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カテゴリー: ダイバージェンス・インビジブル・ハンド

黙示録-ダイバージェンス・インビジブル・ハンド

 ぼんやりと弱々しい冬の太陽光がにじみはじめた東の空で、ヘリが機首をこちらに向けていた。在日米陸軍の保有する大型のシュペルピューマだ。
 到達目標はファーイースト・フィナンシャルビルの屋上ヘリポートだろう。世界経済を左右する国際企業の要請に応じて、それが保有する最高機密の回収をするためである。大国の威信がかかったこの任務をこそ最優先にしたいはずなのに、派遣できたのがたったの一機とはどういうことか。
「日本が揺さぶったからにきまってるだろう。兎小屋の黄色いウサギがまさか反抗するなんてね、フッ、敵さんも思ってちゃいなかったんだろうよ。ハルモニア製薬がぐらつきだしたのだって、アメリカはちゃあんと見ている。日本なんかとはとちがってね、あの国は賢いしクールなんだよ。飛びつくのも早けりゃ切り棄てるのだって一瞬さ」
 銀町絵麗亜が解説した。
「ハルモニアのリスクマネジメントもだいぶ常識を逸脱しはじめましたしね。なるほど、アメリカさんも慎重にならざるをえないというわけだ」
「やっこさんがたの心配事はそれだけじゃないよ」
「……は?」
 燕魚太は遠くのヘリから目を反らして銀町をまじまじと見た。
 不敵にほくそ笑んでいる。
「中国が動きだしたからね」
 サラリと重大なことを言ってのける。魚太は冷や汗のつたう首のうしろを一本足りない指でぼりぼりと掻いた。
「はあ……またなんかチョッカイをだしたんでしょう、銀町先生」
 無益な図星を言い終わらぬうちに、加藤理名から朗報がもたらされた。
「こちら第六中隊、加藤です。ヘリポート用エレベータからの突入を試みていた班が六十四階の到達に成功しました。少年一名を保護、未確認ですがおそらく弓ノ間鉄人と思われます。ほかに成人男性一名の遺体を発見した模様です。引き続き、隠されていた内部エレベータより下の階への潜入を続行します」
「ようし、よくやった。遺体か……身元はわかるか」
「所員と思われますが、なにせ……年齢も性別すらも判然としないひどい状態らしくて。いまはなんとも」
「そうか」と銀町は口元に手を組んだ。クレイでないことを祈るしかない。
「鉄人は無事なんだね」
「保護された少年は、負傷しているそうです。会話も自力歩行も困難だとのことです。すぐ京東大学病院に搬送します」
 銀町の表情が曇った。冷静さをなんとかたもちながら、次の指示をだす。
「まだうちのヤンチャどもが三名閉じこめられとる。頼んだよ、加藤」
「了解」
 銀町は携帯電話を取りだしてキー操作をした。着信履歴から瞬時に霧流を探しあてる。
「燕、ああ、生きてたね。よしよし。鉄人を拾ったよ。もう心配しなくていい。さあ、お次はノエルだ、どんどんいくよ」
「ノエルは、戻ってきました。いまぼくたちといっしょにいます。無事です」
 硬い返答を不審に思い、銀町は訊いた。
「どうした、なにかあったか。まさか、こんどはおまえたちが危険だってんじゃないだろうね」
 霧流は小さく息をふるわせて、抑揚のない会話を継続した。
「いえ、大丈夫です。九六九大学の職員がふたりついてますが、話のわかる人たちです。ちょっといろいろあったんで、緊張しちゃっただけです。あ、ノエルにかわりますね」
 ノエルは携帯を受け取った。
「もしもし」
「ノエル! あああ、よかったよ。その声をきいてようやく安心した。一時はほんとにどうなることかと」
「ご心配おかけして、すみませんでした」
「なにをかしこまった挨拶をしてんだい、ばかたれが。子どものくせに大人の顔色ばかりうかがうんじゃないよ。素直に怖かったといいな」
「怖かったです。どうしようもなくこわくて……もう、帰れないかと思った。すみません。ごめんなさい。ごめんな……さ、い」
「ばかだね……」と銀町は何度も繰り返した。
 ノエルは唇を噛みしめ、肩をふるわせた。
「鉄人は無事だよ。すぐに会わせてやれる」
 銀町はなぐさめるように伝えた。ノエルはギクリとした。
「て、鉄人は」
「いま六十四階で保護した。けど、怪我をしていてね。このあと救急搬送する。ああ、あの子なら心配ないよ。あんなに細っこくてもあんがい頑丈にできてるらしい。命に別状はないってことだよ」
「そう……ですか」
 暴走は防がれたのだろうか。いや、貪欲なラ・ムエルトのこと。休息をとっているか、隙をうかがって舌なめずりしているかの、どちらかだろう。
 鉄人の制御がわずかでも効いているなら悪意のない者にラ・ムエルトは牙を剥かない。だが、いまはそうではない。鉄人の精神が完全に肉体と分離した以上、すべての人間は単なるムエルトの餌だ。
 迂闊に触れたら最後、その者の魂は捕食される。
 スイッチはすでに投入されているのだ。
 ノエルは瞳を閉じた。
 一瞬で決意して、口をひらく。
「先生。ひとつだけ、わがままをいっていいですか」
「なんだいノエル。あんたにしちゃめずらしいね」
 携帯を持つ指に力がこもった。
「怪我は命に関わるようなものじゃないんでしょ。だったら鉄人を搬送するの、ちょっと待ってください。ぼくに、迎えにいかせてください」

 カチャリと折りたたんだ携帯をノエルは霧流に返した。
 13ラボラトリオの静けさとはうらはらに、外部はざわざわとさわがしい。
 複数折り重なるヘリのローター、救急車のサイレン、突入部隊と小競り合いをしているらしい職員の怒号、障壁を破壊する炸裂音。
 バーソロミューは内線のマイクを手にした。
「抵抗する必要はない。命を最優先にしてくれ」
 それだけを告げ、スイッチを切る。
「諦めがはやいな、バーソロミュー」とロジェ。
「力の差が歴然としてやがる。どうやらサーティーンもむこうの手に落ちたみたいだし、どうあがいてもこっちに勝ち目はないだろうが」
「博士と室長、見捨てるの」
「無事なもんかよ。トゥエンティセブンに訊いてみな」
 ロジェはノエルをキッと見すえた。
 ノエルは戸惑ったが、素直に意見をのべることにした。
「きっと手遅れだと思う。プエルトリコの話、きいたことがあるでしょう。死神って渾名の由来となった、あの事件。あれを起こしたのはまぎれもなく鉄人だし、それに、こんどはあのときよりもっと悪い」
「悪い……って、どんなふうに」
「やめろってとめる人がいない。プエルトリコでは鉄人がとめたんだ。自制したっていえば、わかりやすいかな。黙ってたらあのときも研究所の全員を虐殺していたかもしれない。いまは鉄人はいないんだよ。ビルはムエルトの、恰好の狩り場じゃないの。人はたっぷりいるし、逃げ場は、ないし。最高の条件がそろいすぎてるよ」
「ケッ、なんなんだよラ・ムエルトっちゅーのは。悪魔かよ」
「悪魔だよ」
 ノエルはストンと肯定した。ロジェが鬱屈する怒りを吐きだす。
「てめぇも似たようなもンだろ、トゥエンティセブン」
「うん……」
「だったらバケモンどうし、なんとかしろ。おれはこんなところで巻き添えになるのはごめんだ。騙しやがった博士も室長も自業自得ってやつだ。バーソロミュー、オレ一抜け。退職届は省略しちまっていいよな、事務長サンよ」
「どっちにしろ監禁罪で逮捕ってはめになりそうだがな。まあ、いい。それも生きてこっから出られてこそだ」
「おもしろすぎて笑えねぇぜ」
 ロジェの頬がひくひくと痙攣した。  霧流がエレベータを向く。真剣なまなざしだ。
「ねえ、突入部隊はエレベータをつたってきたっていってたよ。ぼくたちもここから上にいけないかな」
 遙兵は電流が流れたように飛びあがって扉にかじりついた。
「ダメだ、あかねえ」
 渾身の力でこじあけようとしたが、びくともしない。構造上、本体がその階に停止しなければカギが開かないようになっているのだ。
「くそっ、だまって待ってるしかないのか」
 いらいらと猿のように歩きまわる遙兵から少し離れ、ノエルは落ち着かない表情でラボ内をきょろきょろと見まわした。
 やっぱり、気のせいなんかじゃない。
 さっきから気配がまとわりついている。
 なにもない場所を霧のようにそよそよと動くもの。微弱な吐息のような、いまにも途切れそうなかすかな気配。
 その正体をノエルは知った。
 鉄人。
 鉄人の魂だ。往くところを見つけられずに彷徨っているのだ。
 救いを求めている。
 気、づ、い、て
 声高にあげることのできない悲鳴を、ノエルははっきりと聞いた。喪った親友、鉄人の切ないまでの願いを叶えてやりたいと思った。それができるのは、おそらく自分しかいないのだ。
 鉄人がなにをしたいのか、自分はどう応えたらいいのか。
 おしえて、鉄人。ぼくはなにをすればいいの?
 彷徨う魂に意識が重なったと感じた瞬間、頑固な結び目がするりとほどけるように、すべてがノエルには理解できた。

 あまりにもじれったい十五分間が経過した。
 こじあけられたエレベータ扉からSATに誘導されつつまっ先に這いあがってきたスノウは、鼻の頭をべとべとの機械油で真っ黒にしてノエルに抱きついた。
 友人がまったく衣服を着ていないのに気づいたのはそれからだいぶたってからで、スノウはあわてて自分の上着をノエルに貸した。頬がピンク色に染まっている。
 タールのこびりついた桃みたいだ。
 怪我をしていないか、おかしなことはされなかったか、ちゃんと手足はついてるかなどと矢継ぎ早に質問して、スノウは頭を垂れた。
「ごめんね、ぼ、ぼくどうかしちゃってる。そんなことより先に、いわなくちゃいけないことがあるのに。ああ、ったく、ぼくはいつも弁解ばかりだ。おかしいや」
 SATの前線にくわえてくれと言ってきかず、プロ集団に素人一名、がむしゃらにここまでたどりついたのだ。警戒していた銃による戦闘がなかったのは幸いした。
 撃たれる危険を冒しても、誰よりも先にノエルに会いたかったのだ。
「ぼく、じっとしてられなくて……傍観するの、もう、いやだった。流されてばかりいたから、こんなことになっちゃった。きみを失いたくないって、わかったから、だから……ごめん、ノエル。きみにひどいことをいった。ずっと謝りたかった。許してもらわなくちゃならないのは、きみじゃない。ぼくだ。ぼくだよ」
 ぼろぼろと涙を流しながら、友人にむしゃぶりつく。
 ノエルはうっすらと笑って、うん、と言った。
 濡れたまつげをぱちぱちと瞬かせ、スノウは顔をあげた。
「……どうしたの、ノエル?」
「どうも、しないよ。たすけにきてくれて、ありがとう」
 SAT隊員がノエルを呼んだ。
「行けますよ! どうしますか」
「すぐ行きます」
 ノエルはスノウからすっと離れて、開け放たれたエレベータに設置されたはしごに手をかけた。霧流と遙兵が無言であとに続く。
「ノエル……」
 スノウは襲ってきた違和感を夢心地で受けとめながら、その背中を見送った。姿が見えなくなると、誰にともなくぼそりとつぶやいた。
「ちがう……だれ?」

 六十三階はすでにSATが乗りこんでいたがノエルは目もくれずにそこを過ぎ、さらに上階へとはしごを伝った。最後の数段は飛びつくように駆け抜けた。
 扉のすぐ前で、鉄人は担架に横になっていた。SATの用意した毛布を身体に巻きつけて、寝ぼける子猫のように丸くなっている。
 アルド・リンカーンウッドの遺体はすでに搬送され、霧流たちはその無惨な最期を目撃せずにすんだ。
 SATがいくら問いかけてもまったく反応しなかった鉄人が、ノエルの姿を認めると同時にもぞりと動いた。褐色の瞳が焦点こそあってはいないが、たしかにノエルをとらえる。
 取り囲むSAT隊員に、ノエルは命令した。
「みんな、すぐにこのフロアから避難してください。全員です」
「だが」
「死にたくなかったらいうとおりにしてください」
 チームリーダーらしき屈強な男をひと言で黙らせると、ノエルは鉄人の前に屈みこんだ。
「はやく、いけよ」
 遙兵にまで小突かれて、SATはしかたないというようにエレベータに戻っていった。
 搬送前に少年たちを弓ノ間鉄人に会わせるように命令したのは銀町絵麗亜である。現時点での総指揮は彼女が執っている。従わないわけにはいくまい。
「あーあ、ひでぇこと、しやがって。あの変態医者め」
 ノエルはだれにも聞こえないくらいの小さい声でぶつくさと文句をたれた。
 毛布からのぞいている首元に無数の赤い痣がついている。
「ち、まいったなぁ、キスマークかよ。ンなにべたべたべたべた。あー、ってことは、ひょっとして……いや、考えねーほうがいいな、ぜってー」
「ノエル?」
 霧流が背後から声をかけた。
 ノエルは振り向いて、にっこりと笑った。
「近づいてもへいきだよ。どうやら相手が誰だかわかったみたいだし。ムエルトはダムネイションにだけは手出しできない。ダチだもんな」
 遙兵はがくんと膝をついて、鉄人の頭に触れた。
「テツ。遅くなって、ごめんな」
 髪を撫でても頬をひっぱっても、鉄人は身じろがない。褐色のうつろな視線はノエルに固定したまま、ちらりとも離れない。
「ほんとうにテツの抜け殻なのか。テツ、もう……いねえのかよ、マジで、そうなのかよ。なあ、返事しろよ。おれ、来たぞ。わかンねえのかよ。バカヤロウ……」
「大丈夫、ハー」 ノエルが肩をぽんと叩いた。「きっと、わかってるから」
「ウン」
 遙兵は眼をごしごしと汚い手でこすった。
 ノエルは鉄人に向きなおると毛布をめくって、口元にあてがっていた右手をとった。親指が唾液で濡れている。
「みっともねえなあ」
 苦笑する。
「いろいろバレないうちに、さっさと始末したほうがいいな」
 不穏なノエルの発言に、遙兵はうろたえた。
「い、いきなり? ちょっと急ぎすぎじゃない」
 慌てる遙兵がおかしかったのか、ノエルはぷっとふきだした。
「証拠隠滅だよ、インメツ。見られてマズイもんは、見られる前に始末するにかぎる。こんなんで解剖とかされたらたまったもんじゃねえしよ。覚悟はしてたけど、まさかここまでやられてるなんて、おれもちょっと……なあ。あー、毛布めくんなよ。ぜってーヤベーって」
 ノエルは悪戯を愉しんでいる子どものような眼で、遙兵をきょろっと見た。
「なー、気の毒に思うだろ。親友が困ってンの、見捨てちゃおけねーよなあ。共犯になってくれたってバチはあたんねえぞ、ハー」
 遙兵の眼がノエルを凝視した。
 喉がふるえる。
 まさか、と思った。だがそれよりも確信のほうが強かった。
「テ……ツ……?」
 ノエルは。
 女の子のようにきれいな表情で、ふわりと、ほほえんだ。
「やっぱり、そうだったんだね」
 さらりと口にした霧流を、ノエルの姿を借りた鉄人は、参ったという顔で見た。
「やっぱ、バレてたか。かなわねえなあ、燕には」
「甘くみないでね。ぼくは弓ノ間くんのことだったらなんでもわかっちゃうんだから」
「フーン。すげえ自信だな。その能力、これからはちがうほうに向けろよ。おまえなら大物になれっぞ。おれが保証する」
「ほとぼりがさめたら、そうする」
 霧流は笑みを浮かべながら、ぽろぽろと涙を落とした。
「おいおい、泣くなよ」
「弓ノ間くん、最高」
「あったりめえだ。誰だと思ってんだ。フェニックス弓ノ間をナメんな」
「信じてた。必ず、もういちど会えるって」
「ノエルに、感謝しなきゃ、な。身体借りんの、けっこうたいへんだったんだぜ。おれもこの状態維持すんのかなりギリギリだけど、ノエルはもっとつらいんだ。だから、もう決着つける」
「ちょっと待って」と霧流は強く制した。
 ふるえる声を必死でごまかしながら、訊く。
「方法はあるの」
「あるさ。こっから屋上に出られるんだろ」
「エレベータからヘリポートに行ける」
「オッケイ。だったら、簡単じゃん。もういっぺん夜景を観るのもいいかなって思ってたとこだ」
 霧流は涙声でケラケラ笑った。
「弓ノ間くん、ざんねん。もう夜が明けちゃった」
「なんだ、チェッ。つまんねえの」
「弓ノ間くん」 霧流はまた名を呼んだ。「お願いがあるの。ダメモトで、きいてくれる」
「ンだよ。裏がありそうで怖いぞ、おまえの場合」
「キスして、いい」
 霧流は子どもっぽい声で、その願いを口にした。
 伏せぎみの瞼が、ぷるぷるとふるえている。
 鉄人はそんな霧流を見て、くすりと笑った。
「いいけど、ノエルには内緒だぞ、ぜったいに」
「ウン……」
 けほんと咳払いをひとつすると、ノエルの姿の鉄人は目を閉じた。
 左手で、鉄人の右手――ラ・ムエルトを拘束したままで。
 霧流の細い指がノエルのまっすぐな髪の毛をサラリとすく。
 そっと顔を近づける。
 息を感じながら、やわらかい唇に触れた。
 唇と唇がかさなる。
 おずおずと舌を出すと、ノエルの口はそれを遠慮がちに受けいれた。
 熱が交わる。
 魂が交わる。
 心が――交わる。
「弓ノ間くん」
 頬をまた涙が伝った。
「弓ノ間くん。ゆみのまくん、ゆみのま……くん」
 繰り返す。その名を。何度も、何度も。こらえきれない嗚咽とともに。
「あいしてる……」
 あまりにも切ない、葬送のことばだった。
 唇を軽く触れさせたまま、鉄人は言った。
「ありがとう、燕。わすれない」
 そして、そっとささやいた。
「おれのぶんまで、生きろよ」

 どんよりと重く垂れこめた空はなかなかすっきりとは明るくならず、ついには雪までちらつきはじめた。
 はるか遠方に牡鈴学園の校舎が見える。視力には少し自信のある経夢人は、眼を細めて窓越しにそれを確認した。
 鉄人を保護したという第一報はすでに展望ラウンジにも届いており、生徒たちは明るい顔で我先にとエレベータに乗りこんでいった。一階ロビーで鉄人の無事を確かめ、救急車を見送るためである。
 怪我をしているとの情報に騒然とした一コマもあったが、命に別状はないとSATが伝えてくるや、元気いっぱいの少年少女たちはとたんにお祭り騒ぎとなった。
 ノエルと、行方不明になっていた霧流遙兵ペアの安否も確認された。
 経夢人は時雨努と安堵の笑顔を交わし、相手役を務めてくれたかわいい女の子たちと手をつないで次のエレベータを待っていた。
 銀町絵麗亜の絶叫が浮かれた空気を切り裂いたのは、そのときだった。
「ノエル、なにをする気だい、おやめ! ばかなことを考えるんじゃないよ、ノエル、気がおかしくなっちまったのかい、ノエル、ノエル―――!」

「はあ、はあ……あー、しんど」
「だいじょうぶ、弓ノ間くん」
 肩で荒く息をする鉄人バージョンのノエルを霧流は心配そうに見あげた。遙兵が鉄人の身体を背負い、霧流がその下から援護してはしごを上っている。
「うー、さすがに自分の身体じゃねえから、キッついわ。こりゃもう本格的に急がねえと、マジ、ムエルトの野郎につけこまれそ。ガンバレ、オレ」
 こんな時にまで明るい冗談を絶やさない。無理矢理つきあわせた霧流と遙兵を心配させないためだ。鉄人のやさしさに霧流は胸がつまった。
 どれほどの想いがノエルの手足を操作して終焉の地へ向かわせるのだろう。もう戻ることはできないと、鉄人にはわかっているのだ。それなのに、最後の最後までこんな非情な試練を与えられるなんて。
 残酷すぎる。
 自分がかわってやることができるなら。
 ――できるわけがない。霧流もきちんと理解していた。ノエルが鉄人に身体を提供したのも、それを納得したからだ。
 ぼくたちは親友。信頼できなくて、どうするの。
 鉄人が自分で決めたことを、尊重したい。そして送ることが唯一、自分にできること。
「がんばれ、弓ノ間くん。もうちょっと」
「おおよ」
 開け放たれた扉が近づく。びゅうっと冷たい突風が一行をふるえあがらせた。
 どうやらシュペルピューマが着陸の誘導を待っているらしい。だが、屋上に張っているSATが許可をするわけがない。大型ヘリは困ったように旋回し、屋上近くでホバリングした。
 横殴りの雪が叩きつける。暖房のきいた屋内ではわからなかったが、ひどい天候だ。明け方の冷えこみと地上から二百九十メートルの高さを蹂躙する突風で体感温度は極端に低い。
 とりわけ全裸に上着一枚しか羽織っていないノエル、いや鉄人にとってそこは地獄だった。
「ひゃ~っ、凍え死んじまうぜー! 心臓とまる、とまるってばよー!」
 すでにお迎えがきている者のセリフとは到底思えない。
 SATは少年たちがヘリポートにあがってくるとは聞かされていなかったので、シュペルピューマに気を取られこちらに注意を向けてこなかった。
 あとでこの失態が加藤中隊長に知れたら、罰則ごときではすまされないだろう。
 鉄人は寒さにがたがたとふるえながら屋上の様子をすばやく観察した。落下防止のフェンスは背丈をはるかに越え、人ひとりかついでよじのぼるのは困難に思えた。
 だがおかしなことに、フェンスの外に抜けられそうな中途半端なすきまはあちこちにあった。とりわけ目前にあった貯水タンクの横は死角になっていて、細身の人間なら簡単にむこうへ行けそうだ。
 いったいなぜこのような構造なのか、のんびり理解に苦しんでいる場合ではなかった。
 先にノエルがフェンスをくぐり、幅一メートルほどのテラスに立った。
 足元からびゅうっと強い風が吹いてくる。
 鉄人自身の身体は下肢の運動神経が痛めつけられているため、自力で上体を支えることはできない。遙兵の手を借りて、ノエルの腕は鉄人をしっかりと抱いた。
 褐色の眼はぼんやりとノエルだけを見ている。
 客観的にながめると、けっこう間抜け面。
 けどこれで見納めだな、と鉄人は思った。
 白衣とその下の背広のボタンを丁寧にとめてやる。変態医者にも最後の良心というものがあったのだろう。とりあえず、なにもないよりはありがたい。
 落ちている最中に風圧で脱げるかもしれないが、そのときはその時。
「身支度オッケイ」
 ハンカチちり紙は持った、とノエルが体内に同居していたならいいかねない。
 もういちど自分の姿を眼に焼きつける。
 ダミーの適合試験に合格しなければ、もっともらくな方法で次の人生を踏みだせたはずだった。
 忘れるくらいの時間をすごした、鉄格子のはまった窓のある白い部屋からむりやり連れだされ、手術台に縛りつけられた。意識を失う直前、おやすみ、という声を最後に聞いた。
 ずっと自分を苦しめ、逃がさぬと拘束し続けたグレアム・クレイの声。
 あのときからだろうか。自分の躯が成長をやめたのは。遠い昔のことのようで、ついこの前のことにも思える。
 十五の姿の自分。
 いま、腕のなかにある。
 ぼろぼろにされて、それでも死ぬのはイヤだと息をすることをやめない。
 ひでえ人生だったよな。
 でもまあ、いいか。
 終わりかたはそんなに、悪くはない。
 だれにも構われずに腹を減らしてのたれ死ぬより、よっぽど華々しい散りざまじゃないか。
 強い風が、そこから先に行くなと押し戻すように叩きつけた。断崖となっている足元をそっと見る。
 高所恐怖症の自覚はないが、やはり恐怖をあおるくらいには、高すぎる。はるか下に、車が豆粒のように並ぶコンクリートの広場が見えた。
 あそこに叩きつけられたら墜死体などという生易しい姿ではいられまい。
 ここは摩天楼。
 天国にもっとも近い場所。
 そう、この手を離しさえすれば、いい。
 それだけで、ラ・ムエルトは地上から姿を消す。
 自分はなにも苦しむことはないし、最期の瞬間も見ずにすむだろう。
 ノエルだってその結末を願っている。なにを迷うことがあろう。
 迷うこと。そんなものは、なにもない。なにも。
「テツ」
 フェンスにしがみつきながら、遙兵がふいに口をひらいた。
「ほんとにおまえはそれでいいのか」
 風に飛ばされそうな声だった。語尾は喉の奥に消えいった。
 その問いがどれほど鉄人を苦しめるか、遙兵には痛いほどわかっていた。それでも、問わずにはいられなかったのだ。
 鉄人の返答に髪の毛一本の躊躇もなかった。
「心配しなくても、おまえの大好きなユーレイになってつきまとってやるよ」
 遙兵の顔がくしゃっと歪んだ。
「ば、ばかぬかせ。ンな真似しやがったら、トコトン祓ってやる。こん畜生」
「ハハハ、修学旅行の記念写真とか卒業写真とかが最大のチャンスだよな」
「ぜってーお焚きあげしてやっから。大本山成田山の威力を思い知れ。テツだって容赦しねえぞ」
 くっくっと笑いながら、鉄人は言った。
「なあ、遙兵」
「ん」
「ノリがアホだな、おまえ」
 遙兵はぶっとむくれた。
「おたがいさまだ」
 鉄人はいまは自分が乗っ取っているノエルの身体をぽんぽんと叩いた。
「アホを見込んで頼みがひとつあんだ……こんなこというの卑怯っぽいけど……」
 にかっと笑う。照れたように。
「ノエルの支えになってくれよ。な、一生のお願いだからさ」
 遙兵はきゅっと唇を噛んだ。
「それ、前にノエルにおんなじこといわれた。鉄人の支えになってくれって、アイツ、頭を下げた。ンなこと自分でやればっていっちまったかもしんねえや。クリスマス・イヴの夜だったと思う」
「あ、そう」
 鉄人は意外だという顔をした。おぼろな地平線をちらりと見て、言う。
「ノエルがなんでノエルっていう名前なのか、知ってるか、ハー」
「あ? いや、ううん」
「ノエルって、クリスマスに生まれたんだってさ。救い主メシアとおんなじ日。だから親父さんがつけてくれたんだって。ノエルっていうのは、聖なる夜って意味。
 人間扱いされないで、差別されていた羊飼いたちに、いまから救い主が生まれるよ、おまえたちにはしあわせになる権利があるんだよって、神さまが伝えたかったらしくってな。その伝言を持って地上に降りたったのが、天使たち。
 ラ・ムエルトもラ・ダムネイションも、だれがいいだしたのかしらないけど、ラボでは天使って呼ばれてた。
 実際、あれって神さまの使いだったんじゃないかな。おれ、そう思う」
「ノエルが……救い主」
「おれにとっては、そうだ。だから、これでいいんだよ……遙兵」
 鉄人の心を告げるノエルの瞳は、澄んだ蒼を映していた。
 ノエルの口で、鉄人は歌いはじめた。
 賛美歌第103番。

 The first Noel the angel did say
 was to certain poor shepherds in fields as they lay
 in fields where they lay a-keeping their sheep on a cold winter’s night that was so deep.
 Noel, Noel, Noel, Noel, Born is the King of Israel.
  天使のつげたはじめの聖夜は
  野に眠っていた貧しい羊飼いのもとにもたらされました。
  とてもとても寒い冬の夜、
  羊たちをつれていたときでした。
  ノエル、ノエル、ノエル、聖なる夜に生を受けたぼくの友。

 その耳慣れたキャロルは、遙兵の奥深くに深くしみこんで、たち消えるように萎んだ。
 ノエルの腕はこまかくふるえ、鉄人を必死に支えていた。
「あはは……もう、限界、っぽい」
 蒼い瞳から、ひと粒のしずくがぽつりと、空に落ちた。
 空から拡声器の絶叫が降ってきた。
「ごめん……ごめん、先生……」
 ノエルの腕から力が完全に抜けた。
 背をフェンスに押しつけるように崩れたノエルに、霧流が必死の形相で飛びついた。
 彼だけはそこから落とすまいと、腕を、身体を、左手をつかむ。
 支えを失った鉄人の身体がぐらりと傾いだ。
 ゆっくりと、まるで羽を持った天使のようにゆっくりと飛翔する。
 ぽっかりと口を開ける底なしの闇に純白の翼をひろげて。
 ノエルの意識が突如、閃光のようにひるがえった。
 鉄人!
 ノエルが全身全霊で発した叫びは生命力にあふれていて、形をとどめられないほど衰弱した鉄人の魂を砕くのにじゅうぶんなエネルギーだった。
 その鮮烈すぎる光と交差する瞬間、鉄人は思った。

~Coda (watershed)

  ありがとう、ノエル。

  もっと、生きたかった。

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2006-04-04