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カテゴリー: ダイバージェンス・インビジブル・ハンド

多重神経支配-摩天楼のインビジブル・ハンド2

「だーからよりによってなんでてめえとペア組まな、いけねーかな」
 カーラジオしか装備されていない低待遇な軽乗用車の後部座席につめこまれて、遙兵はぶつくさと文句をたれた。
「お互い、あぶれちゃったんだから文句いわない、いわない。きみの茶髪、媚び媚びのペルシャ猫みたいでやわらかそうだし、後ろから見たらちょっと背の高いボーイッシュな女の人に見えないこともないし。あんがい、それなりなんじゃないの」
「女役ならてめえが似合いだ、クサレどチビ」
 霧流はくすくすと笑って「ま、どっちでもいいけどさ」と言った。
 助手席でひとりゆったりと座っている瀬音香が後ろを振り向いた。ピンクのパジャマから小花だらけのワンピースに着替えている。踵の高いウェスタンブーツは見るからにスッ転びそうだし、防寒は軟派なマフラー一枚のみ。風邪をひかないだろうかと大きなお世話ながら心配になる。
「猛地くんだめよ、霧流に手ぇだしちゃ。彼、こう見えても許嫁いるんだから」
 長い手足を窮屈そうに折り曲げている編駝麓がくすっと笑った。
「い、許婚? マジか」
 霧流は「ふふん」と高飛車に鼻を鳴らして、ジャケットの内ポケットから高級そうな革のカードケースを取りだした。遙兵にほらと渡す。
 かわいらしい女の子の写真が遙兵に手を振っていた。
「なんだ、小学生じゃん」
「失礼な。ちっちゃいけどもうジュニア・ハイ・ガールだよ。フランスにある音楽学校に留学してるんだ。なまえはリア。古里瀬財閥のお嬢様。かわいいでしょ。あげないよ」
「けっ。財閥のお嬢様とご婚約か。やるな燕組。腹黒エロ助め」
「ちっちっ猛地くん、政略と思ったらおおまちがい。ちゃんと学生らしい手順を踏んでおつきあいののち正々堂々とプロポーズさせてもらいま、し、た。きみももうちょっと女の子に対して積極的なほうがいいね、老舗地域伝統食屋の若旦那としては」
 遙兵はむかっとした。
「カノジョがいんなら、テツに色目つかうなよ。トリハダがわくわ。気色悪くってよ」
「リアと弓ノ間くんは根本的にちがうもん。伴侶にしたいのと、欲しいのはべつだよ。猛地くんにはわかんないよねこの高尚な気持ち。よくも悪くもお子さまだから」
「誰がお子さまだって。てめぇこそこないだ、パパーなんてナヨってたくせに」と遙兵は舌を出した。
 遙兵と大柄な編駝麓に挟まるように座る霧流は尻の下のでこぼこが気になるらしく、もぞもぞと腰を動かした。
「ちっ、落ち着きねえやつだな。暴れんなよ、ただでさえ狭いちゅうのに」
 霧流は「窓際でラクしてるくせにいじわるなこといわないでよ」と口をとんがらせ、すぐに忘れたようにうっとりと天井を見あげた。
「グレアム・クレイが弓ノ間くんを飼いたがる理由、すごく理解できるな」
「なにおまえ、ムックレーの味方するわけ」
「うわあご冗談。あんなオヤジに髪の毛一本たりとも渡すつもりないって。弓ノ間くんはぼくがもらうことになってんの」
 ピンクの舌がちろちろと唇を這う。
「あの子、かっわいいもんなあ。躾るまでに時間かかりそうだけど、手のかかる子ほど愛しいっていうじゃない。うふふ、シッポ振ったらきゅっと抱きしめたくなっちゃうだろうなあ」
「犬コロかよ、テツ」
「犬? まさか。人として誰よりも完璧なのが弓ノ間くんじゃない。彼を目の前にしたら、どんなやつらだってクズ同然だよ。ぼくは弓ノ間くんをこの目で見るまで学校で一番になることしか考えなかったけど、いまは世界の頂点に立つことすら夢見てる。猛地くん、きみなんかとは目標とするレベルがちがうんだよ、レベルがね」
「ムックレーとてめえ、どっち先にトドメを刺すかが大問題だな」と遙兵は本気でぼやいた。
「とにかくぼくは弓ノ間くんをペットにするんだ。ぜったいにね」
「ペットぉ? それって暗にテツを侮辱してねえか」
「逆、逆」と霧流は笑った。「このぼくが本気で屈服させてみたいと思ったのはこの世でただひとり、弓ノ間くんだけなんだ。侮辱するも尊敬するもないよ。そういう陳腐な言葉じゃいい尽くせない。弓ノ間鉄人……」
 最後はほとんど独り言であった。
「”イヴ”。ううん、それよりもずっと魅惑的で、美しい人。ちがう、人じゃない……彼は、そう、天使」
 霧流はイッちゃった眼のまままたもぞもぞとうごめいた。
「あーっもう鬱陶しい! なんだよさっきから、チンぽのおさまりでも悪ィのかよ!」
「頼むからそんな下品なこと大声でわめかないで。安っぽい車だめなんだよ。ちゃんと三半規管コントロールしてないとすぐ気分悪くなっちゃう。ほら、繊細だからぼくって」
 誤魔化したつもりはないのだが、正直なところ彼のことを考えると下半身が健康的に疼いてどうしようもなくなっていく自分がいる。リアにすらいまだ重ねることのできない少年期独特の甘い感情だ。
 さいわいにして遙兵からのツッコミはなかった。車がいいタイミングでファーイースト・フィナンシャルビルの広大な駐車場にすべりこんだからである。四本の展望エスカレータが不規則に上下しているのが見える。
 梁山泊で打ちあわせしたとおり、直接潜入ニセカップルチームはスカイラウンジでデートをよそおい、別働隊の起こす陽動に備えることになっている。エスカレータと非常階段を封鎖するのはSATが担当だ。銀町財閥の私設軍隊は上空から攻める手はずになっているはず。ビルの屋上には常時稼働のヘリポートもある。
「くれぐれも手荒な……い、いや無茶な真似はしないようにね」
 運転手をつとめた気の弱そうなSAT隊員は不安げに四人を送り出した。
「じゃ猛地くん、覚悟はいいよね。いまはぼくときみ、恋人同士なんだからね」
 言いながら霧流は遙兵の腕に自分の手を扇情的にからませた。
「くそ、シグもヘルムも、ちゃっかり相手みつけやがって……おれだけなんでこんな目に。とほほ」
「ゲイは時代の最先端だよ?」
「てめえに慰められたくねえ!」
 あぶないカップルはあやしげな動きをしながらよろよろとエントランスをのぼっていった。
 展望ラウンジ直通のエレベータまでたどりつくと、霧流は「その前にちょっとトイレ」と踵を返した。
「じゃあ先に上いってるわよ、霧流」と瀬音香。
 編駝麓を連れてエレベータに乗りこむのを確認して、霧流は遙兵を引っ張った。
「猛地くん、ぼくたちはこっち」
「お、おい。そっちは各階行きだろ。ホラ、展望ラウンジには行きませんって書いてあるぜ」
 霧流は冷めたような眼つきで上向きのボタンを押した。
「理事長のいいつけはきちんと守らなくちゃあいけない? はい、いいえ、どっち」
 遙兵はぞくりとした。
「あの人はどうせ、ぼくたちが弓ノ間くんを救出できるなんてはじめっから期待しちゃいないよ。銀町絵麗亜にとってこのビルは単なる劇場にすぎないんだと思う。観客を魅了させるために役者は多いほどいいってね。もらった役をおとなしく演じるのも結構だけどさ、本気で弓ノ間くんを助けたかったら、それだけじゃたぶん、だめだよ。銀町絵麗亜ひとりの策でゲームオーバーにするわけにいかないじゃない。そんなの、悔やむに悔やみきれない」
 遙兵はごくりと喉を鳴らした。エレベータが一階に停まる。
「まさか、おれたちだけで乗りこもうってんじゃねえだろうな」
「そのまさかだったら、猛地くん、どうする。逃げる?」
「……じょうだんじゃねえ。おもしれえじゃねえか、燕」
 霧流はニヤリと笑った。「やっぱりね。きみならそうくると思ってたんだ」

 とっさに開閉ボタンに手を伸ばしたが、無情にもドアは反応してくれなかった。
 乗りこんできた数名に鉄人はあっけなく両脇を拘束された。
 自分を逃がすまいと取り囲む白衣の軍団には知った顔もあった。13ラボの医師たちである。あの神経質な臨床検査技師も混じっている。
「きみのほうから帰ってきてくれて、うれしいよ。迎えに行く手間がはぶけてよかった」
 鉄人は気丈にアルドをにらんだ。
「ざっけんな。だれが、いつ、ただいまって言ったよ。夜分ノエルがおじゃましてるようだったから迎えに来ただけだよ。勘違いすんな、バーカ」
「おやおや。ちょっと見ないあいだにずいぶんと反抗的になったものだ。あの素直でおとなしい子が、ねえ」
「悪かったな。ちょーど第二次反抗期真っ最中でよ。ついでにあんたらに対しての認識もちっとばっか変えさしてもらったんだ。いうこときく気さらさらございませんってやつよ。てなわけで、まわりくどい挨拶は抜きにしようぜ」
「ああそう、それはたすかるね、こっちとしても。多分にかわいそうなことをしても気が咎めることもなくてすむかな」
 アルドは医師たちを見まわしてこくりとうなずいた。鉄人は容赦ない力でエレベータから引っ張りだされた。
「へえ、ここがあんたらのアジトってわけね。ずいぶん金かけてんじゃん」
 焦りを隠すために鉄人はわざと元気よく声を張りあげた。
「うん、できるだけ上の階をまるごと買い取るためにね、莫大な資金が動いたよ。たぶん一個人のおうちとしては日本一高額なんじゃないかな。どう、気にいった、サーティーン」
 鉄人はギクリとした。
「……うち?」
「そう。13ラボはプエルトリコを引き払って完全にここにお引っ越し。すごいねサーティーン、特別待遇だ。きみに対する評価がうなぎのぼりなんで、出資者があとをたたなくてね。自覚してる? みんな13に期待してるんだよ。それなりに応えてもらわないと、ね」
「ノエルをつれてこいよ!」と鉄人は叫んだ。「まさか、ここにはいないってばっくれるつもりじゃねえだろうな。ノエルさえ返してもらやあこんなクソクラエなところに用なんてあるか。自覚もへったくれも、ねっだろ。おたくらの勝手な期待に応えてやんなきゃならない理由なんて、これっぽちも」
「あるでしょう。きみのために経済界がどれだけ出資したと思ってるの」
「おれ、そんなの頼んだ覚えねーもん」
「さすが逃げ足だけは達者な仔ネズミだなあ。口もくるくるよく回る」
 アルドはやんちゃ坊主を咎めるように目を細めて「ノエルくん、だっけ。ひょっとしてそれは、トゥエンティセブンのことかな」と言った。
「心配しなくても、あのマウスもここにいます。ただし、27ラボはいまはもう存在しない。ぼくたちは27を13のために役立てることにしたのでね、必要がなくなったんだよ」
 耳の後ろがざわりとした。
「どういう……意味だ」
「説明するより身をもって味わったほうが理解は早いだろうと思うけど。いちおう概要はおしえておこうか。プロジェクト、マルティプルインナーベーション。二個のセラフィムが影響しあい、複合的にあらわれるであろう多重神経支配の臨床試験がこれからはじまるんだよ。死神と劫罰、相性はぴったりらしいね。クレイ博士がきみたちを賞賛していらっしゃったよ。ぼくもじつに楽しみだ。きみたちが逃亡したのは想定外の不始末だったけど、結果的にこれだけの可能性を呈してくれたのだから、奇蹟としかいいようがない。ふふ、これも神の思し召しということなんだろう。トゥエンティセブンも無駄死にしなくて済む」
「勝手な理屈ばかりほざくなよ。反吐がでる。誰がノエルを死なせるか、ばかやろう」
「玄関で問答していても埒があかない。13ラボにご案内しよう。トゥエンティセブンもしびれを切らして待っていることだし。ああ、ざんねんながらこの外部エレベータでは行けないんだ。またこのあいだみたいに脱走を図られてはたまったものではないからね。セキュリティはさらに強化してあるし、きみのためにも格段と居心地よく快適な空間をご用意できているはずだよ。そのための手続きに少しだけ耐えてもらわなくてはならないけど、なに、すぐにすむ。そう、逃げようなんて気を起こせなくなるくらい、完璧に進めてあげる」
「ありがた迷惑、チョーお節介! くそ、離せ、離せってば、バッキャロー!」
 鉄人はもがいたが、もちろん解放などしてくれるはずもない。
 白衣の医師が車椅子のようなものを押してきた。鉄人はむりやりそこに座らされた。椅子なんていう代物ではない。対象物の行動をすべて封じ、運搬に利便性を求めるための拘束具だ。
 手足はおろか首まで固定されて鉄人はただ一カ所自由な口で罵倒を続けた。
「こういうの、人権侵害っていうんだぜ。おぼえとけ」
「人権……人権、ねえ。よけいな知恵をつけちゃって、まあ」
 アルドは小馬鹿にしたように笑って、自ら椅子に手をかけた。
 エレベータフロアと内部は三重の超特殊強化樹脂で隔たれていて、しかもこれ見よがしに防弾仕様になっていた。夜景の映る窓は嵌め殺しで、開閉はできそうにない。蹴破ったとしてもこんな高層から脱出することはスパイダーマンでもない限り不可能だ。
 なにもないフロアの奥に設置された筒状のエレベータは生体認証方式だ。疑うまでもなく独立電源であろう。外部との接点はいっさいないと考えてよい。前回と同じ失態はよもや犯すまい。
 鉄人を乗せたエレベータは各階ごとにいちいち停止し、そのたびに人の手によるわずらわしいアナログチェックを経由した。
 鉄人は息がつまりそうになった。一秒ごとに絶望の場所へと進んでいく。
 銀町の渋面がふっと浮かんだ。いいつけを破って勝手に出てきたのだから、助けは請えない。自分で責任をとるしかない。
「はい、到着。地上六十二階の大邸宅だよ。どうぞ、サーティーン」
 鉄人は驚愕で目を見開いた。
 なんだ、ここは。
 窓は――ある。プエルトリコのラボのように、完全な閉鎖空間ではない。だが開放感など微塵も感じられなかった。そこに近寄らせないために、膨大な枚数の透明超特殊強化樹脂が行く手を執拗に阻んでいるのだから。
 以前いたラボは、鉄人にとってある意味生活空間であった。ちゃんとしたベッドも、トイレも、シャワー室も、鉄人のための歯ブラシも、足を休めるためのベンチも用意されていた。
 人権こそは認められなかったが、文化的に暮らすための最低限の道具はきちんと与えられたのだ。
 だが、ここはまったくそれとは違う。
 医科学的実験と研究目的にのみ特化された領域。
 言い換えるなら人の匂いのまったくしない仮想空間。
 面積は元の十分の一もあるまい。いや、おそらくはもう必要ないのだ。マウスの生活を記録し評価する段階はプエルトリコで終えているのだから。
 鉄人の目が忙しなく動いた。フロアの片隅に置かれたごく小さいガラスケースを最初に認識した。
 マウスの檻。
 いや、これではまるで――棺桶だ。
 全裸にされ、身体固定金具で動作を封じられたノエルがなかにいた。
「……ノエル」
 鉄人は一瞬くぐもったように声を絞り出すと、色を失って叫んだ。
「ノエル、ノエル、ノエル!」
 拘束された手足を限界までばたつかせる。ささやかな抵抗にすぎないその行動も、鉄人にしてみれば必死であった。
 鉄人の声が通じたのか、ノエルの瞳がこちらを向いた。両眼が驚きの蒼に彩られる。唇が動き、鉄人、とたしかに言った。
 アルドがやさしげに言いはなった。
「安心しなさい。まだトゥエンティセブンにはなにもしていない。もっとも、いましがたお目覚めしたばかりで状況が飲みこめていないはずだけれどね」
「”まだしていない”だあ?」
 鉄人の顔が歪んだ。
「これからノエルになにをする腹づもりか知らないけれど、そいつに指一本でも触れてみろ。おまえら全員、”喰ってやる”からな」
 アルドは嬉しそうに目を見開き、わざとらしく肩をすくめた。
「トゥエンティセブンの身体を使うか使わないかは、きみの示してくれるものの評価次第だよ。きちんと期待に応えてくれたら、あのマウスもなにも死ぬことはない。もっとも、きみが失敗したりその身体に危険が及ぶようなことがあったりしたら、ぼくたちは迷うことなくトゥエンティセブンをきみのために使うけどね。きみ自身の胚性幹培養が間にあっていればこんなこともしなくてすむんだけど、しかたがないよね。いずれにせよきみの組織として生きることができるのだから、トゥエンティセブンとしても本望だろうが」
「だから、どうしてそういう理屈になるんだ。どうしてそう、人の命をオモチャにするんだよ」
 くらりとめまいがし、喉が重力に締めつけられた。返される言葉はわかりきっている。おまえたちは『マウス』だから。いつでもそのひとことだ。
 あまりの悔しさに、頬が薄く濡れる。
 ガラスケースに横たわるノエルを見た。何かを必死に叫んでいる。だが防音らしいケースからはわずかな音も漏れやしない。手の届く距離まで来たというのに、情けない自分は鍵をこじあけることすらできない。
 そのうえ、ノエルが自分のために犠牲になるかもしれない、などと。
 自分がここにノコノコとやってこなければ、ひょっとしたらノエルは生きることができたのか。助けるなどと豪語しながら、じつはノエルの退路を断ってしまったのだろうか。
「おれに……なにをしろって」
 譲歩などではない。念のため訊いてみただけだ。勘違いされては困る。
「まあ、焦ることはないよサーティーン。環境に慣れるまで時間も要るだろうし。それにさっき言ったとおり、手続きも必要だ。行こうか、クレイ博士がお待ちだよ」
「いやだ。ちゃんと納得するまでは動かない」
 鉄人の唇がへの字になった。
「強情っ張りだなあ。訊かないで身をまかせていたほうがきみのためだと思ってやさしくしてやってるのに。いいよ、おしえてあげるよ。どのみち覚悟は必要だろうからね」
 アルドは呆れたように息を吐いた。
「あのね、あまり協力してくれないようだから、きみの脊髄にある中枢神経を破壊することをドクトル・クレイが決定したんだ。胸髄に適度な損傷を加えるだけだけど、ひょっとしたら少しショックを与えるかもしれない。神経支配をどの程度残存させるかはクレイ博士におまかせだ。要は歩行機能さえ失ってくれればよいだけだけど、博士はそうは思っていらっしゃらないみたいだし。ごめんね、ぼくにはどうすることもできない。けれど、きみがいけないということはわかるよね」
 鉄人の声が怒りで小刻みにふるえた。
「そんなことを……納得しろ、っていうつもりか」
「だからあきらめてすなおに従ってたほうが賢明だって、ぼくははじめから言っていたでしょう。こんなことになる前に」
「ンなむちゃくちゃなことに従えだって。ハ! できっかよ。あんたとは永遠に平行線なんだよ、ドクター・リンカーンウッド。おまえの手口はもう喰らわないぜ。壊されたって、ぶっ殺されたって、ぜってーに協力なんざしねえからな。ラ・ムエルトが選んだのがおれでほんっとご愁傷様だよ。もっと往生際のいい素直なガキに移植すればよかったよな」
「やれやれ、ごもっともですよ。ラ・ムエルトがこんなやんちゃなマウスが好みだったとはね……」
 つき添っていた医師がアルドに訊いた。
「室長、すぐにでも始められますが、マウスが安定するまで博士にお待ち願いましょうか」
 アルドは首を振った。
「いや、多少は興奮状態でもかまわないだろう。あまりに強いストレスを与えてしまったらマクロファージを活性化させてしまうけど、麻酔を打ってしまえばそんな危険は回避できるからね」
 アルドは固定されている鉄人の足をとり、丁寧にスニーカーを脱がせた。
「外は冷たかっただろう。こんなに白くなるまで冷え切って。かわいそうに。もうそんな惨めな思いはしなくていいから。そう、力を抜いて。リラックスして」
 この男はなにを言っているのだろう、と鉄人は煮え切りそうな思考のなかで思った。
「もうなにも考えずに、ぼくにまかせていればいいんだよ。クレイ博士の怒りを抑えられるのはぼくしかいないんだから。ぼくはきみを心から愛しているよ、サーティーン」
 耳許にかかる息にぞくりとした。グレアム・クレイも狂っているが、この若き医師はそれ以上の変態にちがいない。
「ロジェくん。麻酔前投薬をお願い」
 アルドは髪の毛の立った若い医師に指示すると、固定器具のすきまから鉄人のカーゴパンツを探った。ポケットから携帯電話を取り出す。
「お役目ごくろうさま。こんなものはもういらないね」
 生理食塩水を満たした水槽にぽちゃりと沈める。
「買ったばっかなのに」
 この場にそぐわない文句でもいちおう口にしないと気が済まない。
 ロジェと呼ばれた医師が小さい注射器を手に戻ってきた。白衣の襟に黄色のスマイルバッジがとめてある。白衣さえ着ていなかったらただの軽薄なヤンキーだ。
 鉄人の上腕をめくると、消毒綿をゴシゴシと乱暴にあてて針を埋めこんだ。
「イタっ! もっといたわりながらできねえのかよ、くそ」
「口腔麻酔もしてやろうか。おれ歯医者サンじゃないけどよ」
 ロジェは愉快そうに鉄人の額を小突いた。
「おれロジェ・ウィンドブラト。どっちかーつーとあっちのマウスの担当だけど、あんたにも関わることになるからな。ま、よろしゅう。さあて、お注射おしまい。元気にいっといで。帰ってきてめそめそしてたらちいとは慰めてやってもいいぜ」
「ロジェくん、くれぐれもトゥエンティセブンに悪さをしないでくれよ」
「わあってる、わあってる。お堅すぎるぜアルドちゃん」
 ロジェは使用済みの注射器をつまんだ指をひらひらと振った。
 なんの薬を打ったんだ。鉄人はだんだん焦ってきた。前投薬というからには安定剤あたりの無難なものかもしれないが、このあと麻酔されたら最後だ。歩行機能を奪うという話はハッタリではないだろう。
 車椅子が押されて鉄人はまた例のエレベータに押しこめられた。視線はノエルを追ったがすぐに遮られてしまった。
 軽い振動が伝わり、上へ向かって動く感触があった。
「エゲツねえな」
「処置室はひとつ上のフロアなんだ。ぼくはかわいそうだから全身麻酔にしてあげようって提案したのに、クレイ博士がダメだっておっしゃってさ。神経を裂断するところをきみにしっかり味わわせて、二度とおかしな気を起こさないようにしてやるってきかなかった」
 とんでもないことをサラリと言ってのける。
「怖がらないで。ぼくがきみの手を握っていてあげるから」
「おおきな……お世話だ」
 意識がブッ飛びそうだった。この連中は人をいったいなんだと思っているのだろうか。
 六十三階のフロアに降り立つ。ひとつ下とがらりと雰囲気を変え、人気のない薄暗い通路がそこにあった。廊下にいるのは鉄人とアルドだけだ。
「いつになったらきみは諦めるってことを学習するんだろう」
 アルドはエレベータの前で歩みを止めてぼそりとつぶやいた。 「……ジタバタしてもなにも変わらないというのに。ヒトのふりをしたら、ほんとうにヒトになれるつもりでいるの。哀れなマウス」
「人じゃないのはてめぇらだろ!」
 鉄人は憤りを叩きつけた。
 切れ長の目が鉄人をじっと見つめた。
「ナンバー13、きみはとても美しいよ。そんな俗世間の服はちっとも似合わない。神の生みだした芸術品を、なぜエレノア・ギンマチたちは汚そうとするのだろう」
 絶句する鉄人を差し置いてアルドの世迷い言は続けられた。
「クレイ博士に逆らうつもりはないけれど、ぼくは、きみと同じものをこの手で創ってみたい。
 精原幹細胞から卵子を生成するメカニズムは近いうちに解明されるだろうから、クローン胚をつくるにしてもさらに高精度な、まったくきみと同じものにすることだって夢じゃない。そう、きみさえあればいい。無用のメスはいらない。
 トゥエンティセブンも必要ない。
 ラ・ムエルトの遺伝子を完璧な形で受け継ぐ新人類」
「たったいまヒトじゃないっていったくせに」
「ヒトなど愚かな俗物だ。きみはそんなものになりたいのかい、ナンバー13」
 呆れはてて鉄人は嘲笑するしかない。
「アンタこそいっぺん頭切ってもらったほうがよくねえ?」
 アルドは真顔になった。
「ご心配ありがとう。おしゃべりはひとまずここまでだ。あまり遅いとクレイ博士が不審に思う」
 アルドはふたたび歩きだした。鉄人は返事をしなかった。どのみちこの状況から逃げだせる口実など思いつかない。
 中国古典の拷問じゃあるまいし、足斬りの刑とは陶酔しすぎではないのか。そこまでせずともこの頑丈な檻から脱出するのは不可能に思えるのに。
 ひとりではけっきょくなにもできなかった自分が不甲斐なくて、後悔ばかりが頭の中をぐるぐるとめぐる。
 このまま下肢の神経を壊されて、床に這いつくばりながらハルモニアの言いなりになるのか。
 銀町先生はきっと救出を試みようとするだろう。学園のみんなをまた巻きこむのかもしれない。遙兵も時雨努たちも、鉄人とノエルのこととなれば躍起になるだろう。
 浅はかな自分のためにこれ以上尽力して欲しくなかった。
 恥をさらすのはいやだ。
 どうせならこのまま、ドクター・アルドの言葉どおりに思考を止めてしまうのもいい方法なのかもしれない。自分さえこの先もずっとマウスでいる覚悟を持てたら、これ以上だれも危険なめに遭わさずにすむのかも。
 自動ドアが開くとまばゆい光が室内に満ちていた。処置室というより簡易な手術室のようである。この光は覚えがある。あの日見た、無影灯の暴力的な光。
「ドクトル、遅くなりましてすみません」
 白いマスクをした緑色の塊がゆっくりとこちらを見た。
 ああ。
 あのときと同じじゃないか。
「待ちくたびれたよ、ナンバー13」
 もう恐れないと誓ったあの声が、脳に突き刺さってきた。とてつもない悪意。破滅の予感。人間味のかけらもない冷酷な声。屈服を強要する声。
 身体ががたがたとふるえる。
 無理だ。あきらめるだなんて。この男がいる限り、思考を手放すなんてぜったいに無理だ。
「メディコ・アルド、”検体”をここに俯せにさせて」
「はい」
 いやだ。
 いやだ。おれに触れるな。
「やめ……やめて! イヤだ! 死んだっておまえたちなんかに、おまえたち……なんかに……」
 医師五名に押さえつけられてはどうにもならない。
「脊椎麻酔を開始して」
 パーカーが下着ごとまくりあげられ、鋭い痛みが背中を這った。鉄人はその衝撃に耐えきれずに小さな悲鳴をあげた。力を込めようとした右手が簡単に捕らえられ、ベルトでベッドのパイプに括りつけられる。左手も同じ。脳天まで突き抜ける激痛はやがてじんわりとした鈍痛に変貌し、やがて感覚を持ち去ってどこかへ消えてしまった。
「長くは苦しめない。だが神経ブロックにも限界がある。声を我慢することはない。つまらん意地を張っているようだが、つらいのはきみなのだよ。フ、きみは忠告を素直に聞くようなマウスではなかったね。ならば」
 後ろから髪を乱暴に掴まれる。
 鉄人は拘束されたまま仰け反り、喉を痙攣させた。
「叫ばせてやろう」
 グレアム・クレイは色素の薄い瞳を細めると、鉄人の脊髄を狙って残酷に刃を突き立てた。


2006-03-21