもしれない。外出禁止令を敷いたのは市民の安全確保ではなく、捜索の一環であると考えたほうがわかりやすい。
 盾を手にした鎧兵たちが横一列に道路を封鎖している。その向こうに市長官邸があるのだろう。突破するのはかなり困難だ。
 無策ではだめか。
 考えながら、テッドはふとおかしくなった。なにをやっているんだ、おれは。
 派閥争いなどにはなんの縁もないのに、身を挺して渦中に首をつっこむ気でいる。いますぐに関係を断ってとっとと砂漠から出て行くほうが、よっぽど賢いし、まともな考えだ。それでなくとも自分が関わるとなんでもろくな結果にならない。
 疫病神なのは自覚済み。こういう無謀さ加減は、がむしゃらなどという生易しいものではなく、すなわち暴挙という。
 つくづく、血を好むんだな、ソウルイーター。
 それとも、あの中にいる”夜の紋章”が招いているのか。
 魅入られているのは、おそらく自分のほうなのだ。
 テッドの脳裏に、なにかが閃いた。夜の紋章。策ならあるじゃないか。
 イシュトバーンより、もっと役に立つ交渉人を忘れていた。テッドはぎゅっと右手を握りしめた。呼吸をして、数をかぞえる。よけいな感情を追いはらう。
 準備ができた。テッドの足が、通りに歩み出た。
 とつぜん路地からあらわれた小さな人影に、兵たちは一斉に槍を向けた。ところが彼は躊躇もせず、しっかりとした足取りで、封鎖地点へ歩いてきた。
「何者だ、少年!」
 鋭い制止が飛ぶ。少年はすっと顔をあげた。月明かりに、茶の瞳が輝く。
 唇が動いた。
「イシュトバーン・スンダクだ」


2005-12-22