渡日そうそう銀町絵麗亜にむりやりつきあわされた隅田川の納涼船は別として、鉄人は船という乗り物に乗るのは記憶を手繰るかぎりまだ二度目だった。
青い海に囲まれたカリブの島国、プエルトリコで生まれ育ったとはいえ、人生最初の十年間にしてすでに監禁拘束の憂き目に遭ったのである。旅はおろか、シャバの景色すらまともに観たことがない。
そんな鉄人が生まれてはじめて乗せられた船には、ジョン・C・ステニスという、昔のアメリカ上院軍事委員会委員長と同じ名がつけられていた。名は体を表すというが、ご大層なネーミングを嘲笑う余裕など一寸もなく、鉄人はカチンコチンに固まって終始びくついていた。事実それはあまり民間人をほいほいと乗せてくれるたぐいの船にも見えなかったことだし。
ニミッツ級航空母艦と比較するのも不公平だが、いままさに乗船している、いや、させられているフェリーのなんと頼りなく、心許ないことか。
右舷に傾くこと二十五度。
かわってこんどは反対に、左舷に傾くこと二十五度。
その間たびたび、不規則におとずれる中空に放り投げられるようないやな感触に耐えねばならない。
「低気圧の接近で海上は大シケになりますと天気予報がいってましたが……」
刻一刻と青みを帯びてくる気の毒な橋本さんが絶望的につぶやいた。
橋本さんは毎朝の降水確率チェックを欠かさない。傘とお召し物の準備を万端にし、なおかつ天候による交通事情を配慮するためである。
本来あまり用のない海上警報は、今朝もネクタイを締めながら惰性で聞いていた。
よもやの事態と、船酔いのダブルパンチ。万が一のエチケット袋を必死で握りしめるのが精いっぱい。
若頭の御前でゲロ噴出という醜態をさらすわけにはいかないのだろう。
残すところあと二十時間余りとその先に待ちかまえる退路のない任務をどうやって切り抜けるかが、彼の人生後半戦を大きく左右しそうだ。へまを働いたら小指がチョンパ。もっと悪ければ切り刻まれて東京湾に棲息する江戸前穴子の餌と散る、カタストロフィなシナリオ。
指定暴力団燕組所属、極道・橋本晋一郎四十六歳ヨメさん募集中。ただいま胃の内容物がちゃっぽんちゃっぽんと上を下への大騒ぎ。負けるなこらえろ漢ならここは勝負だ。がんばれ、シリーズ一般登場人物代表!
橋本さんはひとまずそっとしておいて、物語を進めよう。
現地に到着するまでトレーラーからは解放してもらえそうにない雰囲気を察し、一同は生活物資とともに積まれていた寝袋をめいめいかぶって仮眠する案で合意に至った。キャディラックの座席が手足を伸ばせるほど広かったのがせめてもの救いである。
「朝っぱらから昼寝できっかよ、ったく。小原庄助さん(※注1)じゃあるめえし」
※注1解説。民謡、会津磐梯山に登場する謎の人物。大好きな朝寝、朝湯、朝酒が過ぎて身を滅ぼしたらしい。遙兵の祖父が風呂でしょっちゅう唄っている。
遙兵の不平は健康的でごもっともだが、ほかにすることもこれといってありはしない。
「体力温存は最良の策じゃねえの」
寝不足気味の鉄人は三連続大あくびを放った。
「ねえ、沈まないよね、この船」
だれもが意識的に避けようとしていた話題をいきなり持ち出したのはノエルだった。
車内は一瞬、シーンと静まりかえる。
ぎい、ぎいと足元がいやらしくきしんだ。
空気読めや。そう言いたげに鉄人の眼が鋭く尖った。
外は視認できない。だからよけいに恐怖がつのる。けれど予想できるハプニングを確認しあうのはもっと怖い。
すでに白目を剥きはじめている橋本さんではないが、これでは三半規管もおかしくなろうというもの。
「考えないようにしようよ、魁くん」
燕霧流くん、その意見が正当かどうかはともかく、きみのフォローはめずらしく絶妙である。
鉄人も遙兵も空笑いをして、手のひらの汗をこっそり尻にこすりつけた。
しかし、ほんとうにこれでうまくいったのだろうか。公安の目はひとまず欺けたかもしれないが、アメリカご自慢の偵察衛星を振り切ったかどうかまでははなはだ怪しい。いずれにしろ足がつくのも時間の問題ではないか。
見つかったら、ヘリだのなんだのが大挙して大海原を越え、鉄人とノエルを捕まえにやってくるだろう。
むしろだれも見ていない離れ小島のほうが、敵としては都合がいい。
大がかりな手口だったわりに、成果は疑問視したくなる。墓穴を掘ったようにすら思う。
「銀町先生のアイディアにしては、かなりお粗末だったかな」
鉄人も憮然としてうなるしかなかった。
しかも実行犯の正体が、燕霧流の父親とくれば不安要素はさらに山積みだ。指定暴力団燕組組長、燕魚太は、小口ながらもインビジブル・ハンド・プロジェクトの出資者だからである。
銀町絵麗亜に説得されて寝返ったにしろ、いやな符合ではあった。
疑ってかからないと、すべてが罠の可能性もある。だがじたばたしても、いまのこの状況では手も足も出ない。
「こうなったらもう、寝るが勝ち!」
鉄人の出した力業の最終結論に全員が即時同意した。
2006-05-12
