もうひとつのインビジブル・ハンド #9/鉄人
鉄人お誕生日駆け足超短編です
晩の食卓(こたつ)には銀町理事長手製のごちそうが並べられた。
さばの味噌煮、かぼちゃの煮物、小松菜とえのきだけのおひたし、豆腐とねぎとわかめの味噌汁。漬け物数点。器は色鍋島。ここまではシンプルかつヘルシーな、いつもと変わりない献立だ。
しかし、ひときわ異彩を放つものが中央にひとつ鎮座している。
「一汁三菜一デザートですね」
非常に冷静な口調で、ノエルが第一印象を述べた。
なるほど、豪華絢爛なケーキである。のせている大皿が信楽焼であるという微妙な違和感はさておき。
大量生産のクリスマスケーキのような庶民臭がかけらもない。大きさは直径18センチメートルくらい。けして大きくはないが、色とりどりのフルーツやゼリーでおしゃれにデコレーションされていて、やたらと景気がよい。
「おまかせで期待はしていなかったが、こりゃ見事だね」と銀町絵麗亜。
飾りのチョコプレートに『鉄人くんお誕生日おめでとう』の文字を認め、過去の一場面が峻烈に閃いたのは当の本人である。
ああ、そういうこと。
去年のきょうもたしかにそういうイベントがあったわ。
一年前はまだノエルが同居をはじめておらず、この広い豪邸に鉄人と銀町は二人きりで暮らしていた。鉄人が銀町のもとに身を寄せていた、と書くのが正しい。
環境の激変にとまどいながら牡鈴学園中等部に在籍するも、やはり対人関係に難があって、学校に行くのが苦痛になっていた。むろん、友だちもいなかった。
その日も学校から帰ると鉄人は適当に宿題を済ませ、応接間に移動してテレビをつけた。この家のテレビは大きいが一台しかない。人の集まる部屋に置けば会話が途絶えるというのが、その理由だ。
チャンネルはいつも同じ。リモコンの数字は2。ほかのキーはすべて無効でもかまわない。
幼児のために毎日繰り返される歌や音楽は、日常の代名詞のようだ。それらはつねに安定していて、外部の事象に左右されない。いつも通りのプログラムに組みこまれる心地よさが、鉄人は好きだった。
十五分刻みのタイムラインで番組は進行していく。そのリズムこそ鉄人にとって、とびきりの静穏を意味するものでもあった。
学校はいやだ。ざわざわしてうるさいし、イレギュラーが多すぎる。みんなが笑っても、鉄人にはなにがおかしいのかまったくわからない。陰ではこそこそ悪口を言われている。
いっそのこと無関心でいてくれたらいいのに。鉄人が沈黙を貫いているせいか、いじめはますますエスカレートしている。
何かをすればするだけ裏目に出る。黙っていてこの始末だ。学校に行く意味がそもそもあるのか、そこまで考える。
玄関の開閉音で我に返った。外はもう暗かった。冬至に近いいまごろは夕方五時ともなればすでに夜である。鉄人はテレビを消し、リビングに向かった。
銀町が夕食をつくるのを手伝うのが、いつもの習慣だ。
リビングの暖房はちょうどよいぐあいに効いていて、その仕事に鉄人は満足した。
「おかえりなさい」
「ただいま。おお、寒い、寒いねえ」
「お茶いれます」
「ありがとう。ああ、きょうは気分を変えて紅茶にしよう」
「紅茶ですか?」
それならば保温ポットの湯ではなく、新しく沸かしたほうがいい。そう思って薬缶を手にすると、銀町が羊さんスリッパをパタパタ鳴らしながらキッチンに駆けてきた。
「あんたは座ってな。あたしがするよ」
「はあ」
「悪いが紅茶のいれかたに関しては、あたしのほうが上手いからね」
「すみません」
「ほら、また。謝らなくていいところで謝る」
銀町はクスクス笑った。
この課題はどんなカリキュラムよりも難しいと鉄人は思った。すなわち、謝る場面と謝らなくてよい場面の見極めだ。対する相手が誰であるかによっても解答は変化するであろうし、状況に至ってはその場でないと把握できないわけで、瞬時の判断を要求される。
言われて気づいたのだが、すみませんやごめんなさいの回数が、たしかに自分は多い。それさえあれば会話できるのではないかとも思う。口を開くことを極端に厭い、たまに発音する単語がそれだから、よけいにめだつのかもしれない。
銀町と二人でいることに以前よりは緊張しなくなったものの、やはり会話は多くない。学校の様子を訊かれては答え、困っていることはないかとの問いにはないと言い、食事をし、味の感想を少し述べる。それもまたプログラムのようなものだ。いじめのことは話さない。
リビングにはソファではなく、正方形のこたつがある。エル・コタツは日本の独創的な暖房器具である。日本の冬をはじめて体験する鉄人にはなにもかも驚くことばかりだ。
手持ちぶさたなので、みかんを剥いてみる。こたつの天板にはかご盛りのみかんを常備しておくのが日本文化だという。カリブのオレンジとは味も香りもだいぶちがう。
ティー・コージーを覆い被せたポットをこたつに運んだ銀町は、いくぶん機嫌のいい振りでキッチンに戻っていった。花柄のアンゴラストールがじつに華やかだ。この人は何を着ていても隙がない。
引き返してきた彼女が持ったお盆には、カップや砂糖壺といっしょに、小さなケーキがふたつ、備前焼に可愛く置いてあった。
銀町はふだん甘いものを食べない。手をつけるとしても大福などの和菓子がせいぜいで、基本的に酒のつまみになるもの以外は目もくれない。なので鉄人は、ちょっとびっくりしてしまった。
「さあて、そろそろかね。ああ、よしよし、いい感じだ」
純白の器に深い赤みの紅茶が揺れている。湯気からふわりとリンゴの香りがした。
「熱いからひっくりかえさないように気をおつけ」
「あ、はい」
「お砂糖は好みで。リンゴの紅茶だから、ミルクはなし」
「はい」
「それでこっちが、誕生日ケーキだ」
「はい?」
「なに不思議そうな顔をしてるんだい。誕生日のお祝いだよ、おまえの」
「おれ、ですか」
鉄人はとっさに壁のカレンダーを見た。今日が何日か、確かめないとわからない。
十二月十四日、火曜日。何の変哲もない、平日である。
「まさか、自分の誕生日も忘れたっていうんじゃないだろうね」
「えっ」
「まさかのまさかかい」
「っていうか」
「ばかだねおまえは。自分の誕生日くらいさらりと覚えておかないと、いろいろ困るだろうに」
「いろいろって具体的になんですか」
「懸賞に応募したり、カラオケの会員証をつくったりするときさ」
「意味がわかりませんが」
「だから、ああ、もう、情けない顔をするんじゃないよ。困った子だね」
「すみません」
「そこは謝るところじゃないって」
銀町は苦笑いして、長い髪をいじくった。
鉄人は気まずさで視線をうろうろさせた。みかんからこたつ布団へ、こたつ布団からごみばこへ。
やがて彼は疲弊したように、口をひらいた。
「戸籍上の誕生日がきょうだということは、知っていたつもりです。でも、それが、ケーキとか、その、お祝いみたいなのに結びつくってのが、なんだか曖昧で、おれそういうのぜんぜんわかんなくて。せっかく先生が気を遣ってくれたのに、喜べなくて、ほんとうにすみませんでした」
深々と頭を下げた。ここは間違いなく謝る場面だ。そう思った。
銀町は少しの間黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「食べようか」
鉄人が顔をあげると、目の前にケーキがあった。
苺と生クリームだけのシンプルなケーキだ。だけど、全体が上品に調和している。小さくて、まだ見たことのない雪のようで、美しい。
「これはね、日本でいちばんポピュラーな苺のショートケーキだよ。大正時代に不二家が発売してからずっとこのスタイルなんだ。日本の子どもたちは、祝いごとのおりにこのケーキを食べる。おあがり」
「はい。いただきます」
周囲を巻いている紙を剥がし、フォークを手に持つ。
角から少しすくいとって、口に運んだ。クリームとスポンジが舌の上で融ける。思ったほど甘くない。
「おいしい」
「よかったねえ」
銀町は目を細めて、ふわりと微笑んだ。そして紅茶に口をつけると、みずからもフォークを持つ。
「なるほど。甘さが控えめで、いいわ。たまには洋菓子も悪くないね」
「先生」
「なんだい」
「十二月十四日がおれの誕生日だってのは、なんの根拠もないんですよね」
銀町はまた紅茶を手にした。喉がこくりと震える。
そして投げかけられた質問は、鉄人をたじろがせた。
「確証が必要かい?」
「えっ」
「おまえには確証が要るかと訊いたんだ。とくに必要がないなら、きょうがおまえの誕生日だ。これはもう決定したことで、動かしようがない。だが、もしもおまえが、そういう状態が耐えられないならば、確かめる手段はある。それについてはおそらく、時間がかかる。いつまでということは約束できない。それでもいいというのなら、きょうはおまえの、書類上の誕生日だ。次からはお祝いもしない。下手に気を遣ってへこまれても面倒だしね。ということで、確証が必要か、要らないか、そのケーキと紅茶がなくなるまでに考えな」
考えなといわれても。
安定を失ったケーキがぱたりと横倒しになった。鉄人は苺の赤をじっと見つめた。
銀町がケーキを食べる。銀町が紅茶をすする。その静かな音だけが世界のすべてのように思えた。
「どうした、鉄人。一生食べないつもりか?」
おかわりの紅茶をそそぎながら銀町が言った。
「確証は」
「確証は?」
「ほしい、です」
「そうか」
「でも」と鉄人は言葉に力をこめた。「でも、おれ、誕生日のお祝いがすごく、その、嬉しかったです。こういうの、はじめてなんです。いままで誕生日とか、クリスマスとかも、全然関係なくて、特別な日なんて、いっ、一日も、なかったんです。だっ、だから」
恥ずかしさで顔がみりみりと紅潮する。
「来年もまた、お祝いしてほしいです。書類上の日でいいから」
ぷっ。
銀町が吹きだした。
「あっははははは」
「すみません!」
「謝るところじゃないよ、ばーか」
「ばかですみませんっ!」
ゲラゲラと笑いころげる銀町に対してどう対処してよいのかわからず途方に暮れた鉄人は、とりあえず放置してあったケーキの残りを苺もろとも口に押しこんでみた。
甘酸っぱい。
敵を見れば涙をぬぐっている。泣くほど笑わなくていいのに、と鉄人は憤慨した。
ちょうど一年前、この同じ場所で。
あのあと、銀町の言ったことばを鉄人はいまも守っている。
「鉄人。すみませんと口からこぼれそうになったら、なにも考えずに、ありがとうに言い換えてみるといいよ」
すみません。ごめんなさい。ありがとう。
意味は違うけれど、おなじなんだよ、鉄人。
「鉄人、ぼんやりしてる」
「うっ」
「さては、また、触れてはいけない過去に逃避していたね?」
ノエルのツッコミはたまに的を射る。
回想を悟られてはまずい。というか銀町絵麗亜のいまの笑みはいったい!
悪女はひっそりと毒を含んで、宣言した。
「まあ、とりあえず乾杯でもしようかね。いいねえ、今年は、人数も増えて。ああ、ケーキは食事のあとだよ。では、鉄人の十六歳の誕生日を祝して」
「十九です」
「善良な日本国民なら戸籍に従うべきだとおもうが」
「十六でいいです」
「十六歳を祝して、乾杯!」
「ありがとうございますッ!」
今年の乾杯は、ほうじ茶だった。
おしまい
2012-12-14
