パジャマ男はフィリッポと名乗った。年齢は五十三歳、見かけは貧相なれどマグロの一本釣り漁師だという。島でいちばん大きな屋敷は若かりし頃250キロの大マグロを釣りあげ、当時のオベル王に献上したご褒美に賜ったのだそうだ。
「リノ王のご先祖様が建てた家か、こいつは」
ナルクルは感心したように屋敷を見あげた。
屋根越しにバルバラ山がどうん、と火を噴いた。
夜ということもあり噴火口がすぐそばにあるように感じる。実際すぐそばなのだが、島民はさもあたりまえのように寝静まっている。慣れっこになっているのだろう。
「あんまり気色のいい眺めじゃないな」
テッドは拝借したバスタオルをマフラーのように巻いて身震いした。
この先に待ち受けていそうなもっと身震いする出来事はあえて考えないことにした。
玄関の目と鼻の先が港であった。月の光と火映の光が静かな水面にちらちらと躍っている。貧乏そうな船がいくつか繋留しており、フィリッポはその中の一艇に近づいて係留索を手繰りにかかった。
「えらく貧相な船だな」
ハーヴェイが言うのも無理はない。マグロなんか水揚げしたら呆気なく沈んでしまいそうだ。
「三途の川の渡し船だ」
「海だってーの」
「無事に帰ることができたら、シラミネさんとウゲツさんを紹介してあげよう」
「あー……いいかも。ヘルムートさんも温泉が好きみたいだから教えたら喜ぶかもしんない」
魂の抜けた会話を遮るようにエンジンがドッドッと唸りだした。
水面に泡が立つ。どうにでもなれ、という気分で三人は船に飛び乗った。最干潮の時間を迎えていた海面は防波堤よりだいぶ低く、飛び降りる、という言い方のほうが的を射っていた。
客人に座る場所を確保する猶予も与えずフィリッポは船を発進させた。手慣れた操船で港内をぐるりと回りこむと沖へ向けて出発した。
巨大船と手漕ぎボートしか乗ったことのないテッドたちは仰天した。いまにも煙をブスブス吐きそうな悲壮なエンジンをいたわることもしない。フィリッポの目は完全に据わっていた。人を外見で判断しなさるな、とその背中が語っていた。
「がっ、がっ、ぎっ、がっ、がっ、ごっ」
「アーーーーー?! ぎごえねーーーーーー!!!」
会話がなにひとつ成り立たない。それ以前に、なにかにつかまっていないと振り落とされそうだ。恐るべしマグロ一本釣り漁師!
海は比較的凪いでいたが船底はときおり波に乗りあげ、木の葉のように空中に浮かんだ。直後に衝撃とともに叩きつけられる。船も身体もバラバラになりそうだった。
月明かりに照らされた断崖はどこもかしこも人を寄せつけまいと荒波をはじき返していた。よく見ると、ときどき波しぶきとは別の白い湯気が立ちのぼっているのがわかる。いたるところに温泉が湧出しているのだ。
それより恐ろしいのは、真っ赤に焼けた溶岩の川の河口付近で、激しく水蒸気をあげて小爆発していた。
この世のものとは思えぬ光景であった。
あろうことか、フィリッポは進路をその水蒸気へ向けた。
「うわー、やめろ!」
ハーヴェイの制止も虚しくご一行様は地獄へまっしぐら。
「さあ、覚悟はできましたか! タオルは持ちましたか!」
覚悟なんてすっかり吹っ飛びましたが。
フィリッポは舫綱を手にし、あろうことか足で舵をとって舳先をがっしりと岩場へ押しつけた。
「船が波の頂点にあがった瞬間に飛び移りなさい!」
もう、必死であった。
左手数メートル先に焼けた溶岩。
右手数メートル先に波しぶきをあげる奈落。
後方数メートル先に意地でも瀬渡しを敢行するといった風情のマグロ漁師。
ふわりと船が浮きあがった。
「●×▼*□!」
「おお、見事なり! それでこそ漢です!」
フィリッポの賞賛の声を脳裏にただよわせながら、漢三人衆はカエルのように岩場に張りつきながら歯をガチガチと鳴らしていた。
「そこの青い服のあなた! 舫を受け取りなさい」
「へっ、お、おれ?」
テッドは半べそで背後を振り返った。
「そう、あなた。あなたのわきにキノコみたいな岩があるでしょう。舫をそこにしっかりと結びつけなさい。はい!」
「わわわわわっ!」
テッドは焦って右手を伸ばした。投げられた綱をかろうじて掴む。ヤケクソでぐるぐる巻きにし、先端をコブ結びにした。
「なんですか、近頃の子は舫結びも知らないの?!」
「知るかーーーーーーっンなもん!!!!!」
ハーヴェイがカニ歩きでにじり寄ってきて手を貸した。こちらは一応海の男として結び方のイロハは心得ている。
「生きて帰れたら教えてやる」
「あ、ありがとう」
おっと、関係急接近か?
船を岩場へ括りつけると、フィリッポは手をあげた。
「では、いってらっしゃい」
「あ、アンタは行かねーのかよ?」
フィリッポは涼しげに言い放った。「わたくしは船を離れるわけにはまいりませんから。万が一、噴火が起これば沖に避難させなくてはいけませんしね。それにほら、第16番目の真の温泉はこの崖を上ったすぐそこです。どうぞごゆっくりご堪能なさいませ」
「置き去りーーーー!?!?」
大合唱。
「はいっ、みなさん! バルバラの火の神がお怒りにならないうちに元気をだして! 三点確保が基本です! さあのぼる! そらのぼる!」
どうしてこのようなことになったのだろう。
なぜこんなところで垂直壁をクライミングしているのであろう。
しかもよりによってなぜこのメンバーなのだろう。
ハーヴェイは長い手足を巧みに使った模範的な三点確保でよじのぼった。
テッドは幾度も修羅場をくぐり抜けたその執念にのみ頼ってよじのぼった。
ナルクルは幼いころよく遊んだ風呂屋の煉瓦塀を思い出してよじのぼった。
そして、三人はほぼ同時に岩棚に到達したのだった。
どうん。
バルバラ山が歓迎の火柱をあげる中、入湯客たちは硬直してあんぐりと口をあけた。
これは、温泉、か?
誰もがそう言いたげだった。
むしろこちらが相応しいのではないかと思われる形容を幾つか抽出してみよう。
泥の沼。野湯。地獄釜。ついこのまえ噴火しましたよって感じの跡。荒れてメタンガスの発生してるレンコン畑。腐れた沸騰シチュー。
「入れ……ってのか、これ」
「ブレックさんの後風呂のほうが百倍マシだな」
崖下から血も涙もないエールが贈られてきた。
「一湯入魂!」
ここで入浴しないことには、あとでなにが起こるかわからない。
あまりのひどい展開にすっかり忘れ去りそうになっていたが、殺人事件の謎を解くカギも眠っているかも知れない(もはやどうでもいいが)。
三人は深い決意を秘めた顔を見合わせ、うなずいた。
服を脱ぐ。
丁寧に畳む。
置き場を探す。
「よう、とっととはいっちまおうぜ」
誰かが先に入ってみればいいのにな、と互いに思っていた面々は愛想笑いを浮かべた。
気がつけば夜もしらじらと明けはじめている。大海原を眺めながらの朝風呂もけっこう洒落ているじゃないか、とみな前向きに思いこもうと必死だった。
湯船、というか泥の淵に近づく。恐ろしい腐れタマゴの臭いが鼻を突いた。
中央付近はあきらかに沸騰している。あれに呑みこまれたらおそらく命がない。
ふと見ると、強酸でボロボロに錆びた鉄の棒にザイルがくくりつけてあった。
「これを使って入れ、ってことだな」
なぜだかあまり嬉しくない心遣いに思えた。
しかしもう諦めるしかない。足先を少しつけてみると、少々ぬるいかとは思ったがけして悪くはない温度であった。そのままゆっくりと腰を沈めてみる。
底はドロドロの堆積物が溜まっていたがその下は固い岩盤であった。だが、一歩ごとに急激に深みを増している。足を踏み外さないように、テッドはザイルをしっかりと握った。
臭いすら我慢すれば、あんがい心地よかった。
泥はふんわりと柔らかく身体を包み、お肌つるつるの予感がした。しかしあがったあとどうやって衣服を着よう。掛け湯などあるわけがないし、いざとなったら借りたバスタオルで泥を徹底的に拭き取るしかない。その労力を思うと暗澹たる気分になった。
「あー……いい湯だなー」
ハーヴェイの台詞にテッドもナルクルもうなずく。
目を開けて現実を凝視すると地獄の釜で咎人が煮られているような気分になるが、それすらもまた滅多にないレアな体験ということで決着がつきそうだ。ただ、問題は。
火の山が気まぐれにこちらを向いてくしゃみをしたら。
一瞬のうちに三人とも蒸発乃介である。
あたたかいけれど寒かった。
ハーヴェイはふと、テッドのほうを振り向いて言った。
「それ、風呂でも取っちまわねーの?」
「え、なに?」
「ホータイ」
テッドは泥の中から右手を抜き出した。いつも念のために革手袋の下に巻いている包帯だ。気が向いたら取り替えるけれど、それ以外では外すことなど考えたこともない。
「いーんだ。めんどくせーし」
「ぷっ。へんなやつ」
テッドはめずらしく、にたりと笑った。ハーヴェイはそれを見て驚いたように目を丸くした。
「へえ。おまえでも笑うんだな」
「ああん?」
のんびりと返したテッドに、会話を聞いていたナルクルが言った。
「無感動無関心、魂のどっか逝っちまったイヤなガキだと思っていたぜ」
テッドは怒ることもなく、むしろおちゃらけたように言い返した。
「あのなあ。そりゃないぜ、ったく……笑うことだってあるだろ」
人間なんだから、と言いながらテッドは目をうっすらと細めて顎まで湯に沈みこんだ。
人間、かあ。
人間なんだろうか、おれ?
大地の放つ熱に包まれながらテッドはぼんやりと自問自答した。人間だっていう割には少しばかり異様な生きかたをしているし。それについ最近まで、生きているのか生きていないのかわからないような状態で混沌世界をうろついていたし。
テッドの目が立て看板にとめられた。そこに書いてある単語が妙におかしくて、またクスクス笑った。
『不老長寿の湯』
「入る意味ないっつーの」
ハーヴェイは思い出し笑いを続けるテッドを呆れたように眺めていた。
「そういえば、成人病と老化防止を司る温泉とかなんとかいってたよな」とナルクル。彼も看板に気づいたらしい。
「おれたちまだあんまり関係ないな」
「長湯して、うっかり噴火に巻きこまれたらシャレにもなんねーしよ」
「よし、あがるか」
腰をあげようと淵に手をかけたときだった。テッドの目がなにかをとらえた。
「……あれ」
ハーヴェイも気がついた。しきりに泥まみれの身体をまさぐる。「おい」
「これって」
「金、だな……」
三人はまた顔を見あわせた。瞬間、パズルの一端がつながったような予感がした。
湯泥に大量に含まれていた金の粒は、指先でぬぐってやると朝日にキラキラと輝いた。クレイ商会が狙っていたのは、おそらくこれだ。では、自称オラーク海運のだんなさまはこれを巡るトラブルで殺されたのか。
「島にクレイ商会の手先がひそんでやがるってことか……」
「……ってのがわかりやすい展開だな。よし、戻ろう」
殺人事件の重大なカギをひろったのはよいが、今度は断崖絶壁を下るという行為のたいへんに難儀なことをすっかり失念している一行であった。
2005-11-22
