サーシャ・リンゼイが三つのとき、ひとりの高僧が彼女の暮らす質素な家をおとずれた。
僧職にはあまり似つかわしくない、重厚な剣を携えていた。サーシャは珍しいお客様に興奮し、膝にまとわりついて父母からたしなめられた。皺の刻まれた柔和な顔、品が良く優雅な物腰、慈しみに満ちたことば。それもそのはず、高僧は時の僧王その人だったのである。
この剣、ふしぎ。だっておかおがあるんだもの。サーシャはくすくす笑いながら汗でべとついた手で柄を撫でた。すると剣は口をひらいた。”これ、こそばゆいではないか、娘”と。父母は卒倒寸前でパクパクと喘いだが、サーシャは怯えもせず、すごいすごいとはしゃいだ。
僧王はやさしく頭を撫で、託宣がサーシャを星辰の子と認めたことを告げた。父母はこんどこそ眼を剥いてでんぐりがえった。なんのとりえもない、信仰すらさほど真面目とはいえない貧乏夫婦のひとり娘に、そんな大それたご神託が下されるとは。
幼いサーシャはまもなく親元を離れ、伽藍で仏道を学びはじめた。遊びたいさかりのサーシャにとって教義は退屈以外の何者でもななかった。年の頃が同じイシュトバーンと懇ろになり、手と手をとってたびたび寺を抜けだしては、低デルタの森を探検して回った。自然と生命の神秘に満ちた熱帯林は、子供たちに真の生きる意味を教えた。サーシャは笑顔のよく似あう、利発な女の子だった。
やがてサーシャとイシュトバーンは幼い恋をした。イシュトバーンさま、サーシャをおよめさんにしてください。イシュトバーンもほほえんでサーシャの額にキスをした。ぼくもサーシャがだいすきだ。やくそくだよ。
サーシャの暮らす坊に僧王はたびたびやってきた。よきおじいちゃんと孫娘のような関係に、寺の者も笑みをもらした。
だが。星辰の子と呼ばれるサーシャの真の役割を、伽藍の誰もが知る由もなかったのである。
夜の紋章を代々受け継いできた者だけに伝えられる、”星辰の子”の運命。継承順位の筆頭にいる者が不測の事態で斃れたとき、かわりの継承者となるよう人知れず育てられる。いわば、影。
僧王は時間をかけてサーシャに紋章の理を教え、そのすべてを記憶とともに少女の中へ封じた。活発で奔放な自我も、そのときサーシャの奥底にのみこまれた。
サーシャに残されたものは、イシュトバーンへの限りない忠誠と愛情だった。思春期を過ぎた女の子がいつまでも子供ではいられぬように、おてんばなサーシャはなりを潜め、やがて淑徳にあふれた大人の女性に成長した。鍵を壊して箱の蓋をこじ開けぬかぎり、サーシャはイシュトバーンに生涯つれそい、平穏でしあわせな人生を送るはずであった。
首尾よくサーシャに運命を託した僧王は、封印の鍵をサーシャ自身に手渡した。彼女が己の手で開けるも自由、また、イシュトバーンがそうさせるも自由。
光のイシュトバーンと影のサーシャ。志半ばでイシュトバーンが亡くなれば、大いなる意志は影に引き渡される。過去にも幾度かそういうことはあった。そのたびに世の中では戦乱が起き、おびただしい血が流された。
世界は平和によってのみ構成されることはありえない。夜があるからこそ、朝もおとずれる。戦いがあるからこそ、人は平和を誓う。光と影、輝きと闇、昼と夜、天空と大地、生と死。世界は両極の事象でバランスを保っている。
サーシャが本来ひとつところに持っていなくてはいけない自我を力ずくで両断したことで、内部に軋轢が生じることを僧王は懸念した。閉じこめられた奔放な自我が、魂の共存を拒むのではないか。事実、表側のサーシャは理由なき不安をたびたび訴えるようになっていた。
僧王自ら二人に正式な縁結びを持ちかけたのは、サーシャの不安定な心を少しでも和らげようという配慮からであった。そしてその試みはうまくいったかに思えた。
夜の紋章が詐取されるという、あってはならない事態が起こるまでは。
イシュトバーンはともかくとして、サーシャの自我は夜の紋章が繋ぎとめている。星辰の巫女はいわば夜の代理人。紋章とは単なる力ではない。サーシャ自身であり、人が手を触れることの許されない真なのである。略奪者は紋章の真実をまるで知らない。物か道具のように思っているのだ。
僧王は決断した。イシュトバーンとサーシャは、密命を背負って国を発った。
あれが、遠い昔のことのように思える。
サーシャは小さい飾り窓から夜の広場を遠く見渡し、ため息をついた。イシュトバーンめ、つくづく悪運だけは強い男だ。命を取りとめただと? おかげで星辰剣は、わたくしを未だ信頼しない。それどころか、連れあう条件として気に障ることを提示してきた。わたくしをからかっているのか。
半年前、北の市を滅ぼした真の紋章。あれを連れてこいと。
なにが、久々に会いたい、だ。自分勝手も甚だしい。また”運び手”に命じるなりなんなりして、自分で会いに行けばよいのだ。怠け者め。
適当に騒ぎを起こしてイシュトバーンの名をちらつかせ、ここで待ち伏せしていれば必ずや網にかかる。一部は星辰剣の入れ知恵だ。何故イシュトバーンの名が餌になるのか、それすらも腑に落ちぬ。人質は面倒だからと、どこかわからない時空の彼方にごっそり送りつけたのも星辰剣の仕業である。かの紋章は、薄ら寒い真似も平気でする。
忌々しいが、命令をきかないと馴れあわぬと言うのだから、仕方がない。
「ひとつだけ、確かめてもよいか」
サーシャは不満げに訊いた。「なぜあの紋章をそれほどまでに気にかける」
旧友だからだ。なんの不思議があろうか。
「友? おまえはあのような禍々しいものを友と呼ぶのだな」
ふふふ、このわたしをおまえ呼ばわりか。まあ、よい。
夜、生と死、月、罰……みな闇のもとにある友よ。もっとも禍々しく醜悪なのはおぬしら人の子だ。虚を求めてまことを知らぬ。
くだらない。こいつと問答をしていると気が滅入る。
「”生と死を司る紋章”……」
サーシャはその名をつぶやいた。なぜだか、ひどく魅力的であった。北が一瞬で死の街となるさまを目撃したからだろうか。
欲しいのか? 自問自答する。いや、あれはとても手に負えるものではない。夜の紋章ですらこれほど手こずるのだ。大いなる力は、二つは要らない。
だが、真の紋章には宿主がいるはずだ。わたくしはそちらに興味がある。
宿主とて、しょせんは人。大きすぎる力を手にした者はどんな顔をするのだろう。どんな生き方をしているのだろう。それが、見たい。
見て、そして───屈服させてみたい。
「”リーパー”。伝令が」
マルコが耳打ちした。サーシャの目の前で、イシュトバーンに殺意の剣を突きたてた男だ。光亡きあとは影が手にはいる。そう星辰剣にたぶらかされたのであろう。夜の紋章は、長らく平和であった世の中に退屈し、そろそろ戦乱をご所望らしい。
「イシュトバーンを名乗る者が出頭してきたそうです。ですが……」
「なんだ」
「子供です」
サーシャは眉をひそめた。なにか突拍子もないものが網にかかったか。
「窓からも確認できます。あ、あの少年です」
美しい琥珀色の瞳が驚きに彩られた。これは、なにかの冗談か?
いや……そうか。なるほど。
辻褄はあう。
「……招きいれろ。鄭重にな」
「はあ、しかし」
「舐めてかかると痛いめに遭うよ。計画に変更はない。いいね、殺してはいけないよ。右手と命以外なら、どこをむしりとっても構わないけど」
「わかりました」
マルコは一礼し、ドアを開けて出て行った。
偵察のため単独地下道に潜入したイーヴスドロップは、側溝の鉄枠を薄い頭頂部で押しあげて、双眼鏡を手にした。だいたいの地理的見当はつけていたものの、官邸は目視するにはまだ遠く、周辺を封鎖する兵士たちの会話も捕捉できなかった。
しかし、この先に地下道は延びていない。おそらくこの地点がもっとも近い。地上を接近するのは時期尚早だろう。治安部隊は当面の敵ではないが、むこうはハッシュを完全に敵と見なしている。こんなピリピリした空気の中に出ていったら、お好きにしてくださいと腹を差しだすようなものだ。
官邸内部になんらかの動きがあるまで、ここを拠点として見張りを続けるしかない。
それにしても、たいへんな兵の数だ。市管轄の雑兵だけではないだろう。国家のエリート兵が大量に投入されている。いったいいつのまに、この孤立した砂漠都市にこれだけの兵を配置したのだろうか。まるで事件を予測していたかのようではないか。
あいつら、北の尻ぬぐいをするためにこの街を利用する気だったな。
おまけに、占拠した謎の武装勢力を、ハッシュと同類程度にしか考えていない。
よっぽど触れられたくない醜態が、北の事件の背景にあるのだろう。国家ぐるみの必死の隠匿だ。情けない。
裏で真の紋章が関わっていることを知ったら、ここにいる兵士全員、尻尾を巻いて逃げだすにちがいない。
「ご苦労さんなこった。給金がっぽりもらってるんだろうねェ」
揶揄するようにつぶやき、双眼鏡に集中する。夜間なので詳しい動きはわからない。煌々と灯されている中央広場のあかりが、かろうじて現場の視認を可能にしていた。
双眼鏡を持つ手が緊張した。
包囲線の一角がざわめきだしたのだ。武装兵士が槍でなにかを威嚇している。人だ。
小柄で、鎧姿ではない。黒っぽい、濃い色の上着を身につけている。民間人だろうか。
「子供……か?」
謎の人物は兵と会話を交わしていたようだったが、すぐに包囲線の内側へ消えた。
胸騒ぎがした。
「……”ソウルイーター”?」
戻って、プラグに報告しなければ。イーヴスドロップは音をたてないように鉄枠を閉めた。
槍を手にした鎧兵たちがざわめいた。テッドの想像どおり、向けられた眼は疑惑の色に満ちていた。ここでいかにはったりをかけるかが重要だ。
人を割って上級兵士らしき男が来た。品はよさそうだが、目つきが鋭い。気の弱い者なら視線で射すくめられただけで降参しそうである。
「イシュトバーン・スンダクを名乗ったというのは、きみか」
テッドが返事をする前に、周囲の兵士たちが肯定した。
「どういうことだ。子供ではないか。ほんとうにこの子が”交渉人”なのか」
「フランツ隊長、しかし、武装勢力はイシュトバーン・スンダクを交渉人として指名してきただけで、年齢も素性も一切伝えてきておりませんが」
「市街の捜索はどうなっている。市民登録の調査は済んだのか」
「交渉人の名は登録されておりませんでした。現在、ブロックごとに旅の者を徹底的に洗っております。手つかずなのは、ダウン・タウンくらいで」
「ダウン・タウンか。確かあそこは市民登録の範囲外だったな。そっちを優先して捜索せねばならぬな」
「あのさ」
蚊帳の外に置かれたような気がして、テッドは呆れ気味に言った。
「もしかして、イシュトバーン・スンダクを捜す相談? 本人の目の前で」
フランツはぎらりと光る眼を向けた。
「きみがイシュトバーン・スンダクだというなら証拠を見せてくれ」
信頼をまったくしていない口調だ。当然か。十歳そこそこの子供に出頭して来られても。
「ざんねんながら証拠はなにも持ってないけど、中で起こってることならだいたい把握してるぜ。リーパーは、なにか要求してきたか?」
ふたたびどよめきが起こった。リーパーという集団名が、最重要機密事項なのだろう。隊長の目つきがあきらかに変化した。
「むこうからの直接的な要求はまだだ。交渉人を指名してきたこと以外では、沈黙を続けている。目的も、人質の様子すらもわからない」
「占拠犯の人数は」
「質問の前に、きみが答えろ。警戒の中、どうやってここまで来られた? 挙動の怪しい者はすべて確保するよう命令をだしている。どうやってすり抜けた」
テッドはにやりと笑った。茶目っ気たっぷりに言ってのける。
「お空からやってきたって言えばいいのかな。おれ、あんたたちが腰を抜かすような偉大な魔法使いだもん」
座がしんと静まりかえった。笑う者はいない。
「……ずいぶんとまたリアルな冗談だな」 フランツは低くつぶやいた。兵のひとりに指示をだす。「武装集団に伝令を出せ。これより交渉を開始する」
「隊長! まさかこんな子供の言い分を鵜呑みにするんですか」
「ダウン・タウンの迷路を捜索するのにどれだけかかる。何日、いや、何週間か? そのあいだに人質が死ぬぞ。賭けにでるしかあるまい。全責任は自分がとる。伝令を」
「へえ、少しは能力のある兵隊さんみたいだな、おじさん」
フランツは奇妙な表情をして、テッドを睨みつけた。視線を奥にある官邸に移す。
「よく見ておけ。路上に血だまりがあるだろう」
白い石畳に、どす黒いしみがひろがっている。
「午後、その場所で市長が惨殺された。犯人グループは言葉も交わさず冷酷に殺害のみを遂行した。真っ当な集団ではないと我々は睨んでいる。正体はわからぬが……いや、きみならひょっとして知っているのかな。用意周到で、凶悪であることだけは確かだ。もしきみが、まことのイシュトバーン・スンダクでないとしたら、この先は冗談では済まされぬぞ。覚悟はよいのか」
「上等、上等」
「ほんとうにわかっているのか」
「しつこい人だな。そうだ、信じてくれたお礼にいいことを教えてやるよ。おじさんの上司に伝えておいてくんない? こん中に、みなさんの怖がっているものがふたつもありますよって。せこいこと企んでないで、こんないなかの砂漠都市には自治権でも置きみやげにして、さっさと逃げたほうが身のためです。北みたいな死にかたはしたくないでしょ、ってさ。じゃ、頼んだよフランツさん」
極秘事項を適当に散りばめておいた。これで、第一関門の突破はおそらく完了だ。伝令が邸内から戻ってくるのを、フランツは無言で待っていた。ハッタリがだいぶ効いているらしい。
官邸は白亜の壁を持つ美しい三階建ての建物であった。古い建造物なのであろう。造りが重厚である。建築様式を愛でながら、とうとう首をつっこんでしまったか、と心の片隅でため息をつく。
武器を借りておいたほうがいいだろうか。せめてナイフでも。迷って、テッドはやめた。どのみち何十人いるかわからない戦闘集団に個人装備で対抗するのは無理だ。刃を向けられたらそこでお終い。いざとなったらソウルイーターがある。
門の開くのに時間はかからなかった。イシュトバーン・スンダクが単身で来い、というのが敵の要求であった。司令部は三階中央、市長の執務室らしい。
「イシュトバーン君」
フランツが呼びとめた。「大法官どののお命はきみにかかっている。くれぐれも、よろしく頼む」
「ああ、わかってる」
「わたしはきみが無事に戻るまでここで待ちつづける。期待しているぞ。だが、命は大切にしたまえ。きみはまだこれからがある。わかるな」
テッドは破顔一笑を返した。
ギイと不気味な音をたてて、扉が重く閉まった。迎えたのは、法衣を身につけたふたりの男であった。テッドに向かい、丁寧にお辞儀をする。
「イシュトバーン・スンダク様」
「……どうも」
「ご本名をお伺いしてもよろしいでしょうか。”生と死を司る紋章”の宿主殿」
氷の塊を、いきなり呑みこまされたようなものだ。道理でうまくいきすぎると思った。そういう筋書きだったのか。
「ソウルイーター。コードネームで悪いけど」
かすれた声でそう告げるのがせいいっぱいだった。
男はうなずき、おごそかに言った。
「では、ソウルイーター。三階で”夜の紋章”とリーパーがお待ちです。どうぞ」
「ご丁寧に、どうも」
いやな感じだった。弄ばれているような気がした。夜の紋章の差し金だろうか。それとも、リーパーか。夜の紋章を手に入れる過程で遭遇したもうひとつの真の紋章に、目が眩んだか。
夜の紋章がどのような性質のものかは知らないが、ペトルーシャに言わせると『一癖も二癖もあるひねくれた紋章』らしい。別の名は、星辰剣。人に宿らず、自ら剣の姿をやつしている。しかも、人の言葉を操る。
整然と等間隔に並んだ柱が薄ら寒い。一階はホールになっていて、先ほどの二人以外に人の気配はない。
「三階への階段は、階段をあがって左手、いちばん奥にございます」
背後から声をかけられた。
「ああ、そう」
「突破できるものでしたらね」
無意識に右手を握る。昨夜、ナイフの刃がくいこんだ傷がいまになって痛みを主張しはじめた。半年前もこういうことがあったな。テッドは階段をゆっくりと踏みしめながら思った。
あのときと同じだ。行くも地獄、戻るも地獄。
テッドが官邸内に消えて数分もたたないうちに、外では別の騒ぎが起こった。
「やかましい! どけ、通しやがれ!」
何者かが兵と押し問答しているようだった。イシュトバーンに気をとられているうちに、包囲線を突破されたらしい。怒号はだんだんに近づいて、隊長の目の前で足をとめた。
「いま、子供がここへ来たろう! 子供だよ」
真っ赤になって叫ぶ小山みたいな大男と、それより少し背の低い、だが体格は立派な男。ドラムヘッドとプラグである。
「きみたちは何者だね」
「自己紹介してるひまがあるか! 子供が来たか来なかったかって訊いてるんだ」
フランツは冷静に答えた。「イシュトバーン・スンダクという名の少年ですか? 彼ならいま、中ですが」
「……イシュトバーン? そうじゃねえ、おれたちの言ってるのはテッドだ」
「人違いです。ただいま取りこみ中ですので、お引き取り願えればさいわいですが」
ドラムヘッドはわめいた。「髪は赤茶色! 目ン玉もおんなじような色! 歳は十そこそこって感じで、顔色が悪い!」
「……は?」
「両手にケガして包帯を巻いていて、ガリガリに細っこくて病みあがり! ケツの隠れる黒の上着、あー、ブッカブカの着てたはずだ。それから、ここが重要、口が悪い!」
フランツは眉をよせた。
「たしかに……さきほどの少年と特徴が一致しますが」
「だからそいつがテッドだ。おれの息子だ! 返しやがれ!」
手がつけられなくなったドラムヘッドを、プラグはやれやれといった表情で見守った。地下を走るのはまだるっこしいと、厳戒態勢の地上を戦車のように駆け抜けてここまで辿りついたのである。二人とも全身傷だらけ。命がまだあるのが儲け物だ。
「彼はいま、武装集団と交渉の席についておりますが」
ドラムヘッドの顔がさらに紅潮した。
「あンの、バカヤロウ! 脳味噌がいかれてやがる!」
フランツはドラムヘッドを制した。「どうぞ、お静かに。武装集団を刺激します。お話をうかがいたいのですが」
その直後、官邸からすさまじい爆発音がした。空気がびりびりと振動する。身を竦める兵士たちの頭上で、二階の窓が粉々に砕けた。
「な、なんだ?」
誘爆を起こすように、衝撃波は何度も建物を揺らした。不気味な色彩の光が眩く夜の闇を焦がす。ガラス片が雨のように降った。
「爆発物が仕掛けてあったのか」
ヴィクターの問いに、フランツは頭を振った。
「火薬ではありませんね。魔法の発動のようです。それにしても……くっ!」
地震のように地面が揺れた。身の危険を感じ、伏せる。
「……なんなんだこれは……戦争かよ……」
ヴィクターの声が震えた。背中あわせになったフランツが呆然と訊ねる。
「あの人の息子は、いったいなんなんだ」
「ああ? 化けモンって言ったら気がすむのか? 説明しているひまはねえ。おいあんた、ちょっとそれを貸せ」
ヴィクターはフランツの剣を指した。
「こうなったらテッドも街もひっくるめて奪還だ。もう四の五の言わせねえぞ」
「やめろ、危険だ」
「遅ぇんだよ。くそ、ドラムヘッドめ行っちまいやがった。テッドが化けモンならオヤジは大化けモンだな」
魔法の発動には通常、それに見合った紋章を必要とする。潜在的な力は真の紋章には遠く及ばないが、市井の紋章屋でごく普通に売買され、誰でも宿すことができる。どれだけ効果を得るかは才能次第だ。
この時代、辺境ではまだ紋章は一般的ではなかった。ハルモニアなどの大国では普及していたが、砂漠の都市にはただの一軒も紋章屋などというものはなく、人々は魔法を目にすること自体が、稀であった。
テッドには突出した魔法の才があるらしかったが、あえて積極的に手を出したことはない。これまでの放浪では攻撃よりも逃亡を最優先にしてきた。子供が紋章を有しているというだけで奇異の目で見られるおそれがあったので、持つことを控えていたのでる。
紋章球を札に変えるという技術のあることを、テッドはこの戦闘ではじめて知った。これなら紋章を宿さずとも、携帯していつでも発動できる。階段の直後に待ち伏せていた襲撃者を足払いでひっくり返らせ、うまい具合に脳震盪を起こさせたところで胸ぐらをつかんだら、法衣のなかからばらばらと五行の札が出てきたのだ。
最初はそれがどのような役目を果たすものか見当もつかず、無我夢中でポケットに突っこんだ。次の襲撃者がずらりと並んだ扉の一枚から姿をあらわし、指先に同じようなものをつまんで詠唱を開始したのを見て、ピンときた。
だめでもともと。無造作に一枚抜きだし、表を見ると炎の文様が印字してあった。瞬時にこちらもうろ覚えの詠唱を開始する。すると。
とんでもないことが起きた。
「うわっ!」
テッドの前方で大爆発が起きた。それが自分の放ったものだと気づくのにずいぶん時間がかかった。ほんのちょっと挑発してやっただけで、烈火の札は最大級の興奮状態となり、敵を消し炭に変えてしまったのだ。
我ながら、ぞっとした。しかし詫びている場合ではない。
意識を、突破のみに集中する。感情を奥底へ排除する。ペトルーシャがテッドに乗り移ったかのようであった。薄く笑って、前を向く。
行くぞ。
二発目からは容赦がなかった。うめき声も助命の嘆願も、テッドには届かなかった。殺戮ではない。邪魔だから、排除しているだけ。心の痛みなど、微塵もない。
屍の懐から短剣を拝借した。弓を装備している死体もあったが、屋内ではこちらのほうがいい。
瓦礫と化していく通路の向こうに、広い階段が見えてきた。そこへ急ごうとして足を踏みだしたとたん、膝が不意に折れた。意識は明瞭なのに、身体が限界を訴えたのだ。
喘ぐような咳がこぼれた。なんとかしてもう少し誤魔化そうと、呼吸を試みる。二階フロアに敵の気配は消えていなかった。いったい何人いるのだろう。ひとりで太刀打ちするのはやはりきつい。
煙と埃に身を隠して、チャンスを窺った。一気に階段を駆け抜けようか。弓が飛んできたら最期だ。だが、正攻法でいってもたぶん勝ち目はない。
死ぬかもしれないな。
恐怖を封じる。ついでに表在感覚も。これで痛みは感じない。逆に深部感覚を研ぎ澄ます。考えるな。恐れるな。限界を無視しろ。
準備ができた。
テッドは衝かれたように立ちあがり、階段への最短ルートを駆けた。その後ろ姿にボウガンの矢が正確に狙いをつけた。もっとも至近距離にいた射手であった。
矢が放たれようとした直前、射手は後頭部を殴られ、悶絶して倒れた。大砲の集中攻撃を受けたかのような瓦礫の山を乗り越え、折り重なる死体に蹴つまづき、残党を素手で殴り倒してテッドのあとを追ってきたドラムヘッドが、殴打犯であった。
「テッド! どこへ行った、テッド!」
テッドは気づかなかったかさもなければ無視したらしく、とうに姿を消していた。
「三階か……」
階下の喧噪はよく響いたが、上階からはなんの物音もしなかった。プラグが自分のコードを呼んでいるのをかすかに感知し、「悪ぃな」とつぶやく。そして彼もまた、三階をめざして走りはじめた。
三階は煙の臭いがただよっていたが、下で待ちかまえていたような殺意はなかった。市長の執務室は苦もなく見つけることができた。テッドは呼吸をととのえると、いちど目を瞑って、あけた。静かに扉を押す。
部屋は広く、清潔な感じがした。申し分ないくらいにあかりが灯されている。部屋の中央、絨毯の上に、ひとりの女性が座していた。法衣を目深にかぶった、線の細い女性だ。
女性の瞳に驚愕が見てとれた。息を呑む音がひびきわたる。
「……あなた、は」
テッドは警戒した。この女性に心当たりは、ない。
「なぜ……ここにいるの……」
「……?」
「逃げて、きたのね……? ペトルーシャのもとを」
閃光がひらめいた。テッドの記憶が鮮やかによみがえる。姿は見ていない。だがこの女性は、知っている。
「あなたは、あのときの」
「憶えているの……憶えて、いてくれたのね」
琥珀色の美しい瞳から、涙がぱたぱたとこぼれ落ちた。だがそれをぬぐう指は、腕ごと無粋な縄によって縛められていた。イシュトバーンをおびき寄せる罠として、拘束されたのだろうか。
テッドは近づいて、縄をほどこうとした。しかしがっしりと固く食いこみ、素手では太刀打ちできなかった。ベルトに剥きだしで差しておいたナイフを使って、力まかせに切り離す。解放された女性の身体は恐怖で小刻みに震えた。
「ありがとう。わたくしはサーシャ。イシュトバーンの妻です」
「あなたには、命をたすけてもらったから……」
サーシャは悲しげな瞳をテッドに向けた。
「でも、わたくしはあなたを置き去りにしました……後悔しています。思いださぬ日はありませんでした。ペトルーシャの末期を風の噂に耳にして、幾度、北へ戻ろうと思ったことか。ごめんなさい。わたくしたちの択った方法はやはり過ちでした」
テッドはうろたえた。彼女はいったい、なんだ? 夜の紋章とリーパーの待つというこの場所で、居たのはこの人、イシュトバーンの妻。罠か、偶然か。
「かわいそうに……痩せたのね」
「えっ」
「苦労をしたのでしょう。こんなに痩せて、ボロボロになって……怪我までして。なんて、なんてむごい」
「ちょっ、ちょっと泣かないでよ。いまそれどころじゃないと思うんだけど」
品の良いのはおおいに結構なのだが、危機認識能力に欠けているらしい。彼女が人質のひとりなら、救助するのは当然だ。
「あの……イシュトバーンは」
「拷問を受けて……ひどい怪我をおっているの。わたくしが囮になって、なんとか逃がしたのですけれど、不甲斐なくもこのとおり人質にされて……イシュトバーン様の足枷になるなんて、耐えられない」
「夜の紋章と、リーパーは」
サーシャは怯えたように瞬きをした。「それは……」
どたどたと派手な足音がして、聞き慣れた声が執務室に飛びこんできた。
「テッド!」
テッドはコマ送りのように振り返った。
「……ドラムヘッド?」
ドラムヘッドの茶褐色の瞳が、かっと開かれた。信じられないようなものを見た、という眼。驚愕と、恐怖。
耳もとをただよったサーシャの声に、邪悪な息づかいを感じた。
「リーパーは……いまは、このわたくし」
絨毯の下に隠していたのだ。テッドの喉元にぴたりと押しつけられたのは、血のような刃を持つ、真の紋章が現身した剣───星辰剣であった。
「テッド、逃げろ!」
絶叫するドラムヘッドもろとも、空間が毒を含んで異質のものに変貌した。
2005-12-24
