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カテゴリー: インビジブル・ハンド番外編

インビジブル・ハンドの長い一日【後編】~イスラ・イナビターダ無人島エンディング1

※本編第5話からの分岐です

『時刻は七時半をまわりました。それではふたたびスタジオからニュースと天気予報をお伝えします。年の瀬もおし迫ったきょう、各地で厳しい冷えこみが……』
 鉄人はリモコンで65型のデジタルハイビジョン液晶テレビをオフにした。いつもならそろそろ家を出なくてはいけない時刻である。
「全国ニュースでは、触れなかったな」
「來羽巴(らいんばっは)首相が報道管制をしいたんじゃない。身柄引き渡し要求ってことは国際逮捕手配書が出てるってことでしょ。とっくにICPOだの公安だのが張り込んでると思った方が妥当だし、経済制裁が発動された事実だってそんなに長いこと隠しとおせるわけがないだろうから、官邸は焦ってるはずだ。大騒ぎになるのも時間の問題だと思うけどな」
「ICPOは軍事や国際経済には関与しない建前じゃなかったっけ」
「本気でいってんの。それとも皮肉?」
 鉄人は答えのわかりきった質問には応じず、「しかし、弱ったな」とつぶやいた。
「一歩おもてに出たとたん身柄拘束なんてシャレにもなんねえ。でもそろそろ行かないと、バスに遅れる」
「鉄人……学校、行く気まんまん?」
「たりめーだろ。おれはこう見えても無遅刻無欠席なんだぞ」
「あれっ、インフルエンザは」
「あれは学校伝染病だから欠席にカウントされないってきいた」
「あ、そう。けどさ、バスに乗る前に護送車に乗せられちゃうよ。いまだって軍事衛星がそこの窓からぼくたちのこと、じーっと監視してるはずだから」
「へー。じゃあサービスしてやろうか。それ、ピース」
「わっ、ぼくもぼくも。ならんでピースっ」
「プリクラじゃねーんだから」
 ノエルはケラケラと笑って、笑った顔のまま、「笑いごとじゃない」と矛盾にもほどがある台詞を吐きだした。
 鉄人も表情を引きしめる。
「ノエル、わかってることがひとつだけある。ここでじっとしていても、いい方には向かわないってことがな。銀町先生にも、これ以上迷惑かけらんない。いくら国内最大財閥がバックについてるからといって、国際機関相手じゃ分が悪すぎっだろ。命を狙われるかもしれないのに、先生がそこまでしなくちゃならない理由なんてない」
「そうだね。先生にはもうじゅうぶん感謝してるもの。あとは自力でなんとかしよう」
「んじゃ、行くか。定期、財布、オッケー」
「鉄人、ハンカチちり紙は」
「そんなの持ったことがない」
 居間を出ると、銀町絵麗亜はすでに黒のスーツに着替えていた。皺の目立ちはじめる年齢ではあるが、嫌味にならない巧みな化粧と持ち前の品の良さも加わり、小柄な身体に衰えることのない威厳をただよわせていた。
「話はすんだのかい」
「はい。先生、いってきます!」
「お待ち」
 玄関に向かう鉄人とノエルを、銀町は呼びとめた。
 さすがに制止されるのかと思ったが、銀町の次の行動は意外そのもので、鉄人とノエルを慌てさせた。
 スッとふたりに近づくと、おもむろに手の中のなにかを頭上に掲げて、打ち鳴らす。
 カチカチ!
「うわっ! あぶねえ!」
「火っ! 火花!」
 突然中空からあらわれた火の粉を肩口からはらい落とす。
「なっ、なにするんっスか!」
 銀町は腕を下ろして、にこりとも笑わずに言った。
「これはね、銭形平次もやってた幸運のおまじないだよ」
「ぜ、銭形平次……?」
 銀町の両手には黒ずんだ石が握られていた。
「フリント(発火石)?」
「廃れちまった日本の伝統さ。発火したばかりの火は、生まれたてで、穢れがないじゃないか。聖水と似たようなものだと思えばよい。家を出るまえに、身を清めて邪気を追い祓う。くだらないがな、こういう無駄もバカにはできないのだぞ」
 ぶっきらぼうな口調ではあったが、それが銀町のせいいっぱいのやさしさであると身にしみて感じた。鉄人はなんだか、鼻の奥がツンとした。
「いってきます」
「いってきます」
「ああ、いっといで。わたしは重役出勤さ。今夜は遅くなるかもしれないから、夕食は頼むよ」
「はい」
 今夜の献立の話なんて、いまはとてつもなく遠くのことに思えたが。
「鉄人、ノエル」と銀町は呼んだ。「あんまりムチャするんじゃないよ。あんたたちにはあんたたちの権利ってもんがあるんだ。いいね」
 そろそろ冗談ではなくバスに遅れそうだったので、ノエルは急いで靴の紐を結んだ。鉄人はといえば、紐は結びっぱなし(しかも縦結び)で踵の潰れている靴にワンタッチで足をつっこんだ。
 ドアに手をかける。その向こうに、来訪者が立っていた。
 いままさに呼び鈴に手をかけようとしているところだった。
「あ」
 ふたりと来訪者は、同時にAの文字を発した。
 ついいましがた邪気を追い祓った……はずだったのに。
 さっそくろくでもない邪気がやってきやがった。
「……燕、なんで」
 1年1組のクラス委員長、燕霧流は白い息を吐きながら、にっこりと笑って言った。
「お迎えにあがったよ、弓ノ間くん、魁くん」
「……は?」
 ふたつの声が唱和する。
 燕は悪びれた様子もなく、ちらりと外へ目をやった。銀町邸の広大な敷地のはるか彼方、門の外に漆黒のキャディラックが停まっているのが見える。
「きみたちがさぞやお困りだろうと思ってさあ。たまにはいっしょに学校いくのもいいんじゃない? ぼくたち、おトモダチだもんね、ユ・ミ・ノ・マ・くん」
 ぞわりとした。誰と誰がどういう経緯でいつからどうお友だちだって?
 返事がないと見て取ると、燕はひとりで勝手にしゃべりはじめた。
「えへへ、パパから聞ーいちゃった。けどさ、パパはね、逃げたマウスがぼくと同じ学校にいるってことは、まだ知らないんだ。ハルモニア製薬も、小口の出資者にそこまで情報を漏らす義理はないんだろうからね」
 鉄人は眉をひそめた。
「……え? じゃあ、なんでおまえ、おれのこと」
「教えてもらったにきまってるじゃん」
「誰に」
 霧流は人差し指をたてた手をすっと動かした。
「そこにいる人に」
 鉄人とノエルは、同時に背後を振り返った。
 指の先には。
 腕を組んで毅然と立つ銀町絵麗亜。
 鉄人の頬がぴくぴくとひきつった。
 やさしい銀町先生、撤回。新たな称号は、鬼参謀。
「動かせる駒はいつも内部にあるとは限らない。捕った駒を使うのも日本古来の伝統兵法だ。覚えとくんだね、ヒヨッコども」
先生……(呆然)」
 燕も同意するようにウンウンとうなずいて、明るく笑った。
「でも、魁くんのことは一切教えてくれなかったんだもん。おかげで海神先生に協力してもらっちゃった」
「だからきのう、海神先生、顔色悪かったのか。気の毒に」
「さて、そうときまったら学校いこうよ! ぼくは弓ノ間くんと後ろに座るから、魁くんは助手席に乗ってね」
 鉄人とノエルはこれ以上ないほど惨めな顔を見あわせた。
 門前から学園までの道のりに待ち伏せているであろうてんこ盛りのの覆面パトカーと、燕組若頭の専用キャディラックを秤にかけてみる。
 究極の選択だ。
 どちらがマシかと問われれば、ほんの少しの差で黒塗り燕タクシーに軍配があがる。
 納得できるかはどうかは別問題として。
「しかたない。鉄人、お世話になろう」
「はあああああ」
 鉄人は深い深いため息をついた。どう前向きに見積もっても過去最悪の事態だった。

 恋のスーパー・パラシューター一名、腐乱ゾンビ二名が縁石を踏みながら長い長い前庭を越えようやく表門にたどりつくと、キャディラックの向こうに仏頂面の遙兵がひそんでいた。
「……よっ」
 右手を軽くあげて鉄人にアイコンタクトする。なんで燕がここにいるんだ、という無言の抗議だった。
「どした、ハー。朝っぱらから」
「あー、たまにはいっしょにガッコ行かねっかなーって、迎えにきてみたんだ。悪いか」
「いや、悪かないけど……わざわざ?」
 気まずそうに視線を反らす遙兵を見て、鉄人にはだいたいの経緯が想像できた。
「ははーん。ヘルムから、なんか聞いたな」
「あ……あー、うー」
 ほら見たことか、図星である。
 経夢人の父親は警察のお偉いさんである。警察といえば現在、銀町邸と学園を結ぶ道に何十台もの覆面車両を配置して、弓ノ間鉄人と魁無影響量の両容疑者を身柄確保すべく待機している公僕である。
 順を追って推測しよう。武暗家の大黒柱は昨夜、一日の仕事をつつがなく終え、二酸化炭素排出削減に寄与するべく庶民の足である私鉄を使って我が家へ帰った。
 あなたお疲れさま、お夕食にしますかお風呂が先ですか。
 お菓子づくりとパッチワークが趣味だという、経夢人そっくりのセレブ美人妻がにっこりとほほえむ。この笑みこそが癒しスキルトリプルSのファイナルへヴン。
 そんな両名を無情にも引き裂いたのであろう電話のベルが涙を誘うではないか。
 ああ、いい。わたしがとるよ。
 団塊の世代のささやかなお楽しみ、発泡酒(ディスカウントスーパー、チープー牡鈴店で小売単価145円)のプルタブをぷしゅっと開けながら、反対側の手で器用にもしもししてみたら相手はなんと泣く子も黙る警察庁長官。
 階級社会の申し子武暗凝沌、テレビ電話でもないのに泡を食ってお辞儀をかさねたにちがいあるまい。
 ちなみに発泡酒の泡のほうは代償に食いっぱぐれることとなる。
 美人妻そのへんはぬかりなく、余ったビールを使ってキュウリのビール漬けを作成する知恵もきちんと心得ているので問題なし。
 夜分すまないね武暗くん、おくつろぎのところ申し訳ないのだが超一級優先事項による緊急招集だ。
 嗚呼、拒否権などあろうはずがない。
 そして団らんのひとときは血も涙もない天の声によってチャラにされたのだ。気の毒に。
 しかしここまでなら、働き者の武暗父にとって、たまにはそういうアンラッキーなこともあるという程度のできごとなのかもしれなかった。
 問題は、そこから先である。
 驚かないで聞いてくれたまえよ、武暗くん。
 たったいま、未成年者二名の逮捕請求が届けられた。
 しかも緊急と極秘を要する。手配元はICPO。容疑者の情報は電話では詳しくは言えないが、名前は―――
 長官の口から飛びだしたそれが当家の交友関係にスーパーヒットして、野比のび太とタメを張ると署内でささやかれているこまかい目ン玉ををあり得ないサイズまでくわっと見開く武暗凝沌。
 これにはさすがの奥様も息を呑み、夫婦仲むつまじくおそろいでビックリ仰天之太郎・花子。
 あなた、どうなさったの。
 美人妻に隠しごとのできない武暗の親父、この段階でうっかり口をすべらせたと思われる。
 そして冷静沈着なのはあんがい妻のほうだったりする。
 そんな、なにかのまちがいです。
 あのふたりは、悪いことをするような子たちじゃありませんわ。
 だってわたしのちょっと失敗したブイヤベース(ホウボウの骨だらけでより分けるのがけっこう大変)をおいしいってにこにこしながらぜんぶ食べてくれたし、そのあとお皿洗いやバラの剪定も手伝ってくれたのよ。
 なにより、頭のよいあの子たちがばかなまねをするわけがないじゃありませんか!
 牡鈴学園女子短期大学フランス文学専攻弁論部出身美人妻の強烈な説得力にたじたじとなる夫。
 う、うむ、もちろんわたしも疑いたくなどない。だが火のないところに煙は立たん。事の真相がはっきりするまでこのことは経夢人の耳に入れるでないぞ。
 管区警察局上級幹部、認識甘し! 母親とできそこないの末っ子はツーカーの仲なのだ。
 ああ、なんとわかりやすい構図だろう。
 経夢人から遙兵と時雨努へはマッハの勢いで伝わったと見た。
「フーン……」
 鉄人はここまでの仮定を高次認知機能をフル回転させて(いらぬシチュエーションも含め)たったの三秒で整理すると、鎌を掛けた。
「バレちまったもんはしかたねえや。けど、あんがい早かったな」
 遙兵の口がおもちゃのアヒルのようにぱくぱくした。
「テッ、テツ、まさか、ホントにおまえ、かっ、かっ……」
「かっ?」
「か、怪盗キッドなのかよっ!」
 一瞬、時が止まった。
 十秒後、霧流のフォローが入るまでだれも二の句が継げなかった。
「……猛地くん、それを言うなら産業スパイ」
 あまりありがたくもないフォローだったが、沈黙を破る手助けにはなった。
 経夢人以降の情報伝達ルート上において、不純物が混入したらしい。
 よくある話である。
 遙兵は霧流をぎろりとにらみ、口から唾を飛ばしながらわめいた。
「あー? だいたいテメエはなんでいやがンだよ! これ見よがしにでけえおクルマで乗りつけやがって。ってゆーかなんでコイツが知ってんのさ、おいテツ」
「よんどころない事情ってやつだ」
 ぶっきらぼうに口を尖らす鉄人に霧流は満足そうだった。
 ノエルが横から割りこんだ。
「ねえ、そろそろ急がないと遅刻するよ」
 ごもっともな意見である。
 白手袋の運転手は後部座席を開けたまま、さっきから所在なく突っ立っていた。
 当初の予定よりも一名よけいに乗せて、黒塗りタクシーは発進した。
 ゆったりとした後部座席の右側に鉄人、中央に霧流、左側に遙兵が座る。ノエルは助手席だ。
 沈みこむような座り心地の良さに鉄人は感嘆の声をあげた。
「スゲー。こんなゴージャスカーはじめて乗った。さっすが燕組、ハンパじゃねー」
「おほめいただいて、ありがとう。弓ノ間くんにそう言ってもらえるなんてうれしいな。よかったら毎日、弓ノ間くん専属で送り迎えしてあげるけど、どう」
「うっほ、ありがたいねえ。けど足腰弱りそうだから遠慮しとく。こう見えてもおれ、ジーサンだしよ」
 ノエルがぷっと吹きだした。実際、鉄人は三つほど年上なのだ。
 遙兵だけは終始一貫してへのへのもへじの腕組みガードである。
「弓ノ間くん、気づいてる」
 ふいに霧流が声をひそめた。
「ああ」
 鉄人も低く返す。
「ぞろぞろつけてくるね」
「ちっ、へったくそな尾行。それともわざと挑発してやがんのか」
「いま左に曲がった軽もそれっぽかったよ。なんだかムチャクチャ効率悪いこと、してる」
「どこかで強攻策に出てくると思うか」
「どうかな。でも捕まえる気があるならとっくにそうしてるはず。なのに、そうだな、様子をうかがってるって感じだ。どうしてだろう」
「ウサギを刺激するなって命令されてっからじゃねえの」
 霧流は訝しげに鉄人を見た。
「ハルモニアからマウスの”隠滅命令”が、出てる。そうだったよな、燕?」
 鉄人はさらに顔を近づけた。
「ユルユルと首を絞められて切羽詰まった犯人が、プッツンした挙げ句に人質を取ってどっかそのへんに立て籠もり、自殺。連中に紛れて実行部隊がいるんじゃねえのかな。あとは、穏健策が裏目に出て失敗しましたってふれまわればオッケー。シナリオとしてはちっとありがちだけど、ハルモニアにとっちゃマズイもんを処分できて、そのうえ同情を買えるいい方法だよなあ。責任は日本警察になすりつけりゃすむことだしよ。追跡に問題がありましたとかなんとか。情報操作なら腐れ野郎にゃお手のモンだろうが。悪いのはアタマのイカれた弓ノ間鉄人と魁ノエル、あとは能無しのケーサツ。ペルフェクト(パーフェクト)。お見事すぎてケツの穴がムズムズする」
 冗談とも自嘲ともとれるセリフを、霧流は咎めた。
「そこまででやめときなよ」
「ンだよ。どうせ燕もそう思ってんだろ」
「なにを」
「なにをって……逃げ切れるわけがないってよ。自分で言ってたくせに」
 霧流はすぐには答えなかったが、やがてこくりとうなずいた。
「言ったかも」
「ホラ見ろ。忘れてるかと思った」
 霧流はどっちつかずの顔をした。
「弓ノ間くん、なにか……あった?」
 こんどは鉄人が口をつむぐ番だった。
「弓ノ間くんらしくない。へんに自暴自棄になってる」
 ドキリとして、鉄人は無意識に右手を隠すように引っこめた。
「なあ、ハナシすんならこそこそやってねえで、聞こえるようにやれよ、そこ」
 遙兵である。かなりご機嫌斜めの様子だ。
「ぼくはみんな聞こえちゃったし」
 後ろも振り向かずにぼそりとつぶやいたのはノエル。
「地獄耳め」
「魁くん、サイボーグ003みたい」
 ノエルはようやくフロント・ガラスから目を反らして、鉄人をまっすぐ見た。
「ゆうべのこと、そんなにショックだったんなら、なんどでも謝る。ほんとに、ごめん。ぼく、自分の思いつきにひとりで興奮して、鉄人の気持ちなんてちっとも考えなかった。ばかだよね。謝ったって、どうなるもんじゃない。でも、鉄人……」
「それ以上言うな」
 鉄人はぷいと顔をそむけた。「こんなとこで言うんじゃない」
 ノエルは聞かなかった。
「鉄人、捨て鉢になっちゃダメだ。”それ”が怖かったら、ぼくがいくらでも話を聞いてあげる。暴走しそうだったら、ぼくに言え。ひとりじゃどうしようもないことでも、ふたりだったら、きっと……」
「うるさいっ!」
 鉄人の怒号がその先を拒絶した。
「自惚れんのもいい加減にしやがれ。いったいぜんたいおまえはなんだ? おれの、なんだ? ざけんな。たしかによ、ふたりでやってくしかないって、思ってたけどよ。もうたくさんだ。ウゼエんだよ。わかりきったような口、ききやがって……ふたりならできるって? なにがだよ。具体的に言ってみろよ。それこそおまえだけの勝手な思いこみじゃねえのか。そういう優等生みたいな考え方が、ムカツクんだよ」
「弓ノ間くん、言い過ぎ……」
 霧流の制止も鉄人には届かない。
「車止めろ! おれ、歩いてく」
 運転手は慌てた。
「坊ちゃん、危険ですから、落ち着いてください!」
 三車線道路の真ん中をけっこうなスピードで走っているのに、鉄人はドアノブに手を掛けた。だが、開かない。
「鍵、あけろ」
 霧流はなだめるように言った。
「ムリ。そっち側、チャイルド・ロック」
「ンだと?」
「こういうこともあろうかと、逃走防止に、念のため」
 鉄人の顔が紅潮した。
「てめえまでおれをガキ扱いか! ちくしょう」
 霧流はふっと笑って、「……ガキじゃん」とトドメを刺した。
 胸ぐらをつかみかけた鉄人を躊躇させたのは、運転手の悲鳴であった。
 はっとして前を向いた鉄人も凍りついた。
 目の前に大型のトレーラーが停車している。その後部は大きく口を開け、車を簡単に呑みこむことができるよう、スロープを下ろしている。
 右と左にはスモークフィルムを貼った車がぴったりと付き、じょじょに幅を狭めてきた。背後は威圧的な大型トラックだ。こちらもスピードを緩めない。
「罠だ!」
 ドアから逃げようにも、驚異的なテクニックで幅寄せをされて開くに開けない。
 万事休すであった。
「くそっ! どうしたら」
 鉄人がうなると、霧流が叫んだ。
「橋本さん(注・運転手)! かまわないからこのまままっすぐ突っこんで!」
「え……は、はいっ」
 橋本さんはガタガタブルブルする手で必死にハンドルを握ると、「ひゃあ!」と言いながらトレーラーの中に入っていった。
 完全に停止すると、背後は自動で閉鎖された。
 トレーラーの中は真っ暗闇で、なにも見えない。ライトを点ければ解決するのだが、可哀想な橋本さんはパニックでそれどころではなかった。
「なに考えてんだよ、燕!」
 ゲンコツでごつんと殴ったら「痛ェ!」と声がしたが、それは遙兵のものだった。
「たぶん、たぶんだけど……だいじょうぶだよ、弓ノ間くん」
「だいじょうぶなもんか。おもいっきしつかまっちまったじゃねえか!」
「そうだね」
「そうだねじゃねーっちゅーの!」
 ひとしきり憤慨して、鉄人は長々と息を吐いた。およそ好ましくない事態である。これは拉致だ。鉄人とノエルを狙ったことは火を見るよりも明らかで、すると仕掛け人はハルモニアということになる。
 映画じゃあるまいし、このような不当な手口を日本警察がとるとは思えない。
 と、いうことは。
 港へ連れて行かれて車ごと沈められるか、あるいはトレーラーもろとも爆破されるか。
 いずれにせよ、事故で片をつけることができる。
 もっと最悪の場合、辿りついたらそこはどこかの米軍基地で、鉄人とノエルは待機していた特別機へ。残りは口封じというシナリオが待っている。
「のんびりしている場合じゃないぞ」
 鉄人は暗闇で額に手をあてた。
 きつい言葉を浴びせかけてしまったノエルはずっと押し黙っていた。自業自得だ、と鉄人は冷ややかに思った。
 良心が痛まないわけでもなかったが、いまは自分の気持ちを優先させることしか考えられない。どのみちいつか解決させる必要があったのだ。
 トレーラーは動きはじめた。角をいくつか曲がるのが感覚でわかる。
「フェリーターミナルの方角に向かってるような感じだね」
 高速道路に乗るなら逆方向だ。やはり港にドボンか、と思ったら背筋が寒くなった。
 発進と停止を繰り返すのは朝のラッシュにはまっているからであろう。並木通りとその周辺の交通量は多い。
「どうする」と遙兵。
「スキを見て逃げるきゃないだろう」
 鉄人はおざなりに返事をした。
 意外なことを言いはじめたのは霧流だった。
「ぼくは、このままおとなしくしていていいような気がする」
「はあ? どういうこったよ」
「なんとなく、こういうやり方……ちょっと思い当たるフシがあって」
 言葉を濁す。確信はないとつけ加えながら、霧流は深々とシートにうずもれた。
 少しして、工事現場を思わせるような音が断続的にひびいてきた。鉄骨がぶつかるような音だ。キャディラックの床にも不気味な振動が伝わってくる。
 ホイッスルの誘導音がかすかに聞こえ、霧流はようやく次の句を継いだ。
「うん、間違いなく港だ。ってことは、ははーん」
 ポケットから携帯電話を取りだし、どこかに発信する。
「どういうつもり、パパ」
「……パパ?」
 音程がいくつかハモった。
 霧流はじっと耳を傾けたあと、頓狂な声をあげた。
「小笠原で課外授業? 三学期のあいだずっと?」
 電話の向こうで燕魚太はのんびりと言ってのけた。
「ああ、銀町先生にどうしてもと頭を下げられてね。悪かった悪かった。敵さん欺くにはまず味方からってやつでな。おまえだったら気づくと思っていたよ」
「で、小笠原に向かわせるってわけ、船に乗せて」
「正しくは小笠原諸島にあるうちの私有地だ。小学校の夏休みにいちど連れていってやったろう」
 霧流の手がぴくぴくと動いた。
「……あの、変なカニがうようよしてるジャングルみたいな島?」
「そうだ。なつかしいだろうが! 所要時間はだいたい二十四時間ほどだ。食料はトレーラーの中に用意してあるから自由に食べるといい。教師と課題のプリントは先に送り届けてある。それと携帯電話や無線は危険だからもう使うな。まあ心配しなくともあっちへ行けば使い物にはならんだろうがな、ハハハ」
「ハハハじゃないでしょう、パパ。勘弁してよ」
「霧流、燕組を継ぐ素質がおまえにあるかどうか、だ。これが最初の試練だと思え」
「なに勝手に悦にはいってんだよ。アホ親父」
「橋本と、トレーラーを運転している山岡はおまえにまかせたからな。じゃ」
「ちょ、待てよ! パパ! もうっ、切っちゃった!」
 霧流の会話からうすうす(非常識な)事情を察知した鉄人は、ぼそりと言った。
「ロビンソン・クルーソーか」
 あきれ果てたようにつけ足す。「どっちかっつーと漂流教室の気分だ」
 それぞれの思いを逆なでするように、どこか遠くでボーッと汽笛が鳴った。


2006-05-02